願うということ Ⅳ
†
「ねえさま……」
地上で、ハクラさまと、ねえさまが、戦っている。
今すぐ駆け寄りたい、でも、やるべきことが、ある。
『ガアアアアアアアアアアアアアアアア!』
「ルォアアアアアアアアアアアアア!」
蒼竜と赤竜が、空中で幾度となく爪を、尾をぶつけ合い、その度に空気が弾けていきました。お互いの口から放たれる炎と氷が触れ合うと、吹き飛ばされそうなほどの衝撃が、全身を叩いてゆくのです。
背中に乗るわたくし達が、その余波を浴びても無事なのは、アイフィスさまが何らかの守りをしてくださっているからなのでしょう。
「アオ、高度このまま! ファイアさん、お願いします! ギリギリ……届くはずです!」
「は、はい!」
わたくしは、大きなオレンジ色の水晶を手に、言いました。
「みなさま、どうか、恐れずに、聞いてください」
大きな伝令石は、ギルクさまが、予め、ニコさまの馬車に積んでおいてくれたものだそうです。皆に声を、届けられるように。
「わたくしはファイア。ファイア・ミアスピカ。どうか、わたくしの声を聞いてください」
どこまで届くでしょう、誰に届くでしょう。
もし望みが叶うなら、一番届けたい、あのひとに。
「〝竜骸〟が去り、そしてまた、レレントに現れたのは、決して、みなさまの信仰が、誤ったからでは、ありません」
それは、心からの言葉でした。誰かが、間違えたわけではなくて。
きっと、人は、どちらかではなくて、両方を、持っているのでしょう。
「これから、それを、証明します――――〝竜骸〟は、わたくしが、退けます。赤竜ヴァミーリの同胞、蒼竜アイフィスの力を借りて……だから、どうか、聞いていてください」
傷ついた人を助けたいのも、わたくしで、かあさまに愛されたいのも、わたくしで。
マドレーヌを独り占めしたいのも、ねえさまとずっと一緒にいたいのも、わたくしで。
「隣に、大事なひとはいますか? 失いたくないひとは、いますか? 今、手を握っておられますか? …………その気持ちを、間違ってると、そう言う人は、いないはずです」
正しい人も、間違っている人もいなくて。
正しくて、間違っている人が、居るだけなのです。それは、同じものなのです。
「わたくしにも、大事なひとが居ます。そして〝竜骸〟――ヴァミーリにも、居たのです。大事なひとが。彼は、女神サフィアを、何より、誰より、愛していたのです」
竜と竜のぶつかり合いは、何度も何度も、大気を揺らす。
レレントから離れたと思えば、すぐ近くに寄っていて……声が届いているのか、どうか、わからなくなる。
「女神サフィアも、同じでした、いつだって正しいわけじゃなくて、きっと、たくさんたくさん、間違いをしたのです」
きっと、これを聞いている人たちは、何のことだか、わからないと思います。
女神サフィアは、清く、正しいものだと……それが、サフィア教の信仰だから。
わたくしにとって、これはサフィアリスの記憶だけれど、皆にとっては、そうじゃないから。
「女神サフィアは、たった一つの願いを込めて、わたくし達に、教えを授けました。いつか、未来で叶うように、わたくし達に、託したのです」
だけど、それでいい、わたくしは、ただ伝えることしか出来ないのです。
女神の再来の役目は……奇蹟を人に施すことではなくて。
あの日、言えなかった言葉を、伝えることなのだから。
「――――ヴァミーリ!」
わたくしは、人生で、一度もあげたことのないような、大声を出しました。
〝竜骸〟が、こちらを見た、と――そう、思います。そう信じます。
サフィアリスが、ヴァミーリに伝えたかったこと。
「――――ごめん、ヴァミーリ、私、見栄張ってた!」
サフィアリスだって本当は、痛いのも辛いのも苦しいのも嫌で。
助けてあげたのに怖がられてムカついたし! 助ければ助けるほど、皆調子に乗っていくし! 挙句の果てに、人間に殺されるし! ほんとはすっごい、怒ってた!
「でも――――君に失望されたくなかったから!」
ふざけるな――って怒る君に、サフィアリスまでそうだね、って言ったら。
結局、お前もその程度なんだな、って、思われるのが、怖かった。
君は人より長生きで、ずっと昔から営みを見てきた、生き物だから。
サフィアリスの、そんな底の浅い、小さな所を、見られたくなかったんだ。
君のことを、もっとちゃんと信じてたら、そんなことないって、わかったはずなのに。
「だから――――もう一度、旅をしようよ、私は、君と、花を見たいんだ!」
それは祈りです。それは望みです。願いをかけて、あなたに求めるのです。
「――――――サフィアリス」
〝竜骸〟が、言いました。
「――――――――――」
その声は、きっと、わたくしだけに届いた、答え。
〝竜骸〟の動きが止まって、アイフィスさまは、大きく顎を開きました。
『眠れヴァミーリ――――もう人は、お前を裏切らない』
世界のすべてを凍てつかせるような氷の息を、打ち消す炎を――〝竜骸〟は、吐きませんでした。
みるみる凍てつき、動かなくなる、彼が――――笑ったように、見えるのも、
きっと、世界で、サフィアリスだけだと、思うのです。
†
ドゥグリー・ルワントンは、生まれながらにしての罪人である。
その記憶は、体に刻まれた石と共に継承され続けてきた。血に刻まれた宿命であり、呪いだった。
サフィアリス――――女神サフィアに、竜の牙が突き立てられて、血の花が咲いた。
その場には、三人の人間が居た。彼の祖先はその中のひとりであり、後の世ではこう呼ばれる。
賢人イフェオレト。
女神サフィアの教えを、誰より熱心に広め、信仰のあり方を説き、サフィア教を組織として立ち上げた、聖人の一人。
誰が思うだろう、【蒼の書】にいまだ名前の残る彼が、聖女を殺めた原初の大罪人であると。誰が思うだろう、それが、彼に与えられた罰であったと。
【人間】
「あ、あああ、ああああああ……!」
命を失いゆくサフィアリスの体から、二つの光が分離した。
サフィアリスの額にあった、青い光と、右手にあった、赤い光だ。それはよく見れば、美しく輝く宝石にも見えた。
【――――貴様が、継げ】
光は、空中で混ざり合い、一つになった。赤と青は重なり合って、濃色に輝く、紫色の輝石となった後――イフェオレトの左手に、深く深く突き刺さった。
「う、ああああああああああああああああああああああああああああ!?」
それは彼の体に定着はしなかった。
その祝福は、サフィアリスの為のものであって、彼のものではない。その力を振るうことは、彼には許されなかった。
(ゆめ、忘れるな。サフィアリスの慈悲を。与えられた時間が何の為に在るのかを)
彼は宿命付けられた。たった一人の、人間の愚かさによって死んだ少女を、女神として神格化し、存在を未来に繋いでいかなくてはならない。
彼は器だった。いつか生まれる聖女に、竜からの祝福を届ける為の運び屋だった。
彼の子々孫々は、それを生まれる前から理解し、体に刻まれた石を、記憶に刻まれた意思を、継いで、継いで、死んでいった。
それを、己の力として振るえる様になったのは、ドゥグリーが初めてだった。
サフィア教において、イフェオレトの時代にはなかった戒律――いつしか禁忌となった秘輝石を有するドゥグリーは、偉大なる賢人の子孫でありながら、蔑まれていた。
もとより長い歴史の中で、彼の家がそうであった、という事実は忘れ去られ、いつか来たる審判の日まで、その石が失われないようにと、日の当たる場所に彼らが出ることはなかった。
(私は、何のために生きているのだ?)
与えられたのは汚れ仕事だった。同じ石を持つ冒険者に、女神の罰を与える為には、同等の力を持つドゥグリーが適任だった。
殺して殺して殺して殺す。裁いて裁いて裁いて裁く。
その全員が、女神を愚弄し、侮辱していたと、彼は今でも思わない。
ただ、二十歳になる頃には、もう取り返しがつかないほど両手は汚れ、〝背教者殺し〟の名前を与えられていた。
ある日、ドゥグリーは初めてミアスピカ大聖堂への巡礼を許された。
荘厳で、神聖で、清廉な、この世に在る清いものを、全て集めて作られたかのような、その全てが女神に祈りを捧げるために作られた、巨大な教会都市。
その大聖堂の、人気の無い裏庭で、ドゥグリーは、流れる水で手を洗っていた。
手に染み付いた血が、この聖なる場所でならば、洗われる気がしたからだ。手が赤くなり、それすら通り越して青くなっても、彼は水から手を離さなかった。
「――――何してるの!」
そんな彼に駆け寄ってきたのは、一人の、若い修道女だった。
まだ見習いの年の頃、さらりと揺れる、薄紫色の髪の毛が、彼の鼻を小さくくすぐった。
「手が真っ青じゃない! もう……何考えてるの!? 凍傷になっちゃうよ!?」
「いえ、私は……」
これで良いのだ、と言おうとしたが、その少女は取り合ってくれなかった。
「急いでお湯を沸かさなきゃ……ううん、でもその前に」
温かい両手で、少女はドゥグリーの青くなった手を包み込んだ。ひゃ、とその冷たさに怯えた後、自らの懐に、それを誘った。
「な…………!」
「ううー…………!」
その冷たさに身震いしながら、男の手を自らに触れさせた少女の振る舞いに、ドゥグリーは動揺し、困惑した。
「な、何故そのようなことを……」
「え、ええ?」
問われた少女もまた、困惑し、眉をひそめた。
「こんなに凍えた人を温めるのに、理由なんて必要なの?」
その時、初めて彼は、少女の顔を見た。
先程から視界にちらついていた薄紫色の髪の毛は、絹糸よりも細く長く。
幼いながらに意志の強さを感じさせる瞳は、己に刻まれた呪いと同じ色をしていた。
なによりも。
「…………サフィ、アリス?」
彼が石とともに受け継いだ記憶が、その名前を呼ばせた。
今思えば……それは、初めて与えられた慈悲に対する、願望の反映だったのだろう。
遠い遠い記憶の継承は、全てがはっきりと明確ではなくて――だから、彼に取っての聖女は、彼女になった。なってしまった。
「こら!」
もっとも、呼ばれた少女は、頬を膨らませて、こう言うのだった。
「駄目よ、女神様の真名は、みだりに口にしてはならないって、知らないの?」
それが、齢十三のコーランダ・ミアスピカと、ドゥグリー・ルワントンの出会いだった。
初めて彼女と顔を合わせた日。
私は打ちのめされたような気持ちになった。
ああ、なんでこんな人が、この世界に居るのだろう。
ああ、どうしてこの人が、私の前に現れてしまったのだろう。
見たくなかった。知りたくなかった。理解したくなかった。
こんなにも高潔で、こんなにも純粋で、こんなにも尊い存在があるだなんて。
けれど、触れてしまったのなら、もう目をそらすことなど出来なかった。
私が存在する意味、私がここにいる意味を、余すこと無く叩きつけられて。
「あなたを、何があっても。守ります」
そう誓う事以外、出来ることはなかったのだから。
――――この力は、彼女のために在るのだと、そう思った。
若き才能のある聖女を、妬む者は多い。同僚であったり、司祭であったり、民衆であったりもした。彼女を守るのに、〝背教者殺し〟の力は、大いに役立った。
(ありがとう、ドゥグリー、あなたが居なかったら、私、くじけてたわ)
ドゥグリーにとって、コーランダは聖女の生まれ変わりだった。彼女が正しく評価され、人々に認められることこそが、ひいては世界を救い、自らの罪を精算することであると信じていた。
…………それは、たった一度の過ちだった。
(――――覚えてる? 私と初めてあった時の事。変な人だなって、思ったけど)
(でも――――寂しそうだった。だから、助けてあげたいって、感じたの)
彼女が大司教となった、その日の夜。寝室に呼ばれた彼が、精一杯の勇気を振り絞って、手を広げる女を前に、どうして拒む事が出来ただろうか。
サフィア教では、男女の交わりは禁じられていない。子を成し、次代を育てることは、重要なことだと説かれている。だから、聖女と騎士が結ばれることを、咎める者は居なかった。
その子に、呪いが受け継がれなければ。
いや、その子こそが、呪いそのものだったのでなければ。
ありえないはずだった、その後十年以上、彼女の身に命が宿ることはなかったのだから。
ありえないはずだった、その後七年もの間、彼女は清くあり続けたというのに。
彼以外の子を孕んだ、という可能性を疑うことすらできなかった、あの夜に結ばれたものが結実したのだという証拠が、そこにはあった。
生まれたのは、双子だった。それぞれ、額と右手に、石を持っていた。
ついに訪れてしまったのだ。濃厚な色を有する星紅玉と星蒼玉の《天然石》は、偽物を受け継いできたそれまでの石とはとは違う、サフィアリス本人のそれと、同じ輝きを持っていた。
それは同時に――――コーランダが、真なる聖女でないことを、示していた。
彼女もまた、ただの器だった。ドゥグリーという罪人の子を成すことで、彼女の役割は終わってしまった。聖女の母としての役割が。
これから人々に讃えられ、愛され、頼られるのはコーランダではなく、この子達だ。
彼女自身が成し遂げてきた全ては忘れ去られ、聖女を産んだというその一点が、これからの歴史、コーランダ・ミアスピカの最大の役割となる。
誰よりも敬虔だった。誰よりも信仰が厚かった、誰よりも無垢で、誰よりも尊かった。
だから――――――彼女は、壊れた。
(ねえ、ドゥグリー、この子達は)
ウマレナカッタコトニ、シテシマイマショウ。
命を奪うことは、流石にできなかった。それでも、娘たちに、自由はなかった。
自由に外に出ることは許されなかった。七歳になるまで、二人は同じ檻の中で過ごした。
与えられたのは、適当に選ばれた、古ぼけた物語の本と、何冊もあるからと投げ入れられた、【蒼の書】ぐらいのものだった。
父として触れ合ったことは、一度としてなかった。その権利も資格も彼にはなかった。
だが、秘輝石を持つ双子は、各々が理外の力を発揮し始めた。特にルーヴィは、檻の鍵を素手で破壊して、自由に外ヘ出られるようにまでなってしまった。一度だけ、二人同時に脱走し、行方をくらませた時の、コーランダの形相は、今でも覚えている。
閉じ込めたままにしておけないのなら、御せるようにするしかない。
コーランダは繰り返し繰り返し、従順であることを説いた。そうすれば、ファイアとも一日に一度は話をすることを許しましょう、二人で触れ合う事を許しましょう、お菓子を食べる時間も与えましょう。
……ルーヴィが【聖女機構】のトップに立った経緯など、聞くものが聞けば、それだけで吐き気を催すだろう。
その全ての罪過に、ドゥグリーは加担していた、いや、主犯と言ってもよいだろう。
コーランダに尽くすとは、そういうことだった。
――――だから〝竜骸〟が動いた時、ドゥグリーは安心したのだ。
これでやっと、正しい裁きが与えられると。
積み重ねた罪を清算し、終わることが出来ると。
何たる傲慢だっただろう、何が裁きが与えられる、だ。
娘が母を焼き尽くす場面を、その目で見るまで気づかなかった、愚か者。
泣いていた、泣いていたのだ。
ルーヴィ・ミアスピカは、竜人となって、人外の理に踏み出してなお。
母の愛を求めて、手を伸ばし。
拒まれたことで絶望し、滅ぼすことに決めたのだ。
たった一言、受け入れようと、どうして覚悟できなかった。
父としてお前達を守ると、なぜ言ってやれなかった。
今更、この身にできることなど、たかが知れている、それでも。
やらねば、ならない。




