遺すということ Ⅲ
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『お嬢、無事か』
「ええ、まあ、なんとか……」
大きく膨らんだ、我輩の身体から這い出ながら、お嬢は疲れ果てた声を上げた。
お嬢が咄嗟にファイア嬢を抱きかかえてくれたので、赤竜の羽ばたきによって吹き飛ばされた、二人のクッションとなることができた我輩である。
小僧やニコに身体を伸ばす余裕はなく、若干遠くに吹き飛ばされていったが、死んでは居ないだろう、それよりも。
「お母さぁぁん!」「誰か来て! 誰かぁ!」「うう……」「痛い……」「しっかりしろって! おい!」「あぁぁぁぁぁ……」「ごぉ、がぁ、ぐぇ……」「腕、腕ぇ、俺の腕ぇ……」
地獄絵図であった。長く生きてきた我輩であるが、ここまでの惨状は久方ぶりに見る。
〝竜骸〟に轢き潰された建物の内部に居た人間は元より、羽ばたきの余波で吹き飛んだ瓦礫に潰されたものもいれば、逃げ惑う民衆同士に押し潰されたもの、外壁から内側に向けて放たれる矢に貫かれたもの、そして勿論、ワイバーンの爪に裂かれたもの、ブレスを浴びせられたもの、リザードマンの武器で攻撃されたものも居る。
不幸中の幸いであったのは、神殿の周囲は広場や観光地が多く、〝竜骸〟の移動が居住区域に及ばなかったことだろうか。
「あ…………」
改めて、その光景に呆然とするファイア嬢には、何が見えているのだろうか。何が映っているのだろうか。
『ファイア嬢』
「……スライムさん?」
気づけば、我輩は声をかけていた。皆、動揺し、混乱し、何をしていいかわからない状況であるからこそ、言わねばならぬことがある。
『今なら間に合う、姿を隠せ。民衆が君を見つけたら、彼らは逃さないだろう』
彼女の力は、死という運命を覆す。
けれど、所詮人間である。たった一人の少女である。
ユニコーンのような霊獣ではない。
断言しても良い、どれだけ、彼女が非凡で選ばれた存在であったとしても、ラディントンのような奇蹟は起こらない。
何十、何百という人間を、一度に救えはしないのだ。我輩はそれを知っている。
「で、でも――――わ、わたくし、わたくしは」
それを、わかっていても見過ごせぬから、女神の再来、などと呼ばれるのだろう。
人はそれを祭り上げ、讃え、持って生まれた力に、立場を与えてしまったのだろう。
我輩は、それを悪辣であると思う。
「ねえさまが、いなくなってしまったら、わたくしには、もう、これしか」
ファイア嬢が、ふらりと前に出て、怪我人の一人に近づき、跪いた。
膝から下を瓦礫で潰されていた。どう考えても致命傷である。死にゆく人である。
ファイア嬢は、捨てていなかったガラス片を、また、強く握りしめた。鮮血が、手のひらから滴り落ちた。
蒼い光が周囲を満たし、包み込んでいく。空へ向かって柱のように昇る光は、遠目であってもよく目立つ。
レレント中の、救いを求めるものたちが、やがてこの場に集うだろう。
それが意味する所を、理解しながら、聖女は聖句を唱えだす。
「〝私があなたを救いましょう。いずれあなたが救うべき誰かのために〟」
潰れた果実のようになっていた脚が、見る間に癒えていく奇跡を、人々は見た。
それで、縋らぬものなどいるわけがなかった。
「〝祈りを聞き届けましょう、その尊い想いを無駄にしないように〟」
我も我もと、集まり始めた。聖女は血を流しながら、その願いを聞き続けた。血が止まればガラスで傷を切り開く。幾度となく、幾度となく。
「〝全ての傷を、癒やしましょう〟」
祈りの言葉を、吐き出し続けた。どれだけ血を流しても救い切れぬと知りながら。
「止めないんですか、アオ」
『…………』
我輩は、何も答えることが出来なかった。お嬢もそれ以上は何も言わず、繰り返される蒼い奇蹟を、ただ眺めていた。
感謝の声をあげるものがいる、手を組み、祈りを捧げるものがいる。次は自分を救ってくれと、いや、私の子供を助けてくれと祈る親がいる。
ファイア嬢は、その全てに応じ続け――――――。
「何やってんだお前馬鹿か!?」
――――さらなる怪我人に手を伸ばした細い腕を掴んだのは、〝竜骸〟に吹き飛ばされ、ようやく戻って来たのであろう、砂と埃まみれの小僧だった。
〝奇蹟〟の順番待ちをしている人垣を、強引にかき分けてきたらしい。
「…………はくら、さま?」
ぼう、とした様子で、小僧を見上げるファイア嬢、そして。
「お、おい、何するんだ、今は俺の――――――」
今まさに治療を受けようとしていた男が、腕を押さえ抗議の声を上げた。
「腕が折れたぐらいでぎゃあぎゃあ言ってんじゃねえ気合で治せ! 誰もこいつの顔色見てねえのかよ!?」
蒼白、という言葉はこの為に在るのだと言ってよいほど、ファイア嬢の肌は赤みを失っていた。
「つーかお前らも見てないで止めろよ!」
小僧の矛先が、こちらに向いた。お嬢は呆れたように嘆息しながら。
「私は止めましたよ、アオも止めました。聞かなかったのはファイアさんです」
『……お嬢は止めたか?』
「ええ、レレントについた時に」
言うべき事は、あの時点で全て告げた、ということらしい。お嬢らしくはない意地の張り方ではあるが、そう言われれば何も言えぬ。
「ハクラさま、お離し、ください。わたくしは、救わないと」
「その前にお前が死ぬだろうが!」
聖女の奇蹟は、血を媒介として発動する。一度使った血は再利用出来ず、癒やし続けるのであれば、塞がる側から傷を開き、流血し続ける必要がある。
すでに、ファイア嬢のローブは真っ赤に染まり、跪いた足元には布が吸いきれずに溢れた血溜まりが出来上がっていた。誰もが、自分の痛みを何より感じていたが為に、指摘するものはいなかった。
「そ、そんなこと言ったって……」
小僧の剣幕に、男が気圧される。しかし、後方にいる人々には何が起こっているのかわかるまい。立ち上る蒼い光が途絶えた事は、『自分の順番』を待つ人々に、動揺として伝わっていく。
「いいから早くしてくれよ! 次は俺の妻の番なんだ!」「家の子供が先だよ! 目が潰れてんだ!」「ごちゃごちゃ言ってないで治してくれよ、聖女様なんだろ!?」「何のために教会に寄付してると思ってんだ!」「痛いよぉ! おかあさぁん!」「大丈夫よ、今聖女様が治してくれるから……」「腕、くっつくよな、な、なぁ……」
「こいつら――――」
「ハクラさま」
怒りに身を任せそうになった小僧を、ファイア嬢が止めた。
青くなった唇で、うっすらと笑い。
「よいのです、わたくしを、想ってくれて、ありがとう、ございます」
「んな――――――」
小僧が、更に言葉を続けようと口を開きかけたところで、
『きゅぅいっ!』
聞き覚えのある鳴き声と共に、ガラガラと車輪が回る音、蹄が石畳を叩く音が聞こえてきた。
『――ニコ?』
同じく、〝竜骸〟に吹き飛ばされたはずのニコであった。その後ろを、二頭匹の馬車が追いかけるようにして駆けてくる。先導しているようだ。
その登場にあっけにとられたのか、民衆たちの非難も、一時的にではあるが途切れた。
「ハクラ、リーン」
その馬車から、護衛を伴って降りてきたのは、誰であろう、ギルク嬢だった。ファイア嬢ほどではないが、顔が白い。それでも、怪我はなさそうであった。
姿が見えぬと思っていたら、次善の策としてギルク嬢を連れてきたらしい、つくづく、頭の回る馬である。
「ギルク! 無事だった、か――――」
声を上げた小僧が、言葉を失ったのは、その後ろから馬車を降りてきたものの姿を見たからであろう。
イルニース、と呼ばれていた、竜骸神殿で、ギルク嬢に忖度した騎士であった。
彼の腕には、小柄な少女が抱かれていた。我輩らがよく知っている顔であった。
クレセン嬢の胸に、野太い、バリスタの矢が刺さっていた。
衣服は真紅に染まっており、今も、だらだらと血液が溢れ、石畳に新しい雫を落としていた。
「クレセン君を、守れなくて、私」
ギルク嬢の顔は、泣き笑いであった。感情を、どこに置いていいかわからないのだろう。
小僧も、さすがのお嬢も、言葉を失って立ち尽くした。
奇跡を求める人々ですら、領主の娘が、無残な死体を伴って現れたことで、一時的ではあろうが――動揺と共に、沈黙した。
動いたのは、ファイア嬢だけだった。
「あ、ああああ」
よろけながらも、立ち上がり、歯を食いしばりながら歩く。よろよろと左右に揺れながら進む少女のことを、誰も、止めることはできなかった。止める言葉を持たなかった。それほどまでに、ファイア嬢の表情は、悲壮だった。
「ああああああああああああああああああっ!」
言葉にならない悲鳴を上げながら、ガラス片を強く握りしめ、己の手首に押し付けて、横に引いた。
「きゃあ!」
誰かが、悲鳴を上げた。
小さな体に残されていた、僅かな血液が、絞り出されるように吹き出し、クレセン嬢の傷に降り注いだ。蒼い光が、ひときわ強く溢れでて、周囲を染め上げていく。
「あああああああああああっ! ああああああああああっ! ああああっ!」
それはもう、聖句などではなかった、詠唱と呼べる手順もなかった。
処理できない感情を、吐き出し続けるだけの、少女の慟哭であった。
それでも、奇蹟は起こり続けた。




