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アイロンとくれよん

作者: 野堀ゆん

 子どもの頃から僕のポケットには、いつだって秘密がつまっている。河原で見つけたエメラルドグリーンの石。渡せなかった手紙。姉ちゃんのお菓子箱からくすねてきたこんぺいとう。入れ代わり立ち代わりポケットに納められては、いつのまにか消えていった。

 けど、いつだって入っていた秘密もある。それは親友にも、初めてできた彼女にも、誰にも話したことのない、とっておきの秘密。

 深緑のくれよんだ。





「アイロンとくれよん」





 深緑のくれよんは特別なものだった。普通の緑のくれよんなら、画用紙一杯に恐竜を描くためだけに使い切ってしまった。深緑のくれよんは、紙の上に絵を描くことはできなかった。けど代わりに、空に絵を描くことができた。一度大きく飛行機を描いたら大人たちが墜落機と勘違いして混乱してしまったので、それ以来思いっきり空に描くことはやめてしまった。魔法のくれよんは、使い切ってしまうには惜しかった、というのも、ある。

 僕のポケットにはいつだって、深緑のくれよんが入っていた。いつからポケットに入ってたかは覚えていないけれど。本当に小さい頃からずっと、深緑のクレヨンを持ち歩いていた。深緑のくれよんは、いつだって僕と一緒だった。困ったとき。緊張したとき。悲しいとき。嬉しいとき。ポケットにそっと手を入れて深緑のくれよんを握りしめると、余計に吸いすぎた息を一つ、上手く吐き出すことができた。

 そうしながら。学校へ行き。親友ができ。恋人ができ。学校を出て。社会人になり。結婚し。子どもができた。何かが起きるたびに、気付けばくれよんを握りしめる場面は減っていった。

 カーテンと共に窓を開ける。外はいい天気だ。電気をつけなくても充分に明るい、日曜の昼下がり。息子はサッカーボールを持ってマンションの一階に降りていった。奥さんはそんな息子のあとを小走りで追いかけていった。二人の姿はじきに、窓の外に見えるだろう。

 絵画教室で出会った奥さんと僕の子どもである息子は、驚くほど絵に興味を示さなかった。子どもの頃に美術館につれていきすぎたのかもしれない。絵は、静かにしなくてはいけない退屈なものだと、息子は思っているようだった。僕が息子に与えた十二色のクレヨンは、机の奥で眠っていることだろう。

 代わりにサッカーに夢中で、この間の誕生日に本格的なサッカーボールをプレゼントしたら文字通り飛び上がって喜んだ。早速ヘディングの練習を始めたものの、硬い皮のボールの痛みに耐えられず、うずくまって泣いていた。それから、息子が泣いているのを見つけた奥さんに、早速ヘディングの練習を禁止された。今は壁を相手にインサイドキックの練習をしている。

 押し入れの襖を開き、中からアイロン台とアイロンを取り出す。今も働いている奥さんとの取り決めで、自分のワイシャツは自分でアイロンをかけることになっている。

 もう四月。桜の蕾がほころび始めている。その色に合わせて薄いピンクのワイシャツを選んだ。霧吹きして、アイロンをかけはじめたところで、新年度だから糊付けをしようと思いつく。あとで靴も磨いておこう。

 皺一つなくなったワイシャツをハンガーにかける。ついでにスーツと、ワイシャツの色に合わせた赤めのネクタイも隣にかけておく。埃とりを軽くかける。それから。ポケットから深緑のくれよんを取り出して、ジャケットの内ポケットに入れる。これで準備は完了だ。不安に、喜びに、深緑のくれよんを握りしめることはなくなっても。深緑色のくれよんを持ち歩いている。確かめるように、外から深緑色のクレヨンを叩く。今の僕にはそれで充分だ。

 アイロンとアイロン台、霧吹きと糊を片づけ、窓を閉める。息子が一人でボールを蹴っているのを、奥さんは近くで眺めていた。いつまでも壁が相手では退屈だろう。鍵を片手に部屋を出た。

 マンションの廊下にはもう既に、近くの公園の桜の花びらが飛んできていた。ボール遊び禁止の公園だが、息子を連れて行くのもいいだろう。

 春の、少し灰色がかった青い空を見ながらそう思う。

 僕は今でも、いつだって、魔法と一緒だ。

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