老害論破
テレビを眺めていた私が、ふと、
「最近の若者はダメだ。あれもこれも昔のほうが良かったよ」
と言うと、同席していた友人が、
「そう思うってことは、自分が歳をとった、ってことだぜ」
と言ったので、イラッとした私は、ムキになって反論を考えはじめた。
「昔の日本の良い部分が、どんどん失われていっている」
と私は憂いてみせた。
すると彼は、
「昔のあり方にも、短所はあった。新しいあり方にも、長所はある。時代が常に変化しているということだ。あなたは、新しい時代に柔軟に適応できていないから、そうやって不満を感じるのだ」
と言った。
「正義感や良心が人々から失われた」
と私は言った。
「何が正義であるかが変わったのだ。つまりは価値観が変化したということにすぎない」
と彼は言った。
「もし私なら、こんな時代には生まれたくない。今、生まれる人々は、不幸だ」
と私は言った。
「あなたがもし今、生まれたならば、時代に適応して大いに満足に過ごす。あなたがこの時代に生まれたくないと思うのは、あなたが、あなたが育った時代の価値観に縛られているからだ。若い人のほとんどは、昔に生まれたいとは思っていない」
と彼は言った。
「晩婚化しているようだ。不幸なことだ」
と私は言った。
「相性に関わらず結婚と出産が義務とされていた時代のほうが悪夢だ。人類が、結婚や出産をしないという豊かさをやっと手に入れたのだ」
と彼は言った。
「少子化は問題だ。国力が低下する」
と私は言った。
「少子化は実は全く問題がない。これは、人口を増大し経済を拡大する時代が終わったことを示しているにすぎない。人類社会が持続可能であるためには、人口の増加はむしろ悪行ですらある」
と彼は言った。
「労働力を求めて移民を多く入れることは、日本人の幸福に深刻な損失をもたらす」
と私は言った。
「国や民族という単位で隔てて、人間や思想の流動性を抑制しようとすることは、もはや古い。市場の流通はなるべく自由であるべきであって、経済的に必然的な作用で移民が生じることは、全体の生産的を向上させる好ましいことだ」
と彼は言った。
「日本は、中国や韓国や北朝鮮からの批判に晒されている。これを許容すれば国益が蚕食されるから、許容すべきでない」
と私は言った。
「中国は歴史的に強大な勢力だ。二十世紀が特殊であったにすぎない。米国と中国の覇権の拮抗が、太平洋の西端に維持されることはありえない。よって、米国に近い日本の既存の秩序が、地理的に近い中国側から破壊されていくことは必然である」
と彼は言った。
「SNSでは、専門家によらないいい加減な情報が流通している。それによって、人々の知性は低下している」
と私は言った。
「情報化によって、従来遊んでいた脳機能が相互に並列化されて生産性を生んでいる。権威と統制に基づいた議論は歴史的には価値があったが、今や不要である。全体を合計した思考力は飛躍的に増大している」
と彼は言った。
「SNSでは、愚かな人同士が肯定し合っている。よって、客観的に自分を見ることができなくなっている。誰もが王様気分の、尊大な感覚に陥っていく」
と私は言った。
「従来の民衆は、少数のエリートや芸能人を見上げて暮らす立場に縛られていた。人類の圧倒的な大多数が奴隷気分で暮らしていたのだ。電子的な情報化によって、人々は単なる労働力ではなく、感情を発信する権利を与えられた。一種の王様気分は、自らを肯定して生きられるということであり、本質的に重要な幸福が実現されつつあるということだ」
と彼は言った。
「国政や世界情勢までが、一般の民衆の気分に翻弄されているようで、状況が予測できない。社会が理知的に調整されていない」
と私は言った。
「将来の予測は本質的に不可能だ。情報化によって民衆の知性が活用されていることから議論の過程は複雑になっている。複雑になったことを分かりにくくなったと捉えることもできるが、本質的には良いことだ」
と彼は言った。
「いかなる科学も議論も真面目さを失っている。事実性は軽視されている。人々の平均の知性は低下している」
と私は言った。
「真面目に考えなくてよい、ということが、人類が目指す安寧なのだ」
と彼は言った。
それを聞いて私は、力が抜けたような気がした。
「主観的なエゴイズムで生きている利己的な人間しかいなくなった」
と私は言った。
「社会正義のために生きることは、自分自身にとっては苦しみでしかない。利己的に自由に振る舞ってよい、ということが、生命の目指す幸福なのだ」
と彼は言った。
それを聞いて私は、さらに力が抜けたような気がした。
「自らの幸福をなげうって天下の幸福を真面目に考える老人はもう不要かな?」
と私は皮肉を言った。
「時代に適応できない者から、煩悶によって淘汰されていくのさ」
と彼は言った。
私達は、外に出て町を歩いた。
若者達は、羊のようであった。
彼らと交流してみると、驚くほど礼儀正しく、心優しい人ばかりであった。
十歩も歩けば酔っ払いに絡まれて殴られていた気がする私の若い時代とは、世界が異なっていた。
その後、SNSを始めてみたが、人間関係に気疲れするばかりで楽しめず、やめてしまった。
若い頃に見た古い映画を、何度も繰り返し見るようになった。
私は、
「最近の若者は素晴らしい。しかし何事も、私自身が育った時代のもののほうが親しみやすい」
と、独り言を呟いた。