14☆置き土産はモスグリーンの色?
「相葉さん、相葉汐音さん?」
「……へ?」
「次の文を和訳してください」
ハッと我に返ると、英語の先生がメガネをキラリと光らせていた。まずい、眠気のあまり何も聞いてなかった。先生どころかクラスのみんなからも注目されている。
あたしは急いで教科書を手に取るも、『次』がどこなのかすら分からず慌てふためく。前の席から「五ページの三行目です」と囁いてくれた鈴芽ちゃんの背中に天使の羽根が見えた。
「よろしい、座っていいですよ。では次の文を……ミス・シェリー、訳してください」
鈴芽ちゃんに教えてもらった通りの英文はなんとか訳せたものの、ボーッとしていた事をみんなに見られて赤面してしまった。ガタンと席に座って「ありがとね」と鈴芽ちゃんの背中に囁きかける。それに鈴芽ちゃんは少し横を向いて「いいえ」と微笑んだ。
あたしの席の斜め後ろから、金髪美少女の華麗な発音が聴こえる。こんな時外国人さんはいいなぁと思ってしまう。英語の授業はもちろん、金髪だろうが誰も不自然に思わないんだから。
神様は不公平だ。
「ふぁーぁ……」
噛み殺せなかったあくびをしながら窓の外に視線を移す。その先には入学式の日と同じ、春の青空が広がっていた。あの日からもうすぐ二週間経つけど、あたしの睡眠不足は一向に解消されないまま。
「では、今日はここまでにします。宿題は月曜日に回収しますので忘れないよう」
先生の声と共に終業の鐘が鳴る。ガタガタと音を立てて「きりーつ」という日直のお掛け声が響いた。あたしものろのろと立ち上がる。が、ぺこりと頭を下げると同時に椅子に吸い寄せられるように座り込んだ。
「汐音? 寝不足なんですの?」
覗き込んできたのは青い目をした金髪美少女こと、シェリー。本人いわく『えりと呼んでくださいな』らしいので、金髪碧眼に似合わずみんなは『えり』と呼んでいる。
流暢な英語にも負けない流暢な日本語。神様はほんとに不公平だ、と寝不足で不機嫌なあたしの僻みが増していく。
「あー、えりちゃん。ずっと寝不足でさ……。えりちゃんはいいよねぇ、授業なんて聴いてなくても英語ペラペラだし」
「そんな事ないわ。英語が話せてもテストでいい点を取る事はまた別ですもの。でも汐音だってとても綺麗な発音よ?」
「そう? 言われた事ないよ。教えて欲しいくらい」
「本当? ではこれを貸してあげますわ。先日買ったんですの。よかったら汐音も聴いてみてくださいな。少しお勉強になるかもしれないし」
えりちゃんが差し出してきたのは洋楽のCDだった。英語以外も成績優秀なえりちゃんには容易い事なのだろうけど、全ての教科に対して平均以下なあたしが見ても、このジャケットに書かれている収録曲リストが規則正しい模様にしか見えない。
にこにこと差し出されたそれを「ありがと」と言って受け取り、あたしも笑顔を返す。「それでは」とご機嫌な様子で教室を出て行くえりちゃんにひらひらと手を振って、一度伸びをしてからあたしも立ち上がった。
「汐音さん」
帰り支度をしようとバッグを手にしたところで、またもやあたしを呼ぶ声。顔を上げると見慣れた黒髪おかっぱ人形があたしを覗き込んでいた。
「どした? 鈴芽ちゃんも帰るとこ?」
「ええ、帰るは帰るなのですけど、今日は金曜日ですから実家に。先週末はほとんど眠れなかったとの事でしたので、これをお渡ししてからと思いまして」
「あたしに? なになに?」
小さな鈴芽ちゃんの小さな手に乗っていたのは五センチ四方くらいの、皮製品のようなモスグリーンのケースだった。ずいぶんと小さいそのケースには何を入れる物なのかとまじまじ見ていると、「これはですね……」とちょんちょんしながら説明を始めた。
「御下がりのようで申し訳ないのですけど、もう不要になったケースに、アロマオイルを沁み込ませた綿を入れておきました。元々は別の用途で使用するケースを加工した物なので、ちょっと不格好になってしまいましたが。枕元に置いていただければ入眠の助けになるかと思いまして作ってみたんです」
「嘘っ、鈴芽ちゃんすごい! しかもあたしの為に……嬉しい、鈴芽ちゃん大好きー!」
受け取って感激しているあたしを見て、鈴芽ちゃんも嬉しそうに笑っていた。その姿がかわいくて愛おしくて、思わず「むぎゅー」と言いながら抱きしめた。
「喜んでいただけてよかったです。これで快眠になるとよいのですが。では、また週明けに」
「うん、ありがと! 気をつけてねー」
ぺこりとよそよそしいお辞儀をして教室を出ていく鈴芽ちゃん。ほんとにいい子がルームメイトで幸せ者だなぁと噛みしめつつ、今度こそ教室を出た。
放課後の廊下は昼休みよりも賑わっていた。一日の解放感やら部活の話題やらで、いつもより声のトーンも高いようにすら聴こえる。
部活、あんま気乗りしないなぁ……。そんな悩めるあたしの耳に飛び込んできたのは……。
「マリッカぁ、今日は私とカラオケ行ってくれるんじゃなかったのぉ? マリッカから誘ってくれたのにぃ」
「あれ、そうだっけ? ごめんごめん、じゃあみんなで行こうよ。仔猫ちゃんたち」
「キャー! やったぁ」
取り巻き娘たちの黄色い声と、甘ったるい口調の、獅子倉茉莉花の低い声。
あたしの前ではあんなにヘタレだったくせに、怯えるチワワみたいな顔してたくせに、ほんとはあたしなんかよりもずっと女の子らしい身体つきなくせに、かわいい女の子たちに囲まれてかっこつけちゃっていちゃいちゃデレデレべたべた……。なにそのご満悦そうなさわやかスマイル……。
おもしろくない……。
……仕方ない、取り引きは成立したんだもの。奴の、獅子倉茉莉花のイメージと尊厳を守ると約束したんだもの。代わりに今夜から毎週末泊まりに来てもらうんだもの。
気に食わないけど、ガマンガマン……。
「あ、汐音じゃーん。ねぇ、汐音も一緒にカラオケ行こうよ。今日は部活ないんだってさ」
ちっ、見て見ぬふりしてあげてるのに鈍感な奴ね。取り巻きの前だしかっこ悪いとこ見せたくないだろうからしょうがない、全力で作り笑顔してあげるけど。
「あーら、獅子倉さーん。今日は部活ないの? 残念ね。でも悪いけどあたし貧民中なの。だから遠慮するわ。どうぞどうぞファンの子方と行ってらして?」
「えー、そうなの? 残念だな。ぼくの歌、聴いて欲しかったんだけどな」
「結構よ、部活で充分聴かせていただいてるから。ではごきげんよー」
「そうじゃなくってさ、ぼくは……」
廊下に響く生徒たちの声に紛れて、微かに聴こえた「汐音の歌、好きだから聴きたかったんだよ」という幻聴。……我ながら都合のいい耳だ、黒宮部長に褒められて嬉しかったからって調子に乗ったのか、幻聴が聴こえるなんて……。
ただでさえ憂鬱な週末だっつーのに、帰りにもやもやを植え付けられて吐きそう。部屋に戻る途中でジンジャーエール買ってすっきりしたい。いっそ部活があったら先輩たちに癒されたかもしれないのに……今日に限って……。
「あー、眠……」
ジンジャーエール買って、部屋に帰ったら着替えてすぐ横になろう。眠れはしないと思うけど、えりちゃんに借りたCDを聴くか宿題するかくらいしかやる事ないし……。
とぼとぼと寮のエントランスに入ると、やはり週末だからだろうか、いつもより人気が少ないように感じた。まるで独りぼっちを突きつけられてる気分……。
「ふぁーぁ……」
誰もいない階段を大あくびしながら昇っていく。どうせ誰も見てやしない、そう思って踊り場に差し掛かった時……。
「うわっ」
「きゃっ」
ボーっとしていて上から降りてくる人影に気付けず、ぶつかりはしなかったもののお互いに目をひん剥いた。驚きで一気に目が覚めた。それはぶつかりそうになった驚きだけではなく、あたしよりも二十センチは高いであろうその人の胸には紫色の刺繍、つまり二年生の証があったからだ。
先輩に怒られる……! そう構えておずおずと見上げれば、目の前のその人もまた申し訳なさそうな顔でこちらを見下ろしていた。
先輩は「ごめんね、大丈夫?」と両手をぱたぱたさせている。見るとその手にはフレームの緩みかかったアンダーリムのメガネ。もしかしてあたしのせいで……焦ったあたしは慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! あの、今の衝撃で……」
「あぁ、大丈夫だから気にしないで? 衝撃って言ってもぶつかった訳じゃないんだから落ち着きなよ。メガネはこれから直しに行こうと思って外してたから見えにくくてさ。だからボクこそ謝らなきゃね」
「……ボク?」
「えっ、あっ、いや、私わたし。いやぁ、びっくりしちゃってつい……。じゃ、じゃあ急ぐから」
「あ、はい。失礼します……」
あたしがぺこっと頭を下げると先輩は「びっくりしたぁ」と呟きながらすれ違っていった。メガネ外して怖かったんだろうか、踊り場からゆっくりと手すりに捕まりながら降りていく。
それにしても、あの先輩「ボク」って言ってたっけ……。慌てて訂正してたけど、確かにあたしにはそう聞こえた。気に食わない奴の顔を思い出してしまう。さっき廊下で会った時の満足げな笑顔。女の子たちに囲まれて、きゃっきゃ言われてご満悦なあの屈託のない笑顔が、あたしの脳裏に蘇ってくる。
違う、いるいる、たまにいるじゃない、自分の事「ぼく」なんて言う人。そうよ、あいつだけじゃないんだから。
メガネをかけていないからか危なっかしげに階段を降りて行くその人をそっと見送り、あたしはまた上へと足を進める。
だけどさっきとは少し違って、あのゆがみ掛かったメガネを思い出すとちょっとだけ心の霧が晴れていく気がした。
自分だけツイてないと思っていたけど、そりゃまぁ人それぞれ何かしらあるよね……と。
少し軽くなった足取りで自動販売機の前まで来ると、しんとした廊下にブィーンという機械音だけが響いていた。サンプルパネルも気持ち眩しく感じる。バッグの中をごそごそとあさって愛用の財布から小銭を取り出した。
「あれ?」
おかしい。いつも通り小銭を入れてボタンを押したのに出てこない。押しが足りなかったのかともう一度押しても出てこず、仕方なく返却レバーを下げる。
が、うんともすんとも言わない。
「何よ、あたしにジンジャーよこさない気?」
何度もボタンを押した。何度もレバーを下げた。だけどジンジャーエールはおろか小銭すら出てこない。
はっきり言ってあたしは機械との相性が悪い。だからイラつく。どいつもこいつも言う事をきいてくれやしない、バカにしやがって、と。
だからあたしはこういう時にやってしまう事がある。
「こんのっ……」
思いっ切り蹴っ飛ばした自販機はドンッという鈍い金属音を立てた。そしてガラゴロという音と共にジンジャーエールが……。
「か、カフェオレじゃんか……」
出てこなかった。
やっぱり一発蹴りを食らわしただけじゃ直らないようね、と拳を構えたその時……。
「お嬢さん、レディにげんこつは似合いませんよ。そのカフェオレは私がいただきましょう」
「は?」
黒いタキシードに赤い蝶ネクタイ。黒いシルクハットに……白い仮面の貴公子が……赤い薔薇を一輪片手に立っていた……。
なにこの幻覚、なにこの幻聴。よりにもよって男の幻覚を見るだなんて、あたしやばいくらいどうにかしてる?
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