21☆深紅の嘘 前編
「……ん、んー……」
目が覚めたのは九時五十分。カーテンからこぼれる陽が眩しい。なのに灯は点けっぱなしだった。
久しぶりにたっぷり寝たからだろうか、頭がとてもすっきりしている。平日ならば一時限目が終わっているところを心置きなくベッドで過ごせたので気持ちもとても軽い。
ただ、一つすっきりしなかった事と言えば……。
「……バッキャロめ……」
もぞりと寝返りを打って隣のベッドを確認する。茉莉花は掛け布団の上で倒れ込むようにうつ伏せで眠っていた。裸で布団に包まってるあたしが言えた事じゃないけど、無造作に横たわっている姿を見て「風邪ひいても知らないわよ」と心の中で呟いた。
『裸で添い寝してくれたら』、あの条件を出してからあたしはポイポイとパジャマを脱ぎ、本来の茉莉花のベッドで布団をかけて横たわっていた。初めは赤面して項垂れている姿を見て楽しんでいたけど、たまにふと「何やってんだ、あたしは……」という自己嫌悪が訪れた。
それでも頑固なあたしは引き返す事が出来ず、ごろごろと寝返りを打っては睡魔がやってくるまで茉莉花の様子に耳を傾けていた。
約束通り小さく口ずさんだり、ペラペラとファッション雑誌を捲ったり、時にはカチャカチャとパソコンをいじったり、とにかく気配を消さぬようわざと物音を出してくれていた。
あたしが最後に時計を見たのは午前二時。茉莉花が気を使ってくれたとはいえ、夕方に三時間も昼寝をしてしまっていたのでなかなか寝付けなかった。だけど目を開ければそこに茉莉花がいて、視線に気付いてこちらを見る度に、にっと笑ってみせてくれた。
ぼくちゃんと約束守ってるでしょ? そう言って褒めてもらうのを待つ仔犬みたいに……。
だけど、茉莉花は結局あたしとは寝なかった。そう仕向けたのはあたしだけど、まさかほんとに来てくれないとは思わなかった。矛盾しているようだけど、心のどこかではやっぱり止めて欲しかったのかもしれない。
それもこれも、自分の優柔不断を茉莉花に選択させる事で逃げた結果なんだけど……。
ベッドの下には、昨夜勢いで脱ぎ捨てたあたしのパジャマと下着が散乱している。さすがのあたしでも全裸でいれば身体も冷えるので布団はかけていたものの、ただのデコルテでさえ「見えそうだからやめれー」と言われて首まですっぽり覆っていたのに……。布団の下を想像しただけで興奮してしまったのだろう。
散らかったそれらに手を通しながら思う。こいつは本物の、純粋なおバカなのだと。
まあ、そんなおバカを弄んで楽しんでるあたしが一番バカなんだよね……。
さすがに寝起きに全裸を目の当たりにするのはかわいそうなので、一通りパジャマを着直して二一八号室を後にする。自室に戻って私服を選んでいると手汗をかいている事に気付いた。これからしようとしている事に緊張しているのだろうか。
お姉ちゃんのお下がりの深紅のワンピース……赤毛のあたしには暖色が似合うよと言って、この学園に来る前日にくれたワンピース……。こんな日に初めて袖を通すなんて罪悪感しか生まれないけど、ほんとの罪悪感はこれから大いに味わうんだ……。
ごめん、お姉ちゃん。あたしこんな事をする為にここに来たんじゃないのにね……。
オフホワイトのカーディガンを羽織って鏡を覗き込む。昨夜茉莉花が褒めてくれた髪、今日はポニーテールやめて下ろして行こうか悩む。クローゼットからブラシを取り出していつもより丁寧に梳かしてみた。
「あれ……スマホ……」
お出掛け用のショルダーバッグを手にして思い出した。昨日茉莉花に渡したままだった、と。さっきはすっかり忘れていたのでどこにあったか覚えてもいない。
「……寝てる、よね……?」
出掛ける支度を終えて二一八号室に戻ると、茉莉花はさっきと同じ体勢でスースーと寝息を立てていた。寝顔もかわいい……ううん、寝顔だけならかわいい。黙ってればちゃんと女の子に見えるのに、みんなついハスキーがかった声や男の子っぽい口調に騙されてしまう。
もうちょっとだけおとなしく寝ててね、そう心の中で囁きながら二つ並んでいるデスクへ手を伸ばす。
まずはルームメイトのデスク。名前も聞いていなかったけど、教科書やノートには記名してるはず。物音を立てないようにそっと引き出しを開けた。
……あった。生徒手帳。これなら緊急連絡先に自宅の住所と連絡先が載ってる。最後の方をペラペラと捲って記されてるのを確認してから拝借した。
ごめんなさい、でもあなたの為でもあるから……『千歳』さん……。
もし手がかりがなかったら茉莉花のデスクもあさるはめになっていたので少しホッとする。いや、すでにコソ泥みたいな事してるんだから罪人には変わりないか……。幻滅されちゃうけど、今あたしに出来る最善の方法はこれしかないの……。
その茉莉花のデスクに見慣れたスマホがあった。スクリーンロックを解除すると充電まで満タンにしてくれていたのが分かった。どこまでも懇切丁寧なのね、と感謝の気持ちより罪悪感の方が膨らんでいく。
ふと電話のアイコンを開くと、発信した覚えのない履歴に『獅子倉茉莉花』の表示。しかも夜中の三時。……勝手に登録しないでよね、と苦笑が洩れた。
茉莉花への罪悪感と自分への嫌悪感で張り裂けそうな胸を押さえ、眠ったままの髪を梳いて「行ってきます」と小さく呟いて部屋を後にした。
電車に乗るのは数週間ぶりだった。学園内の寮に住んでいるあたしは登校手段が徒歩だし、週末にどこか行くお小遣いもないのでずっと引きこもっていたから。券売機でICカードの残高と小銭を数え、まぁなんとかなるか……と改札を潜った。
車内は週末の賑わいで、家族連れやカップルもたくさん目に入った。あたしは一人扉の隅にもたれかかってショルダーバッグから例の物を出した。
住所は高級住宅地の、芸能人なんかも住んでいると聞く町名だった。ボロアパート育ちのあたしなんかが一生足を踏み入れない町だと思っていた。貧乏人に見えないかな……と窓に映るへの字眉毛の自分を覗き込みながら毛先を整える。
最寄駅の改札を出たところで異様な空気を感じた。いや、この町に『異様』なのはあたしの方かもしれないけど。駅前のカフェはウッドデッキのテラス付き、服屋のショーウィンドーには眩しいくらいおしゃれなブランド服を着たマネキン。お馴染みのスーパーはあたしの知ってる看板とは違う色。すでにクラクラしてきた頭をぶんぶん振ってスマホを取り出した。
さて、機械音痴のあたしが地図アプリだけで彼女の家までたどり着けるだろうか……。
早くも不安が過ぎる。でもここまで来て消極的になってはいけない。立ち上がったんだから前に進むしかないんだ。開いた事もない地図アプリに彼女の住所を入力して睨めっこを始めたその時……。
「あ、あれって……」
オシャレなカフェのテラスに見えたおかっぱ黒髪人形。あの後ろ姿は鈴芽ちゃんに間違いない……っ!
で、でもどうしてここに……? あ、いや、考えてみたら鈴芽ちゃんだってかなりのお嬢様らしいし、そう思えばこの町に住んでいてもおかしくはないけど……。
それにしても、やっぱり噂はほんとなんだろうか。鈴芽ちゃんの向かいで笑っているスーツの男性……あの人も援助交際の相手なんだろうか。見たところ二十代半ばの爽やか好青年って雰囲気だし、あの整った顔立ちならモテそうだけど、それでも女子高生という宝石を金で買いたかった愚かな男なんだろうか……。
分かんない。男なんてキモい生き物の考えてる事なんて、あたしには分かるはずがない。
とにかく彼女の家を捜すのは後回しにして、この際だから鈴芽ちゃんの実体を突き止めよう。完全に疑ってる訳じゃないし、あたしだってこの目で見ないと否定も肯定も出来ないのだから。
次のお小遣い日まではあと一週間、お財布の中には七百円とちょっと。お高そうなカフェのコーヒーは六百八十円……。今週はもうジンジャーエールも買えなくなってしまうけど、ここで引き下がる訳にもいかず店内の席から見守る事にした。
初めて入るカフェ、初めて飲むアイスコーヒーは、ガムシロップ一つ入れても全然甘く感じない。じっと観察するのも周りの視線が気になるので目のやり場に困る。上流階級の中に紛れ込んだ赤毛猫のあたしは、奥歯でストローの先端をかじりながら鈴芽ちゃんの後ろ姿を眺めていた。
三十分程経っただろうか、アイスコーヒーの氷もほとんど溶けている。無意識にストローでかき混ぜていると、急に鈴芽ちゃんが携帯片手に席を立った。慌てて顔を叛けるも入口側とは逆の席にいたあたしには気付かず店を出ていった。
そしてそのすぐ後、連れの男性も鈴芽ちゃんのトートバッグを片手に席を立って入口へ向かった。お会計だった。年上だからごちそうしてもらっても不思議ではないし、これだけでは援交とは言えない。なんの手がかりもないままあたしもわたわたとお会計を済ませ、窮屈だったカフェを後にした。
店頭の前で電話していたらしき鈴芽ちゃんは、男性の姿が見えて慌てて通話を切ったようだった。いつものようによそよそしく頭を下げているけど、それもいつもの鈴芽ちゃんなので親しいのか畏まっているのか判別はつかない。「じゃあ、行こうか」、そう言った男性の声が聞こえた。持っていたトートバッグを鈴芽ちゃんに渡し、そのまま二人は手を繋いで歩き出した。
やっぱり……そうなの? 鈴芽ちゃん……。
知りたい、だけど知りたくない。でも知らなきゃいけない、信じなきゃいけない。あたしの中では葛藤が続いていた。商店街を抜けて住宅地へと消えていってしまう二人の後ろ姿を追いながら、今にも止めてしまいそうな足を一歩一歩進めていく……。
閑静な住宅街は、あたしを絵本の中にでも紛れ込んだような気分にさせる。真っ白な外観、ステンドグラスで彩られた窓、この塀の向こうには青々としたお庭が広がっているんだろう。その間を歩き慣れた足取りで手を繋ぎ続けている二人。こんな情景に不釣り合いなあたしはただ、いけないものは何も見ませんように、と念じながら手汗を握りしめて静かに後を追った。
どのくらい歩いただろうか。あたしは帰り道の事など考えもせずに、ひたすら息を殺して尾行していた。生徒手帳といい尾行といい、今日はつくづく罪ばかり犯している。ただこれからの事だけを考えての善意だ、そう言い聞かせなきゃ前に進めなかった。決してあたしのエゴじゃない、そう言い聞かせなきゃ足を止めてしまいそうだった。
ふとあちらが立ち止まったのであたしも慌てて立ち止まる。二人は三階建ての古い屋敷の前。あれが男性の自宅なんだろうか、さすが女子高生を買えるだけあって金持ち感溢れる家だった。
家の前では鈴芽ちゃんがしぶっているように見える。あたしはそれを人様のお宅の豪勢な門に隠れてじっと観察していた。いつもにこにこ笑顔の絶えない鈴芽ちゃんが首をいやいや横に振っている。あたしは息を飲んで時を待った。
嫌がる鈴芽ちゃんを無理矢理連れ込んだら、あたしが蹴り飛ばしてやるっ!
「ダメですよ。やはりこういう事は……」
「いいじゃないか。これも仕事と思えば、ね?」
「いえ、ですが……」
困っている鈴芽ちゃんの声が耳に届く。だけど、だけどこれじゃあ、これだけじゃ確信とは言えない……。でも、明らかに嫌がっている鈴芽ちゃんの手を引いて連れ込もうとしているし、今助けなければ取り返しのつかない事に……。
でも……。
その時、葛藤を繰り返すあたしの携帯がジリリリンと鳴り出した。ハッと急いでバッグをあさるもすぐには手に出来ず、着信音が静かな住宅地に鳴り響いた。
やっとの思いで取り出したその画面には『獅子倉茉莉花』の表示。最悪なタイミングで鳴った着信音に気付いた二人の視線を感じた。
そして振り返った鈴芽ちゃんが言った。
「観られちゃいましたね」




