求めるということ Ⅱ
◆
「ハクラが来るまで待ってよーって思ってたんですよ私それなのに全然帰ってこないからお腹がぐーぐーなっちゃって大変だったんですよどこで何してたんですか何をどこしてたんですか!」
「ちょっと吟遊詩人の与太話に付き合ってたんだよ……」
ぽかぽかと殴りつけてくるリーンを片手で押しのけて、邸内に入る。使用人が通してくれた食堂には、俺達を除いて誰も居なかった。
「ギルク達は? あとラッチナ」
「先にご飯食べ終わってて、今お風呂に入ってます! それよりも!」
「ちょっと吟遊詩人の与太話を聞いてたんだよ……なぁセキ」
『変な奴もいたけどねェ』
俺の肩からひょいとテーブルに乗り移ったセキは、べたりと四肢を投げ出した。慣れない体でしがみついていたから、苦労はしていたんだろう。
「まさかご飯まで食べてきたんじゃないでしょうね」
じっとりとした視線の意味は、『私がお腹を空かせていたのに』という非難だろう。
「水しか飲んでねえよ……」
先に腹を膨れさせて不機嫌を取り除こうという魂胆だったのに、より不機嫌になっているとは思わなかった。この状態のリーンのご機嫌取りはもう美味いものを食わせるしかない。使用人に頼むと、嫌な顔ひとつせずに頷いて、程なくして二人分のシチューとパンが運ばれて来た。
香ばしい匂いを放つ、焼き立ての大きな丸パンを一つ手にとって、半分に千切り、残りは皿をリーンに寄せると、しぶしぶ『まあいいでしょう』という顔になった。
残りの半分はセキの前に置いてやると、非常に複雑そうな顔をしながら、器用に両手を使いながら食べ始めた。
「…………そういやこいつ、元々のサイズに即した量の飯を喰わなくてもいいのか?」
「今は身体能力も全部外見に寄ってますから、大丈夫のはずですよ」
まだ沸騰している石鍋に収まったシチューを直接口に入れるのはさすがのリーンも難しいらしく、一旦大さじでふうふうと冷ましている所だった。
『…………人間ってのはどうしてこォ、作るモンは美味いンだろうねェ……』
「お前ら、料理の文化とかあるのか?」
確か、ソレンサじゃ村人が残した竈に火を入れるとか言ってた気がする。
『焼かなきゃ喰えないものは焼く。生で食えるならそのまま喰う。そもそも〝味〟にこだわる同胞はあんまり居ないがねェ。俺が肉に白い粉を撒いてるのを見た仲間は首を傾げてたヨ』
リザードマン達は冒険者や旅人から荷物を強奪していたらしいから、調味料の類を手に入れる機会もあったんだろう。
『ところでそっちの煮立った液体は、食い物なのかィ?』
「シチューな。いや、確かこれトカゲの肉使ってるはずなんだけど……」
弔う以外で肉を喰うのは共食いに当たるんだろうか。試しに匙で掬って近づけてみると、セキから見れば岩のようなサイズの肉の塊を両手で掴んで、ガジガジ噛みつき始めた。まあ、当人がいいなら別にいいか。
「ふぅ……ふぅ……はむ……んーっ」
冷ましてもなお熱い肉とシチューに舌鼓をうって。ようやくリーンの機嫌ゲージが戻ってきたの感じる。
『時に小僧、貴様にも話しておかねばならんことがある』
「あん?」
リーンの皿からパンを一つ拝借しながら、スライムは言った。
『サフィアリスと、ヴァミーリの話だ。こちらに戻るまでの間、お嬢にも話したのだがな、我輩が知る限りの全てを伝えておこうと思う』
「ああ、俺もちょうどルーバからその話を聞いてきた所なんだ。答え合わせがしたかった」
別々の場所で同じ話をしてたっていうなら、そもそも二人でルーバのところに行けばよかったのか、ことごとく、今回はずれたな。
「サフィアリスとヴァミーリが最後に交わした契約の話もこれで裏が取れるしな」
『…………何?』
「あん?」
スライムが怪訝そうに眉(?)を寄せて、俺はその反応に首を傾げた。
『待て小僧、それは何の話だ? 最後の契約?』
「いや、なんでお前が知らねえんだよ」
「アオ、ヴァミーリは最後にアイフィスの所に来て、サフィアリスの亡骸を置いていった、って言ってませんでしたっけ」
リーンに配分されていたパンはいつの間にか消滅し、俺が渡した皿に手が向かっていた。いや、頼めばおかわりぐらいは貰えそうだが、これ以上ヴァーラッド邸の備蓄に手をつけるのは申し訳ない気分になる。
『あ、ああ……我輩が知るのは、そこまでだ。……小僧、どういうことだ?』
スライムが知らない、ヴァミーリとサフィアリスの契約。
これで、ルーバの与太話の信憑性がなくなった、とは、俺は思わなかった。
逆だ。
より確信が強まったからこそ――スライムに返事をする前に、肉を食い終えたセキを、俺は見た。
「なぁ、セキ。確認したいことがあるんだが」
『――――――なンだョ』
呼びかけてから返事があるまで、数秒を要した。
こいつは、事情を知る俺達以外が居る場所で喋るわけにはいかなかったから、ずっと黙ってはいたが――セキはずっと俺の肩の上にいて、俺と同じものを見聞きしてきた。
だから、恐らく俺が聞こうとしていることに、こいつは見当がついている。
「お前、本当にイスティラの使い魔なのか?」
リーンがパンをぽろりと落とし、スライムが目(?)を丸くした。
唯一セキのみが、飄々とした態度を崩さずに、
『なンだィ、今更』
「そ、そうですよ、セキさんにはイスティラの印がありますし、呪いだって……」
「そうだ、魔女の印があるから、リーンはそう判断したし、俺も疑わなかった。〝竜骸〟を動かせるのは魔女だけだ――だから、呪いの主たるイスティラが、背後に居るってな」
俺の母親、魔女の中の魔女、醜悪に人間を弄ぶ酷女なら、これだけ酷いことをしても違和感はないと思っていた。
「けど考えてみたら、おかしいんだよな……魔女の意に沿って動くのが使い魔だ、わざわざリザードマンを呪って人質にする必要がどこにある?」
「…………あ」
『…………何が言いたイ?』
「俺達は、前提条件から間違えてたんじゃねえかって話だよ」
俺はセキの体を右手で掴んで、顔の前に持ってきた。圧迫されたこともあって、歪んだ口の形は屈辱を感じているから――ではない。
「〝竜骸〟を動かしたのはイスティラの使い魔じゃない、お前だ、セキ」
俺の断言に、セキは目を見開いた。
シャラ、シャラ、と、かすれた音が聞こえる。トカゲの喉の奥から聞こえてくる。
それは、笑い声だった。
『シャララララララ……! そォか、鋭いねェ、ハクラ・イスティラ。なんで気づいた?』
「お前だってルーバの話を聞いてただろ、サフィアリスとヴァミーリが交わした契約が本当なら、必要なものが三つある」
『そレは?』
「ルーヴィとファイア、それとヴァミーリだ」
『シャラララララ!』
返答は、笑い声だった。
「けど一番の理由はお前だ、セキ。お前はレレントを襲撃した時、なんて言ったか覚えてるか?」
――――俺ァ戦いに来たわけじゃないのサ。返してもらいに来たんだヨ。
「誰が何をだ? 決まってる、〝竜骸〟だ。あれはイスティラの目論見じゃない、起きたことをそのまま受け入れればよかった。〝竜骸〟が欲しかったのはお前だったんだ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいハクラ、話をぐいぐい進めないでください……そもそも、その契約って一体なんですか!? ルーバさんがなんですって?」
「ああ、ルーバによると――……」
俺が聞いた内容を、なるべく個人の感想が混ざらないように伝えた……が、これがなかなか大変だった。『他人に物を語って聞かせる』のは、相応に特別な能力なのだと、改めて理解させられた。
「……………………ハクラは、その話を、信じたんですか?」
長い沈黙の末、絞り出されたリーンの言葉。
「信じた、っつーとちょっと違うな、納得した、が正しい」
それは、何故〝竜骸〟が動いたのか、の答えにも繋がる、俺はセキに目線を戻した。
「そもそもあんな下手くそな交渉仕掛けてきた時点で気づくべきだったんだ。取引にならないことなんてお前は最初からわかってたんだろ。お前の役目はもう終わってた、何ならあの場で殺されても良かったんだ」
だから、生殺与奪を握られる、リーンとの一方的な契約も、あっさり受け入れた。今ここで、俺に殺されたとしても、セキは構わないのだ。
『シャ、ラ、ラ、ラ、ラ、ラ!』
笑い声を幾度となく吐き出し、セキは手足をばたつかせた。
抵抗と言うよりは、興奮を抑え切れないようだった。
『――――まァどこかで気づかれるとは思ってたがねェ。それがお前だとは思わなかったヨ、ハクラ・イスティラ……オイオイぎゅうぎゅう締め付けるんじゃあないヨ、中身が出ちまウ』
「いっそぶちまけてやったら、レレントで死んだ連中の気も晴れるんじゃねえか」
『シャララ……だが、実際問題、俺の体にイスティラの印がついてルんだぜ? その理由は説明出来るかィ?』
不愉快なことに、辻褄を合わせようとすると、一つの仮説が立てられる。
「お前達の体が腐るのは、イスティラの呪い――じゃない」
今度こそ押さえきれなくなったのか、リーンがだん、と両手をテーブルに叩きつけた反動で立ち上がった。
「そ、そんな訳ありません、確かに印はイスティラのものですし、この症状は、それ以外に説明が……」
「…………多分、逆だったんだ」
「ぎゃ、逆?」
「俺達はイスティラが契約した悪魔を知ってる。ティタニアスの権能は闇と血と贄に纏わる呪い――だから、この現象もイスティラの仕業だと思ってた。だが俺達が印を確認できたのはセキだけだ、他のトカゲ共からは見つけられなかった」
つまり――リザードマン達が、呪われているわけではなかった。
「じゃあ何で印がある? イスティラと取引をしたのは間違いない――じゃあ、その契約で、何を得た?」
他のリザードマン達が呪いに身を蝕まれる中。
セキは一人、他の仲間たちを指揮し、作戦を立て、それを実行に移すリーダーとなって活動していた。
十全に動き、戦い、俺と競り合ってすら見せた。その理由は。
「お前がイスティラと結んだのは〝呪いの進行を食い止める契約〟だ。セキ……いや、こう呼んだほうが良いか?」
確信を持って、俺は眼の前のトカゲを睨みつけた。
「――――――赤竜ヴァミーリ」
その名を呼ばれた赤い鱗のトカゲは。
にたり、と大きく口元を歪めた。
『――――厳密に言えば、俺ァヴァミーリ本人じゃァない。一部の記憶を受け継いだ、写し身とでも言うのかねェ。だからセキと呼ばれる方がしっくり来ル、そっちのほうが〝俺の名前〟だという感覚がある』
一部の物語では、女神サフィアは赤竜ヴァミーリをトカゲの姿に変えて使役した、という記述があるらしい。
『そもそも、ヴァミーリの〝目〟として数十年に一度のペースで、俺みたいな個体は生まれてンだョ、今がたまたま女神サフィアとの〝契約〟履行の時期だったってだけでな』
「つーことは、〝竜骸〟がソレンサにあるのは偶然じゃなかったんだな」
『単にあそこが隠しやすかったってだけの話だョ。お前らに見つかるほうが想定外だったンだ、おかげでこんな格好になっちまったからねェ』
満腹になったのか、げふ、と息を吐いたセキは、いっそ清々しいほど開き直っていた。
「問題は、どのタイミングでお前がイスティラとつながったのか、ってことだ。そこがノイズになって、滅茶苦茶問題がややこしくなっちまった」
「それをややこしくしたのはハクラの私情では……」
リーンが何か言った気がするが、耳が詰まって聞こえなかった。いや、残念だ、大事なことを言っていた気がするんだが。
『そりゃァ何のことァなイ、ヴァミーリ本人と取引して、〝竜骸〟が蘇るシステムを作ったのが、そもそもイスティラという魔女なんだョ』
赤竜ヴァミーリは、女神サフィアとの契約の結果を見届ける為に、長い時を経る必要があった。
そこで考えたのだ。自身は骸となって一度終わり、その時期が来たら己が蘇る方法を。
『……魔女イスティラは、初代リングリーンと同世代の魔女である、生前のヴァミーリと何かしらの繋がりがあっても、おかしくはないが……』
スライムの疑問には、リーンが答えた。
「私は……納得しました」
『お嬢?』
「最初から、そういう機構だったと考えれば、計算も合います。あー、何で気づかなかったんだろ……」
「なんかわかったのか、リーン」
「うー、最初に〝竜骸〟を動かした魔素をどこから持ってきたんだ、って私、ずっと言ってたじゃないですか」
「ああ、そういやそうだな」
「実は、そっちはソレンサに行った時にわかってたんです。ラディントンの魔素がヴァミーリに適するように、ヴァミーリの影響で生まれたシャラマ族の命は、〝竜骸〟を動かすにあたって最効率の魔素だって」
「…………じゃあ、やっぱり、リザードマン達の体が腐っていくのは」
「はい、あれは〝呪い〟によって腐っているのではなく、〝竜骸〟を動かす為に必要な魔素を奪われて、結果として腐敗しているんです」
あの地獄絵図は過程ではなく、結果だった。
〝竜骸〟を動かす為に必要な生命力を、奪われていたのだ。
「厳密に言うと、もっとずーっと前から、少しずつ、シャラマ族やヴァミーリの影響で生まれたワイバーン達からかき集めてたんでしょう。ただ、今の時期はファイアさんが生まれたことで、ヴァミーリ復活の条件が揃ってしまった」
リーンは、『魔女の暗躍はここ十年前後のはずだ』、と言っていた。
なぜなら、女神の再来である、ファイアが生まれていなかったからだ。
その前提が、そもそも間違っていた――ファイアが生まれることは決まっていたし、魔女はすべての始まりの時点から関わっていた。
オルタリナ王国とサフィアリス諸国連合の戦争なんぞ、端から眼中になかったのだ。その危機は、人間達が勝手に招いた自己責任に過ぎず、根本の原因は、もっと別にあった。
『本音を言うがョ、俺ァ、本当はヴァミーリなんかどォでもいいンだ』
べたん、とテーブルに伏せて、セキは尻尾をぐるりと巻いた。
『俺ァ、誇り高き赤い砂漠のシャラマ族のリーダーだ。同胞達が生きる為に考え、戦う、戦士だ。ヴァミーリが俺らの遠い祖先で、どんな意思や理由があろォが、知ったこっちゃァ無い……参るぜ、知らない人間の女と、俺じゃないのに俺だと感じる奴の記憶が、まるで昨日のことに様に思い出せるンだ』
記憶の一部を受けついでいる、とは言ったが、感情や想いまではそうではない、という事だろうか。
「じゃあなんで〝竜骸〟を蘇らせた? 放っておけばいいじゃねえか」
『俺ァともかく、〝竜骸〟を蘇生しない限り、復活の為に同胞達の命は吸われ続ける。だからどォしても一度、動かす必要があったンだヨ。動かしてさえしまえば、槍が命を吸い続けることはなくなるってな』
だからセキは死に体の仲間たちを連れて、多数の犠牲の果てに〝竜骸〟奪還作戦を決行した。放置すれば絶滅するなら、それ以外に選択肢はなかったんだろうが……。
『ヴァミーリが蘇り、人間が滅ぶなら俺らは助かる。勢い余って大陸ごと焼き払うってんなら巻き添えを喰らうが、人間から敵視されようが、何があろうが、ヴァミーリを蘇生させなけりゃァ同胞達は全滅だ。俺らには元々選択肢なんてなかったンだよ』
「……でも、イスティラとは接触してるんですよね? じゃないと、セキさんにギルクさんを襲う理由がありません」
口を噤むかと思ったが、セキはあっさりとリーンの言葉を肯定した。
『あァ。カラスが来たのは本当だヨ。いくつか取引をした。この印もその時に刻んだモンだ。内容は、ハクラ・イスティラ。お前が正解だョ。槍が俺の命を吸い上げるのを、防ぐ為の措置だ。代わりにあの貴族の娘を襲え、と言われたョ』
「殺せ、じゃなくてですか?」
『襲え、だ。殺せるようなら殺せばいいし、殺せないなら手を引いても良いって言う話じゃなけりゃ、俺ァあの場で逃げなかったヨ』
「…………じゃあ、ラディントンを本気で生贄にする気は、なかった? ううん、違う、これは…………」
しばし考え込み始めたリーンを横目に、俺はセキの体を、再度掴み上げた。
『オット』
「他にもしたのか? イスティラと取引を」
『あァ――カラスは俺にこう言ったんだ。復活したヴァミーリを封印しようとしている人間が居る、そいつに手を貸してくれないか、ッてな』
「…………何?」
『そいつがサフィアとの〝契約〟の上からヴァミーリを封印してくれるなら、俺達ァ自由になれる。協力しない理由がねェ、そして――お前の言う通りだョ、ハクラ・イスティラ。俺の役割はもう終わッてル』
俺の手の中で、セキはすべてを投げ出すかのように、力を抜いた。
『ヴァミーリは蘇り、同胞達はこれ以上死ななくてイイ、今頃は山脈を超えた、反対側に移動を開始してる――事前に見繕っておいた、移住先にな。俺がお前達に着いてきたのは、その時間を稼ぐ為だヨ』
ぺちぺち、と挑発するように、トカゲの手が、俺の親指を叩いた。全く痛くない、生々しい鱗の感触がするだけの、ささやかな抵抗。
『もうお前に俺を殺さない理由はないだろォ? いいぜ、握り潰しても。ちったァ気が晴れるだろォ』
「…………テメェ、セキ」
セキの言う通り、俺がこいつをあの場で殺さなかったのは、裏でイスティラが暗躍してるなら、それを思い通りにさせたくない、という私怨で、我儘にすぎない。
そして、前提条件は全てなくなった。リザードマン達はまんまと逃され、イスティラは関わっては居たが、首謀者ではなかった。取引が終わった以上、セキの前に姿を現すことも、もう無いだろう。
「だったら、望みどおりに――――――」
一思いに握り潰してやろう、とした瞬間。
バンッ、と大きな音を立てて、食堂の扉が開いた。
「へ――――?」
見覚えのある奴がいた。体からほんのり湯気をあげた、ナイトウエアに身を包んだ、背の高い女……この邸宅の主の娘、ギルクリム・ヴァーラッド。
それと、背後に隠れるようにしているクレセンと、完全に眠って引きずられた状態になっている、ラッチナが居た。
「お、お前ら、ずっと聞いてたのか……!?」
「うん、でも、そんなことはどうでもいい」
ずんずんと突き進んでくるギルクは、俺の腕からセキを奪い取って、顔を思い切り近づけた。
「君が、あの時のリザードマンってことでいいんだよね。私を襲って、レレントを襲って、〝竜骸〟を動かしたのと、同じ個体で」
『――――あァ。そォだよ、お嬢ちゃん、その節にゃどォも』
ギルクは……命を狙われ、故郷に大きな爪痕を刻まれ、奪われた、復讐する権利がある――正当な被害者だ。
セキの言葉を無視して、ギルクの視線は一度こちらに向いた。鋭く細められた目つきは、姉のクルルによく似ている――つまりはまあ、血縁を感じさせるぐらいの迫力があった。
「私に、黙ってたんだ? あのリザードマンを捕まえてた事を」
「それはその、まぁ、正直、悪いとは思ってたんだが……」
立場的に言えば、ザシェには報告済みだから、最低限の義務は果たしているとは言えるが……感情と道理は、通らないだろう。
『――あンたに殺されるのでもいいな、いや、あンただからいいのか? ……どっちでもいいか』
セキは、無駄な抵抗をするつもりはないようだった。ギルクはセキをどんな目にでも合わせられるし……それをする権利が、多分ある。
『殺したきゃ殺――』
「ふざけるなよ、それで済ますと思うのか」
セキの言葉を遮って、ギルクは激高して、空いた片手で机に拳を叩きつけた。ギルクに懐いているクレセンですら、一言も発することが出来ず、びくりと体を震わせた。
「殺してやりたいよ、ぶち殺してやりたい。君達が襲ってきたせいで何人死んだか知ってるかい。私の知り合いも居たんだぞ……くそっ」
実際、今すぐこの場で縊り殺してもおかしくないぐらいの気迫だった、が。
『…………なンで殺さない?』
「やることやったから満足して、あとは死んでもいいから好きにしろ、なんて奴、殺して納得できるわけ無いだろ!」
あまりの正論に、俺も空いた口が塞がらなくなった。
しばらく、息を荒げ、呼吸を整えるギルクに、俺は何も言えなかった。
「……………………ハクラ」
「…………お、おう」
べし、と音がした。俺の顔面に、セキが投げつけられた音だった。
「………………任せる」
「…………え?」
「感情は、許せない。今すぐぶち殺したい、でも、そいつが納得しながら、今死ぬのは、許せない、だから、任せる」
うつむいて、ぼろぼろと雫がこぼれているのは、悔しいからだろう。
報復は出来るが、しても意味はない。納得を得たところで、状況は改善しない。
全てが解決していない以上、いつでも殺せるなら、今は生かしておいたほうが、何かしらの利があるかもしれない。
見習いたくなるほど合理的で……それは、感情と、理性を、切り離して考えることの出来る、為政者として必要な素質なんだろう。
「私達、全部聞いてたんだ。君達が話してたこと、本当は、お風呂からあがって、顔を見せるつもりで来たんだ。けど…………」
俺達が油断して――そうだ、気がついたらヴァーラッド邸を拠点にしてて、ここなら安全だ、と思っていた――ペラペラと話しているのを、聞いてしまったんだろう。
俺はふと、クレセンを見た。サフィアリスとヴァミーリの最後の契約の話を、敬虔なサフィア信者であるこいつが知って、どう思ったんだろう。
クレセンもまた、俺を見ていた。涙ぐんでいたのは、ギルクにつられているのか、それとも……。
「何も出来ないのが、悔しいよ。私は、どうしたらいい?」
「な、何も出来ないなんてこと、ありません!」
半分ぐらい鼻声で、声を張り上げたのはクレセンだった。
「ラディントンを救うために、しようとしたことも、自分の将来を賭けてまで、【聖女機構】のみんなを助けてくれたことも、ギルクさんじゃないですか!」
「クレセン、くん」
「私だって、このトカゲの事は納得いきません、さっきのお話だって、【蒼の書】にはそんな事、一言だって書かれてないし、言っちゃなんですけど、ルーバさんはちょっと信用出来ないところがありますし……」
ルーバに関しては俺もそう思うが、こいつも大概言い散らかしやがる。
とにかく! とクレセンが言葉を続けようとしたその時、
「あーーーーーーーーーーー!! それです!!」
それに割り込むように、リーンが大声を上げた、それはもう、立派な声だった。
「クレセンさん!」
「ぴぃ!?」
リーンが、クレセンの手を勢いよく取った。
「【蒼の書】には、サフィアリスとヴァミーリの契約に関する記述はないんですよね!?」
「え、はい、ないです、間違いありません、リリエットにいた頃、各大陸でそれぞれ書かれた【蒼の書】も見比べたことがありますけど、一回も。しもべとして赤き竜を従えた、という記述もあれば、赤き竜は女神サフィアの友だった、っていう記述もありますけど、最後にあんな会話を交わした、なんてのは、どこにも」
「そりゃ、サフィア教の前提がひっくり返る様な話だからだろ、原典の【蒼の書】ならともかく、信者向けの本に載ってるわけ――――」
「ちーがーいーまーす! そうじゃなくて――セキさん!」
『お、おぅ』
「イスティラは『復活したヴァミーリを封印しようとしている人間が居る』って言ったんですよね、間違いないですか?」
『あ、あァ。言っとくが、それがどこの誰だかは、俺ァ知らねェヨ?』
リーンの勢いに押されて、あっけにとられてそう返すセキ。
多分本当に知らなそうだな、という妙な納得感がある。
「ほら、やっぱりおかしいじゃないですか!」
「な、何が?」
ギルクがおずおずと尋ねると、リーンはきっぱりと。
「何でその人間はヴァミーリが復活することを前提にしてるんですか!」
「――――あ?」
言われて、考える。
普通の人間から見れば……ヴァミーリは〝竜骸〟、死体だ。
封印する間でもなく、もう死んでいて、ただのシンボルとして扱われているモノに過ぎない。あれが動き出すなんて誰も考えてなかったはずだ。
各地の【蒼の書】を読み比べる、なんて真似をしているクレセンですら知らなかったぐらいだから、セキやイスティラといった当事者以外では、それを知るのは不可能だ。
俺だって、〝竜骸〟が動いた、という事実がまずあった上で、ようやくルーバの与太話を受け入れることができたぐらいだ。
『……その話は、我輩ですら知らぬ。今もまだ、信じ難い』
何より、スライムですら知らなかった、その契約の内容を、〝そいつ〟はどうやって知ることが出来たのか。
いや……その交わされた契約が本物であると、信じることが出来たのか。
「実は私、ずーっと考えてたことがあるんです」
「明日の夕飯のメニューか?」
「ちーがーいーまーすー! 一体誰が一番得をするのか、です!」
「待て、お前は何の話をしてんだ」
「ファイアさんのことに決まってるじゃないですか!」
いいですか! とリーンは勢いよくテーブルを叩いた。皿が浮き上がって、かちゃんと音を立てて落ちた。
「私がファイアさんを暗殺して誰が得するんでしょう、って言った時、ハクラもアオもクレセンさんもギルクさんも『えーーそんなこともわかんないのーー』って顔をしてたから、私はずーーーーーっと根に持ちつつ検討してみたんです。ファイアさんが死んだら、一番得をする人は誰かって」
「わ、私はそんな顔してません!」
それを根に持っていたと言われると、あまりに怖い。
「それで、最終的に一人の人物だと結論付けました。でも、それは仮説ですし……正直私には関係ないですし、と思ってたんですけど」
リーンの中で、仮説が確定事項になる情報が、揃ったということだろう。
『お嬢、ならば誰だ? ファイア嬢を殺して、最も得をする人物は』
スライムの問いに、リーンは胸を張って、堂々と答えた。
「それは勿論、コーランダ大司教です」
「ありえません!」「ありえないよ!」
クレセンとギルクが、ほぼ反射と言って良い速度で、同時に声を上げた。
しかしリーンは至極真面目な顔で続けた。
「コーランダ大司教は世界で八人しか居ない、サフィア教のトップです。【蒼の書】の原典に触れて、最後の契約を知ることの出来る立場にあります」
「だったら、余計にありえないじゃないか! そもそも、ミアスピカは大司教が足りなくて、ほかの大聖堂からの立場も弱いって言ったろ!?」
娘であるファイアが大司教になってくれれば、コーランダ大司教は大きな味方を得られたはずだ。ましてそれが女神の再来と呼ばれている聖女なら、なおさら。
だが、リーンはひねくれていた。
いや、ひねくれさせてしまったのは俺達なのか?
人間って、ほんとわからない。
それがリーンの口癖だ。バランスをとる、という立ち位置ではあるが、魔物の側に立つ事が多いリーンは、人間の底の深い悪意に対して、割りと無頓着なことが多かった。
「でも、コーランダ大司教の立場からしたらどうです?」
だから考えたんだろう、考えて、その答えにたどり着いたんだろう。
「若干二十歳で大司教になった天才で、民衆に寄り添って、慕われていて、たった一人でミアスピカ大聖堂を支えているえらーい人で、女神の再来とまで呼ばれている、ファイアさんのお母さん、そうですよね?」
「そう、だから――――――」
「だから、ファイアさんが大司教になったら、立場が霞んじゃうんじゃないですか?」
「――――――――――」
二の句が継げない、というのは、こういう事を言うんだろうか。
ファイアは今十三歳だ。このまま大司教として認められれば、最年少大司教の座はファイアが塗り替えることになる。
そうして、大司教母子、二人体制でミアスピカ大聖堂をやっていくだろう。それは微笑ましくも美しい、サフィア教の象徴として、語り継がれていくかも知れない。
そして、女神の再来であるファイアは、その身に宿した奇蹟を使って、今までと同じように、これからも大聖堂を訪れる人々を救うに違いない。
それは誰の功績になるか。民衆は誰を讃えるのか。誰に一番感謝して、誰をミアスピカ大聖堂の代表と思うようになっていくのか。
「勿論、ファイアさんです。文字通り、ファイアさんは女神の再来ですから。コーランダ大司教の役目は、ファイアさんを産んだ時点で終わってしまっているんです」
「い、いや、それは、暴論すぎるよ、いくらなんでも、難癖だ、そんなの」
俺もそう思う、リーンのそれは、悪意のある言いがかりだ。
――お前は娘を妬んでいるんだろ、なんて。
「けど、コーランダ大司教が、失った〝竜骸〟を取り戻せたらどうでしょう。竜を御して、奇蹟を起こし、人々にもう一度、信仰の象徴を与えられたなら、こうなります。コーランダ大司教こそ、世界を救った真の聖女、女神の再来であると」
そしてその勲章は、〝竜骸〟が存在し続ける限り、永遠に記録され続ける。
「本来、その役目はファイアさんが担うべきものです。コーランダ大司教は、それを知らないとおかしい――んですよ」
コーランダ大司教は、〝竜骸〟を取り戻すと宣言した。
魔物使いの娘すらわからない方法で。
「なのに、コーランダ大司教の手順は逆です。〝竜骸〟を取り戻してから、娘を返せって言っているんです。では、どうやって〝竜骸〟を取り戻すつもりなんでしょう……もしも」
その〝もしも〟は、場合によっては、殺されてもおかしくない仮定であり――絶対に口に出してはいけない言葉だ。
だが、リーンは言う。きっぱり言う。思ったことは全て口に出す。
「――――もしも、イスティラとコーランダ大司教が繋がっていたとしたら」
大司教と、魔女の密約。
イスティラにとって、これ以上の愉しみはないだろう。
それは、魔女の毒を、サフィア教という組織そのものに飲ませるに等しい行為だ。
「待って、待ってリーン、それはさすがに、私でも聞き流せな――――」
詰め寄ろうとしたギルクの、ナイトウェアの裾をつまんだのは。
「ギルクさん」
クレセンだった。
「…………クレセン君?」
誰より信仰に厚く、誰より敬虔で、誰より真面目な、修道女。
「コーランダ大司教は、本当に、優しいお方、なんでしょうか」
声を震わせながら、そう問われたギルクは、え? と反射的に零した。
「コーランダ大司教が、優しくて、正しくて、自分の娘を、大事に思っている、お方なら」
絨毯に、水滴が落ちた。ぽたぽたと滴る雫は、クレセンの頬を伝って、落ちたものだ。
「どうして、ルーヴィ様を【聖女機構】に、送ったのでしょう」
…………死ねたなら、私は、それでも、よかった。
…………私は、疲れた――――。
ラディントンの温泉で、体を預けながら、そう言ったルーヴィの言葉を、俺は何故か、思い出していた。
「わからないんです、私、ルーヴィ様は、だって、私……」
「クレセン、君」
「一言も、言わなかったんです、コーランダ大司教は、ルーヴィ様の事、演説の時も……みんなを、守って、戦ったのに、一言も、何も」
「それは……それは!」
それは、大司教としての立場があるからか。
それとも、役割を終えた娘を愛していなかったからか。
その真相を語ってくれる者は、この場には居ない。
俺はその場でぱんっ、と両手を叩いた。
全員がびくっとして、俺に視線を向けた。
「……間違いないのは、〝竜骸〟は近い内に必ずここまでやってくるってことだ」
厳密には、ファイアが居る所に、だが。
「どっちにしたって、俺達はコーランダ大司教に接触できないし、こんな主張で殴り込みにいったらその場で殺されるに決まってる――だったら、先手を打つしかねえ」
さすがに大司教と魔女が手を組んでるなんてのたまったら、ドゥグリーは容赦なく刃を向けてくるだろう。
「……ファイアを教会より先に確保する、ザシェのところに戻るぞ」
「うーん、結局そうなりますか」
「クレセン、悪いけど着いてきてくれるか?」
「え? あ、はい、私ですか? はいっ! ……え、何でですか!」
状況が目まぐるしく動き出して、ついていけなくなっていたクレセンの肩に、俺は両手を乗せて、言った。
「リーンとファイアははっきり言って相性が悪い。俺はファイアの扱いが苦手だ。俺達の中で、ファイアとちゃんと正面から向き合って話せるのは、多分お前だけだ」
「そ、そんな理由で?」
「適材適所っつーんだよ、大事だろ、役割分担。ギルク、悪いけど寝床をもう一人分、用意しといてくれないか。セキは…………いいやお前は、連れていく」
『乱暴だねェ!』
トカゲの体を持ち上げてマントの端に引っ掛ける。まあしがみついてりゃ落ちはしないだろう。
「任せるって言われたから、とりあえず連れて行く。いいよな?」
「………………うん、待って、私も、ちょっと冷静じゃなかった……ふう」
大きく深呼吸をして、自分の顔を両手でぱちん、と叩いて、ギルクは顔を上げた。
「……よし、任せて。私も出来ることをしておく。父様にも伝えられることは、伝えないといけないし……今、何より大事なことは、レレントを、守ることだ」
取り繕った笑顔には、きっといろいろ思うことがあって、まだ感情の整理は終わっていないはずだ。だが……。
「クレセン君に怪我させたら、承知しないからね!」
「し、しませんからっ! い、行ってきます!」
パタパタと玄関口に駆けていくクレセン、その後を追う様に食堂を出ていくギルク――――あ。
「…………ラッチナ忘れたな」
「すやあ」
扉の前、絨毯の上に投げ出されたラッチナは、幸せそうに眠ったままだった。結構大声で話してたと思うんだが、寝付いたら起きないタイプらしい。
「…………ほっとくか」
冒険者だし、ヴァーラッド邸は温かいし、風邪を引きはしないだろう。
クレセンの後を追いかけるように歩きだした俺の袖を、リーンがくい、と小さくつまんだ。
「……ハクラ」
「あん?」
「本当は、ずっと隠しておいて、いざという時に使って、そりゃあもう滅茶苦茶ビックリさせたかったんですけど……」
リーンは、もじもじと体をゆすりながら、上目遣いになって、言った。
「実は、アオには隠された力があるんです。万が一の場合に備えて、ハクラが驚かないように先に伝えておきますけど…………」
やたらと強調してくる上に遠回しな物言いだが、今は時間がない。
ので、俺は遮るように言った。
「スライムの正体がアイフィスだって話か?」
「はい、アオの真の姿は蒼竜アイフィ…………はい?」
一拍、間を置いて、リーンは目を丸くした。
「いや、だから、俺が魔人になる時みたいに、スライムがアイフィスになるんだろ、多分」
「……………………………………」
リーンとスライムは、一度顔を見合わせ、そして同時に俺を見て、もう一度お互い顔を見合わせてから、再度俺を見て、叫んだ。
「『………………なんでわかった!?』んですか!?」
「あれだけ意味深に知ってる風にしてりゃ流石にわかるわ!」
どちらかというと、隠してるつもりだった方に、俺は驚いているぐらい。
「そもそもお前は初代から今代のリーンまで、ずっと旅に同行してた最古参なんだろ?ルーバの弾き語りを聴いてお前は、『竜とリングリーンのやり取りは一言一句同じだった』って言ったんだ」
『うむ、確かに言った記憶がある』
「お前が仲間として聞いてた、って線も無くはないけど、会話をはっきり覚えてるとしたらやっぱり当事者だろ」
スライムがサフィアリスや、それに纏わる過去を話す時、物言いがあまりに主観的すぎる。大体、セキがヴァミーリそのものじゃないか、という発想に至ったのも、元はと言えばそれを疑っていたからだ。
『しかし、その結論にたどり着いたとて、よく荒唐無稽だと思わなかったものだ』
「荒唐無稽なんて今更だろ。そもそもお前隠してるつもりねえだろ、『我輩が知らない訳がない』なんて当事者以外のどっから出てくるセリフなんだ」
『――――ぐぬぬぬ』
「そもそもの目的に立ち返ってみたら、俺達は、黒竜クロムロームを封じに行くんだろ。だったら当然、竜に対抗するための手段が無いとおかしいんだろ――だから、俺の出した結論はこうだ」
リーンが得意げに物を語る時のように、俺は指を一本立ててみせた。
「アイフィスは、クロムロームを封印する際に相打ちになった。だけど封印は世代を超えて更新し続けないといけないから、アイフィスの力も知識も、どうしてもまだ必要だったはずだ」
そう、スライムは。
「アイフィスの亡骸を喰って、記憶と能力を継承したスライム。それがお前だ」
何だって喰う魔物、なのだから。
『………………全部正解である。お嬢どうする、最大の驚きポイントが暴かれたぞ』
「もう殴って記憶を奪うしかありませんね……」
物騒なことを言い始めた、それは今やらなきゃいけねえことか。
見ろ、話についていけなくてセキがぽかんとしてるじゃねえか。
「…………ところで、すごく純粋な疑問なんだが、スライムが竜なんて喰えるもんなのか? 物理的にもそうだけど、こう、許容量と言うか」
『うむ。ここだけの話、鱗一枚溶かすのに百年かかった』
「気の長ぇ食事だな、おい」
『だが、その鱗一枚で、我輩は我輩という自己を得たわけでな――実際の所、我輩は我輩であり、当時生きていたアイフィスとは異なる存在ではあるのだが』
その辺りの自己認識に関しては、正直俺が理解できる範疇ではなさそうだが……まあ、俺にとってもスライムはスライムなので、今更、竜として振る舞われても困る。
「実は、南の最果てにも〝竜骸〟があるんですよ。アイフィスの」
リーンはしれっととんでもないことを言い放った。今何つったこいつ。
「なあ、今のは俺が知ってていい情報なんだろうな」
『無論、最重要秘匿事項であるからして、仮に教会に知られれば、かの地はまたたく間に教会騎士に踏み荒らされる事であろう事は想像に難くない……』
「聞かせるな俺にそんな事を!」
「これで共犯者ですね、ハクラ?」
「何でそんなに楽しそうなんだお前……」
俺を追い詰めている時はいつもそうだから、きっと楽しいんだろうな。
「と言っても、アイフィスは氷塊の中に封じた上で、海の底ですからね。知ったところで、見つけてどうこうできるとは思えないです」
「ていうか、こいつが喰ったんじゃないのか?」
「アオが食べたのは、アイフィスの核と、鱗を何枚か、です。流石に全部の体積をスライムが食べるのは無理ですからね、でっかいので」
『仮に全て喰らおうとしていたら、我輩、今もアイフィスにへばりついているであろう』
どこかとろんとした表情(?)で、スライムは虚空を見つめながら(?)言った。
『なんというかなあ、主観的には自分で自分を喰っている感じになるのでなあ……』
「わかった、嫌なこと思い出させた。俺が悪かった」
とりあえず、スライムの正体が割れたところで、そろそろ本題に行きたい。
そんな俺の意図を察したのか、話を促す前に、リーンは口を開いてくれた。
「包み隠さず説明しちゃいますけど、リングリーンの継承者は、一生に三回まで、アオの真の姿を解き放つことが出来ます。全盛期の蒼竜アイフィスが、実際に顕現するわけですから、そりゃあもうすごいですよ」
「そりゃ、半覚醒状態のヴァミーリが羽ばたいただけで、あれだからな……」
「あんなもんじゃないですよ、アオが……アイフィスが本気になったら、北方大陸全土が永久凍土になっちゃいます」
「……………いやまぁ、そうか、ニコの親のユニコーンの、千倍だもんな」
〝竜骸〟が羽ばたきだけで、レレントにどれだけの被害がでたか、忘れたわけじゃない。
「ただ、この内一回は、ハクラの言ったとおり、クロムロームを封印する際に使用します。なので、私が自分の意志でアイフィスを目覚めさせられるのは、二回までです」
「その内の貴重な一回を、使う羽目になりそうな局面ってことだな」
「まー、三回使い切ると私死んじゃうので、出来れば本っ当~に使いたくないんですけど」
「しれっと大事なことを言うじゃねえか……」
そこまでの制限があるとなると、いざとなったリーンに頼ればいい、と言う考えは、いささか甘すぎたらしい。
「なので、ハクラが私を守ってくれるのが、一番良い形なのです」
リーンは不意に、俺に身体を預けてきた。容赦なく、全体重だ。
「うおっ――――何するつもりだお前」
それがわざとであることは、リーンの表情を見ればわかった。
何か、俺にとっては余計なことを思いついたと、にまにまとした笑顔に書いてある。
「ハクラに、ちょっとしたおまじないをしてあげようと思いまして」
結果として、目をそらせない距離と角度で――これを狙っていたに違いない――細められた翠玉の瞳を脳に焼き付けるように、そっと、正面から囁いた。
「――――信じてますよ」
ああクソ。
「あははは、やーい、照れてる照れてる!」
黙ってしまった時点で、俺の負けだ。リーンからしてみれば、隠しておきたかった秘密を暴かれた仕返しを、即座にしてやったというところなんだろうが。
『これで若干、小僧が不利といった所か……』
「どういう判定なんだ、それは」
……とはいえ、そう言われたら、あとはもう、やるべきことをやるだけだ。
「――――止めるぞ、〝竜骸〟を」
まだですかー! というクレセンの声が、廊下の先から聞こえてきた。




