遺すということ Ⅰ
◆
「遅かったねェ、ハクラ・イスティラ。俺達の勝ちだねェ」
大きく牙をむき出しする表情が、リザードマンにとっての笑みなのだと気づいた時には、もう全てが遅かった。
赤黒い槍の穂先が〝竜骸〟の表皮に触れた。色水が紙に染み渡るように、槍から色が失せて、代わりに〝竜骸〟の内部へと染み込んでいく――様に見えた。
「このクソトカゲ……!」
やはりあの時、逃がすべきではなかった。
「上等だ、この場で決着つけてやる!」
ニコから飛び降りて、〝風碧〟の柄に手をかけた俺の手を、
「ハクラ! 逃げますよ!」
慌てふためいたリーンが、掴んで、止めた。
「あァ!?」
「動きます!」
何が、に対する疑問に答えてくれたのは、リーンではなかった。
ギギギギギギギギギギギギギギギ。
神殿の屋根は、中央部が穴の空いたドーム状になっている。曲線を描いているから、内側で生じた音は、反射して、また内部に降り注ぎ、最終的に穴の外へ出ていく。
錆びついた歯車を強引に噛み合わせて動かすときのような不快な音、あるいは、ずっと動かしていなかったからくり細工のネジを、強引に巻いた時のような音。
出どころが〝竜骸〟だと、俺はそれを目の当たりにしているのに、とてもではないが信じられなかった。
「オイオイオイオイ」
リーンにそう言われたにもかかわらず、つい確認してしまった。
「あれ、動いてねえ?」
「だから逃げるって言ってるじゃないですかーっ!」
信じたくなかったが、リーンが肯定したのだから、どうしようもない。セキを乗せたまま、〝竜骸〟は、不快な音を上げ続けながら、ゆっくりと、前足を上げ始めた。
「圧倒的だねェ、人間達?」
俺達を見下したセキの姿も、〝竜骸〟の巨体に隠れて見えなくなる。
『きゅいいいいいいいいいいっ!』
そこが、我慢の限界点だったのだろう。俺たちを背に乗せたまま、ニコは身を翻して駆け出した。とにかく距離を取る為の、後先を考えない走りだ。
霊獣であるニコが、全力での逃亡を選んだのだ。リーンは目を閉じて、ニコの小さな馬体にしがみつき、俺はそのリーンにしがみつく形になった。
喋る余裕もないまま、視界の端に映る景色が、凄まじい速度で流れていき、みるみる
〝竜骸〟が遠ざかっていく――逆に言えば、遠目からでも見えるほどの巨体が、とうとう神殿の外にはみ出ていた。空から出られるようにと、天井に空いていた穴は無駄になったわけだ。
「ニコちゃん、ファイアちゃんを探してください、急いで!」
「きゅいっ!」
リーンの指示を聞いて、ニコが鼻を鳴らした。こいつの嗅覚がどれぐらいのものなのかは、俺にはわからないが、宿から俺達の下へ辿り着ける程度には優れているのだ、当てに出来ると思いたい。
「リーン! ファイアならルーヴィが側に居る! 俺らがそっち行くより、ギルク達と合流した方がいいんじゃねえか!?」
あの〝竜骸〟を敵が操作出来ている時点で、現状はほぼ詰みみたいなものだ。
冒険者達も、今は各々迎撃に動いているだろうが、動き出した〝竜骸〟を見れば、身の安全のために我先にレレントを脱出するだろう。俺だって何も知らなければそうする。
少なくとも、レレントが無事に明日を迎えられる未来は想像出来ない……が、この状況で領主を失えば、本格的に街の機能が止まってしまう。
「セキさん達がファイアちゃんを狙ってる理由がはっきりしました!」
「あぁ!?」
「〝竜骸〟を復活させるためです!」
「復活って……もう動いてるじゃねえか!」
ニコが顔をピクリとあげて、前傾姿勢になった。恐らく、ファイアの匂いを嗅ぎつけたのだろう、みるみる速度が上がっていく。
「あれは動いてるだけです、生き返ったわけじゃありません! ハクラ、レストンを覚えてますか!?」
「忘れるわけ…………ねえだろっ!」
クラウナ、エリフェル、デルグ。あの一件に関わった連中の顔と名前は忘れようにも忘れられない。クレセンやルーヴィと初めて会ったのもそういやその絡みだった。
だが、わざわざ思い出話がしたいわけじゃないだろう、この場でその名前が出てくるということは。
「〝竜骸〟って要するに竜の死骸じゃないですか!」
レストンを全滅させた魔物、それを生み出した魔女の事件の話を、持ち出してきた理由。
即ち、赤竜のリビングデッド。
「どっちかというとミイラかも知れませんがっ! 下手人であるセキさんは間違いなく魔女の眷属です! あの槍に込められた『呪い』は恐らく、〝竜骸〟を一時的にリビングデッドとして使役する為のものだと思います! ですが!」
ニコの走りは速度重視で、背に乗せている俺達の乗り心地を気遣え無いほどに荒い。途中、何度か舌を噛みそうになって、言葉が途切れる。
「そんなに長くは保たないはずです! あれだけの巨体を動かす魔素をどこから賄って来たのか見当もつきませんけど、長くて十分……もっと短いかも! でもファイアさんの力を〝竜骸〟に使えば、もしかしたら……」
「完全に動き出して蘇るってか!? 本気で言ってんのか!?」
「少なくとも、今の図を考えた魔女はそう思ってるはずです! ファイアさんの性格上、この怪我人や死人ゴチャゴチャの状況で、レレントから逃げ出そうとはしないはずです!」
こうして移動しているだけでも、そこいらから怒号と悲鳴が聞こえてくる。勿論、宙を飛び交うワイバーンも、武器を振り回すリザードマンの姿も見えるが、今、誰かを助けたり、いちいち迎撃したりする余裕は、ない。
「つったって、わざわざ素直に〝竜骸〟を蘇生させるか!?」
「セキさんが市民に槍を突きつけて脅したら、言うこと聞いちゃいますよあの娘は!」
「……だろうな」
それは、容易に想像できる光景だった。
「ところでよ」
「はい」
「ニコ、〝竜骸〟に近づいていってねえか?」
「気づきましたか」
『ぎゅいー……』
聞いたことも無い鳴き声を上げる辺り、本当は嫌なんだろう。我先に逃げたわけだし。
一度は離れられたはずの〝竜骸〟の姿が、だんだん大きくなっていく。
それはつまり、〝竜骸〟もファイアに向かっているという事だ。
「――――お前の予想が当たってそうだって話だよな、クソッ!」
〝竜骸〟が通過した後の瓦礫を足場にして、背後に飛び出る。ほんの数十メートル。
ニコの速度なら、すぐに会敵する距離だ。
「どうするリーン! セキを倒せば止まるのか!?」
未だ〝竜骸〟の背の上に立つリザードマンの姿も視認出来た。槍を掲げながら大口を開いて居る所を見ると、ワイバーン共に指示を出しているのかも知れない。
「直接操ってるのはセキさんじゃないはずです! 流石にリザードマンにそんな能力はありません!」
「だったら――」
「〝竜骸〟との直接戦闘はいくらなんでも無理です! 先回りしてファイアさんを救出して――――」
この数秒後に。
俺達は、全てが手遅れだった事を思い知る。
†
「ねえさまああああああああああああああああああっ!?」
妹の声が、耳を打つ。
右腕を、肩から持っていかれた。身体から熱が引いていくのを感じる。力が入らない。だけど、動けと思えば、まだ跳ぶことが出来た。私の脚は、私の意志についてきた。
これが〝竜骸〟だったとして、何故動いているのか、何故ファイアを狙ったのか。
そんなことはどうでも良かった、ただ、あの子に近づく、害あるもの全てを、私は斬り伏せなければならない。
そうでなければ、私が存在している意味がない。
竜の鼻を踏みつけて、失った腕の代わりに、左手で抜いた愛剣を、大きく開いた右眼に突き立てる。身体は、訓練した通りに、よどみなく動いた。
硬い――――水晶窟の外壁にピッケルを叩き込んだような感触が、伝わってきた。
残った左腕が、反動で折れた。知ったことじゃない。
「ああああああああああああああああああっ!」
時間を稼げればいい、一歩でもあの子が遠くに逃げられれば、それでいい。
体に残っている全てを総動員して、力を込める。少しでも、食い込みさえすれば。
「がっ――――――」
不意に身体が押されて、腹部が重たくなった。痛みはない。
なのに、どうして、それ以上動けないのだろう。
いつの間にか、竜の頭部の上に、鎧を着込んだリザードマンが居た。気づかなかった。何かを投げたような姿勢で、固まっている。
そこでようやく、私は、腹をなにかに貫かれている事に気づいた。
槍か、剣か、棒か。判別できないが、刺さっている。腹に、深々と。
視界がぐらつく。薄れていく。まだ、戦わなくては。
「いやっ! やめてっ! いやぁっ!」
――――叫ぶ妹の身体から立ち上る、淡く、蒼い光が私を包んでいた。
痛みが、急激に薄れていく。身体に、力が戻っていく。
これが、最後のチャンスだと、私の中で培われた、あらゆる経験が告げていた。
「逃げ、て……ファイア!」
それでも、私を助けるためにこの場にいられたら、本末転倒。
私を助ける暇があるなら、逃げて欲しい、なのにこの子はいつもそうだ。
私の言うことなんて、聞いてくれやしない。
「やだ! ねえさまが一緒じゃないといやだぁっ!」
それは言わないって、約束したのに。
蒼い光が、さらに強くなっていく。折れたはずの腕に、もう一度、
「我儘――――――」
妹から貰った、全ての力を込めて、
「言わない、で――――――っ!」
貫く。
『ゴッ』
剣の先端が、色を取り戻し始めた竜の瞳に、わずかに食い込んだ。
〝竜骸〟が、喉の奥から音を出した。通用しているのか、痛みがあるのか。
それなら、何かを感じるのであれば――――剣が通るなら。
もっと、もっと奥まで――――――――――――――
『ゴォオオオオオオオオオオオオ!』
――――その、悲鳴のような砲声が、私の刃で得られた、全てだった。
耳の奥が弾けて、何も聞こえなくなった。全身を打ち据える衝撃に耐えきれず、私の身体は、宙に投げ出された。
それで、私にかけられた魔法は、消えた。
途端に視界の半分が赤く染まり、思い出したように血を吐き出す身体には、もう何の力も入らなかった。
混ざる。まざる。思考がまざる。まざる。浮遊感。何かがせまってくる。なにかが。
まっかな、まわるしかいで、まわりをみる。あのこはぶじかな。あおいろをさがす。
さみしがりやだから、なきむしだから。
みつけたのは、しろいいろ。ああ、おまえにも、いいたいことがあるのに。
でも、どうかおねがい。わたしはいいから、もういいから。
わたしのいもうとを、かぞくを、なかまを。
たすけて。
◆
『ゴォオオオオオオオオオオオオ!』
〝竜骸〟が、吼えた。
あまりの声量の大きさに、そのものが衝撃波となって、辺り一帯に襲いかかる。
「あ――――――」
リーンが、何かに気づいた。俺も、その視線を追って、気づいた。
〝竜骸〟の頭部から、落下していく影がある。
赤い髪の毛、純白の鎧、紅いマント。
「ルーヴィ――――――」
名前を呼んでも、手を伸ばしても、今、俺達がいる位置から、届くわけがなかった。遠すぎた。
〝竜骸〟は――己の体躯からしてみれば、豆粒に等しいような、小さな体に対して――大きく口を開けた。
「な――――おい、待て――――やめろっ!」
聞き入れてくれたら、どれだけ良かったか。
口腔内に、身体が収まって、閉じる瞬間――――よりによって、そんなタイミングで、ルーヴィの視線が、赤い瞳が、俺を見た。目が合った。
「 」
何かを呟くように、口を動かした。その表情が、目に焼き付いて、離れなかった。
上顎と下顎が噛み合わさった。ブチンと音を立てて、牙の隙間から、僅かにはみ出た左の手首が、勢いよく血を巻き散らかして、落ちていった。
それが、たった十三歳の特級騎士、ルーヴィ・ミアスピカの最期だった。




