51☆初デートはチープな味
「じゃあさ、今日一日ずっと笑ってて?」
「……は?」
予想もしてなかった約束に開いた口が塞がらない。
店内は相変わらずゲーム機から発せられる音楽とBGMと客の笑い声で賑わっているというのに、意味の分からないお願い事を言われて言葉が出て来ない。一瞬ピヨピヨとひよこの鳴き声がしたのは気のせいだろうか……。
目が点になる。そんなあたしを茉莉花はまじまじと見ていた。
「ほらほら、そんな怖い顔しないのっ。汐音には伝わってないかもしんないけどさ、ぼくは今日一日、汐音をずっと笑顔で過ごさせたいなと思ってる。至らない計画で気に入らないとこもあるかもしんないよ? でもぼくはぼくなりに、汐音に喜んでもらおうと頑張ってるんだ。だからさ、イライラしたりムカつく事が多少あったとしても、今日だけは笑っていて欲しい」
「……あたしだって、好きでふて腐れてる訳じゃないもん。あたしだって、あたしだって茉莉花と楽しいデートにしたいって思ってるけど……」
当たり前じゃない。楽しませようとしてくれてる茉莉花の気持ちを分かっていない訳ないじゃない。だけど、こんな顔しか出来ないんだもん。あたしだってずっと笑っていたい。笑顔のまま過ごしていたい。でも出来ないんだもん。しょうがないじゃない。
好きだから、それ以上の事を求めちゃうんだもん……。
あたしは浅い瞬きをしながらじっと茉莉花を見つめた。その視線にバツが悪そうな苦笑して顔を叛けていく。
「……ぼくのワガママ、たまには聞いてよ」
次に目が合った時の茉莉花は、切なげにはにかんでいた。
そんな表情をさせてしまった事にチクッと胸が痛む。
どうしてあたしたちは掛け違ってしまうのだろう。一緒の時間を楽しく過ごしたい、その気持ちは同じはずなのに。どうしてこうも噛み合わないのだろう。
「……うん、やっぱぼくらにはちょっと難しい課題だったかな。怒ったりすねたりする汐音だけが悪い訳じゃない。原因を作ってるのはきっとぼくの方なんだからさ。……やっぱナシっ。今のナシで、違うお願いにしてもいい?」
「……ごめん」
いつも、そうやって一歩引いてくれている。なのに、なのにあたしは……。
「ぼくの事、好き?」
「……え?」
「たまにふと思うんだよね、汐音は何でぼくを選んだんだろうなーって。ほんとにぼくでいいのかなー……ってさ」
「な、何で今更そんな事言うの? もう一か月以上も付き合ってんのよ?」
騒がしい店内では隣にいる茉莉花の声でさえ耳を近付けないと聞き取れない。だから聞き間違えなのかと思った。今までそんな事、一言も口にしてこなかったから。なぜ今このタイミングで? 疑問しか湧かない。
あたしたちの近くには会話を聞き取れそうな距離の人はいない。だけど念には念を入れてそっと見渡す。誰かにこんな話を聞かれたら、そう思うと反射的に目が動いてしまう。
視線を戻すと茉莉花はじっとあたしを見つめていた。不思議そうに首を傾げている。思わず目を逸らすと、先程のポメラニアンをいじりながら問い掛けてきた。
「汐音は思わないの? ぼくが何で汐音の事が好きなのかとか、汐音のどこが好きなのかとか、気にならない訳?」
「お、思わなくはないけど……」
「でしょ? ぼくだって不安になる時もある。だからさ、知りたいんだ。ぼくのどこが好きなのか、このデートが終わるまでに五つ挙げて欲しい。そしたらさっきの無茶なお願いはナシ」
「え、えー? ずるいっ、あたしばっか言わせるつもり?」
「賭けを申し込んできたのは汐音じゃんか。言い出しっぺ、かつ負けた人に断る権限はないぞ?」
ぐ、ぐうの音も出ない。
もう一度辺りを見回して人の流れを窺う。いない。聞こえる距離に人はいないけど。むしろゲームに夢中であたしたちの存在すら視界にも入ってないくらいだろうけど。
「あ、あたしを好きでいてくれるとこ。優しいとこ。大切に思ってくれるとこ。撫でてくれるとこ。あと……うーん、思いつかないや」
「おいおい、全部漠然とした答えばっかだなぁ。もうちょっと具体的にないの? きゅんとしたエピソードとかさぁ。こんな時、好きだって思ったんだーって瞬間の話とかさぁ」
「そ、そりゃなくはないけど……そんな事急に言われても思い出せないわよ」
「ふぅーん、ないのかぁ、そっかぁ。寂しいなぁ。ぼくはこんなに汐音が好きなのになぁ。ぼくなら汐音の好きなとこ、たくさん挙げられるのになぁ」
わざとらしくしょげてるけど、口元が緩んでるのをあたしが見落としてるとでも?
「き……」
「き?」
言えない。キスの度に、なんて……。
「じょ、条件はデートが終わるまででしょ? それなら今ここで言う必要ないじゃない」
「えー、おあずけかよぉ。……まぁいいや。今日はぼくの好きなとこいっぱい思い出させてやるからな」
「はいはい。たくさんかわいいとこ見せてね? マリバッカちゃんっ」
「か、かわいいぃ? かっこいいの間違いだろ?」
かっこつけてるつもりなんだろうけど、あたしにはやっぱり茉莉花がかっこいいとはなかなか思えない。かわいいと言われたくないのは知っている。だけど、事実あたしにはヘタレでかわいくて愛くるしい女の子にしか見えない。
少なくとも、あたしと二人きりの時のあなたは……。
「な、何チワワ見ながら笑ってんだよ。キモいなぁ」
「べっつにぃ。ねっ、屋上にフードコートあるって書いてあったよね? 慣れない事ばっかしてて疲れちゃったから、ちょっと休憩しにいきたい」
「もう? いいけど。連れ回しちゃったのはぼくだし、汐音の好きそうな物何か買ってくるよ。フードコートだから色々食べよっか」
意気揚々と半歩前を歩く茉莉花はとても楽しそうだった。中学の頃から遊びに来ていたところだと言っていたし、俗に言う『庭』というやつなのだろう。
屋上に続く階段を昇る途中、茉莉花の細く柔らかい指に絡めると軽く握り返してくれた。部屋では触れる事になんの抵抗もなかったのに、やっぱり初めての事は緊張と嬉しさで手汗が滲んできてしまって恥ずかしい……。
だけど、何かが刺さる。
高々とガラスの壁に囲まれた屋上の白い丸テーブルに座らされたまま、あたしはたくさん並んでいる店舗の中からバーガーショップへ向かう茉莉花の後姿を見つめていた。ぞわぞわする。気を利かせてくれている事を分かっているつもりなのに、やっぱりどこか落ち着かない。
「茉莉花」
立ち上がって呼んでみたものの、若者たちの話し声や子供たちのはしゃぐ声でがやがやと賑わう中にあたしの声はかき消されていく。
このシチュエーション、なぜ落ち着かないのかと思ったら昨日の奈也とのデートと……。
「茉莉花ぁっ」
もう一度呼んでみるけど、先程よりも小さくなっている背中には届く訳もない。でもここに座って待っているだけでざわついてしまう。いっそ席を離れて追いかけようか、そう思って二人分のバッグを手に取った瞬間……。
「おっとっ!」
「きゃっ」
急いで立ち上がった勢いで通りかかった男性にぶつかってしまった。見ると手にはラーメンの丼とドリンクを乗せたトレーを抱えている。ドリンクは見事に倒れてしまっているけど、幸いにもラーメンはスープが少しこぼれてしまっているだけで済んだ。
「ご、ごめんなさい……。あの、火傷とか大丈夫ですか? 飲み物、弁償しますんで……」
言いながらハンドタオルとポケットティッシュを取り出す。男性は小さく「あーぁ」と呟きながらあたしが座っていたテーブルにトレーを置いた。焦りと罪悪感で嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「俺は大丈夫。ちょっと指に掛かっただけだから。お姉ちゃんは大丈夫?」
「は、はい……」
「そう。ならよかった。かわいい服を汚しちゃったら申し訳なかったしな。……これ、一枚貰うね」
怒ってない。ぶつかってしまったのに、こぼしてしまったのに、むしろあたしの服を気にしてくれた。男の人は嫌いだけど、こういうまともな人もいるのだと少し強張りが解けた。
「あっ、どうぞ、使ってください」
嫌な汗を感じながらも手にドリンクが掛かってしまった罪悪感からティッシュを差し出す。
だけど、そんな罪の意識は、呪いのように付き纏う接触嫌悪によって更に重なっていく。差し出したティッシュを受け取ろうとしただけの手を思わず振り払ってしまった。あたしから差し出したのに。触れられてもいないのに。触れられると思うだけで過敏に拒絶反応を起こしてしまった……。
「な、何すんだよっ! くれるって言うから貰おうとしただけじゃねぇかっ。誰もお前の手なんか握ろうとしてねぇよっ」
「ご、ごめ……」
「ぶつかってきたくせに、ちょっと優しく言ってやりゃあ突け上がりやがって。これだから今時のヤンキー姉ちゃんは」
ヤンキー……。
違う。そんなんじゃない。あたしは……。
「汐音? どうした? あの、うちの連れが何か?」
男性の肩越しに茉莉花の声が聞こえた。振り返るとあたしたちの事を怪訝そうな顔で交互に見比べている。片手に持っていたハンバーガーのトレーを咳払いしながら持ち直していた。
「何か、じゃねぇよ。俺の飯零しときながら手ぇ引っ叩いたんだぜ? 失礼にも程があるってんだよ。彼氏なら自分の女の教育くらいしとけよなっ」
「か、彼氏じゃないけど……うちの彼女が失礼しました。ぼくが代わりに謝りますんで許してやってください。それと、飲食代は弁償しますんで」
茉莉花がこちらにトレーを差し出す。あたしがそれを受け取ると、男性に向かってぺこりと頭を下げた。慌ててあたしも頭を下げる。ちらりと見上げると男性はあたしたちを眺めて鼻を一つ鳴らした。
「ふんっ、いらねぇよ。ガキから受け取った金で食う飯なんぞうまくないからな。……姉ちゃん、かっこつけてくれた彼氏に免じて許してやるけどさ、あんまり迷惑ばっかかけてそのうち捨てられちまわないように気を付けな。俺なら彼氏に恥をかかせるような女、とっととおさらばしてると思うぜ。優しい彼氏に感謝するんだな」
「お言葉ですけど、ぼくは彼氏じゃないんですよね。こう見えても女の子なんで。それと、ぼくの謝罪を受け入れてくれた事には感謝しますけど、ぼくは迷惑をかける彼女を簡単に捨てたりしない。手が掛かる子程かわいい、って言うでしょ?」
「はんっ、ガキが。寝言ばっか言ってんじゃねぇよ。どこにお前みたいなペチャパイの女がいるってんだ。ちょっと女っぽい顔してるからって大人を騙せると思うなよ? せっかくいい彼氏だって褒めてやったんだ、下手な嘘ついてないでさっさと消えな」
「……はい。ほんと、すいませんでした。……行くよ、汐音」
茉莉花はもう一度深々と頭を下げてからあたしの腕を掴んで引っ張った。どんな顔したらいいのか分からず、ただ引かれるがままついて行く。茉莉花が買ってきてくれたトレーの上では、足を進める度にドリンクの中の氷がシャラシャラと音を立てていた。
怒らせてしまっただろうか、半歩先の横顔を見上げる。辺りを見渡して空いているテーブルを探しているようだった。腕を掴んだまま一向に振り返らない事に罪悪感が蘇ってきてしまう。
だけど、その横顔を見て初めて感じてしまった。
かっこいい、と……。
「汐音、大丈夫? ほんとにどこも触られてない?」
たどり着いたのは隅に置かれた二人用の白いテーブル。茉莉花はあたしからトレーを受け取ってカタンと置きながら覗き込んできた。あたしはちらりと元来た道に目をやりながら、備え付けの椅子に腰掛けてこくんと頷いた。
「う、うん。触られてもいないし、ほんとに一方的にあたしが悪かったの。なんか、なんか反射的に拒絶反応が出ちゃったみたいで……。なのに代わりに謝らせて……ごめん……」
「いいよ、それくらい。汐音の代わりなら何だってする。気にすんなって。ねっ?」
慣れた手つきでリッドにストローを刺してあたしの前に置いてくれた。だけど中身はジンジャーエールではなかった。昨夜あたしが手を付けなかった事で察してくれたのだろうか。吸い上げたコーラが喉に沁みる。二種類置かれたハンバーガーの説明をして選ばせてくれる、こういうところもくすぐったいくらい優しい。
でも、ほんとは、ほんとはこういう些細な気遣いはあたしがしてあげたかったのに、やっぱり仔猫ちゃんたちと遊び慣れてる茉莉花にはかなわなかった……。
「ねぇ、茉莉花」
ストローを咥えながら話しかけると、茉莉花はハンバーガーの包み紙を剥がしながらこちらを向いた。
「うん? 何?」
「あたしのどこが好き?」
「はい? それは今日ぼくに提出する課題のはずだけど? 何でぼくに聞いてくんだよ」
ゲームコーナーよりは騒がしくないとはいえ、また違った雑音の中なので小声では聞こえない。学食の事を思い出す。わいわいしていてもどこで誰が聞いているか分からない、そう思い返して身を乗り出しギリギリ聞こえる程度の小声で返す。
「違う。さっきみたいに状況も把握してないのにとりあえず謝るなんておかしいじゃない。いくらあたしが一方的に悪かったとはいえ、あの時はあんたはあたしの言い分も聞かずに謝ってたでしょ? 代わりに頭を下げるなんて、嬉しいけどなんか複雑だったの。恋人に迷惑かけたのも、頭をさげさせた事も。だから、そこまでしてくれるのは何でだろ、って思って」
「何でって、そりゃ好きだし大切だし嫌な思いさせたくないし……理由はたくさんあるよ。さっきは好きなとこいっぱい挙げられるって啖呵切ったけどさ、どこって言ってもぶっちゃけフィーリングとしか言いようがないんだよね」
「フィーリング?」
「そ。魅かれちゃうのに理由がない時だってあるじゃん? ま、まぁそういう事だよ。漠然としたシンパシーみたいなのかな」
「……ふぅん。全っ然答えになってないけど。フィーリングだのシンパシーだのって横文字並べればかっこよく聞こえる、とかなんとか思ってはぐらかしてんでしょ」
茉莉花の目が泳ぐ。こいつ、ほんとにごまかすの下手くそなんだから。
「汐音は? あれから何か思い出した?」
「えー……まぁ、さっきみたいに守ってくれた時は愛されてるんだなぁって実感は湧いたけど……」
「ふふんっ、かっこよかったっしょ? 惚れ直した?」
ずずいっとニヤけた顔が近付いてくる。かっこいいだとか好きだとか、調子に乗らせるような事は絶対言ってやんないっつーの。
「そんな事より、男の子に間違えられてよかったじゃない。ペチャパイ彼氏さん」
「……もー、あれはいざ言われてみると結構傷付いたんだぞ? 女の子に向かってペチャパイとは何事だっ、セクハラだっ」
「いいじゃない、別に。あんたが自分でペッタンコにしてるんだから。それが嫌ならこの後ブラでも買いに行く? あたしがラブリーでキュートでファンシーなラベンダーブラを探してあげるわよ」
「そ、その方が嫌だぁっ」
いつものようにじゃれあって、だけどいつもと違うのはここが人前だという事。二人っきりで部屋で食べる夜食もおいしいけど、たくさんの人がいる広い場所で二人で食べる昼食も悪くない。むしろおいしい。
考えてみたら、二人で初めて外食したのはこれが初めてだった。どこにでもあるごく普通のハンバーガーだったけど、今日食べた事はきっと一生忘れない。このチープな味を口にする度、お互いのどこが好きだとか恥ずかしい会話をしたこの初デートを思い出すのだろう。
「そういえば五階にビリヤードとダーツって書いてあったよね? あたし、ダーツならあんたに勝てそうな気がする。やった事ないけど投げるだけでしょ?」
「おいこら、話を逸らすなよ。……まぁしょうがないから連れてってあげるけど。でもぼくはやらないからな。汐音の近くにいたらぶっ刺されそうで怖い」
そして、奈也と行ったファーストフード店の事も、今こうしてじゃれてるだけで上書き出来そうな気がする。
「失礼ねっ。そんな事言って、あんたほんとはダーツ苦手なんじゃないの? あたしに負けるの嫌だからやらないとか言ってんじゃないのー?」
「そっちこそ失敬だぞ。ぼくが一つでも汐音に負けたものがあるか? あるなら言ってみろよぉ。ほれほれー」
デートはやっぱり、好きな人とするものだ。
「はぁ? あんたこの前の中間テストで赤点二つも取ってたじゃないっ。勉強じゃあたしの方が上よっ」
デートはやっぱり、好きな人とするべきだ。
「はいー? 赤点なら汐音だって一個取ってたじゃんかよぉ。自分の事棚に上げるなよなー」
それがケンカばかりだとしても。
「いーんだもーん。物理なんて大人になったらきっと役に立たないもーん。それにあたしは去年ほとんど学校行ってないのよ? 親にお金出してもらってぬくぬく塾通いしてたあんたと違って、あたしはずっとお姉ちゃんに教わってたんだもん。ちょっとぐらい点数悪くてもしょうがないんだもーん」
それだって、あなたと過ごした大切な思い出だもの。
「ひ、開き直りやがったな……」
ねぇ、もし倦怠期ってやつがあたしたちに訪れたら……。
「あはっ、素直に負けを認めるのねー」
その時は、もう一度ここで同じ物を食べようね。




