祈るということ Ⅵ
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「どうも、ありがとうございます。すいませんねえ、ウチのラッチナを送り届けてもらってしまって」
看板に『明るい鶏亭』と書かれた宿は、一階が食事が出来る店舗になっている、旅の宿にはよくある構造の建物だったが、肝心の客がほとんど居ない。
大テーブルに堂々と座っているルーバの他には、店員がカウンターに一人居るだけだった……その上、光石の数も少なく、全体的に薄暗い。
ラッチナを連れて、ザシェの隠れ家を出た頃には、すっかり陽も落ちていたので、余計に際立つ。外から見て、廃屋なのか宿屋なのかわからなかったほどだ。
「どうです? お礼になにかご馳走致しましょうか。いやあラッチナに仕事が入るから最近は経済的な余裕がありましてね」
「お前は……?」
はっはっはっは、と笑って誤魔化すルーバ。
こんな寂れた宿で飯を喰うよりは、ヴァーラッド邸に戻ったほうが美味い飯が食えそうだが……。
と、そこまで言ってから、ルーバはおや? と首をひねった。
「あの、ラッチナはどこへ?」
「ギルクん所の方が飯が美味いからつって、リーンと一緒にヴァーラッド邸に行った」
「ラッチナァアアアアアア!?」
厳密に言うと不機嫌の上限値をぶっちぎったリーンと一緒に行動して、さらに余計な地雷を踏むと厄介なので、先にヴァーラッド邸に戻ってもらい、美味いものを食べてもらって、合流する頃にはある程度機嫌を回復しておいてもらおうという寸法だったのだが、夕餉の予定がシチューだと聞いた瞬間、ラッチナがリーンより先行したというべきか。
「俺はそれを伝えに来ただけだ、じゃあな」
それ以上の用事はないし、帰る時は送り届けなきゃならんから場所を確認したかっただけで、さっさと俺も温かいシチューをいただきたかった。
「いやいやいやいや、お待ち下さいよハクラさん、せめて飲み物ぐらいはいかがです? 積もる話もありますし」
「いや、お前と積もる話は特にないが……」
「そうですかね? 現状のレレントは問題に溢れかえって居ますが、それ故にどこがどうなるかわからなくて面白い、他者の意見もぜひ聞いておきたいところです」
「何で俺がお前を楽しませなきゃあかんのだ」
俺からすると、現状は面白くもなんともない。ただ魔女の計略で確実に失われるものがあるだけで、何かを取り戻せているわけではないが、それはそれとして問題はなんとなく、自分たちの手から離れたところで、なんとか収まりそうだ……という、一番煮え切らない状態だ。
「私が楽しませることも出来ますとも。ザシェさんから使いを頼まれた以上、現状はふんわりと把握しているつもりですが、皆様、一つ足りていないものがあるのでは?」
「知ったような口を利くじゃねえか……」
だんだんイライラしてきたし、またさっきのように我を忘れて手を出すのもごめんだ、さっさと立ち去ろうとしたところで、
「赤竜ヴァミーリについて、どれぐらい知っておられます?」
「何だと?」
「なぜ赤竜ヴァミーリはこの地で〝竜骸〟となったのか。死したはずの竜が動いた理由とは? 取り戻そうというモノのことを知るのは、存外大事なのではありませんか? せっかくタイミングよくゲストも来てくださるのに」
「ゲスト?」
反射的にそう返した瞬間、かつん、と足音が響いた。
二階から誰かが階段を下ってくる……店内が静かなだけに、余計、耳に入る。
「おや…………」
その人物は、痩けた顎を軽く指で擦りながら、俺を見て、目を細めた。
「あなたは……ああ、この前、お会いしましたね……」
古いゼンマイを強引に回したような、錆びついた、かすれた声。
今は鎧を着ていないが、腰に剣はぶら下げている。
長髪を気だるそうにかきあげながら、〝背教者殺し〟ドゥグリー・ルワントンは、ルーバの隣の席に座り、
「麦酒、水で薄めたものを」
と、カウンターに告げると、程なくして店員がやってきて、無言でテーブルにジョッキを置いていった。
なるほど、そういう店か。
「おや…………座らないので……?」
そう問われれば、もう帰るという選択肢は消えていた。
少しリーンを待たせることになるが、仕方ない。
「ハクラ。ハクラ・イスティラだ」
ドゥグリーの対面の椅子に腰掛けて、名乗りたくもない名前を言う羽目になった。
「ドゥグリー・ルワントン……と申します」
知ってる。と言いかけて、やめた。
「ははは、男三人で密会というのも乙なものですねえ……ああ、私はアグイ酒の三年物を、ハクラさんはどうします?」
「水」
「ではそれで」
注文した飲み物はすぐに届き、なんとも奇妙な会合が始まってしまった。
「……奇妙なめぐり合わせだ……数日前まで、剣を交えて居た者同士が、同じ席で酒を飲む……」
「俺は酒じゃねえけどな。……やるなら今からやってもいいんだぜ、俺は今、滅茶苦茶に機嫌が悪い」
「あの、巻き込まれる私は全然よろしくないのですが」
「安心しろ、楽に始末してやる」
「何も安心できない!」
ルーバの戯言はさておき、あからさまな挑発に対しても、ドゥグリーは特に反応を見せることはなかった、ジョッキに口をつけて、
「あなたが……女神への信仰を侮辱するものであれば……私は剣を取りましょう……が」
言葉を止めて、ドゥグリーは灰色の濁った目で、俺をただじっと見た。
「……あなたと……私には、縁がない……我々だけでは、線は……交わるまい……」
「……どういう意味だ?」
「私は、信仰を穢すモノを斬る……だが、あなたは信仰の上に居ない者だ……私とあなたが、相対するとすれば……」
ゴトリ。
ジョッキが机に置かれた。中身は、空になっていた。
「私が信じているものと、あなたが信じているものが、ぶつかった時……自分ではなく、自分の剣を捧げた誰かに、勝利を与えるための、戦いだ……」
「――アンタにとって、それは信仰か?」
即答で、そうだ、と返ってくると思っていた質問に、ドゥグリーはこう答えた。
「いいえ」
〝背教者殺し〟、間違った信仰を抱く者を裁く者。
なら――その信仰が正しいかどうかは、誰が決める?
「私が信じるのは……ただ一人、コーランダ大司教のみ……あの方は、光だ……」
「……そうかよ」
俺はコーランダ大司教の人となりを詳しくは知らない、伝令石越しに演説を聞いただけの印象では『綺麗事を言う気に喰わないお偉いさん』ぐらいのもんだが、ドゥグリーにとっては、きっと違うのだろう、という事を、俺はなぜかすんなり理解できた。
それは、多分、俺がリーンのそばにいるのと、同じ理由なのだ。
「…………なるほど、あなたは、変わった人だ。二人が惹かれたのが、よく分かる……」
「何の話だよ」
「ファイア様も、ルーヴィ様も、あなたの話をしていましたよ……旅の途中で出会った、底抜けにお人好しな、冒険者の話を……」
滅茶苦茶不快な評価を人づてにされていることが、全く想定してない人間の口から出てきた時、どういう顔をすればいいんだろうか。
「おや、〝星紅〟と〝女神の再来〟が評する冒険者の話は是非聞きたいですねえ」
ここまで黙って聞いていたルーバが唐突に口を挟んできたのも厄介だ。今のうちに意識を奪っておくべきか。
「あの二人は…………お互い以外に、心を許さない……籠の中の、小さな鳥だ……」
空になったジョッキを見つめながら、ドゥグリーは独り言のように言葉を吐き出す。
「ルーヴィ様にとって……【聖女機構】の娘たちが、数少ない例外ですが…………アレは、一方的な庇護だった……相互に繋がる、意思ではない……ああ」
それから、ふと何かを思い出したように顔を上げて。
「竜骸神殿で……出会った娘は……初めて、彼女に向き合った……かも、知れませんね……あの子は、良い信仰を持っていた……良い司祭になる……」
あの場にいたクレセンのことを覚えていたことも、評価が高そうなことも、どちらも意外ではあるが。
「よく言うぜ、殺そうとしやがったくせに」
「ルーヴィ様が、割り込める速度に……しましたとも……あの娘に剣を教えたのは……私ですので……」
「そりゃ、初耳の情報だな」
「…………つまりは、二人にとって、他者とは、異物だった……そう育つしかなかった……だからこそ、私は……興味深く思ったのです……」
覇気のない、幽鬼の目。
なのに、その奥には生々しい生命力が満ちていて。
「二人が、最後に話していたのは……あなたの、事でしたから……」
俺のことを睨んでいる、と気づくまで、時間は大してかからなかった。
「…………悪いが、俺はアイツらに気に入られるような事をした覚えは、ない」
「ほう……?」
「そもそも最初は敵だった……いや、別に今も味方ってわけじゃねえけど、ただ行く先々でぶつかることが多かっただけだ」
「……なるほど、やはり……それが理由……いや、すまない、麦酒を……薄めなくて良い。今日は少し……酒を飲みたい……」
途中からは会話にすらなっておらず、追加の酒を頼む。もう、俺に問いかけることはしなかった。
「つーか、そもそもお前らはどういう繋がりなんだ?」
「付き合いの長い知人、というわけでは……ありませんね」
ドゥグリーは淡々と、変わらぬ抑揚で言う。
「はっはっは――――なあに数年前にちょっと殺されかけただけですよ」
「何できっちりトドメ刺さねえんだよ」
「ハクラさん?」
そうすりゃこんな席成立しなかったものを。
「彼の語る話は……興味深いものもありますが……教会の理念に、反するものもある……それを咎めるのも、私の仕事故…………」
「まあそういうわけで彼の前で迂闊なことを口走れない身の上ではあるのですが」
「じゃあ何でこいつ招いて赤竜の話なんてしようと思ったんだ」
思い切りサフィア教に関わる話じゃねえか。
「サフィア教のそれと解釈の違う所があれば、注釈を入れてくれると思いまして。なにせ私の知っているのはあくまで口伝で紡がれてきた、脚色ありきの物語ですから」
「市井の話を咎めるまでは、しませんので……ご自由に……」
ぽろん、といつのまにか弦楽器を弾きながら、吟遊詩人は静かに語り始めた。
「女神サフィアを主題とした物語は多くあれど、その友ヴァミーリに視点を当てた物語は、数少ないのです。故にこそ、我々吟遊詩人が酒の席で面白おかしく語ることも、また必要なのですよ」
「わかったから、さっさと始めてくれ」
「今良いこと言ったんですけどねえ私……ああ、はいはい、わかりました、これより語りますは――――」
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かつて竜とは、世界の支配者であり、全生命の天敵であり、王でした。
赤竜ヴァミーリ、金竜ルード・ゴード、白竜イーヴァス、蒼竜アイフィス、そして黒竜クロムローム。
その中でも、どの竜よりも強く、どの竜よりも暴れん坊だったのが、黒竜クロムロームです。
黒竜が世界の全てを滅ぼそうとした時、立ち上がったのが蒼竜アイフィスを従えた、原初の魔女リングリーン……おっと、この物語はまたどこか別の場所で。
何はともあれ、魔女の活躍によってクロムロームが鎮められ、その次の時代の訪れを、ラディントン山のてっぺんで、ヴァミーリはぽかんとした顔で見ていました。
だって、世界はクロムロームによって滅ぼされると思っていたのですから!
人間が竜に勝てるわけがない! クロムロームにはヴァミーリだって勝てなかったのですから。戦うことを諦めて、一人さっさと逃げ出して、なるようになれと思っていたら、まさかまさかの大逆転!
慌てて地上に降り立ったヴァミーリは、一人の人間と出会います。
薄い、青みがかった紫の瞳と、同じ色の長い長い髪の毛が特徴的な少女の名前は、サフィアリス。
これは、女神と呼ばれた少女と、人間が大嫌いな竜の物語でございます。




