望むということ Ⅰ
†
声が聞こえる。
聞いたことのないはずなのに、懐かしい声。
(ヴァミーリ、やめて)
【無理だ、もう、立ち上がるな、サフィアリス】
サフィアリスの目の前には、竜がいる。真っ赤で、雄々しく、美しい、竜が。
竜は、怒っていました。竜は、悲しんでいました。瞳を見れば、それがわかりました。
【俺は全て滅ぼす、それで終わりにする。もうお前は、眠ってていい】
サフィアリスの命の灯火が、もう残っていないことが、サフィアリスにはわかりました。きっと、この竜にもわかっているのでしょう。
その怒りを止められるものは、もうこの世界のどこにもいない。
(チャンスを、ちょうだい)
【今更、なにを】
(私だって……悔しいよ、何で、って思うよ。ふざけるな、って、思うよ)
サフィアリスの胸が、熱い。大事なものが、こぼれていく。
きっとこうやって喋れていること、それそのものが、奇蹟なのだと、サフィアリスにはわかる。
だから、言葉を紡ぐ。何度でも、何度でも。
(でも……みんな、安心したい、だけなんだよ)
【その言葉は、聞き飽きた】
竜の口の奥に、赤い光が灯った。世界が灰になる、終焉の焔。
(そうだね……この人達は、失敗した。間違えた)
サフィアリスの後ろには、人がいる。サフィアリスを射った人。サフィアリスを捕らえようとした人、サフィアリスを利用しようとした人。
誰が悪いのかと言われれば、人が悪くて。
誰が償う必要があるかといえば、それは人だった。
(けど、私達の旅が…………これで終わるのは、嫌なんだよ)
【サフィアリス……】
(辛いことも、悲しいことも、苦しいことも、あったけど……楽しいことも、嬉しいことも、喜ばしいことも、あったでしょう、ヴァミーリ)
わたくしの知らない、サフィアリスの記憶を、自分のことのように思いだす。
それは、遠い地の街道で、一人と一匹が見上げた、鮮やかな花の天蓋。
それは、遠い地の山脈で、一人と一匹で触れた、どこまでも透き通る水晶窟のお城。
それは、遠い地の村々で、一人と一匹が貰った、暖かな歓迎と、感謝の言葉。
それは、遠い地の草原で、一人と一匹が知った、柔らかな風に包まれて眠る一時。
(私が、もう一度、この世界を、変えるよ)
【どうやって? お前はもう、これから死ぬ。人も、俺が滅ぼす】
(死んで、終わりにしないための……契約をしよう、ヴァミーリ)
サフィアリスの体に、最後の熱が走る。
額と右手に与えられた祝福が混ざり合って、淡い光になる。
(私は、神様になる。君たちが、証人だ)
サフィアリスを殺そうとした彼らを、サフィアリスは振り返って、見つめました。
彼らの震えと、怯えは、今、目の前に、何が居て、誰がそれを救おうとしているのか、わかっていることの、証明でした。
(君たちが、広めるんだ。サフィアリス……ううん、こう名乗ろう)
(サフィア。女神サフィア。人を滅ぼそうとする竜から、世界を救う私の、それが名前)
女神サフィアは、一冊の日記帳を取りだして、彼らの前に放りました。
それは、旅で重ねた、度重なった、思い出の全て。
思い出す為にと書き連ねた【蒼の書】は、サフィアリスにはもう必要ありませんでした。
だって、すべてを忘れていないから。
だって、もう記すことは、なにもないから。
(私が助けた、私が救った、全ての人に告げるんだ。君たちが広めろ、君たちが伝えろ。それが、君たちに私が与える、罰だ)
(生涯を費やせ。人生を捧げろ。私とヴァミーリの旅路を終わらせる償いに、君たちは女神を伝説にしろ)
(それが出来なければ、君達のせいで、人の歴史はこの世から消えるんだ)
それは、女神サフィアが、初めて他人に向けた、敵意。
怒りであり、憎しみであり、そしてほんの少しの、哀れみでした、
彼らの、個人としての人生は、ここで終わるのです。
世界を救うための歯車として、女神の伝説を世に知らしめて、世界を変えるという大役を、彼らは、背負わされたのです。
女神サフィアは、愛おしき旅の道連れを見上げて、言いました。
(――――契約をしよう、ヴァミーリ)
【……俺に、何を望む】
(世界が変わるまで、もう少しだけ、時間をちょうだい。百年、二百年、どれだけかかるか、わからないけれど……人は、君に愛される資格があると、私が証明して見せる)
【……お前が居ない世界を、俺に生きろというのか】
(私の考えと、想いが、これから世界に広がるんだ。どこにでも、私が居る。君を寂しくはさせない)
【俺はいつまで待てば良い。何を以て答えを出せばいい)
女神サフィアは、額と、右手の甲をそっと撫でました。つるりとした硬質な感触が、指先から、伝わってきました。
(……私の力は、いずれ巡る。未来に生まれる聖女を、人はきっと、大事にしてくれると信じてる)
ファイアは知っている。
そんな日は来ない。
そんな世界はなかった。
ファイアには何もなかった。
【………………】
(だからその日まで、人を見守っていて、ヴァミーリ)
見守らないで。もう終わらせて。
【………………………】
(お願いだ、私が君に言う、最後の我儘)
聞き入れないで、終わらせて。じゃなかったら。
【…………わかった、だが、必要なものがある。それを〝契約〟とするなら】
(うん、代償を、支払う。私は、ここで人に殺されて、終わるんじゃない)
――――女神サフィアは、両手を広げて、愛しき者を迎え入れました。
(私の旅は、君と終わる。君が、終わらせて、ヴァミーリ)
それは、始まりの地の終端で、一人と一匹が交わした、約束。
女神サフィアの伝説とは、サフィア教が生まれた理由とは。
女神が人々に掲げた救済の、真の意味は。
かつて人が犯した、竜からサフィアリスを奪ったという罪を、精算するまでの執行猶予。
人間という種が、赤竜ヴァミーリに対して行う――――命乞いだった。
【……愛している、サフィアリス】
(私もだよ、ヴァミーリ)
竜の顎が、ゆっくりと近づいてきました。
その牙は、優しく、抱くように、女神サフィアの体に触れて、そして――――。
「………………」
は、と目を開くと、そこは、慣れないベッドの上でした。
ずっとずっと、わたくしが見ていた夢。
生まれた時から、知っている夢。
コンコン、と、扉がノックされました。
ザシェ様は、気を使って、わたくしと部屋を分けてくださっていて、用事がある時は、こうして知らせてくださるのです。
「はい、どういたしましたか」
わたくしの処分が、決まったのでしょうか。
それとも、別の用事でしょうか。
扉が開いた先にいたのは、ザシェ様ではありませんでした。
「お迎えに上がりました…………ファイア様…………」
「…………ドゥグリー……?」
ああ。
ようやく、この時が来たのだなと、思いました。
次回更新は明日の早朝ぐらいになります。
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