恋するということ Ⅵ
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イスティラの眷属として、そのカラスはセキの前に現れたという。
白一色を好むあの女が、何故黒いカラスを使役しているのか。
確かなことは、イスティラという悪意が、今、俺達を認識している、という紛れもない事実。
『やだなあ、ハクラ、お母さん、でいいんだよ。くふふ』
誰が呼ぶか、そう悪態をつきたいのに、喉の奥から言葉が出てこない。
憎んでいるのに、恨んでいるのに、ぶち殺してやりたいのに。
今すぐこのカラスをぶった切って殺してしまえばいいのに。
俺は、イスティラを恐怖している。
『でもね、今日はクロヤに用事があってきたんだ……ねえ、セリセリセ』
カラス……イスティラがその名を呼ぶと、示し合わせたように。
「また随分と唐突に来たね、イスティラ、この前ぶりさね」
セリセリセが、呆れたような顔で階段を降りてきた。
『くふふ、もう三年も前じゃないか、久しぶり、というべきだよ』
「そうだったかい? どっちでもいいけどね、アンタ、そのカラスでくるなら庭に降りておくれよ。部屋を掃除すんのはうちのアリーなんだよ」
「わ、わたしが掃除するんだ……」
さり気なく仕事を増やされたアリアリアが、クロヤの服を、更に力強く掴んだ。
「で――――何の用だい?」
『そろそろ返してもらおうと思って』
イスティラは、俺――――じゃあ、ない。
その向こう側、アリアリアをかばうように立つ、クロヤに視線を向けた。
『足の治療は終わったろう? データも十分集まったろう? 今度は私がクロヤのことを調べたいんだ。大分はぐらかされたけれど、流石にそろそろ契約違反だ』
「………………!」
「えっ、え、クロヤ、帰っちゃう、の?」
身を縮めるクロヤに、アリアリアが不安げな声を漏らす。
「あー…………」
セリセリセは頭を掻きながら、イスティラを横目で見た。
「まだ忘れてなかったのかい」
『君が治療には時間がかかるって言ったんじゃない、もう、いい頃合いでしょう? それとも、新しい妹に情が湧いちゃったのかな』
表情のないカラス越しでもわかる。
『まさか、そんな薄情なことを、クロヤがするわけないよね? くふふ……』
イスティラは、にやにやと、あの笑みを浮かべているに違いない。
『カイネが寂しがってるよ』
さっき、リーンに対してやってしまったことがなかったら、多分衝動的に切りかかっていた。ギリギリのところで、踏み止まれた。
『くふふ、ハクラ、君が見捨てて逃げたカイネは、今、どんな姿なのか、知りたくない? そろそろ里帰りをしたい時期じゃないかな、クロヤと一緒に、戻ってくる? くふふ』
そんな俺の感情を、更に逆なでする言葉を選んでいるのだと、わかっているのに。
奥歯が砕けそうなほど噛み締めて、〝風碧〟に手を伸ばす――――。
「落ち着きな、坊や、これとは会話するのがそも間違いさね」
俺の頭を抑え込んで、代わりと言わんばかりに、セリセリセが前に出た。
「クロヤはね、とってもいい子さね、家に来たその日から、あたしの顔色をうかがい、アリーの顔色をうかがい、村人皆の顔色をうかがい、可哀想なもんだったさ」
カラスが、こて、と首を傾げた。何を言っているんだ、と言いたげな仕草。
「常に誰かのことを気にかけてないと気がすまない、正真正銘の苦労人さ。誰かのせいにするよりも、自分に原因を求める大馬鹿モンでもある。上手に生きられない子だよ」
渦中のクロヤは、セリセリセにそう評されて、普段の苦笑が消えて、目を丸くしていた。
「ただ……医者には向いてるさね。この子が気づいてくれたおかげで、先手を打てた病気は両手の数じゃ効かないさ。気がつきゃ、この魔女の右腕として大活躍してくれてる。なにより――」
『セリセリセ、何が言いたい?』
イスティラの声に、初めて苛立ちが混ざり。
「あたしの可愛い娘の未来の旦那さね、悪いねイスティラ、契約は踏み倒す」
それを上書きするように、セリセリセは断言した。
「マ、ママ、何言ってるかなーっ! ね、ねえクロヤ?」
アリアリアは一周回って大興奮だが、クロヤはぽかんと口を開いてほうけたままだ。
『――セリセリセ、その冗談はあまり好きじゃないな』
「イスティラ、あんたは昔からそうさね。全部大事で、全部どうでもいいんだ。有価値と無価値の間に境界がない。だからなんでも捨てるし、なんでも欲しがる。あんたが唯一、何を差し置いても上位に置いてるのは自分だけだろ。明日にはクロヤの事なんか忘れて、新しいおもちゃで遊んでるだろうさ」
それは、最古の魔女が、最古の魔女に叩きつける、挑戦状に等しい行為だ。
「あんたにとっては、何でも良くても、ウチにとっちゃクロヤは一人きりなんだ。家族を持っていかれてたまるかい」
「セリ、セリセ……」
「ママ、格好いいかな……!」
自分がそこまで思われていると、当のクロヤは知っていただろうか。
「ハクラ、まだ思いますか」
リーンが、じろりと、俺を下からにらみこむように、覗き込んだ。
「この村は、悪意と策略に満ちた、危険な場所だって」
「……思わねえよ、くそ」
引きずり出されたその言葉が、俺の意識を冷静の領域まで叩き落とす。
セリセリセは、決して善の魔女じゃないだろう。
それは例えば、俺やリーンが善人ではないように。
家族を、村を、自分にとって大切なものを守るために奮闘し、それを害するものに容赦しない。
普通の魔女で、普通の母親。
それが、人繭のセリセリセの、正体だ。
ザシェが取引先として選んだ時点で、そんな事は理解すべきだったのに。
「でも、契約を破棄したら、ペナルティを受けませんか?」
一応、リーンが確認したが、セリセリセはひらひらと手を振った。
「クロヤに関しちゃ元々イスティラがあたしに依頼した案件だからね、頼まれたあたしの側が不利な条件を背負う理由がないさ」
『……………………』
イスティラのカラスは、首を右に捻って、左に捻って。
何かを考えているようだった。
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結局のところ、セリセリセの意見は的を射ていました。
手放した玩具に元々執着したわけではないから、返ってこないのならばそれでもかまいませんでした、イスティラにとって、本命は別にあるのです。
けれど、見透かされたようなことを言われて、一人勝ちされるのは、面白くありません。
イスティラは支配を好み、イスティラは絶望を好み、イスティラは何より他者の慟哭を尊びます。それら全ては贄として、魔女の力に還元されるからです。
イスティラは自分の玩具全員に、自らの血を分け与えています。
ティタニアスの血を直接受け継ぎ、魔人としての力に目覚めたハクラは、既にその支配から逃れていますが、他の子供達であれば、誰が、どこで何をしたのか自由に把握できるし、遠隔で、自らの権能を作用させることも出来るのです。
当然、それはクロヤも例外ではありませんが、元々、自分の権能が上手く作用しないから、という理由を研究をするために、生かそうと気まぐれを起こした子供です。
不発の可能性は大いにありますし、そもそも用心深いセリセリセの手元に、六年も置いてあったのですから、何かしらの対策を施されていることは容易に想像できました。
でなければ、この局面で、〝酷嬢〟に対して、こんな強気にはでられないでしょう。
「どうしたら…………」
どうしたら、セリセリセをギャフンと言わせてやれるでしょうか。
どうしたら、クロヤは、ハクラは、沢山悲しんでくれるでしょうか。
糸をたぐり、血をたぐり、記憶をたぐり。
「…………くふふっ!」
素敵なものを見つけました。
イスティラが見ていない間に、クロヤは大きく成長していたのです、喜ばしい事です。
セリセリセの気持ちが、少しわかった気がしました。
子供の成長は、とても良いものなのだと。
イスティラの悪意が、一つの呪いを生み出しました。
上手く行けば、一番欲しかったものも、手に入るでしょう。