恋するということ Ⅴ
◯
「…………………………」
お嬢は沈黙していた。うつむき、目を伏せている。
幼少期から、こうなることは幾度とあった。妹と喧嘩をした時や、言いたいことを飲み込んでいるときである。お嬢にも我慢という行為を出来た時期があったのだ。
『うむ、我輩が思うにな。確かに小僧が悪い。話し合いを放棄し、暴力に訴えた。その一点において、あらゆる非は小僧にある』
お嬢は、何も言わない。
『だが、小僧の心が、今も魔女の庭に囚われていることを、察せられぬお嬢でもあるまい。言ってはならぬ一言というのは、やはりあるものだ。その点は、お嬢も反省せねばなるまい』
お嬢は、何も言わない。
『あと、やりすぎである』
小僧の平手は、反射的に出てしまったものだろう。それでも相手が女性であり、お嬢であることを本能のレベルでは理解していて、軽く音が鳴る程度のものであった。
しかし、やられたら即座にやり返すのがお嬢である。
攻撃された怒りに震えながら、一歩引いて助走をつけて、冒険者の膂力でもって行われる全力の反撃を、自らの行為に放心し、油断していた所に叩き込まれた小僧はひとたまりもなかった。
しかも平手ではなく拳であるから、机の上を一度跳ね、床を二度跳ね、壁に叩きつけられて沈黙する有様であった。
流石に死んではいないはずだが、しばらく起き上がれはすまい。
恐らく、お嬢がこれほど力を込めて何かを殴ったことは、今までの人生ではなかっただろう。
手首は赤く腫れ上がり、黙っているのも半分は痛みをこらえているからなのやもしれぬ。体の一部を患部に巻きつけてやり、少し冷やしながら様子を伺っていると。
「……ハクラの、ばか」
小さなつぶやきがこぼれ聞こえた。
『……お嬢』
「私、私だって別に、意地悪したいわけじゃありませんし、昔は、色々あったんだろうなって、察しては、いたつもりですし」
『偉い、偉いぞお嬢、成長したな』
まさか人を慮れる気持ちが芽生えているとは。
「言葉だって、結構選びましたし……気づかったつもりでしたし、でも、そんなに思い詰めてるなんて、思わなくて……」
小僧にとって、魔女の庭とは、拭いきれぬ過去を過ごした場所なのだろう。
だから、セリセリセという村が、善良であって良いはずがない。セリセリセという魔女が、我が子を愛していて良い訳がない。
そのような場所があるのなら、そのような魔女がいるのなら。
何故自分はそうでなかった、と、思い悔やむ事を誰が責められよう。
そう、所詮は小僧だ。まだ十八歳か、十九歳かそこいらの。
若く、未熟で、経験不足で、感情に振り回される事も多々あるのだ。
だからこそ、良いきっかけでもあると思う。あの朝、小僧はお嬢とその先の未来を征く選択肢を、思い浮かべることが出来なかった。
それがひとえに、己の過去に紐づく後悔なのだとしたら……。
「…………だから、私、私………」
お嬢がそれを拭い去れるのであれば、小僧は、真にリングリーンの騎士となるだろう。そう考えれば、この諍いも良い機会かも知れぬ。我輩は何とか間に入って、仲裁をする他あるまい。
「…………なのになんで叩かれなきゃいけないんですか!」
しまった、反省のための回顧が怒りに再度火を付けてしまった。仲裁云々の前に追撃で小僧が死んでしまう。
「ちょっとハクラ、もう一回殴らせてください!」
明らかに意識を喪失して、首が据わっていない小僧に馬乗りになって、襟を掴んでがくんがくんと揺らすお嬢。
『やめろお嬢、本当に死ぬ』
「その時はニコちゃんの角を煎じて飲ませますよ!」
『お嬢』
殺すことを前提に最終手段を使おうとするな。
そもそも、ニコの角は未だ育っておらぬ、傷の治療すらちゃんと出来るか怪しいというのに。
「んー、もう、あったまきました! ちょっとクロヤさんから昔何があったか根掘り葉掘り聞き出しましょう!」
『お嬢……』
「いいじゃないですか、私の知らない過去で勝手に傷つかれて勝手に怒られるの理不尽ですよ!」
それはそれで大きな問題が多々生じる気がするが……。
お嬢が歪んだ決意を固めた時、階下から。
「きゃあああっ!」
という、アリアリア嬢の悲鳴が響き渡った。
「何、だ…………」
他者が助けを求める声に驚くほど敏感な小僧である、それが気付けとなったのか、何とか意識を取り戻した。しかし現在はお嬢が馬乗りになっている状態である。
「…………リーン」
自分がしたことの記憶を失ったわけではあるまいが、状況に理解が追いついているわけでもないだろう、下手するとお嬢に殴られた認識もないかも知れぬ。
「ハクラ」
ムスッとした顔で、当てつけのように頬を抑えながら、お嬢は言った。
「ぜーったい…………許しませんからね………………」
怒りを向けられたわけでもない、我輩ですら底冷えする声だった。
お嬢を知るものであれば、誰もが身をすくめるであろう。
「…………わかった」
しかして、事態を把握せねばならぬ。
部屋を出、階段を降りた先、我輩らの目に飛び込んできたものは……。
「か、カラスが部屋に入ってきたかなー!」
アリアリア嬢に抱きつかれ、それを守るように腕を回しているクロヤ殿。
それに、バサバサと羽ばたいて部屋の中をぐるぐると回っているカラスであった。
「………………ああ、じゃあ、ごゆっくり」
小僧がすべてを投げ捨てて、部屋を出ていこうとした。アリアリア嬢は慌てて声を出して引き止めにかかる。
「お、追い払ってほしいかな!」
「クロヤ、いいとこ見せてやれよ。俺ちょっと首が痛くて……」
「私は心とほっぺが痛いんですけど!?」
状況が強制的に動いただけ故、一時的に流された問題が再び蘇ろうとしている。だが、第三者が居たほうがお互い冷静になりやすかろうし、それこそクロヤ殿に間に入ってもらえれば良いかも知れぬ、と我輩が思案していると。
「いや、ハクラ、違う、これは」
クロヤ殿が呟いた。様子がおかしい。
部屋を飛び回るカラスを、目を見開き、凝視している。
『くふふ』
それは少女の声である。アリアリア嬢よりも幼く、甘く聞こえる笑い声。
そう、例えるなら、ドロドロに溶かした砂糖水を、耳に直接流し込まれているかのような…………。
『久しぶりだね、ふたりとも。くふふ、まさか会えるなんて、思ってなかった』
開いたカラスの口の奥から、その声は聞こえて来た。
「イス、ティラ」
小僧が、答え合わせをするかのように、その名を呼んだ。