46☆禁断の向こうに見えたもの
唇をそっと離して目を開けると、涙で潤んだ奈也と視線が交わった。どんな顔したらいいのか分からず、あたしはじっと奈也を見つめていた。
「……ごめん、奈也」
「ど、どうして謝るの?」
「いや、なんか泣きそうだったから……」
言われて我に返ったように奈也は指の背で瞼を擦った。そしてぷるぷると首を振って笑ってみせた。
「違うの、嬉しかったんだと思う。ずっと憧れてた汐音にこんな事してもらえて……。汐音ほどの素敵な人に好きな人がいなくて本当によかったなぁ。恋人でもいたらこんな事してもらえなかったしね……」
「あたしは……憧れられるような人間じゃないよ……」
最低だよ、嘘つきの裏切り者だもん。茉莉花にも奈也にも嘘をついている裏切り者なんだから。
「行こっ。席取りは心配ないけど、ポップコーンでも買おうよ」
「……うん。でもね、汐音……」
「何?」
毛先をいじりながら奈也が化粧室の扉をちらりと見る。なんだろうと思ってあたしもそちらを見やる。
と、あたしが目を逸らした瞬間、奈也はいきなりあたしに抱きついてきた。勢いで背中を壁にぶつけてしまう。ブラウス越しにタイルの冷たさが伝わってくる。
「びっくりしたぁ……。な、奈也、ちょっと落ち着いて? ここトイレトイレ。いくら空いてても、誰か来るかもしれないし……」
「なら、見られなければいいんでしょっ?」
どこにそんな力があったのだろうか、奈也は思いっ切りあたしを突き飛ばし、容赦なく個室に押し込んだ。足がもつれてよろけるあたしの目の前に立ち、二人きりの狭い個室の鍵をガチャリと閉めた。
「ちょっ、なな……」
「言ったじゃないっ、何でもしてくれるって。アタシのお願い聞いてくれるんでしょうっ? だったら……」
奈也の冷たい眼差しにぞっとした。初めて見る、まるで狩りを楽しむ獣のような……。
違う。あたしは、こんな目を前にも見た事がある。味わった事がある。
思い出したくもない、『あの時』と同じ……。
「や、ヤダ……放して、出して……こ、来ないで……」
「どうしたの、汐音。急にしおらしくなっちゃって……。声が震えてるよ? 大丈夫、誰も来ないから……」
「イヤ……。やめて、触らないで……あたしに触らないで……」
にやりと口の端をあげながら、奈也があたしの顎を掴んで無理矢理キスをしてくる。後ずさるとトイレットペーパーのホルダーがカランと鳴った。やめて、そう訴えたくてにじむ視界の向こうの奈也を見つめた。
だけど、見上げるあたしにはその顔が奈也だと認識出来なかった。奈也ではないと思いたかったのかもしれない。これは悪い夢だと。忘れたい過去の幻覚だと。
足が竦んで動けない。逃げ出したいのに膝が言う事を聞いてくれなくて立てない。荒々しくブラウスのボタンを外していく手を振り解きたいのに、肩が震えて力が入らない。
『あそこの中学の汐音って子だろ? 誰でもやらしてくれるって聞いたんだけど。俺にもやらしてよ』
「な……なな、り……やめ……」
「さっきは好きって言ってくれたじゃない。キスしてくれたじゃない。思わせぶりな態度しておいて、アタシの事を弄んでたとは言わせないわよ?」
「ちが……」
『こんな事されたら怒るからな? もしされそうになったら、ぼくの時みたいに思いっ切りビンタして逃げといで。それと、デートの内容もちゃんと全部話して欲しい』
茉莉花……っ!
「何泣いてるのよ。見た目も遊んでるっぽいしドンと来いみたいな事言ってたから経験あるんだと思ってたのに、汐音って案外ヘタレなのね。……もっとかっこいい子だと思ってたわ」
「……」
声が出ない。叫んだら誰か助けに来てくれるかもしれないのに。肩から下げたショルダーバッグの中に手を入れれば携帯だって取れるのに。
「汐音がいけないんじゃない。アタシを挑発したりするから」
違う……。
「こんなに好きなのに、キスだけで満足するとでも思ってたの? ふふっ、瀬戸さんに借りたかわいいお洋服が汚れちゃうから、さぁ早く立って?」
震える身体は小さくいやいやと首を振るのが精一杯で、もがいた弾みで引きちぎられたボタンが二つ足元にころころと転がっていく。上映開始のブザーが鳴り響いている。もう誰も来てくれないかもしれない。
「かわいそうに……そんなに怯えなくてもいいじゃない。立てないのならそのまま座っててもいいわ。でも、かわいいそのスカートが汚れちゃうから、まずはスカートを脱ぎましょうね……」
奈也の少し震える手がスカートのホックに触れる。熱を帯びた唇を重ねられて息が苦しい。チャックを下ろすジジッという音と同時に奈也の舌があたしの舌を求めてくる。
「んんっ……」
今しかない……っ。あたしは思い切って侵入を許し、そのまま奈也の舌をがぶりと噛んだ。
「んぐっ! な、何するのよっ! どうして、どうしてアタシを受け入れないのっ? アタシを、アタシを……っ!」
……ハッキリ覚えているのはここまでで、次に目を開けた時にはおぼろげな記憶の中であたしに罵声を浴びせていた奈也の姿はどこにもなかった。ただ、殴られた拍子に打ち付けたのであろう側頭部のズキズキという激痛だけが残っていた。
壁と便器との間で惨めにへたり込んでいる間抜けなあたしの頬には、涙の痕に赤毛が貼り付いている。呆然としながらゆらりと身体を起こそうとすると、パッチン止めをしてない前髪がオデコを滑っていった。
神様とやらが、嘘をついて茉莉花を裏切った罰をあたしに与えたのだろう……。
「う、うぅっ……うっぐ……」
夢でありますように。全部、夢でありますように。豹変した奈也も、バカをしてしまったあたしも、破けてしまったブラウスも、脱ぎ掛けのスカートも、全部全部全部、幻でありますように。




