愛するということ Ⅰ
黙りこくっていたカラスが、やがて、ぱくぱく、と嘴を動かした。
『………………くふふ』
記憶にある、いつも通りのイスティラの笑い声。
『ああ、うん、わかったよ、セリセリセ、君の言う通り、私は好きやすくて飽きっぽいのかも。戻ってこないなら、もう、別にいいかな、っていう気持ちになってきたよ』
だが、俺とクロヤは、よく知っている。
イスティラは、他者が苦しむ姿こそを、最も尊ぶ魔女であると。
「――――――――――っ」
突然、身体を折ったのは、クロヤ……じゃ、なかった。
「あ、ああああ? う、痛…………」
アリアリアが、頭を抑えて、急に苦しみ始めた。
「……っ、アリー!?」
セリセリセにとっても、想定外の事態だったようで、焦りが露骨に顔に浮かぶ。
「…………何したテメェ!」
『何って、嫌だな、決まってるじゃない』
カラスが、再び、くふふ、と嘲笑う。
『私だけが損をするだなんて、嫌だもの。セリセリセにも失ってもらわないと』
「っ、どうやってアリアリアに干渉してる!? この娘はあんたと関係ないだろう、イスティラ!」
クロヤや俺なら、そうだ、理解できる。イスティラと関わりがあって、何を仕込まれていてもおかしくない。
だが、アリアリアはイスティラと直接の繋がりはないし、ましてこの魔女が、愛娘に対する防御を怠るとは思えない。遠くから、一方的に呪いをかけるなど、不可能のはずだ。
『くふふ、やだなあ、クロヤ、君のおかげじゃない』
「…………え」
名指しで原因と呼ばれた事に、クロヤの動きが固まった。
『私が契約したのは、血と贄と闇を支配する悪魔ティタニアス。私の子供である君も当然その影響下にあるんだよ?』
「――――――あ」
咄嗟に口元を抑えるクロヤ。
「………………し、しちゃったんですか、クロヤさん!」
何をだよ、と俺が聞く前に、アリアリアが再び、大きな悲鳴を上げた。
「あああああああああああああっ! ぐ、何、これ…………ひっ」
「アリー、落ち着きな! イスティラ、あんた――――――」
『くふふ、私をかまってる場合じゃないよ。大事な娘の晴れ姿だ。ちゃんと見てあげたほうがいい、セリセリセ』
みしり、と肉と骨が軋む音。
『お別れになるかも知れないんだから』
それは、恐らくこの中で。
誰よりも、俺が一番知っている音だった。
「ぐぅううううう、ああああああああああああああっ!」
アリアリアの下半身、腰から下が、大きく肥大化し始めた。
膨らんだ肉を、硬質化した外殻が素早く覆い、関節部の端々からずるりずるりと複数の脚が生えた。
「ぐう、うううううう――――ぁあああああ!」
更に、肘から指先までもを、鋭い突起のついた外殻が覆っていく。
こめかみの両側からはツタが伸びて、髪の毛をまとめ上げるリボンの様に巻き付いていく。随所で花が咲き乱れ、不自然に甘い香りが部屋に満ちていく。
赤い瞳が、白目の部分を埋め尽くし、完全な血色に変じた。
魔人。
魔女と悪魔の混血児。
魔人体は悪魔の力を、より色濃く、その体に顕現させる。
そして、そうだ、俺が初めて変身したあの後、俺はスライムから、こう説明を受けた。
――――通常の魔人は、力に飲まれれば自我を保てない。
「――――――――あぁぁぁぁぁ………………」
ブェルベルは、草花と虫の支配を司る悪魔。
アリアリアの魔人体は、その力を強く反映した姿なのだろう。
腰から下、下半身は巨大な蜘蛛の形をしていた。八本の長い脚が床をしっかりと掴み、腹には第二の口が開いて、カチカチと牙を打ち鳴らす。
上半身には蔦と草が絡みつき、見たこともない異形の花が、体の各所に咲いていた。
小さな顔には、通常の瞳の上下に、切れ込みが生じ、縦に開いた。
合計で六つの瞳が、別個にぐるりと蠢いて、周囲を睥睨している――――。
「――――アリー! 待って………………」
クロヤの叫びに反応したのか、アリアリアは長い脚を一本、大きく横に振り払った。
「ぐ――――――――」
俺の目でも捉えきれない、凄まじい速度だった。昆虫の持つ瞬発力が、魔人の膂力と異形の質量を得て、ただ振り回すだけのそれが、とんでもない暴力となって、クロヤを、城の外壁ごと、外に向かって吹き飛ばした。
「クロヤぁっ!」
今の一撃で、身体が真っ二つになっていてもおかしくない。
無事かどうかを確認する前に――――。
「ああああああああああああああああああっ!」
俺達がこの部屋から、果たして生きて出られるだろうか。
「イスティラアアアアアアアアアアア!」
セリセリセの激昂が響くも、既にカラスは翼を広げて、アリアリアが開けた穴から飛び立とうとする直前だった。
『くふふ、私は子供を失った、だから君も子供を失った。これでお互い様だね。くふふふ』
捨てセリフを残し、消えていくイスティラを、見送ることしか出来ない。
ギチギチと関節がきしむ音を立てながら、魔人アリアリアはゆっくりと俺達の方に身体を向ける。
ちき、ちき、と牙が少しずつ動いている――ああ、クソ。
理性なんてどこにも見当たらない、本能で餌を喰らおうとする、蜘蛛の化け物そのものだ。
しかし、膠着は、長くは続かなかった。ガサガサと何かが這う音が、そこいらから生じ……。
『キチキチキチキチ――――』
セリセリセの城の中――どころか、村中に散っていた魔蜘蛛が、一斉に集まってきているのだ。
「足止めさせる! こっちにくるさね!」
セリセリセの合図と共に、無数のアラクネの群れが、一斉に糸を吐きかけた。
「ああああああああああああああああっ!」
その挙動に反応して、アリアリアも脚を振るった。何匹かのアラクネがまとめて切り裂かれるが、援軍が次々と現れ、追加の糸を絡ませていく。
さながら、小蜘蛛と親蜘蛛の大喧嘩だった。だが、頑丈なはずのアラクネの糸を、アリアリアは特に苦もなく引きちぎっていく。本当にただの足止めで、長くは保たないだろう。
「くっそ、やられたさね。一体どうやって…………」
一方、走り出したセリセリセに、俺とリーンは追従した。クロヤも心配だが……。
「あの、治療中の子って動かせるんですか」
そう、この城の中には、セリセリセがつきっきりで面倒を見ていた子供がいる。
人繭がどんな仕組みかはよくわからんが、固定して、じっくり中身を弄るためのものだとすれば。
「下手に動かしたらその場で《接ぎ木》が枯れる。あたしがついててやらにゃ……」
研究室にたどり着き、扉を開け放ったところで、階下から大きな衝撃音がして、城がぐらりと揺れた。
セリセリセの顔に、苦悩がにじむ。今すぐにでもアリアリアの元へ行きたいのに、それが出来ない。我が子可愛さに、医者として、領主として預かった子供を死なせた時、村人たちは何を思うだろう。
文句が出たとして、鎮圧することは簡単だ。あるいは仕方がなかったとして、無理やり受け入れさせることも出来るだろう。
だが、その時はこの村の大前提……魔女セリセリセの善性によって維持されている平和は失われ、一方的な暴力から逃れるために人々が頭を垂れる、魔女の庭となる。
アリアリアとその子孫のために作られた村を守るために、アリアリアを助けに行けない、矛盾。
そもそも、放っておけば今度は、アリアリア自身が村人に襲いかかりかねない。もし誰か一人でも殺してしまったら、やっぱり同じことだ。
「くそっ、アリアリアを止められねえのかよ!」
俺が絞り出した叫びに、
「できますよ」
と。
リーンが、いつもの調子で、普通に言った。
「………………え?」「ん?」
セリセリセまでもが、言葉を失ってリーンを見た。
一方、リーンはあからさまに不機嫌になって、俺を睨みつけた。
「あのですね、ハクラ。なんでハクラが魔人になっても理性を保てると思ってるんです?」
「……………………気合?」
「私が! 魔物使いの娘が! 暴走しないようにしてあげてるんです! 自由に戦えるように出力を制御しながら、理性を失わないようにしてるんです! ハクラ一人で魔人化したら普通はああなっちゃうんです!」
「…………あ、そっか」
俺が初めて魔人化したのは恐らくヒドラとの戦いの時だが、俺に当時の記憶がないのは、まさしく今のアリアリアの様に、理性を失っていたからに他ならない。
「簡易的に契約を結ぶ必要はありますが、私がアリーちゃんに干渉することは可能です……ただし!」
希望の芽が出てきたところで、リーンが指を立てて言った。
「今のアリーちゃんは、恐らくクロヤさんの血を経由して、イスティラの干渉を受け、無理やり魔人としての力を覚醒させられた状態です。後先考えずに出力を振り絞っていますから、このまま魔人体で居続けたら力尽きてしまいます」
「……なんでアリーがクロヤの血を飲んじまったんだい?」
「それは本人に聞いてください!」
何故か顔を赤くして、リーンは続けた。
「とにかく、契約を交わすにしても順序があります、とにかく、まず一回! アリーちゃんの理性を取り戻さないといけません。そのためには――」
「そのためには?」
「内臓や頭部を傷つけずに、動けなくなるぐらいまで、消耗させる必要があります。魔人を打ち倒し、だけど殺さない。出来ますかハクラ」
「………………出来なかったら?」
「全部魔女イスティラの思い通り、あの生意気な声でくふくふ笑う裏で、私達は後悔と失敗にまみれて、ついでにセリセリセの村は秩序を保てなくなり、ザシェさんの計画もご破綻になって、私達の手形も紙切れになります」
「やる気を出すのに十分な情報をありがとうよ……!」
要するに、全部手に入れるか、全部失うかどちらかってことだ。
わかりやすくて、頭が上がらねえ。
「リーン」
「はい」
「どうせ許してもらえねえから、謝るのはやめとく」
「…………はい!?」
「代わりに、何でもする、絶対に逆らわねえ」
怒りかけたリーンを、手で制して、俺は続けた。
「だから……俺にアリアリアとクロヤを、助けさせてくれ」
今なら、認められる。
リーンの言ったことが、正しかった。
俺は、この村に間違っていてほしかった。
善良な魔女も、母を愛する娘も、それを受け入れた村人たちも。
自分になかったもの、欲しかったものが、全部あるこの場所が、妬ましかった、それだけだ。もっと簡単に受け入れられていたら、そうだ。
「シチュー、食いそこねたな」
考えたら、セリセリセに到着してこっち、何も喰ってなかった。
「そうですよ、一緒に食べましょうよって言おうと思ってたのに」
「そりゃ、悪かったな」
皿を寄せられたリーンの態度がおかしかった理由が、やっと分かった。
つまり、ずっと冷静じゃなかったってことだ。
「セリセリセ」
「…………任せていいのかい」
頭をガシガシと掻いたセリセリセの表情に浮かんでいる感情を、一言で説明出来るやつは居ないだろう。
二千年も生きた子煩悩な魔女の、何より大事な娘の行く末を、他人に委ねなきゃいけない不安を、誰が理解してやれる。
だったらせめて。
「クロヤと一緒に帰るからよ、もっかい飯を食わせてくれ!」
リーンが、とん、と杖で床を打ち鳴らすと。
緑色の粒子が溢れて散って、俺の身体を包み込んだ。