遺すということ Ⅱ
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「――――――ッ」
ニコが、へたり込むファイアの前に――つまり〝竜骸〟の眼前にたどり着いたのは、ルーヴィが〝竜骸〟の口腔に消えてから、数秒後のことだった。
間に合わなかった。かける言葉すら見つからなかった。
「ねえ、さま」
ファイアが、転げ落ちてきた手首に手を伸ばし、抱きしめると、元々握っていたんだろう、ガラス片を手のひらに思い切り押し当て、横に引いた。面白いぐらい、血が溢れ出る様が、俺からでも見えた。
「ねえさま、ねえさま、ねえさまっ! ねえさまぁっ!」
叫びとともに、蒼い光の粒子が、爆発的な奔流となって、ルーヴィの残骸を包んだ。
だが――どれだけの奇蹟を持ってしても、まさか手首から、新しい人間が生えてくるわけがない。
「やだやだやだやだ、嫌だっ! ねえさま、ねえさまっ!」
叫ぶファイアの腕を、ニコから飛び降りたリーンが、強引に掴んで引き起こした。
「逃げますよファイアさん!」
「でも、ねえさまが」
パン、と鋭い音が響いた。
ぼとりと、先程まで、確かにルーヴィが居た証が、瓦礫の上に落ちた。
「ルーヴィさんは、あなたを守りたかったんでしょう!?」
平手を振り抜いたリーンの表情に、いつもの余裕はなかった。
「――――――っ」
何も言い返せずに、ファイアの腕から、だらりと力が抜けた。血の雫が、ぽたりぽたりと垂れて落ちた。
これで、慰めの言葉でもかけてやれればどれだけよかっただろう。悲劇がここで終わりなら、意味があるかは置いといて、寄り添ってやることぐらいは出来たかも知れない。
だが脅威は依然、眼前にそびえ立っている。どころか――これから俺達も、ルーヴィと同じ末路を辿るかも知れない。
少なくとも――――竜は人を喰うらしかった。
「シャラララララララララ」
不快な、それでいて聞き覚えのある鳴き声。
「てめぇ――セキィイイイイイイイイイイイイイ!」
怒鳴り返す俺を前にしても、当然のように動揺する素振りすら見せない。
「よくやったねェ! こいつに傷をつけるとは驚いたョ。でも、宣言通りだ」
〝竜骸〟の頭部に乗ったまま、勝ち誇った表情で――こいつがどんな顔してるのか、よく分かるようになっちまった――高らかに吼える。
「シャラララララララッ! 俺達の勝ちだねェ!」
その鳴き声に応じるように、黒いワイバーンが、セキの――〝竜骸〟の真上に飛んできた。いや、一匹だけではない。恐らくレレント中に散っていたワイバーンの生き残りが、背や足にリザードマンを携えて、現れた。
セキはそのまま跳躍し、ワイバーンの太い脚に捕まって、器用に背に駆け上がると、〝竜骸〟よりもさらに高みから俺達を見下ろし。
「じゃあな、生き残ったらまた会おうよォ、人間!」
空中で、身を翻した。
「テメ――――逃げるのかよ!?」
「当たり前だろォ? 俺達はねェ――ソレに巻き込まれたくはないんだよォ」
追及している暇も、追いかける余裕も手段もなかった。
『ゴ、ル………………』
〝竜骸〟が、唸った。それだけで、大地が揺れるような振動。
体を震わせ、右眼に剣が突き立ったままであることを厭わず、ゆっくりと顔を上げた。
『グ、ルルルル――――』
頭部から尾にかけて、波が水面を伝わるように、錆びて朽ちていたはずの鱗が、赤く色づいて、輝き出す。ヒビ割れ、乾いていた皮膚が、急激にみずみずしさを取り戻していく。
動く度に生じていた金属音はいつの間にか消え、代わりにバチバチとなにかが爆ぜる音がする。
『グル、ォ………………』
「嘘だろ、おい」
〝竜骸〟は、動いてもなお、死んでいた。ぎこちなく、異音を立てて、無理やり操られている骸に過ぎなかったことが、今ならわかる。
だが、アレはなんだ。
空想上のものだと思っていた竜の、成れの果てに抱いた畏怖すら、生きて動く実物を目の前にすれば些末なものだった。
ユニコーンなど、アレに比べたら蟻だ。
火砕流など、アレに比べたら火の粉だ。
アレは無理だ。
どうにもならない。
その竜は、赤かった。
伝承の中にのみ許されていた架空が、現実に現れてしまった。
もう、骸ではなかった。
『グルォオオオオオァァア――――――』
赤竜ヴァミーリは、今ここに、完全に復活を……遂げたのだ。
「リーン」
理解してしまった。まだ、まだ間に合う。
いや、間に合わないかも知れない。
それでも足掻かなければならない。
生きるための努力だけは放棄できない。
「リーン、逃げ――――」
逃げよう。何を捨ててもいい、今すぐここを離れよう。
そう思って伸ばした手の先にいるリーンは。
まっすぐ、竜を睨みつけて、立っていた。
「……ハクラ」
とん、と杖を鳴らして。
「立ち向かう勇気はありますか?」
そう言った。
こいつが行こうとするなら、俺も行かねばならない。
隣に、居なければならない。
即座にある、と言いたかった。
喉の奥から、その一言が絞り出せない。
そして、俺の心が覚悟を決める時間を待ってくれるほど、現実は優しくも、甘くもない。
竜の、残された左眼が、眼下に居る俺達を射貫いた。
不思議な確信があった、間違いなく、見られている。
「ひ…………」
思わず、ファイアが息を呑んだ以外、誰も、何もできなかった。
もし一歩でも動いて、それがこの竜の気に障ったら、それで『終わる』ことが、本能的に理解できたからだ。
どれぐらいそうしていただろう、恐らく、十秒にも満たなかったはずだ。
ヴァミーリが、動いた。背に携えた、滑らかに動くようになった巨大な翼を、悠然と広げていく。
「……は?」
おい、嘘だろ、まさか。
飛ぶのか、その巨体で。
「――――ハクラ!」
リーンが叫ぶ。視線を送れば、ファイアを抱きしめ、自分から地面に転がって、体を丸めていた。
それが何を意味するのか、理解できるほどの余裕は、俺にはなかった。
ヴァミーリが翼を広げた姿は、体感的には、〝竜骸〟だったころの、倍以上に見えた。ヒトが逆らうことなど考えるべくもない。生きた厄災が、大きく、一度だけ羽ばたき、
「う、お――――――」
破壊の嵐が、巻き起こった。
ヴァミーリの周囲に存在するもの、全てを根こそぎ吹き飛ばす暴風が逆巻く。竜骸神殿からここに至るまで、巨体の背後に積み重なった瓦礫が、紙くずのように舞い上がって――巨大な質量の塊として、降り注ぐ。
こんなもの、ただの災害だった。それでも、正面に居た俺達は、まだ、風に飲まれ、吹き飛ばされて、勢いよく地面を転がるだけで済んだ。
「がっ、ぐっ、――――」
どこまで自分がふっとばされたのか、把握する余裕もなかった。
壊れてなかった建物に身体をぶつけて、咳込み、ようやく体を起こした時、周りの景色は一変していた。
反射的に〝風碧〟の柄に手をかけるも、もう、ヴァミーリはとっくに手の届かない場所に居た。
まさかと思いつつも、視線を空に向ければ、雲と空の間に、かろうじてその姿を捉えることが出来た。アレだけの巨体が、豆粒に見えるほどの高度。もう、戦うとか、追いつくとかいう次元ではない。
ただ、眼下にある、自らを長い間祀ってきた街には、もう何の興味もないようだった。ずっとずっと遠い所を見据えているように、俺の目には映った。
そのまま数十秒、ヴァミーリは滞空を続け、やがて、飛び去っていった。
「…………………………」
それから数分は、誰も、何も動けなかったと思う。
「…………くそ」
この災厄が過ぎ去ったと、そう確信出来るまで、呼吸すら、満足にできなかった。
立ち向かうことは勿論、逃げることすら、俺には出来なかった。
ましてや、リーンの問いに、応えることなんて。
「畜生……ッ!」
この日、レレントは、様々なものを失い。
俺は――ハクラ・イスティラは、負けた。




