36☆さよならはジャスミン色?
「汐音……?」
寝ちゃった……? せっかくぼくが説明しようとしてたとこだったのに……。
かわいいから、まぁいいか……。
中学ん時の彼女から連絡があって色々心配と不安でいっぱいだっただろう汐音。だけど今のぼくには汐音しか見えていないというのに……。ヤキモチ妬いてくれるのは嬉しいけど、人の話も聞けっての。ぼくの気持ちも分かってないくせにさ……。
結局、彼女とケンカ別れした理由をちゃんと話せないままだった。何から話せばいいのか考えて黙り込んだぼくも悪い。いいや、ぼくが悪い。
汐音は沈黙したぼくを責めるだろうと思っていた。でも汐音もずっと黙ったままぼくを見つめていた。その視線を感じていたくせに気付かないふりしてそっぽを向いていた。いつもみたいに、さっきみたいに、キャンキャンと吠えてくれたら普段の調子で話せたかもしれない。だけど『黙って聞け』と約束させたのはぼく。だから汐音は忠犬みたいにずっと次の言葉を待っていた……。
『話したくない事はパスする』、そうも言った。きっと汐音はこれ以上ぼくから聞き出せないと思ったんだろう。長い沈黙を破ったのは汐音の「寝る支度してくるね」の一言だった。本来の部屋から持ってきている歯磨きセットを片手に出ていった。扉を閉める直前にちらりと振り返った汐音は、特に怒っている訳でもすねてる訳でもないように思えた。いや、そう見せただけかもしれないけど……。
「……汐音、ちょっと外すよ……?」
返事がないのは分かってる。汐音は寝つきが悪い代わりに寝入ってしまうとなかなか起きないから。ぼくの腕枕ですぅすぅとかわいい寝息を立てているとこ申し訳ないけどちょっと抜け出させてもらうよ。そっと頭を外し代わりに本物の枕を差し入れた。
「いててててて……」
人ってのは寝入るとなんでこうも重たいんだろうか。ぼくはしびれた腕をぶらぶらさせながら起き上がった。寝てるよね、もう一度顔を覗き込んで確認する。汐音は相変わらずくたっと横たわっていた。
「ふぅ……」
ごめんね、汐音……。そう心の中で呟きながらベッドを降りる。ギシッときしむ音でも起きないかわいい汐音の赤毛をそっと撫でてからデスクへ向かった。
電源を切りっぱなしにしていたスマホを手に取る。切っていた間、彼女からの着信はあっただろうか。汐音に後ろめたさを感じつつも電源を入れた。
眩しく光ったディスプレイに表れたのは、不在着信が一件と未読メールが一件の文字。確認するまでもないけど着信もメールも彼女からだった。
『人が話してるのに勝手に切らないでよねー! ダーリンのいけずぅ。ダーリンのバカー!』
……彼女らしいメール。すぐバカって言うとこ、汐音にそっくりなんだよな……。汐音が、か……。
返信ボタンを押そうとしたけど直前で止めた。話したい、声が聴きたい、そう思ってしまったから。今を逃したらぼくはきっと後悔するに違いない。ずっと引きずるに違いない。彼女の事も、汐音の事も、ずっと宙ぶらりんのままに違いない。
「……はー……」
深呼吸をしてもスマホを持つ手が震えている。ディスプレイに触れようとする指も震えている。同じ体勢で眠ったままの汐音を横目で見ながら発信ボタンを押した。
『ちょっとー、勝手に通話切っといて電源まで切るなんてどーゆー事っ? せっかく帰国の報告を……』
繋がるや否や、キンキンと怒鳴る声が耳に響いた。短気でせっかちなとこも誰かさんと一緒だし、一年以上経っても相変わらずなんだな、と苦笑が洩れた。
「ごめんって……。でもぼくは切るぞってちゃんと言ったじゃんか。かけ直したんだからそんなに怒んなよ」
『……相変わらず優しいね、ダーリン。大切な人が待ってたんじゃないの? 元カノに電話するなんてよく許してもらえたね。それとも嘘ついてかけてくれてるの? それとも私とやり直してくれる気になった?』
冒頭からズバッと聞いてくるなぁ……。ここからでも見える汐音の寝顔に胸が痛むじゃんか……。
「どれも違うよ。許してももらってないし嘘もついてない。ぼくの視界の中で何も知らずに寝てる。……それと、最後のも違うからな?」
『ふぅーん。その割りには嬉しそうじゃん? わたしの声聴きたかったからかけ直してくれたんじゃないの? 相変わらず寂しんぼなんだね、ダーリン』
「……まぁ、否定はしないけど……」
ダーリンダーリンって……懐かしい響き。それは昔、二人きりの時しか使っちゃダメだと約束していた呼び名。電話口とはいえ汐音のいる前という罪悪感半分、羞恥心半分……。
ぼくと彼女は中二の時に三ヵ月だけ付き合っていた。呼び名どころか付き合っている事すら誰も知らない。公立の共学で百合ップルだなんて知られたら周囲に白い目で見られると思っていたから。だから誰にも言っていない。
ましてやうちの家族にバレたら何が何でも別れさせられたかもしれない。男の子ごっこしてるぼくを女の子らしくさせようと必死だった家族だから、『彼女が出来た』なんて言ったら、それこそどこかの御曹司との見合い話に漕ぎつけて強引に制約結婚でもさせられていたかもしれない。
「でも元気そうで安心したよ。転入先でかわいい彼女出来たらまた報告待ってるから」
『うわぁ、失礼だなぁ。彼女なんかじゃなくて彼氏なら出来たよ? しかもオーストラリア人の。いつまでもレズちゃんだと思わないでよねー』
「あー……そうなんだ……。それはおめでとう」
『冷たーい。彼氏が出来たのは本当の事だけど、彼女は……生涯あなただけだからね?』
心臓がドクンと跳ねた。付き合い始めた日の事を思い出した。いくら男の子っぽくしてても所詮ぼくは女の子だから、女の子同士で付き合うってのはおかしいよ、と言ったぼくに……。
『女の子だとか関係ないの。獅子倉茉莉花だから好きだったんだよ』
「……あの日もそう言ってくれたんだったな。嬉しかったからあの時はオーケーしちゃったけどさ、今は後悔しかないよ。女の子と付き合ってただなんて人生の汚点つけさせちゃったな、ってね」
『あははっ。付き合うって言っても公園の隅っこでこっそり手ぇ繋いだだけじゃん。中学生の恋愛なんてそんなもんじゃない? わたしのファーストキスももらってくれなかったしさ。他の女の子には公然でチュッチュしてたくせに、私には一回もしてくれなかったよね。あんなの付き合ったうちに入るのかって疑問に思うくらいだよ?』
「……まぁ、そうだね……」
彼女がそう軽く思ってくれてるならいいんだ。その方がぼくも罪悪感に押し潰されなくて済むから。付き合うだの恋人だの彼女だのと縛ってしまって、あとに待っていたのは『別れ』しかなかったのだから……。
ぼくはそれが寂しかった。告白されたあの日から、彼女はずっと側にいてくれると思ってたから。だけど実際は公に出来ないゆえにろくに学校ですら話せなかったし、下校途中の公園の隅っこで待ち合わせしてちょっとだけ話して帰るだけだった。ちっとも側にいられない、話も出来ない、ぼくはずっともやもやしたジレンマにかられていた。
心で繋がってるから大丈夫、そう彼女は笑っていた。『恋人』という肩書があるから寂しくない、とも言っていた。
ぼくにはそれが理解出来なかった。ただでさえ一緒に過ごす時間が少ないぼくらなのに、なぜ離れている事が平気なんだろうと不思議だった。
留学に行くんだと切り出したのは、彼女が旅立つ二週間前だった。ぼくは信じられなかった。旅立つ事実よりも、彼女の言動が信じられなかった。
だから、なぜ留学が決まっていた事を隠して告白なんかしてきたんだと責めた。離れてしまう事を知っていながら、なぜぼくを振り向かせようとしたんだと責めた。なぜ隠してまで側にいようと思ったんだと責めた。ここまで好きにさせといて、なぜぼくを寂しくさせるような事をしてくれたんだ、と……。
『だけどね、ダーリンに怒鳴られて別れようって切り出された時も言ったけど、私はたった三ヵ月でもダーリンと恋人でいられた事がすごく嬉しかったんだよ? 留学を隠してた事はものすごい後ろめたかったけど、一年間会えない上に帰ってきても高校が離れちゃうって思ってたから最後のいい思い出になってよかったなぁって。淡い初恋のいい思い出。優しかったダーリンとのいい思い出……』
「……」
『……ダーリン、もしかして泣いてる?』
泣いてなんかない。苦しくて言葉が出ないだけだよ。あの頃のぼくは彼女の言葉を一つも理解出来ずにずっと恨み続けていたから……。
でも、そんなぼくは小さい人間だったんだって分かった。君が教えてくれた事、ぼくに植え付けたこの呪縛。今だから言えるよ。苦しんで身悶えた数か月を乗り越えて少し大人になった今だから言える……。
「ぼくは、もう恋人は作らない」
いずれ来る『別れ』、もう二度とあんな苦しみを味わわなくて済むように……。
『でも、いるんでしょ? 大切な人が、そこに』
ベッドの上の汐音は顔の半分を枕に埋めて眠っている。ぼくの気持ちも知らずに。幸せそうに眠っている。まるで首を絞められてるかのように苦しい。ぼくの大切なかわいい汐音の幸せそうな寝顔を見ているのが辛くて苦しい……。
「いるよ。でも、もういいんだ。思い出したんだよ、人を好きになると離れるのが怖いって。だから……」
だから、ぼくはもう誰も好きにならない。汐音の事も、もうこれ以上好きになるのが怖いから。汐音がいなくなってしまったら、ぼくはどうなってしまうか分からないから。
恋人になる前にぼくから離れる。離れていってしまう前にぼくから離れる。
汐音、君が悪いんだよ? もっと早く『好き』って言ってくれてたら、あるいは何か変わっていたかもしれなかったのに。一度も言ってくれなかった君が悪いんだからね……。
『やっぱり泣いてる?』
「……眠いだけじゃないかな。そろそろ寝るから切るよ。彼氏さんとお幸せにね」
『ふふっ、茉莉花もね。……じゃ、おやすみ』
茉莉花もね、か……。
いらないよ、幸せなんて。坂道を上ってしまったら、いつか下ってしまうもんなんだから。
それならぼくは特別は作らない。チャラいと言われてもいい。軽いと言われてもいい。
苦しいよりましだ……。
「汐音……?」
隣に腰掛けて赤毛を梳くと、指の隙間からさらさらと落ちていった。初めはちょっと触っただけでも引っ叩いてきたくせに、今じゃ「撫で撫でして」とおねだりしてくる赤毛猫……。
「ごめんね、汐音……」
汐音の布団をかけ直して立ち上がる。隣のベッドに寝転がりながら考えた、ぼくは明日から汐音にどう接するべきなんだろうか、と。優しくするのも罪。冷たくするのも罪。ならばお互いが嫌いになるにはどうするのが最善なんだろうか。
この規則正しい寝息を立てられるのはぼくの隣だけじゃないはず。別にぼくである必要はない。誰かが隣にいてあげればいい事なんだから、ぼくじゃなくても……。
「おやすみ、汐音」
そうだよ、ぼくである必要はないんだ。




