14 エスコート(4)
手元にはもちろん葉牡丹などない。杉本梨南が近づいてきてじっと乙彦を見つめた時、また誰かが好奇心丸出しで覗き込んできた。
「お時間いただけますか」
また呼びかけてくる。
「少しだけならかまわない」
「ありがとうございます」
また堅苦しい挨拶を交わす。できれば静内が残っていてもらえると一番ありがたかったのだが。
──静内の奴、いったいどんな話していたんだろうか。
事情は一学期の段階でかんたんに説明してある。ちょっとだけ誤解されたこともある。ただ外部生という立場上それ以上の細かい事情は気づいていないに違いない。楽な反面ここではっきり言い切っておいたほうが後々面倒でないような気もした。
「それでは、教師用玄関で靴を履き替えてきます」
小走りに玄関を出ていった杉本を見送った後、乙彦は反対側の教師用玄関に歩いていった。あまり人に見られたくはないのだが、事情が事情だ仕方あるまい。それに、
──お別れの挨拶、であれば。
これが最後なのだから。
杉本梨南が来客者名簿に名前を書き込み、スリッパに履き替え改めて乙彦に向かい合った。
立ち止まったまま話をするのもなんだろうしどこかに連れて行かねばならない。自分で言い出したものの乙彦も場所に苦慮していた。普通であれば図書室あたりか他の空き教室あたりだろうが、明らかに誤解を招く可能性が高い。いやとっくに、こうやってふたりで話をしている段階で明日以降の噂が流布されるのは確実。それであれば堂々とどこでもいいのではという気もしてくる。
「お話は主に二点ございます」
さっそく用件に入ろうとする杉本を制した。さすがにここではまずい。急いで場所を考えた後、
「とりあえず三階に行こう」
目の前の階段を指差した。ふたりきりで話が出来そうな場所が一箇所ある。杉本は頷き、コートを脱いで腕にかけ、黙って乙彦の後ろに続いた。タイミング悪く、泉州と阿木のふたりと顔を合わせてしまったが乙彦にだけ意味ありげな視線を飛ばし、目礼だけで立ち去ってくれたのがありがたかった。これが清坂とか古川だったらしゃれにならない。
「ここは?」
「たぶん、ここなら大丈夫だろう」
三階奥の音楽室まで案内し、扉を細く開き覗き込んだ。
「いつもなら吹奏楽部の連中が練習しているんだが今日は誰もいないようだ」
江波たちが「今日の稽古は体育館なんだぜ。卒業式前のリハーサルだとさ」と愚痴っていたのを何となく覚えていた。なんとはなしに聞いていたのだが、それであればたぶん音楽室は空いているだろうと読んだだけだった。音楽室自体はピアノの練習をするためよく立村が立ち寄っていると聞いている。万が一他の連中に見られても奥には音楽準備室も設置されているのでふたりきりであぶなっかしいとかそういうことはまずない。それにまだ明るい。広い。
杉本は静かに入ってきた。同時にぐるりと見渡して、
「音楽室ですか」
じっとピアノに目を向けた。
「今なら誰もいない。その二点の件について話してくれないか」
「かしこまりました」
きわめて事務的な会話にとどまる。乙彦とて朴念仁ではないわけで、杉本梨南が何を心に秘めて現れたのかを読み取れないわけではない。三年前に杉本が乙彦に向かって約束した言葉もほんのわずか記憶には残っている。ただ、そのことについてはとっくの昔に時効だろうしそもそも、
──果たせないものに終わっている。
とも聞いている。すなわちそれが、
──青潟東高校に合格する。
という目標を。
ひそかに胸撫で下ろしている本心と、もう枯れているであろう、水野さんの下に預けた葉牡丹も。乙彦が杉本梨南にしてやれることはひとつもない。
杉本は背を正し、乙彦の立つグランドピアノの脇に一歩近づいた。あの壊れそうな瞳でじっと見据えながら、ぐいと胸元を突き出すようにして、
「一点目は、三年前のお約束の件です」
目が一瞬泳いだのは、その突き出された胸が奇妙に揺れたことだった。すぐに逸らし、乙彦は杉本の顔をじっと見返すことに専念した。
「約束、とは」
「覚えていらっしゃるでしょうが、水鳥中学にお伺いした際、私は関崎さんにお約束させていただきました。必ず青潟東高校にトップの成績で合格し、その上であなた様に想いのたけをお伝えするつもりでおりました」
──「あなた様」? 「想いのたけ」?
乙彦の語彙に存在しない言葉だらけで相槌打てず。
杉本は血の気のない顔をそのまま向けて、
「残念ながらその夢は潰えました。公立高校を受験するということを阻まれるとは当時の私も想像だにしておりませんでした。一度お約束したことをたがえたことについてはお詫びしなくてはなりません。申し訳ございませんでした」
──いや、忘れてもらえていたほうがはるかにありがたい。
思ったことを口に出してはなるまい。心に戒めた。
「しかしながら、あなた様の青潟大学附属高校でのご活躍ぶりを聞き知るに当たって、私の鑑識眼は正しかったのだと思わすにはおれません。関崎さんのご多幸を心よりお祈りいたします」
形式ばったお礼状であればもちろんありがちな文言なのだが、面と向かって伝えられるとそれこそ英語以上の異国語に聞こえてしまう。
「いや、こちらこそ、何も答えられず申し訳ない」
それしか言いようがない。目の前でいじらしく……という風情を感じさせない、不思議なまでの圧力……見つめている杉本には乙彦も詫びるしかない。一年間、杉本に恋の炎を背負って追いかけられなかったことが実は青大附高生活における僥倖だったのだ、などとは絶対に思ってはならないことだ。入学当時そのことはひそかに恐れていたけれども、佐賀はるみが陰で押さえていたり、立村が全力全霊で杉本を守ろうとしていたりして、直接アプローチされずにこれまできた。その点、良識ある行動を取ってくれたことに対しては感謝したい。ただどうしても、
──なぜ、こうも、逃げたくなるのか。
よく話をしている女子たちの中に決して混ぜたくない要素を背負った存在であることは、いまだに変わらなかった。
「卒業後は、進学は」
「なずな女学院と申します私塾に参ります。青潟からは遠く離れている学校です。寮に入りますので少なくとも三年間は青潟には戻りません」
杉本は一呼吸置いてから、ぐいと顔を挙げた。
「もう二度と、お会いすることは叶わないかと存じます」




