暮らすということ Ⅱ
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「……あれ? ハクラ、なんですかあれ」
食事を終えて、火の始末をして、再び馬車を走らせてから二時間。
幌から顔を出して前方を見ていたリーンが、不意にそんな事を言った。
「何?」
「ほら、あれ、なんですかね、煙?」
つられて見ると、遠い道の向こう側から砂煙が舞い上がっていた。
冒険者の視力は一般人のそれよりも高くなるので、同じく顔を出して目を細めたクレセンには、まだ何も見えていないのだろう。
「……馬、か? それにしちゃ――あ!」
姿が見えてきた。誰かを乗せた馬が来る。
フード付きのマントをつけているため、外見や性別はよくわからないが……全速力だ、下手するとこっちに突っ込んでくる。
「ニコ! 道の端に行け!」
『きゅぇ~?』
「不満そうな鳴き声をあげてる場合じゃねえんだよ!」
幸い、ニコは素早く馬との直撃コースから外れた。
俺の指示に従ったと言うよりは、単に自分が突っ込まれるのが嫌だったのだろうが。
「ハクラ!」
だが、事態はそれで終わらなかった。向かってくる馬が、突如として転んだ。
騎乗していた人間は当然投げ出され、荷物の入った袋をまき散らかし、何度か地面に打ち据えられて、ちょうど俺達の前まで転がってきた。
「う、うう……」
どうやら命はあるらしい。だが。
「エモノを逃しちゃァ、行けないよねェ」
それを追って、現れたモノが居た。
ヤスリ同士をこすり合わせたような、ザラザラとした不快な響きの声だった。
背が高い。二メートル以上はある。だがそれ以上に持っている武器が長い。全体が一つの金属で拵えられた長槍だ。それを軽々と右手一つで持ち上げている。左手には金属の円盾にクロスボウを備え付けた物。馬がころんだのは、矢で射られたからか。
「でもさァ。目標以外を見つけちまった時はァ、どうしたらいいと思う? 兄サン」
しゅるるるる、という音は、空気が口の端から吹き出る音。
「狩りすぎはよくないから、見逃すってのはどうだ」
軽口で返して見たが、正直な所、俺も動揺している。
「そうだねェ。じゃァ大人しく帰るからさァ。エモノを渡しちゃくれないかィ」
赤茶の鱗に覆われた全身の中、心臓や内臓を守るように金属の鎧を重ねるように纏い、黒い一筋の瞳孔が入った黄色の瞳が、ぎょろりと俺達を睨めつけた。
外見を一言で表すなら、直立したトカゲだ。
ただし、武器を使い、独自の言語を持ち、武器をある程度使いこなす知能もある。
「リザードマンです! 赤い砂漠のシャラマ族!」
リーンの一声と同時に、槍の先端が凄まじい速度で、倒れた人間目掛けて突きこまれた。
やっちまった、と思ったのは、剣を振り抜いて、放たれた槍の行く先を地面に変えてからだった。
しかし反射的に体が動いたものは仕方ない。問題があるとすれば、今手にしている武器が大して質のよくないなまくらだということだ。
パズの街で調達できた、俺が使える長さと重さの剣は、鍛冶師見習いの小僧が練習にクズ鉄で作ったものだと言うから笑える。ジーレですら、もうちょっとマシな剣を持っていそうだ。
一歩深く切り込めればよかったのだが、心許なさがそれを躊躇させた。その隙をついて、リザードマンは大きく飛び退いて間合いを空けた。
「……フフッフ」
「クソッ」
にらみ合いになる、が。
俺の武器は身長の六割から七割程度の長さの、そこまで重量のない剣。鞘から抜き打ちすることで初速と威力を上げるが、切り込むには剣が届く間合いまで近づかなければならない。
一方、向こうは、その間合いの遥か遠くから攻め込める長槍に、クロスボウまで持ってやがる。
戦いは基本的に遠くから攻撃できる方が有利だ。敵の技量にもよるが、致命傷を負わずに凌げというのは中々しんどいものがある。
「……ペラペラ喋るじゃねえか、トカゲ野郎」
「あァ。勉強熱心なんでねェ。…………いやいや、嘘だよ、ウ・ソ。俺ァ特別なのサ」
「特別?」
爬虫類の瞳でも、細められれば笑っているのだとわかる。
「そっちのスライムと同じさァ」
『む』
リーンの腕に収まったスライムをじろりと見て、それからくつくつと笑い出す。
「ハクラ!」
「リーン、お前こいつ止めて」
「シャラマ族のリザードマンは火炎袋があるのでうかつに近寄ると火のブレスが飛んできますよ!」
「実践的なアドバイスをどうもありがとうよ!」
距離を取るのを嫌ってうかつに近づけば痛い目を見るわけだ、隙がない。
「フフッフ、いや、流石リングリーンの姫サマだ。俺達のこともお詳しいねェ」
「勿論です、魔物使いの娘ですから。で」
びっと杖の先端を向けて、リーンが言った。
「その私に相対すると言うことがどういう意味だか、体に教えて差し上げましょうか」
「……俺はねェ、そこのエモノを狩れればいいんだけどねェ」
「諦めてください。私はともかくハクラははいそうですかとはいいませんから」
「お前だけなら見逃すんかい」
俺の言葉に、リーンは答えなかった。これで向こうが拒絶してきたら本格的な戦闘だ。
「…………ふゥん」
リザードマンは、俺を値踏みするように見て、それからほんの僅かに槍を握った右手を動かした。
「シャァッ!」
その動作があまりに淀みなく、そして一瞬だったので対応が遅れた。
「え?」
驚いたのはクレセンだろう。なにせリザードマンが踏み込み、長い腕から突き出した槍の先が自分に向けられていたからだ。
俺でもなく、追っていた獲物でもなく、勿論リーンでもなく、狙われたのは修道女だった。リザードマン特有の異常な手足の長さと、武器の長さが、その距離を埋めた。
「このッ――――」
うまく間に割り込めたのはほとんど奇跡だ。動けと命じる前に動いてくれた体を褒めてやりたい。
マント越しに穂先が脇腹をかすめた。鋭い痛みと、熱さ。味わい慣れた戦いの感触。
だが、それで槍の軌道を逸らすことには再度成功したし、何より槍を片手で突きこんだ以上、腕は伸び切り足も前に出ている。この状態なら、踏み込めばそのまま敵にたどり着ける。
「カァッ!」
踏み込んだ俺に対し、リーンの忠告通り、リザードマンは顎を開いた。その奥から赤口がちろりと見えた。
「穴空けられた礼がしたいってよ!」
知らなければ焼かれていただろう。
知っていたなら対策の真似事ができる。
マントを外して前面に広げる。鞣した獣の皮を重ねて成形し、薬剤を塗ったマントは雨風をよく凌ぐし、軽い火や砂利から体を守ってくれる立派な防具だ。
勢いよく放たれた炎がマント越しに俺を襲う。傷が発する内側からの熱ではなく、純粋な高温を布一枚の向こう側から感じる。あと五秒炎を吐かれ続けたら、マントも焼き払われてしまっただろうが、幸い、そこまでの時間は必要ない。一瞬稼げればそれでいい。
右腕を肩から斬り飛ばそうと、剣を振り下ろし、鱗を割って刃がめり込んだ。
「グウっ!」
「チッ」
だが、屈強な筋肉と頑丈な鱗は、なまくらから身を守るには十分な盾だったらしい。両断するつもりで放った一撃は、刃は骨にも届かなかった。
「ガァァ!」
悲鳴の代わりに唸りを上げながら、鋭い蹴りが飛んできた。剣を手放し、両手で防ぐ。みしりと骨が軋む音がして、ふっ飛ばされた。空中で態勢を整えて、着地する頃には、向こうも武器を構え直していた。食い込んだ剣を引き剥がす余裕はなかったようだ。
「…………フッフフ、わかったよ、わかった。このエモノは俺の手に負えないらしいねェ」
じりじりと、槍と弓をこちらに向けたまま後退しつつ、リザードマンはシュルル、と笑った。
「あなたのご主人さまは誰ですか?」
リーンの問いかけに、リザードマンは笑ったまま答える。
「知らない。――本当さァ。時々は鴉が命令を持ってくるがねェ」
それから、俺を見て、今度は口の端を大きく釣り上げた。
「セキ」
リーンではなく、俺に。
「セキ・ギドドグルグドド・シャラマ。俺の名前だ」
相手がリザードマンであれなんであれ。
「ハクラ」
この場で、そう名乗られたら、俺は名乗り返さないわけには行かない。
「ハクラ・イスティラ」




