願うということ Ⅰ
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ミアスピカからやってきた教会騎士と神官隊の数は、合わせておおよそ二百人。ミアスピカ大聖堂が外部に出せる、最大人数と言って良いだろう。彼らはレレントの北側、5kmの地点に部隊を展開して、〝竜骸〟を待ち構えていた。
全員が敬虔な信者であり、純粋に『助けの手を伸ばさねば』という使命感で、自らレレントに向かうことを志願した者たちだ。
〝竜骸〟を失った責任だとか、今後のオルタリナ王国の行く末だとか、そんなことはどうでもよく、目の前で傷つき、泣いている者たちを救いたい、その使命感に駆られてここに居る。
そんな彼らだからこそ、再度〝竜骸〟が現れたことを、受け止めることは難しい。彼らにとって赤竜ヴァミーリは、信仰する女神サフィアの友であり、しもべであり、味方である。
それが人に牙を剥くなら、彼らが生涯を捧げることに決めた信仰は、誤っていたことになるのではないか。
せめて、聖女がいてくれれば。かの女神の再来ならば、この竜を鎮め、我々の信仰の正しさを証明してくれるのではないか――彼らはそう思っている。
……そのことを、コーランダは、正しく理解している。
彼らの心の拠り所が、若き大司教ではなく、幼き聖女であることを、理解している。
(ドゥグリー……まだなの?)
まだ遠い空の果てではあるが……すでに目視できる距離まで、〝竜骸〟は近づいてきている。その気になれば、すぐさまこちらに寄ってくるだろう。猶予はもう殆ど無い。
ちょうど、そう思った時だった、わ、と布陣した騎士達が湧く声が聞こえた。
特級騎士、ドゥグリー・ルワントンが到着した、合図だった。
「お待たせ、しました……コーランダ大司教」
すぐさま、駆け寄ってきた騎士に、大司教はいつも通り、ねぎらいの声をかける。
彼はコーランダ大司教の騎士であり、絶対なる味方であり、常に彼女の願いを、叶え続けてきた。
彼が大司教に近寄ると、周囲の騎士達は距離を開け、見守る。
二人の会話が他のものに聞こえることはない……それは、ミアスピカ大聖堂に於ける暗黙のルールであり、この場でも適用されるものだった。
「お勤め、ご苦労さまでした、ドゥグリー。石は?」
竜骸を封じる魔法を発動させるのに必要な、特殊な触媒。
それは竜と同質の力を持つ、青い秘輝石だ……だからドゥグリーに取りに行かせた。
本人に来られては困る、この奇蹟はコーランダ・ミアスピカの手でなされなければならないのだから。
「………………」
「ドゥグリー? 持ってきたのでしょう?」
「…………コーランダ大司教、こちらを」
何十年と、コーランダを支え続けた騎士は、今日、初めて命令に背いた。
手甲を外して、袋を脱ぎ、その左手の甲を顕にした。
「どうか、お使いください。触媒としての用途は……変わらないかと」
岩にこびり付く苔のように、びっしりと甲を覆う紫水晶の秘輝石が、鈍く光った。
「……ドゥグリー、どういう事? 私は、あれの石を持ってきてと、そう言ったのですよ」
「………………」
ドゥグリーは、無言で首を横に振る。それは、彼女からしてみれば、ありえないことだった。
「そんな事を言っているのではありません……! 大体、あなたの石を使う? 馬鹿を言わないで、それではあなたはどうなるのです!」
ドゥグリー・ルワントンは、失ってはならないコーランダの右腕である。
彼女にとって大切なモノだ、その言葉は紛れもない、心からの本心だった。
だからこそ、ドゥグリーの瞳の奥にある、僅かな落胆を、彼女は見て取れなかっただろう。その言葉を本当に欲しているのは、彼ではなく――――。
「りゅ、〝竜骸〟が来るぞ!」
その折、騎士の誰かが叫んだ。言葉とおり、遠くにあったはずの〝竜骸〟は、勢いよく翼を広げて、こちらへ向かってくる。
ほんの十数秒で、〝竜骸〟の巨躯からすれば、眼前、と呼べる近さに、それは居た。
上空、50mほどの高さから、騎士たちを見下ろし、顎を開いた。
骸、とはいうが、鱗は色を取り戻し、遺された右眼の持つ力強い輝きは、一個の生命を感じさせた。
この場にいる者は皆、一度は神殿で〝竜骸〟に謁見した者達だから、わかる。
あれは本物であり、人知を超えた存在であり、抗って、敵うものではないと。
状況がこうなれば、一刻の猶予もない。コーランダとて、弓や魔法で〝竜骸〟を撃ち落とせると思ってはいない。彼らをここに布陣させたのは、これから起こす奇蹟の生き証人とするためだ。
「――――っ」
コーランダは、その瞬間、ドゥグリー・ルワントンを特級騎士足らしめた、《天然石》を使う事を決定した。
だが、事態は想像とは、全くかけ離れた形で進行する。
【グ、オ………………】
〝竜骸〟が、大きく口を開けて、〝何か〟を吐き出した。
ぐしゃり、と音を立てて、それは地面に落下した。
最初、それが何なのか、誰もわからなかった。
シルエットを理解できたのは、それが翼を広げてからだ。
それは、人の形をした、人ではない何かだった。
全身が、ほとんど赤い被膜に覆われている。
肩から先は、関節毎に鋭い角が生え、手首から先は鋭く伸びた爪が生えていた。
肩甲骨から先は、体躯の倍以上はある、巨大な翼が備わっていた。頭部からは、長い角が二本、内部が赤く明滅していた。
そして――――誰もが、その顔を知っていた。その姿を見たことがあった。
それは、コーランダ大司教が産んだ、双子の片割れであり、女神の再来の姉であり、魔女を裁く者だった。
「――――――――」
ルーヴィ・ミアスピカは、ゆっくりと目を開いて。
母の姿を、捉えた。
「あ、ああ、ああ…………」
誰も予想し得なかったその状況で、真っ先に動いたのは、他ならぬコーランダだった。
彼女は、竜に喰われて死んだはずの娘が、どのような形であれ、目の前に居る、その事実を受け止め、歩きだしていた。
「ルーヴィ、良かった、無事だったのですね」
そう、優しく声をかけた。コーランダ大司教は、娘達が何を欲しがっているのかを、十二分に理解していた。
そういう風に、育てたからだ。
認めてほしいように育てた。愛してほしいように育てた。
嫌い、拒み、否定しながらも、最後の最後、もしかしたら愛してもらえるかも知れない、という希望だけは決して見失わないように、慎重にコントロールした。
だから、コーランダ大司教は疑わなかった。何がどうなって、あれが出てきたのかは知らないが……それが娘であるならば、自分の思い通りに出来るはずだと思っていた。
「こちらへいらっしゃい、私です、あなたの母ですよ、さあ――――」
招きに応じるように、ルーヴィは一歩一歩、コーランダに近づいていく。
その足が踏みしめる度に、地面が溶けた。
誰が気づいただろう。ルーヴィを吐き出した竜は、その体色をほとんど失い、かつての〝竜骸〟の姿に限りなく近づいていたことに。
ルーヴィの周囲の大気が、高温のあまり揺らめいていることに気づけたのは、彼女を迎え入れようとしたコーランダ大司教だけだった。
「――――ひっ」
あまりの熱気と、異様さに、コーランダ大司教は、反射的に、一歩、退いた。
それを責めるのはあまりに酷だろう、彼女は秘輝石のない、ただの人間だ――いや、冒険者であっても、その熱に耐えることは出来ないだろうから。
だが――――母としての彼女は、それで全てを間違えた。
「――――アアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
怒声、という他ない声。ドゥグリーですら、駆けつけるのは一歩、遅れた。
「コーランダ様!」
冒険者としての、〝星紅〟ルーヴィ・ミアスピカを知る者であれば、母と娘との間にあった距離は、ゼロに等しいとわかっていただろう。
頭部を竜の爪に掴まれたコーランダは、その時点でもう終わっていた。
赤竜の力が生み出す熱に、皮膚も骨も耐えられるわけがなかった。
「待って、やめて」
頭部がほとんど炭となって、機能しなくなったはずの喉で、そこまで音を発せられたのが、彼女が起こした最初で最後の奇蹟だった。
グシャリと握り潰された頭部は、そのまま燃えて、炭になる前に蒸発した。
「くっ――――――」
一歩、たった一歩遅かった、ドゥグリーが、抜き放った剣を、ルーヴィに向けた。
「――――――ゴァアッ!!」
火球、いや、火線が、口腔の奥から放たれた。
「ぐッ――――お――!」
右肩を貫かれ、その部位から炎が広がる。あっという間に炭化して、ボロリと崩れて、落ちて砕けた。
誰かが、わあ、と悲鳴をあげた。もう、抗う意思を持つ者は居なかった。




