37☆二つのダークブラウン?
先に行くなら一言あってもいいじゃない……。日直? それとも六組で早勉会でもあったんだろうか。
あたしが七時に目覚めると、茉莉花の抜け殻のスウェットがベッドに無造作に脱ぎ捨てられてるだけだった。朝シャンの為に毎朝五時半に起きる茉莉花は、いつもあたしを七時に起こしてくれる。なのに今朝は茉莉花の黒い置時計がけたたましく七時に鳴り響いたので起こされた訳で。
律儀にアラームをかけといてくれた優しさには感謝するけど、早く登校しなきゃいけないから先に行くねって昨日のうちに言ってくれればよかったのに……。なんで言ってくれなかったんだろ?
ま、起きれたからいいけどさ。
「玲ちゃーん、今日部活なかったら一緒に帰ろー?」
「ごめんね、汐音。玲ちゃん今日は部活なの。仕上げたい服があるから」
「あー……そっか。ううん、大丈夫。しばらく一緒に帰ってなかったなーって思って声かけただけだから。頑張ってね、手芸部。あたしぶきっちょだから玲ちゃんの器用さが羨ましいなぁ。じゃ、また今度帰ろうねー。お先にぃ」
玲ちゃんはもじもじと照れくさそうに頷いて教室を出て行った。かわいい、実にかわいい。手先が器用なだけでも女子力高いというのに、ぬいぐるみの洋服を作ってあげてるだなんて関心する程乙女。
今日は部活ないし、たまには誰かと帰るのもいいかなーと思ったけどしょうがないか。普段寝不足続きでボーッとして、部活のない日は即効帰ってたし。
きゃっきゃうふふとにぎやかな教室も廊下も寝不足の頭にはがんがんと響いたもんだけど、茉莉花のおかげでたっぷり睡眠取れてる最近は嘘のように心地よい囀りにすら聴こえる。授業にも集中出来るようになったし、あいつには感謝しなくちゃね、とご褒美を何にしようかわくわく考えながら教室を出た。
同じ部活である茉莉花も今日は何もないから真っ直ぐ帰るはず。自主規制中だから遊びにも行かないし誰とも一緒には帰れないだろうし、もう帰っちゃったかなーっと通りすがりに六組をチラ見しながら廊下をてくてく歩いた。
「いない……。帰ったか」
遊びたい欲求を押し殺してとっとと帰ったか、昨夜の充電が効いてて女の子にちょっかい出す気が起こらなくて帰ったか、いずれにせよあたしとしては嬉しい限り。なら今日のご褒美はたくさんかわいがってあげなきゃね、と頬が緩んだ。
「この前延期にしちゃったカラオケ、これからでもいい? ぼくもしばらく行ってないから喉が鈍っちゃってるかもしんないけど。久しぶりだからフリータイムで歌っちゃおうか」
「きゃー、本当? 行く行くー」
「でも、マリッカは謹慎中じゃなかったのぉ? もう大丈夫なの? うちらと遊んだりスキンシップしちゃダメだからとかって自主規制してたじゃん?」
「謹慎? ぼくが? あはは、なんの事? ぼくが仔猫ちゃんたちと遊べなくなって寂しくないとでも思ってんの? そんなん耐えられないっしょ。君たちとこんな事出来ない学校生活なんて楽しくもなんともないしさ」
六組を過ぎて曲がり角に差し掛かった瞬間、耳を疑うような会話が聞こえてきた。あたしはピタリと足を止め、空耳でありますように……と願いながら角を曲がった。
「君たちだってぼくとこういう事したかったでしょ? ぼくもしたかったよ、仔猫ちゃん……」
……あのジャージ姿のふわふわショートボブは見間違える訳もなく茉莉花だ……。だけどあいつは規制中、充電も満タンなはず。違う、きっと似たような声と容姿の子よ。うん、きっとあいつの真似事でもしてるのよ、うん。言い聞かせながらそっと近づいていった。
そこで目に飛び込んできたのは、たくさんの生徒が行き来するこの廊下で、壁ドン状態の茉莉花が堂々とキスしている姿だった。
軽いキスをされた女の子は唇を押さえてずるずると床にへたり込んだ。その様子を見て満足げに微笑む茉莉花。周りを取り囲んでいる女の子たちも、その笑顔に頬を赤らめてきゃーきゃーと喜んでいる。
目を疑う光景だった。生徒会長直々に注意される前も壁ドンこそしていたものの、こんなに堂々とキスまでしていた事があっただろうか。あたしが知らないだけだったんだろうか。取り囲んで見ていた子にも「君もして欲しいの?」と抱き寄せてキスしている。そして相手の反応を眺めては、また満足げに微笑んだ。
「ちょっ……」
居たたまれなくなって思わず声が出てしまった。わなわなと震える手に汗が滲む。こんなにギャラリーのいる前ではさすがのあたしも、ぐっと拳を握りしめる事しか出来ない。
あたしの声に気付いたんだろう茉莉花がピタリと手を止めてゆっくりこちらを向いた。目が合ってあたしの表情を窺っている。手も言葉も出せないあたしをまじまじと観察して、それからにやりと笑って言った。
「何? 君もして欲しいの?」
「……は?」
君……? 何この違和感。鳥肌が立つ程気持ち悪い呼び方……。
今までずっと、ファンの子たちの前でも『汐音』って呼んでくれてたのに、これじゃあ……。
これじゃあ、あたしもその子たちと同レベルみたいじゃない……。
「どうして怖い顔してんの? かわいい顔が台無しだよ、仔猫ちゃん」
「……あんた、何してんのか分かってんの? こんな事してたら厳重注意どころじゃ……」
「生徒会長が怖くて学校楽しめるかっての。ぼくは仔猫ちゃんたちの為にご奉仕してるだけだし。君もして欲しいんだろ? ご奉仕」
茉莉花はそう言うと、すっとあたしの背に腕を回して抱き寄せた。そして唇に柔らかい感触が……。
それはまるで、茉莉花があたしに初めてキスをした、あのよそよそしいそれと同じだった……。
「なっ、なにす……」
「なにするのかって? キスしただけだけど。それとももう一回して欲しいんならアンコールに応えてあげてもいいよ?」
いけない、そう抑圧させる自分よりも、カッとなって振り上げてしまったビンタの方が先だった。廊下中にパシンッと響く音と生徒たちの息を飲むような声が聞こえた。
手のひらがジンジンと痛む。心も痛む。だって、今までで一番力が入ってしまったから。茉莉花も何が起きたのか一瞬目を丸くしていたけど、すぐに引っ叩かれた左頬に手を添えて言った。
「……照れ屋さんなんだね。気ぃ強い子も嫌いじゃないけど」
そう言ってにやっと笑った。ぞっとした。なんで笑ってるのか分からない。なんでこんな事するのか分からない。
それに、あの時と同じ台詞だ。あたしが茉莉花を嫌いになったあの夜と同じ。
「何の騒ぎですか?」
あたしの一括で静まり返っていた廊下の先からリンとした声が響いた。あたしも茉莉花も、周りを取り囲んでいたギャラリーも一斉にそちらを向く。
「獅子倉さん、以前にも注意しましたが、これはどういう事ですか? 風紀を乱す事は謹んでくださいと言ったつもりですが」
「……会長、ぼくは風紀を乱すような事は何もしてないッスよ。疑うならそこで座り込んでる女の子に聞いてもらってもいいスけど?」
生徒会長はメガネを少しずり上げて茉莉花の視線の先を辿った。そこには先程壁ドンでキスされてぺたんと腰を抜かしたままの女の子が座っている。会長と茉莉花、二人の視線を感じたその子は口を両手で覆いながら思い切り首を横に振った。
「ね、違うっしょ? ぼくはむしろ、みんなに喜んでもらえる事をしてるんです。それとも会長、『公然でキス禁止』とかゆー校則でもあるんスか?」
「公然でキ……キ、キスをする事は校内の風紀を乱します。校則に書いてないとはいえ、そ、その……」
「へー、会長は恋人じゃないとキスしちゃダメとか思ってんスか? ぼくにとっては挨拶代わりだし愛情表現の一つなんだけどなぁ……。もしかして、会長ってむっつりなんじゃないスか? エロい目で見てるから乱れるだのなんだのってさぁ……」
これにはさすがに周囲もざわついた。「酷い」だの「言い過ぎ」だの、逆に「確かに」と肯定する声があちらこちらから聞こえてくる。もう一発お見舞いしてやりたい、そう込み上げる怒りを堪え、茉莉花の腕をぐいっと引っ張ってその場から引きずり出した。もちろん、あたしだけは生徒会長に会釈をして。
茉莉花は抵抗する事もなくすんなりと引きずられてくれている。掴んでいた腕にも力が入りすぎていた事に気付き、適当に人気のない教室に入ったところで解放した。
「……用があるなら手短にしてもらえないかな。ぼくは約束があるんでね」
「どういうつもりよ! あんな事した上に生徒会長に暴言吐くだなんて、下手したら始末書か停学よ? 何考えてんの? バカなの?」
「……知らないね。停学でも退学でも、好きなように処分すればいいさ。ぼくだって好きにさせてもらう」
急に何を言い出すのか、先程の言動といいこの発言といい、昨日までの茉莉花とは思えない。あれだけ遊ぶ事を我慢していたくせに、いくら学校と二人きりの時と二面性があるとはいえ極端すぎる。ううん、二面性どころか今までにこんな言い方をした事があっただろうか。
それに、何この違和感。まるであたしの知ってる茉莉花じゃないみたい。今までなら学校でも二人きりの時はヘタレた顔してたのに、それこそ見た事ない程クールに見える。冷静にこんな事言ってるのだとしたら、茉莉花をこんな風に変えてしまった何かがあったんだろう。
「あんたおかしいわよ。どうしたの? 何かあったなら聞くから帰ろ? 何かあったんだとしても、あたしはあんたの味方だからちゃんと話して?」
茉莉花は表情一つ変えずにあたしを見下ろしている。こちらの方が逸らしたくなるくらい、そのダークブラウンの目で見つめている。ほんとに何を考えているのか分からない。ここじゃ話にくいのかと思い、再び茉莉花の腕を掴んで教室を出ようとした。
「帰るわよ」
「……放してくんない? 言ったっしょ、約束あるんだって」
「バカ言わないでよ。これ以上校外でも騒ぎ起こしたらほんとに処分されるかもしれないのよ? さっきあたしにした事は水に流してあげるから、ちゃんと言う事聞いて」
「……はい? さっきから聞いてりゃなんで上から目線な訳? 君はぼくの何な訳? 彼女面すんなよ」
「……え……」
躊躇なく振り解かれて、勢いで後ずさったあたしに見向きもせず扉に手を掛けた。確かに、確かにあたしは彼女でもなんでもない。まだ恋人じゃない。だからってそんな言い方……。
「あぁ、そうそう。君もぼくのファンなんならカラオケくらいついてきてもいいよ? ファンの子には『平等』にしないとだからね」
そう言いながら茉莉花はにっこり笑って振り返った。唖然として言葉も出ないあたしを見て「じゃあね、仔猫ちゃん」と教室を出ていった。
「ま……」
違う。あんなの茉莉花じゃない。そうよ、あたしの好きな茉莉花はこんな事しないもん、言わないもん。もっと優しくて大事にしてくれて、あたしの事を『君』だなんて言わない。いつだって甘く『汐音?』って……呼んでくれて……。
変なの、いつものあたしならぷんぷん怒って強引にでも連れて帰るはずなのに……。身体に力が入らなくて一歩も動けない。心臓の鼓動が早くて膝もがくがく震えてくる。怖くて苦しくて、あたしはその場にぺたりと座り込んだ。
遠くで生徒たちの笑い声が聞こえる。楽しそうな話し声が聞こえる。何一つ理解出来ないあたしの耳にその雑音がこだましている。
あれは、誰……なの……?




