42☆心配も嫉妬も蜜の味
あたしが二一八号室をノックすると「開いてるよ」という茉莉花の篭もった声が聞こえた。
「入るわよ……って、珍しいじゃない、あんたが机に向かってるなんて。何、追加課題でも出されたの?」
デスクに向かう茉莉花が恨めしそうに振り返った。時刻はまだ七時を回ろうとしているところ。いつも寝る前に宿題やらを片付ける茉莉花にしては珍しい。酷い時にはあたしがベッドに入ってからデスクの灯りを点けるくらいだというのに。
「失敬だな。ぼくが早めに宿題やってちゃおかしいのかよ。それにさ、ぼくが早いんじゃなくて汐音だってこっち来るの早過ぎじゃん。まだお風呂も行ってないんじゃないの? 千歳だってまだそっちには行ってないはずだけど」
なぜかむっすりしている茉莉花は、あたしの返事も聞かないままノートに視線を戻した。何よ、感じ悪い……そう思いながら千歳のデスクチェアをゴロゴロ引きずって茉莉花の隣に座った。
「ねぇねぇ、あんたのクラスに柳原奈也って子いるでしょ?」
「……いるよ。それが?」
茉莉花はカリカリと鉛筆を走らせながら淡白な返事をした。機嫌が悪いだけなのか、勉強に集中しているだけなのか。
ふくれっ面をしているあたしが覗き込むと、茉莉花はようやく鉛筆を置いた。
「見て見てー。これね、その奈也からさっきもらったの。……似合う?」
くるりと椅子ごと回転してシュシュを指差す。茉莉花は「へー?」と言いながらあたしのポニーテールを梳いた。
「かわいいよ。汐音は何付けてもかわいいんだから、もっとこういうの付けたらいいじゃん」
「……似合うかって聞いてんのに」
「だから、似合うよ? かわいいって言ってんじゃん」
生まれて初めてもらった手作りプレゼントを『かわいい』の一言で済ますなんて。しかも、ちょっと適当にも聞こえる。学校では女の子たちに甘く「かわいいね」って囁いてるくせに、今のそれは心が篭ってない感じがしてあたしのご機嫌は傾いていく……。
「もうっ、いいわよっ。バカ茉莉花」
「はい? 何むくれてんだよ。かわいいし似合うって言ってんのにさ」
「違う、そんなんじゃなくて……」
そんなんじゃなくて、茉莉花の言葉で褒めて欲しかったのに。だからわざわざお風呂前に見せに来たというのに。あんたがあたしにしか言わない言葉で褒めて欲しかったというのに。
この鈍感……。
「お風呂行ってくる。勉強のお邪魔のようだから、今夜はお呼びがかかるまで自室にいてあげるわよ」
「もー、なんだよぉ。何ふて腐れてるんだか知らないけどさ、普通科と違って服飾科は作業する事が多いんだ。勉強だけしてる普通科よりもやる事いっぱいあるんだぞ? このデザイン画を描き終わったら話聞くから待ってなよ」
「もう結構よっ」
ぷいっと背を向けて立ち上がると、茉莉花も慌てて立ち上がった。構わず出て行こうとするあたしの腕を掴んで、半ば不服そうに「ごめんって」と引き寄せた。
「痛いじゃない。あたしに構ってないでデザイン画とやらを仕上げたら?」
「だからぁ、そんなにいじけんなってば。……で、そのかわいいシュシュを、何で奈也ちゃんが汐音に? 汐音が頼んだのか?」
「……違う」
「じゃあ何で? そもそも奈也ちゃんと汐音って仲良かったっけ? ぼくはあんま奈也ちゃんと話さないから知らなかった」
あたしが黙ると茉莉花は不思議そうな顔をした。無理もない、あたしだってあんまりどころか話した事すらなかったのだから。あたしと奈也の仲を茉莉花が知る訳がない。
聞いて欲しいけど話したくない。だけど言いたい。あたしが複雑な気持ちのままベッドにぽふんと腰掛けると、茉莉花はふぅっとため息を一つ吐いて隣に座った。
「……今日、告白されたの。奈也に。付き合って欲しいって」
「……はい? い、いつの間にそんな仲になってたんだよっ。ってゆーかダメだからなっ? 浮気は許さないからなっ?」
「バッカじゃないの? あんたと一緒にしないでよね。あたしだって意味分かんなかったわよ。話した事もなかったんだもん」
「だ、だったら何でそんな事になってんだよぉ」
動揺してあたしの肩を揺さぶってくる茉莉花の手を振りほどき、あたしは今日の奈也とのやり取りを余すことなく説明した。手紙をもらい、裏庭で告白され、週末デートの約束をした、と。
「で、デートっ? し、汐音と奈也ちゃんがっ? そそそ、そんなのぼくが許す訳ないだろっ。第一、汐音も汐音だよ。ぼくという恋人がありながら他の子とデートだなんて」
「誰よりもあんたに言われたくないわね。どの口が言ってんのよ、どの口が」
あたしが茉莉花の頬を抓んで引っ張ると、ぐうの音も出ないといった表情で小さく唸った。妬いてくれる嬉しさと裏切りに近い罪悪感が鬩ぎ合う。
だけど、あたしは茉莉花が他の女の子とイチャつくのも、あたしを置いて数人で遊びに行くのも黙認している。もちろんいい気はしない。あたしだけのものになってくれたとはいえ、実際にはその実感は二人きりの時にしか味わえないのだから。それでも、帰ってきてくれるのはあたしのところなのだと、いつもいつも言い聞かせて独占欲を我慢してきた。
「いててて。だってぼくは他の子と二人で出掛けた事なんてないんだぞ? いつだって数人はいる。なのに汐音は二人でデートだって? しかも交際前提みたいな流れじゃないか。いくらおとなしそうな奈也ちゃんが相手とはいえ、何かされない保証もないだろ?」
「何よ、それじゃあたしの事が全く信用出来ないみたいじゃない。あたしだってたまには出掛けたいもん。あんたが、あんたと滅多に出掛けられないんだからちょっとくらい気分転換させてくれても……」
言葉に詰まった。茉莉花との仲が秘密なので、あたしはデートらしい事を茉莉花とはしていない。どこへも連れて行ってもらっていない。ほんとは行きたいのに、出掛けたいのに、誘って欲しいのに……そうずっとずっとワガママを言えずに堪えてきたものが込み上げてきてしまった。
涙目になったあたしを見つめている茉莉花は申し訳なさそうに唇を噛みしめた。でも茉莉花だけが悪い訳じゃない。茉莉花はあたしたちの秘密を守る為に誘えないのを知っているから。分かっているから余計に辛い。もどかしくて悔しくて、ただ積もっていくだけのもやもやを飲み込んでは苦しくなっていく。
「分かったよ、行っといで。その代わり……」
「その代わり?」
茉莉花の暖かい指先があたしの頬をなぞる。重ねてきた唇は、心なしか微かに震えているように感じた。唇が離れてそっと目を開けると、茉莉花は切なげに笑いながらあたしの頭にぽんっと手を置いた。
「こんな事されたら怒るからな? もしされそうになったら、ぼくの時みたいに思いっ切りビンタして逃げといで。それと、デートの内容もちゃんと全部話して欲しい」
「……あのおとなしそうな奈也があんたみたいな事する訳ないでしょ。一緒にしないで。それに、あたしの性格はあんたが一番よく分かってるはずよ? 今更そんな事言う?」
「……まぁ、そうだね……」
ため息混じりに相槌を打たれて心がぎゅっとなる。嫉妬してくれる嬉しさより罪悪感が上回っていく感じだった。
それでも、下手な作り笑顔を見せてくる茉莉花が愛おしい。独占欲が強いのはあたしだけだと思っていたのに、こんなにも束縛してくる奴だなんて初めて知ったけどそれもまたかわいく思えてしまう。
「デートデートって大げさに言っても、所詮遊びに行くだけだから。……そんなに心配しないでよ。いつもあんたしか見てないあたしを信用しなさいよね」
「え、今何て? ぼくしか……何て?」
「……うっさい、バーカっ」
改めて聞き返されると照れ臭くてぷいっとそっぽを向いた。そしてそのまま立ち上がって「お風呂行ってくる」と小さく手を振る。ベッドのきしむ音で茉莉花も立ち上がったのだと分かった。あたしが扉に手を掛けた瞬間、茉莉花の呼び止める声が聞こえた。
「汐音」
「……何?」
「後ろ姿もかわいいよ」
深い意味はないのだろう。誰にでもかわいいねと言う奴なのだから。けれど今のあたしは、赤毛を束ねているこのシュシュも褒めてくれたのだと正直嬉しかった。
そっとシュシュに触れながらちらりと振り返る。目が合うと茉莉花はにっと笑った。……その方があんたらしいわね、と苦笑いが込み上げてくる。だって、切ない顔なんてあんたに似合わないんだもん。
「ありがと、女ったらしのマリバッカさん。寝る支度して九時半くらいにはこっち来るわ」
それに、調子狂うもの。しおらしいあんたも、張り合いのないあんたも。
「ちぇっ、本心なのにさぁ」
「はいはい。じゃあね」
もう一度手を振って今度こそ部屋を後にした。
廊下を見渡して誰もいない事を確認する。いつ誰に目撃されてもおかしくないからなるべく行き来は最小限に留めているつもりだけど。口裏合わせみたいなもので、学校ではなるべく千歳と目立つところで話をするようにしているのは、いざあたしが二一八号室から出てくるのを見られても千歳への用事だと思い込ませる為でもある。
そこまでしてくれる千歳にも、反対している両親に黙っていてくれている龍一さんと協力してくれている鈴芽ちゃんにもつくづく感謝しかない。
だけど、いつまで隠し通せるのだろうか。いつまで平穏に過ごせるのだろうか。この幸せがいつまでも続くとは限らない。
仕方がない。それもこれも、あたしたちが出した答えなのだから。辛い思いを覚悟の上で付き合い出した結果なのだから。




