19☆きなり色は禁断のベール?
茉莉花は少し躊躇っていた。どんな風に切り出したらいいのかと。あるいは言葉を選んでいるのかもしれない。
しばらく立ったまま見つめ合っていたけど、あたしの視線に耐えられなくなったとでも言うかのように茉莉花は目を泳がせている。大げさな深呼吸をして、くるっと背中を向けてあたしのデスクチェアーに腰掛けた。そしてあの日に壊してしまった目覚まし時計を手にして口を開いた。
「汐音はさ、ぼくが男の子みたいだしチャラいから嫌いだって言ってたよね。これを投げつけられた時も、布団に入り込んだのが女の子だと分かっていたら、ぼくはあそこまでぼこぼこにされなかったかもしれないの?」
「当然じゃない。誰も部屋を間違えて入ってくるなんて想定もしてなかったし、てっきり鈴芽ちゃんが帰ってきたんだと思ってたんだもん。とにかく、女の子だと分かってたら投げつけたりはしなかったと思う」
「うん。まあ普通はびっくりするし、ベッドなんて無防備なところに入って来られたらパニックになるよね。誰だかも知らないんだもんな。じゃあさ、鈴芽ちゃんだったらどんな反応してたと思う?」
鈴芽ちゃんがあたしの立場だったら? あの黒髪おかっぱ人形なら、きっと落ち着いて「ここは私のお布団です。お間違えでは?」とかなんとか言うか、もしくはもっとやんわりと丁寧に対応しているはず。とにかく取り乱したり怒ったりせず、落ち着いて説明すると思うけど……。
茉莉花はあたしの回答を待っている間、壊れた時計をかちゃかちゃといじっていた。出会ったあの時から止まった針。出来るなら巻き戻してやり直したい。単なるチャラ娘だと誤解していた日々を取り戻したい……。
「びっくりはするだろうけど、冷静に対処するんじゃない? いつもにこにこしてるし、怒ったり責めたりはしないと思う」
「ぼくもそう思うよ。もっとも、ぼくは汐音みたいにじっくり話した事がないから憶測でしかないけど。でも、噂を聞いたらその憶測は出来なくなった」
「……もったいぶらないでよ」
「……分かった」
茉莉花はいじっていた時計をデスクに置き、頂点のボタンをぽんっと押した。「午後二十二時十四分です」、壊れてからうんともすんとも言わなかった時計が時刻を読み上げた。
壊れた物は、もう二度と戻らないと思っていた……。
「もう投げちゃダメだぞ。機械はデリケートなんだから」
「うん……。ありがと……」
「まっ、壊したらまたぼくが直してあげるから、いつでも持っておいで」
ギィッと椅子をきしませながら茉莉花は立ち上がった。見つめる先にはカーテンの閉まった窓。雨音を聴いているのだろうか、それとも何かの気配を感じているのだろうか。
あたしもそちらを見やる。何もない。ただのきなり色の遮光カーテンだけが目に映っている。茉莉花には何が見えるのだろうか……。
「鈴芽ちゃんは……援交してる……らしい。援助交際ってやつ」
何を言ってるのかと思った。聞き間違えかと思った。
ううん、聞き間違えであって欲しかった。
「う、嘘っ、何言ってんの? だって、制服着てても小学生に間違えられたりしてるんだよ? 鈴芽ちゃんに限って……」
「ぼくもそう思うよ、耳を疑った。最初に聞いたのはぼくのファンの子に忠告された時。『藍原鈴芽にはちょっかい出しちゃダメだよ』って言われたんだ。もちろん、初めは冗談かヤキモチかなんかだと思って気にしてなかったよ。でもね……」
食堂での玲ちゃんの姿が脳裏をよぎる。あの慌てよう、周囲をとても警戒していた。
「それって……忠告してきたのって、内部生の子? あたしも同じような事を内部生の子から聞いたの。あの子には関わりたくないって……」
「そうだね、少なくともぼくにそれを忠告してきた子は二人とも中等部から鈴芽ちゃんを知ってる子。でもみんな確証はないんだよ。あくまで噂だって言ってたし。じゃあ、なんでそんな噂が出回ってると思う?」
「それは……」
鈴芽ちゃんのいないベッドが物悲しく横たわっている。綺麗に整えられたシーツ、清潔に保たれた枕。
あの子がそんな汚らわしい事するはず……。
「密告だったらしい、ぼくのルームメイト……だった子にね。っていうのも噂だけど」
「だった……って、その子は? 退学したの?」
「いいや。でも、もう復学はしないと思うんだ。彼女は中等部時代の鈴芽ちゃんのルームメイトでね、高等部に上がってからはぼくと同室になったんだ。でも……三日目の夜にはもう寮には戻って来なかった。もちろん学校にも来てない。多分残ってる荷物も取りに来ないよ……。冗談ばっかり言ってケラケラ笑う、明るくて思いやりのある子だったんだけどね……」
唇を噛みしめる茉莉花の横顔が胸を締め付ける。
「もしも、もしもほんとに鈴芽ちゃんが援交してたなら、その子が辞める事ないじゃない。むしろバレて退学になるのは援交した本人じゃない。退学になってないんだから、鈴芽ちゃんはそんな事してないんじゃ……」
「分かんないよ、ほんとの事は誰も知らないんだ。言っただろ、あくまで噂だってさ。……ただ、彼女がいなくなる前日、鈴芽ちゃんがぼくらの部屋に来てた。帰ってきたぼくにはいつもの笑顔で挨拶して出ていったけど……彼女は扉が閉まったと同時に『もう限界だ』って泣き崩れたんだ。……新しい下着を数枚握りしめたままね……」
「あんたは、茉莉花は何も聞かなかったの? 泣いてたその子を放っておいたの?」
「そんな訳ないだろ、もちろん聞こうとしたさ。でも彼女が過呼吸起こしちゃって、落ち着いたら聞こうと思ってたんだけど……泣き止んだらいつもの彼女に戻ってたから……。ぼくの事を褒めたりからかったり、冗談言っては一人で笑う彼女にね。だから、蒸し返さない方がいいんだろうと勝手に思ってた。もしこの噂が全部ほんとの事なら、あの時ぼくが聞き出していたら何か変わったかもしれないと思うと……後悔してるよ……」
カーテンに隔たれた窓。きっとこのカーテンが開いていたら憐れな顔が映し出されただろう。
何も知らなかったあたしと、何も出来なかった茉莉花の情けない顔が。
「ほんとに、ほんとにほんとにそれがほんとなら、ちゃんとその子に話を聞きにいきたい。鈴芽ちゃんと何があったのか、何を知ってるのか、あたしたちに出来る事があれば根も葉もない噂を挽回出来るかもしれないし、鈴芽ちゃんを止められるかもしれない。もし鈴芽ちゃんが原因で戻って来れなかったのだとしたら、その子も戻って来れるきっかけになるかもしれないじゃない」
「汐音は優しいんだな……」
茉莉花はゆっくりと振り返った。口元は笑って見せているくせに、とても寂しそうな目をしている。居たたまれなくて胸がぎゅっと締め付けられる。
優しいのはあんたの方じゃない。罪悪感を抱えたまま噂を聞かなかったふりして、確信がないからと口にもせず、何も知らないふりして鈴芽ちゃんと接していた茉莉花の方じゃない。
壊れた物は戻らない、そう思っていたけど、直せるものもある、そう教えてくれたのは茉莉花じゃない。
「内部生だった子か先生に聞けばその子の連絡先分かるでしょ? 鈴芽ちゃんは明後日まで帰ってこないから、明日にでもその子に連絡取って話を聞きに行くわ。まだ退学してないんなら戻ってこれ……」
「いいや、ぼくだって何回も携帯にかけたけど一度も出た事はないんだから話を聞くなんて無理だよ。ほんとに解決出来る問題なら手を貸したいのは山々だけど、下手に首を突っ込んで取り返しのつかない事になったらそれこそ誰かが退学になる。……悔しいけどぼくらに出来る事は何もないんだよ。それに……」
頼りない腕が背中に回される。優しく抱きしめられた胸の中で茉莉花が微かに震えているのが伝わってきた。カラオケボックスのタバコ臭さと柔軟剤の甘ったるい香りのする茉莉花のパーカー。柔らかい生地の奥に感じる柔らかい胸の感触。更にその奥で鼓動が叫んでいるように聞こえる……。
つらい、と……。
「茉莉花……」
「次にいなくなるのは汐音かもしれない。そんなの、絶対に嫌だから……。もう誰もいなくなって欲しくない」
「あたしはいなくなったりしない。あたしは強いんだから。だってあたしは……他に行くところがないんだもん。ここにしかいられないんだもん。だからこそ、鈴芽ちゃんの潔白を証明したい。真実なら辞めさせたい。大事なルームメイトだもん。もちろんあんたのルームメイトも連れ戻してみせる。もうあんたのそんな顔見たくないもん」
そっと首元に腕を絡ませて茉莉花の髪に触れる。女の子たちをはべらかせて「仔猫ちゃん」なんて言ってるくせに、自分こそふわふわの猫っ毛じゃない。
かわいい。女の子って全て柔らかい物で出来てるんだ……。
愛おしくてくすぐったくて、女の子っていいなって思った……。
「嬉しい事言ってくれてんのにあんたって言うなよな……」
「……ごめん」
「まぁいいけどさ。その方が汐音らしいしな。あ、でもしおらしい汐音の顔はあんま見たくないけど、それってもしかして貴重だったりする? ぼくだけの特権だったりする?」
「……は? 調子に乗んなっつーの。ぶっ飛ばすわよ」
「怖っ、冗談だってば。やっぱそうこなくっちゃね」
どんな暴言を吐いても、この胸に埋もれている以上は迫力もへったくれもないって思ってるくせに。怖いなんて言っておきながらさっきまでの震えは止まってるくせに。
しょうがないから、もうちょっと抱かせてあげるけどね……。