プロローグ 白と黒と灰 Ⅳ
食事を終えて、シャワーを浴びて、部屋に戻って、お昼に色々あったから、泥のように眠りについた……はずだったのに。
その日、ハクラは真夜中に目を覚ましました。不自然なほどぱっちりと頭が冴えていて、目を閉じ直しても全く眠れる気がしません。
横のベッドを見ると、行儀よく仰向けになって眠るクロヤと、その腕にしっかりと抱きついたカイネがいました。
「…………ったく」
カイネがこちらの部屋で眠ることなんて、日常的な行為過ぎて、今更なんとも思いません。二人分の寝返り等でずれてしまった布団を直してやると、なんだか手持ち無沙汰になってしまいました。
やることがありません、しかし、真夜中に部屋の外に出ることは、禁じられています。
トイレはそれぞれの部屋にあるので、わざわざ外に出る理由もないのですが。
「…………ん?」
……そう思っていたのですが、扉の向こうから、ガタガタと音が聞こえてくれば、話は変わってきます。
「……何だ? チノヒト?」
口にしてみるものの、チノヒト達は夜間の見回り、なんて真似はしません。なにせ度々夜更かししているハクラですから。間違いなく、普段ではありえないことでした。
「………………」
気になって、眠れない以上、それを確認しないという選択肢は、ハクラにはありません。
そっとベッドから抜け出すと、扉を恐る恐る開けて、廊下を見ました。
明かりが落とされ、窓もない廊下は、完全な暗闇のはずですが。
ハクラにとっては、昼間と同じぐらい明瞭で、ふらふらと、廊下を歩く人物の姿を、あっさりと見つけることが出来ました。
「……カレリン?」
治療室から戻ってきたことは、不思議ではありませんが、本来規則で禁じられている時間帯に、一人で歩くような娘ではありません。まして……。
「あ、そっちは……」
どれだけ不真面目な子供……つまりハクラだって、絶対にやらない、このお城で何よりも守らなくてはいけないルール……六階に行こうとするだなんて、ありえないことでした。
「なにやってんだおい……」
寝ぼけているのでしょうか。ハクラに干渉されるのは嫌がるかもしれませんが、もしそうなら、止めなくてはと身を乗り出したその時。
『………』
階上から、二人のチノヒトが、音もなく現れました。
血の溜まった目が、暗闇の中で、らんらんと輝いて、階段を上り始めたカレリンを見つめています。
今出ていったら、当然、ハクラも見つかってしまうでしょう。体を隠しながら、様子をうかがうしかありません。
「………」
踊り場に到着したカレリンが両手を差し出すと、チノヒトが片方ずつその手を取って、さらに上へと向かっていってしまいます。
「おいおいおい……」
追いかけるべきか、見なかったことにして、部屋に戻るか。
(みんな家族なんだから、仲良くしたいのよ)
不意に、ハクラの頭の中に、カイネの声が響きました。
「……くそっ」
カレリンのことは嫌いですが、意味もなく罰せられてほしいわけでもありません。
今ならまだ、寝ぼけていたことにして、無理やり部屋まで引っ張って、朝まで寝過ごせばなんとかならないでしょうか。
そんな期待と、皮算用だけの甘い期待ですが。
「……ここで助けるのがごめんの代わりだからな」
そうすれば、カイネも納得するでしょう。
ハクラは足音を立てないように、そろりそろりと、階段を登っていきました。
柵や扉など、進行を防ぐものはありませんでしたので、拍子抜けするほどあっさりと、ハクラも六階にたどり着くことが出来ました。
未知のエリアに足を踏み入れると、造り自体は、他の階とさほど違いがないことに気づきました。予想があっていれば、左には小さい部屋がたくさんあって、右の奥には大きい部屋が点々としているはずです。
「……向こう、か?」
理由はありませんが、なんとなくこっちだろう、という、勘頼りに歩き始めて。
結果的に、それは正解でした。
「……ん?」
どたどたと、騒がしい足音、ついで、人の声。
「何――――――」
だ? と呟こうとして、原因が向こうからやってきました。
視界の先、大きな扉がバタンと開いて、部屋の中からカレリンが、文字通り転がり出てきました。ひっくり返って、這いつくばって、いつもの、堂々した佇まいは、そこには欠片もありません。
ただ、
「助けて! お母さん助けて! お父さん、お母さん!」
必死の形相で、そう叫んでいました。床に手をついて、少しでも扉から離れようともがいて。
その足に、白くて細い糸が絡みついていました。
「あ………」
捕まった、という恐怖感が、カレリンに後ろを向かせ、助かりたい、という願望が、続けて前を向かせました。
仄暗い廊下の先にいる少年の姿を、果たしてカレリンは捉えられたでしょうか。
少なくとも。
ハクラは、心からの恐怖で怯えきった、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに歪んだカレリンと、目が合った、と思いました。
「カ」
カレリン、と名前を呼べなかったのは、おそらく幸運なことだったのでしょう。
糸に引きずられて、カレリンの体は一瞬で扉の中に引きずり込まれました。
扉はひとりでに閉じていき、その隙間から。
「ぎゃっ、あ」
一瞬だけ。
何かをちぎる音と、何かが潰れる音と、何かが飛び散る音と、それに伴う悲鳴が。
全部まとまって、重なって、聞こえました。
そして、再び静寂が戻り。
そこから先の記憶は、ハクラにはありません。
「…………ハクラ、どうしたの? ちゃんと寝た?」
最後のカレリンの顔が、目に焼き付いて離れません。
気がついたら朝になっていて、どうやって部屋に戻ってきたのかも曖昧です。
ただ、もう、駄目でした。まだ起床時間ではありませんが、ハクラはクロヤの体をゆすりました。
普段より一時間も早い目覚めに、さすがのクロヤも目を細めながら、まだすやすやと寝ているカイネを起こさないように、ゆっくり体を起こし、
「…………どうしたの、ハクラ、なにかあった? 怖い夢でもみたとか」
苦情半分、からかい半分でそう言ったのでしょう、ですが、ハクラの表情が深刻であることを見て取ったクロヤは、すぐに真剣な顔になりました。
「なあ、クロヤ」
「ん?」
「逃げよう」
「…………んん?」
言葉の意図がわからないクロヤに、ハクラは正直に、自分が見たものを全て言いました。
チノヒトにいざなわれ、六階ヘ向かい、何かに捕まって、扉の向こうに消えたカレリン、その悲鳴、聞いた音、全て。
「…………本気で言ってる?」
「お前に嘘なんてつかねえよ」
クロヤはまだ、半信半疑、といった様子でした。
「んぅ……」
カイネが腕の中でもぞもぞと動くのを見て、クロヤは一瞬、目を伏せました。
「…………逃げるって、どこに?」
「わかんねえよ、でも、ここにいたら、いずれ……」
「……カレリンを探してみよう」
「……お前俺の話聞いてたか?」
「聞いてた、だから、もしカレリンがいたらハクラの嘘、いなくなってたら本当だ。そしたら、僕も覚悟を決める。カイネを危ない目には合わせられない」
ハクラからすれば一刻の猶予もない事態ですが、クロヤはまだ即決しかねています、それでも、他の子供達だったら、一笑に付して笑うようなことでも、クロヤは真剣に受け取って、考えてくれているのです、これ以上を求められるでしょうか。
やがて、起床時間が来ると、カイネはぱっちり目を覚まして、
「ふぁ……おはよ……ハクラお兄ちゃん? クロヤ?」
張り詰めた空気を感じ取ったのか、目が覚めてそうそう、カイネは首を傾げました。
「ああ、おはよう。カイネ、お部屋で着替えておいで。ついでに、シャワーも浴びちゃいな、今日はチノヒトが来るから」
「? ? う、うん、わかったのよ?」
カイネからすると断る理由はありません、なんでわざわざそんな事言うんだろう? という違和感も、口に出すほどではなく、素直に部屋を出ていきました。
その間に、ハクラとクロヤは、まずカレリンの部屋に向かいました。
ノックをすると、はーい、と声が返ってきて、開け放つと、カレリンのルームメイトである女子が、うん? と首を傾げました。
「あれ、クロヤとハクラじゃん。何?」
「ファルセナ、カレリン、昨日帰ってきた?」
クロヤが尋ねると、ファルセナと呼ばれた少女は、は? と目を丸くして。
「カレリンって誰?」
と、そう、はっきり言いました。
「…………っ、お前のルームメイトだろが!」
「な、何いきなり、朝から怒鳴らないでよ! 相変わらずワケわかんないやつ……あたしは最初から一人部屋だけど!?」
それ以上、話を聞きたくありませんでした。
ハクラは返答せずに、クロヤの手を引いて廊下に出ると、叩きつけるように扉をしめました。
『ちょ、何すん、コラー!』という抗議の声を無視して、今度は二つ隣の部屋へ向かいます。
「お、おはよ。カイネは? ちゃんと薬飲ん……どった?」
治療室でも会ったレベータが、ちょうど部屋から出てきた所でした。二人の焦った様子に、流石になにか違和感を覚えたのでしょう、寝ぼけ顔が、真面目なものに代わりました。
「…………カレリン、あれから部屋に戻ったか?」
ハクラが尋ねると、レベータは……最年長で、頭がよく、記憶力も高い、一番頼りになる人物が。
「…………あー、わり、名前未だ覚えてない子かも。昨日治療室に来た子?」
「………………わかった、もう大丈夫だ、サンキュ」
それ以上、何も言うことが出来ませんでした。
確実なことは、皆、カレリンのことを忘れているということ。
そして。
「……なんで俺とクロヤだけは覚えてる?」
その理由がわからないまま、部屋に戻ると、着替えを終えたカイネが、ちょうど飴玉を口に転がそうとしている所でした。
「あ、おかえりなさ……待って待って」
少し頬を染めながら、口に入る直前だった飴玉を包み紙に戻し、ちょっとむくれて、カイネは言いました。
「い、いきなり入ってきたから驚いただけなのよ、なあに?」
「ただいま、カイネ。ごめん、ちょっと質問させて」
ハクラは扉の外で、会話が誰かに聞かれないように見張って。
クロヤはカイネの肩を掴んで、真剣な声で聞きました。
「カイネ、カレリンのこと、覚えてる?」
「…………え」
ぽかん、とした表情になったカイネは、それから、ええー、と首を傾げて。
「な、なんでそんな事聞くのよ? 忘れるわけないじゃない」
「………………そっか、よかった、うん、よかった」
「な、何、何何? クロヤ、どうしたの? ハクラお兄ちゃん?」
クロヤにおもむろに抱きしめられて、カイネの混乱は最高潮に達していました。申し訳ないけれど、ハクラも同じ気持ちです。
「……いいか、よく聞けカイネ」
ハクラは、カイネの灰色の目をじっと覗き込んで。
自分が見たことを、全て話しました。
呆然、という言葉がぴったりな表情で、カイネは何度も、クロヤとハクラの顔を、繰り返し、交互に見つめ直しました。
二人が自分に嘘を吐いているだなんて、絶対に思えません。
ですが、カレリンがもういなくなっていて、皆が忘れてしまったなんてことも、信じられません。だって、イスティラは、身寄りのない自分たちの恩人なのですから。
「……なんでカイネとクロヤはカレリンのことを忘れてなかったんだ?」
目撃者であるハクラはともかくとして、他の子供達が忘れているのに、この二人だけ、というのはなんとも不自然な気がします。
もし、全員に話を聞けば、何人か、覚えている人が見つかるのでしょうか。でも、その動きは、これからこの城から脱走しよう、という時に、あまりに不審すぎます。
「…………あ、お薬」
カイネが、手に持ったまま、食べ損ねた飴玉……薬を見て、はっと思いついた顔をしました。
「わたし、これ、食べてなかったのよ。だから、朝、慌てて……ね、ハクラお兄ちゃんは、食べてないよね」
「当たり前だ誰が食うかこんなもん」
「レベータ、みんなにお薬を配ってたなら、これを食べた人は、カレリンのこと、忘れちゃうのかも知れないのよ」
カイネは手の中のそれを凝視して、もし食べていたら、という恐怖に、身体を身震いさせました。
が。
「……僕、食べたんだけど」
クロヤが申し訳無さそうに手を上げました。ハクラもカイネも、あれ、と顔を見合わせました。
「貰った後、割とすぐに。でもなんともないけどな……」
「…………じゃあ、原因不明か」
ものすごくしっくり来る理由だった気がするのですが、食べてしまっていたなら仕方ありません。
「……とにかく、おれ達はここをでる。……正直、城の出口なんて行ったことねえけど」
子供達が生活を許されている範囲は、三階から五階まで。
普通に考えれば、一階まで下っていけば、どこかに出口があることになります。
子供達の生活圏には窓が一切ないので、場所は探り探りになってしまいますが……。
「不幸中の幸いだけど、今日はチノヒトが血を『回収』しに来る日だ。見張りの個体も、皆こっちに来る」
「その隙に、逃げるしかねえか……なんか役立ちそうなもん、全部もってくか」
「ま、まって、まってふたりとも」
早速、どうやって城を脱出するかの相談を始めた二人に、カイネが戸惑いの声を上げました。
「ほ、他のみんなはどうするのよ? みんな、家族…………」
「…………ごめん、カイネ。僕には、皆を説得する方法が思いつかない」
クロヤは、心の底から申し訳無さそうに、首を振りました。
「カレリンのことを、皆が覚えてたら、力を合わせようって出来たと思う。でも、こいつら、ここから出ようとしてるぞ、って囲まれたら、もう絶対に逃げられない」
ごめんね、と重ねて、クロヤは言いました。
「僕は、カイネとハクラが、他の皆より大事だ。だから、ごめん」
「…………っ」
カイネは、言葉を続けようとして、けれど、クロヤの言い分が正しいことを、きっと理解したのでしょう、それ以上何も言えませんでした。
「……わるい、クロヤ」
「……何がさ、ハクラ」
「言いにくいこと、全部言ってもらっちまった」
「……そんなの」
相変わらず、クロヤは困ったように、
「いつものことだろ?」
笑うだけでした。




