プロローグ 白と黒と灰 Ⅴ
朝食が終わって少しすると、チノヒトが血液を『回収』しにくることを、経験から知っていた三人は、まさにその時に、脱走することに決めました。
もしも子供達が規則に違反した際は、止めに来る役割を持っているチノヒトですが、全てのチノヒトが子供達から血を吸っている間は、ハクラ達が三階より下に降りても、大丈夫な理屈です。
時間が来るまで、それぞれ手分けして、靴を整え、食料と水を持てるだけ持って。
ついに、集合の鐘がなりました。からんころんと、城の最上部から響く鐘の音が、チノヒト達が血液の回収に現れる合図です。
吸ってもらいやすいように、四階の運動場に集まるのが習慣で、チノヒト達は一斉に、そちらへ群がっていきました。
「いち、に、さん、よん、ご……」
普段、城の中に居るチノヒトは、全部で十人。その全員が運動場へ出ていくのを、しっかり数えてから……。
「…………今だ!」
クロヤの合図で、三人は動き出しました。なるべく音を立てないように早歩きで、普段は降りることのない階段を、下っていきます。
「…………意外と簡単に行けたな」
あっという間に二階にたどり着いて、一階へ下りながら、ハクラがぼそりと言いました。そりゃあ、行けると思ったからこそ決行したのですが、思っていたよりもあっけなく進むものだから、逆に拍子抜けしてしまいます。
「多分、想定してないんだと思うよ」
「何を?」
「決められたルールを破る子供がいるってことを。カレリンのことを皆が忘れてるってことは……」
クロヤは、苦々しく、吐き捨てるようにいいました。
「多分、僕らは今までも、色んな子のことを忘れたり、無意識にルールを破らないようにされてたんじゃないかな」
ありえない話ではないし、むしろ、そうされていて当然だと、他人事のように納得できてしまって、ハクラはくそ、と吐き捨てました。
「だったら、クソだこんなとこ、壊れちまえ」
そうして、階段を、降りて、降りて、降りて、降りて……。
「…………あれ?」
五回折り返しても、まだ一階にたどり着きません。
「…………おかしい、ハクラ、一回、上に戻……」
違和感に気づいたときは、当然、もう手遅れです。
だって、魔女は最初から、ずっとずっと見ているのですから。
例えば、今も、こんなふうに。
踊り場について、階段を見上げた三人の前には。
「くふふ」
真っ白な――真っ白な、童女がいました。
瞳も、肌も、何もかもが、汚れのない純白。異様に伸びた髪の毛が床や壁を這いずるように蠢いて、覆って、埋め尽くしています。
外見はカイネより幼い程で、一糸纏わぬ姿なのに、彫刻の様な美しさがありました。
裸身を隠そうともせず、そう、見られることなど、どうでも良いと思っているのです。
虫や獣に裸を見られて、恥じらう人など居ない様に。
「悪い子たちだね、でも、いいよ、元気なのは、嫌いじゃないからね」
グツグツと煮詰めた砂糖水を、耳の中に直接流し込まれているような、甘い、甘い声でした。
「イ、イスティラ……」
ハクラのつぶやきに、魔女イスティラは、愛らしく首を傾げて見せました。
「くふふ、お母さん、って呼んでくれて、いいんだよ。それは、君だけの特権なのに」
「……一度も顔見せなかったくせに母親ヅラすんじゃねーよ」
ハクラからすれば、顔を合わせるのはこれで二度目で。
会話をするのは、初めてです。そのはずでした。
「くふふふ」
笑いをこらえきれない、といった様子で、イスティラは口元に手を当てました。
「不思議なものだね、私もやっぱり親なんだ。子供に嫌われたくないからって、小細工を弄してみたけれど、ハクラはすごいねえ、ティタニアスの血が濃いのかな。無意識で、覚えている物なのかもね」
「…………何、言ってんだ」
「昨日だって会ったのにね。カレリンを取り戻そうとして、勇気を振り絞って、私の部屋に、君は来たのに」
パチパチと、頭の奥で何かが弾ける感覚。
そうです、ハクラは。
あの時、カレリンを追いかけて、扉の向こうに行ったのです。
そこで見たものは。
「う、げ…………」
ハクラは、喉の奥から込み上げてくる物を、吐き出さないようにするのに精一杯でした。
「ああ、思い出したの? すごいなあ、いつもいつも、ハクラは私の期待以上でいてくれるね」
クロヤには、イスティラが何を言っているのか、わかりません。しかし、まだ何かを仕掛けてはこない、これは千載一遇の、チャンスなのではないでしょうか。
「…………カイネを連れて下に降りろ、ハクラ!」
「っぐ、おい、クロヤ……」
「いいから! 僕が足止めする!」
一歩階段を上がって、クロヤはイスティラを睨みつけて、叫びました。
「僕らが今一番守らなきゃ行けないのは、カイネだろ!」
「……待って、クロヤ、待って! ハクラお兄ちゃん!」
ハクラはギリ、と歯を噛んで、とどまろうとするカイネの手を引き、階段を下っていきます。
「違うの……聞いてっ! ハクラお兄ちゃん!」
「いいから、来いって…………!」
クロヤを置いて、降りて、降りて。
「わあ、格好いい、クロヤ、君もいい子だね。ハクラと一緒にして正解だったみたい」
イスティラの声が、ハクラが階段を降りた先から聞こえてきました。
「…………は?」
「……え?」
クロヤからしても、驚いたことでしょう。階段を降りたはずのハクラが、階段の上から現れたのです。踊り場で、子供達に挟まれたイスティラは、くふふ、と楽しそうに笑いました。
「かわいいなあ、君たちは。献身的で、健気で、愛らしくて」
にこにこと微笑む様は、子供達が感じている底の知れない恐怖と違い、新鮮な驚きと、感動に満ちています。
「盲目的で。おいで、カイネ」
「…………………………あ?」
イスティラが手を差し伸べた先、名前を呼ばれた少女は。
ハクラの手を振りほどいて、階段を一歩ずつ降りていって、イスティラの前までいくと、くるりと振り向いて。
「わ、わたし…………ま、間違ってるって思ったのよ」
ハクラとクロヤは、お互いを対等に扱います、肩を並べる相棒で、いざという時、相手に自分のことを託せる親友だと思っています。
そして、カイネのことは、小さな、守るべき妹だと思ってました。
カイネは自分たちを信用してくれていて、真剣に話せば言うことを聞いてくれると信じていました。
そこにカイネの意思はあったのでしょうか。
今まで居た、家族がいる幸せな場所を、突然捨てる事を決断するに足るだけの理由を、二人はカイネに与えられたでしょうか。
「ま、まずはイスティラ様にお話を聞いたほうが、いいんじゃないかって……」
なにかの間違いかも知れません、勘違いかもしれません。
あるいは。
「そしたら、悪いようには、しないからって、言ってくださったのよ、ね、ねえ」
カレリンのことを皆で忘れてしまえば、これからも一緒に居られるかも知れません。
他の家族を見捨てて、逃げるくらいなら。
「ごめんなさいして、許してもらおうよ、クロヤ、ハクラお兄ちゃん」
チノヒトが来る前、脱走を決行する準備期間のその間に。
カイネが密告していた、という可能性を、二人は、考えてもみなかったのです。
「くふふふふふふ、もちろん、許してあげるよ、クロヤ、ハクラ、カイネ」
イスティラは、悪戯をした子供を叱りつけて、それから、許しを与えるように。
白くて、細い手を差し出しました。
「さあ、お家に帰りましょう?」
カイネは側に居ません、階段は上っても下ってもどこにもたどり着けません、逃げる手段はなくなって、もう打つ手はありません。
「…………一つ、聞いてもいいですか、イスティラ様」
「うん、なあに? クロヤ」
「カレリンは、どうなったんですか」
「…………違う、クロヤ」
口を開いたら、すべてを吐き出してしまいそうです。
「殺したんですか、イスティラ様」
「聞くな、クロヤ!」
その不快感を、こらえてでも、ハクラは叫ばないといけませんでした。
「殺してないよ、ほら、そこにいるじゃない」
かつんかつん、と。
階段の上から、つまり、ハクラの後ろから、それは現れました。
陶器のように白い肌、石膏のように白い髪の毛、血が溜まった瞳。
「…………カレ、リン」
見知った少女の面影を残す、チノヒト、と子供達が呼ぶそれが、ゆっくりと、ハクラの横を通り過ぎて、イスティラの側に控えました。
「君たちが一体、壊しちゃったからね。新しいのが欲しかったんだ。カレリンも私のために働きたがっていたし、ちょうどいいかなと思って」
「……おれ達が、壊し、た?」
「うん、本と椅子で、頭を、がつんって。しばらくしたら、動かなくなっちゃった。まったくもう、仕方がないんだから」
悪戯をした子供を、叱るような口調でしたが、それはつまり。
ハクラが、カイネを助けようとして、チノヒトを殴りつけたことが。
イスティラが、カレリンを加工する原因になった、ということでした。
「…………そんな」
呆然とするクロヤとハクラ、そして。
「…………そっか、カレリン」
チノヒトとなったカレリンを見て。
「生きてたんだね、よかったのよ」
安堵の声を漏らすカイネ。
「くふふ」
そんなカイネの頭を、慈しむように撫でてあげるイスティラの様子は、まるで血と臓物と、絶望で塗りたくった、一枚の絵画のようでした。
「でも、こんな事がもう起こらないようには、しておかないとな。そうだ、カイネ、ずっと、ハクラやクロヤと、一緒にいたいよね」
イスティラの甘い声が、カイネの脳にじわじわと染み渡っていきます。
「うん、居たい、です。居たいのよ、離れ離れになるのは、嫌」
「くふふ、ふたりとも、駄目だよ、こんなに可愛い妹を、不安にさせたら……そうだ」
悪戯をした子供を叱るような口調に、ハクラも、クロヤも、口すら挟めません。
彼女たちは何を言っていて、自分たちは何を見ているのでしょう。
「カイネの望みを叶えられて、ハクラ達もいたずらができない、素敵なアイディアを思いついたよ。カイネ、ふたりの事を教えてくれたご褒美だ」
「え…………?」
ずるり、と、イスティラの長い長い髪の毛の一部が、カイネの腕に巻きついて、
「カイネも、チノヒトにしてあげる。これで、ずっと一緒にいられるね」
みしり、と細い腕が、軋む音が聞こえました。
「うあああああああああああああああああああ!」
その時、誰よりも先に動いたのは、誰でもない、クロヤでした。
今までに見せたことのないほど、強い怒りをむき出しにして。
それが意味するところをまざまざと見せられてしまったから、そうするしかなかったのです。拳を振り上げ、自分よりも遥かに小さなイスティラに向かって行きます。
くちゃり、と肉を引きちぎる音が、聞こえました。
「がっ」
長い長い、イスティラの髪を踏んでしまったのです、それが一瞬で右脚に絡みついて、肉も骨もまとめて、ぶちりと引きちぎってしまったのでした。
「うぐ、あっ、ぐあ、あっ、ああっ」
「あ、いけない。かじっちゃった」
びちゃびちゃと血が滴る音、鉄の臭い、髪の毛の中で、奪われた足が、ぐちゃぐちゃと音を立てて咀嚼され、飲み込まれていきます。
「く、クロヤ……!」
腕にイスティラの髪の毛が絡みついたまま、咄嗟にクロヤに駆け寄ろうとしたカイネの腕が、みしりと音を立てて、反対側にねじられました。
「あ、こら、カイネ、駄目だよ」
「ひ、いいいいいいいいいいいいいっ!」
二人が味わっているのは、筋繊維が引きちぎれて、骨が折れて、皮膚が破ける、原始的で、シンプルで、単純な痛みです。
たったそれだけで、妹を取り戻そうと魔女に挑んだ勇敢な兄も、それを案じた心優しき少女も、獣の様に咆哮して、身悶えして、決意も、覚悟も、全て投げ出して、イモムシの様に悶えるしかなくなります。
ハクラは、それを見ていました。
見ているしか、出来ませんでした。
動き出すことも、叫ぶことも、助けに行くことも出来ませんでした。
次は自分かもしれない、という恐怖が、全身を蝕んでいました。
「ん?」
てっきり、ハクラも向かってくるだろうから、次はちゃんと手加減しないとな、と考えていたイスティラは、固まっているハクラを見上げて、
「…………くふふふっ」
嘲笑いました。
「ああ、そうか、そうだよね、うんうん、普通は、そうだよ、ハクラ、きみはいい子だね、ちゃんとわかってるね。私に逆らったらこうなっちゃうって、君は知っているんだもんね」
ハクラの頭の中で、ぱちぱちと、何かが弾けます。脳の奥に閉じ込めていたものが、じわじわじわじわと、にじみ出てきます。
――白一色の寝台。体中に絡みついた、細い管のようなものは、全てあの女の髪の毛。
――死なないように、生かしたまま、血を吸い上げるための機構。
――肉を削がれ、皮膚を剥がされ、髪の毛を喰まれる痛み。
――ずっと前から、おれはそうされていた。三日に一度。
「くふふ、ハクラ、今日が何の日か知ってる?」
「――――――え、あ、何」
「君の十一歳の誕生日だよ、おめでとう! プレゼントも用意していたんだよ、みんなから、血を分けてもらってね。君の中のティタニアスの血を、目覚めせさようと思ったんだ」
クロヤとカイネが、痛みに悶える声が、耳を通り抜けていきます。
何を言っているかはわからないけれど、何が起きたのかはわかります。
ハクラの為に。
血を集めていた。
チノヒト達が来たのも、カレリンがああなったのも、クロヤが足を引きちぎられて、カイネが腕を折られたのも。
全部、ハクラが理由だった。
「でも、そうだなぁ。少し、考えが変わったかも。可愛い子には旅をさせろって言うし」
くちゃくちゃ。にちゃにちゃ。
湧き出る血を、イスティラの髪の毛は床を這って啜ります。真っ白な髪の毛がじわじわと赤に染まっていって、あっという間に飲み下して、白に戻っていきます。
今までにないほど、愛らしさに満ちた笑みで、イスティラは言いました。
「ハクラ、いいよ、逃がしてあげる」
「――――――――――え、ぁ?」
「だから、行っていいよ。このお城の外を、見てくるといい。私のところでずっと飼っていてもいいけど、君は思ったより臆病だった」
みしり、ごきり、と更に不快な音がして、カイネの肩がねじ曲がりました。人間が絶対に関節を向けられない位置まで引っ張られて、悲鳴は更に大きくなりましたが、
「ひ、きゃああああああああああっ! あっ、がっ」
口の中に、白い髪の毛がわさわさと入り込んで、それ以上、何かを発することができなくなりました。
「あ、ひ――――」
カイネの瞳が、ハクラを見ました。大事な家族、だから、言っていることがわかります。
――痛い。苦しい。助けて。
――お兄ちゃん。
「強い衝動的な怒りは、魔人が覚醒するきっかけになるはずなんだけど、ハクラは怒りよりも、恐怖のほうが強かったみたいだ」
「――――――!」
「今は空間を繋げてないから、階段を降りれば、外に出られるよ。真っすぐ白い道を進んで行けば、街道に出る。道に沿っていけば、村があるから、そこで保護してもらうといいよ。くふふ――ご飯は持った? 靴もあるね? 準備がいいなあ、さすがクロヤだ」
逃げられる。でていける。すべてを捨てて。なかったことにすれば。
立ち向かえ。そんなの無理だ。怖い。苦しい。だって、逃げていいって言っている。
「ハ、クラ――――…………」
クロヤが、何か言おうとしました。それが、最後の切欠でした。
「………………っ!」
ハクラは階段を駆け下りました。もう何も言わなくなったカレリンの横を、楽しそうに笑うイスティラの横を、そして、縋るようにこちらを見る、カイネの横を通り過ぎて。
足を食いちぎられたクロヤを飛び越えて、ハクラは走りました。
もし助けてと言われたら、見捨てたことになってしまうから。
「うわあああ、あああああ! ああああああああ!」
守りたかったものも、大事なものも、友達も、家族も、全て見捨てて、置き去りにして。
魔女の言いなりになるまま、されるがまま、ハクラは、逃げ出しました。
「くふふ、くふふふふふふ」。
魔女の嘲笑が、いつまでもいつまでも耳にこびりついて。
「頑張れ、ハクラ、応援してる。いつか、素敵に育って、帰っておいで!」
誰も助けられず、何も手に入れられず、何も救えず、何も出来なかった少年は、母親の慈悲でもって救済の道を示されて、言われるがままに逃げ出して、言われた通りに外へと飛び出しました。
やがて、ラモンド・ドーラッドという名前の冒険者に保護されて、自分もまた、戦う力を得るために、秘輝石をその手に刻み。
――――「私の瞳は、綺麗でしょう? 照れちゃいました?」
リーンという少女と出会うまでの、それが、ハクラ・イスティラの原点です。