9 予餞会前日(3)
非常に気になった霧島の後姿だが、なにせ乙彦にはもっと面倒を見なくてはならない奴がいる。家についてからすぐ、内川の家に電話をかけた。シチューのとろけそうな匂いが家中に漂っていて腹の虫がけたたましく鳴いている。
「あの、こんばんは。関崎です」
──あら、おとひっちゃんこんばんは。今回は本当に、ものすごくお世話になったわねえ
受話器の向こうは内川のお母さんだ。水鳥中学の関係者で母と名のつく人の七割がたは乙彦を「おとひっちゃん」と呼ぶ。今更苛立ってもしょうがない。慣れだ。
「ええとあの」
──あの子のこと心配してくれたのねえ。ありがとうねえ。
なんだかのほほんとしすぎているような気がする内川のお母さん。仮にも自分の息子が受験失敗したのだからもっとどん底で泣いていても不思議はないと覚悟して掛けたつもりだったのだが。
──最初っから手が届くわけないって親のほうとしてもわかってたし、記念にってね。
「でも、本当によくがんばってました」
──あの、片岡さんのお坊ちゃんにもほんとお世話になったわあ。
「あのそれで」
あいつはどこにいるのかを確認したかったのだが、ようやくお母さんは説明してくれた。
──あの子ねえ、ずっと部屋の中で泣き同士泣いてたけど、今さっきね、片岡くんがお兄さんと一緒に迎えに来てくれて、今晩は泊まりにおいでってわざわざ連れ出してくれたのよ。昨日も焼肉ご馳走してくれたし、本当に何から何までうちのぼんくら息子のためにね。これもねえ。
乙彦が言葉を飲み込んでいる中、内川のお母さんはあっけらかんと言い放った。
──おとひっちゃんがいいお友だちを紹介してくれたおかげねえ。なんだか我が家があいつの青大附高入試でしっちゃかめっちゃかだったけど、終わってみたらいい先輩にも出会えたみたいだしね。まあ次の公立入試ではがんばってもらいましょうってとこね。
この母にしてこの息子あり。実感した。
──やっぱりしんどかったんだな。
内川家のおおらかな受け止め方の反面、やはり本人は落ち込んでいたようだ。片岡が授業終わってからわざわざ桂さんと一緒に迎えにきて連れ出したということは、今頃三人でやけ食いしているに違いない。食って憂さを晴らせるのであればかえってそれのほうがいいのかもしれない。なにせ片岡もしょんぼりしていたのだから。今まで二人三脚でがんばってきたのだから、内川も少しは落ち着くんじゃないかと思う。
母お手製のシチューを三杯お代わりして平らげた後、乙彦はもう一度受話器に向かった。
──関崎くん、どうもどうも。
いつも思うのだがなぜ片岡家に電話をかけると、乙彦が名乗らぬ前から桂さんが嬉々とした声ですぐ名指しするのだろう。超能力あるんだろうか。
「すいません、さっき内川の家にかけて、そしたら」
──ご名答。実はな、司がウッチー心配だから様子見に行きたいっていいだしてなあ。俺もそりゃ当然ってことで遊びに行ったらやっぱりこれはエネルギー補給しないとなあってとこで、今司と一緒に焼き芋食ってるところ。
「焼き芋、ですか」
──そ。こんどお前さんも来い。うめえぞお。んでだ。今日は悪いんだがあのふたりをそっとしておいてもらえないかなあ。
先手を取られた。本当は片岡に内川の様子を聞きたかったのと、できれば内川本人と話したかった。気の利いたことが言えるわけでもないけれどもそれなりに先輩としての想いは伝えたい。
「ですが、あの俺も」
──わかってるわかってる。お前さんがな、可愛い後輩のこと気遣ってるのはよーくわかるし、ウッチーも承知してるよ。明日以降ぽんと背中叩いてやれ。ただな、落ち込んでる時には同じくどつぼ経験している奴の方がいいのも確かなんだよ。司なら、今のウッチーに一番寄り添えるんじゃねえのかなと、身びいきながら俺もそう思っててな。
「あの、それを言うなら俺も」
──関崎くん、今ちょうど真剣にふたりが語り出してるとこで、ちょっとばかり邪魔入れたくとこなんだ。悪い。またこの埋め合わせはしよう。次会う時に俺のお手製ちゃんぽんを楽しみに待っててくれ。
なんだか乙彦を邪魔者扱いされたようであまり面白くない。かくなるうえは約束通り桂さんお手製の極上ちゃんぽんを三皿くらい平らげようと心に決めた。
受話器を置いてこなれぬ腹をぽんぽん叩きながら部屋に戻ろうとすると、今度は向こうから鳴った。仕方なく出ると、
──おとひっちゃん? 俺、雅弘だけど。
こちらから本当は掛けなくてはならない相手からかかってきた。
「雅弘、ちょうどよかった、俺もお前に連絡するつもりだったんだ」
可南女子高生徒会との交流状況について、雅弘経由で水野さんから聞くつもりでいたのだがついつい遅くなってしまっていた。
──あのさ、この前おとひっちゃん話してたことなんだけどさ。ほら言ってただろ、可南女子高校の交流会のことなんだけどさ。さっきたんと今話しててそれでおとひっちゃんに伝えようかなって想ってたんだ。
「教えてくれ。ちなみに青大附高ではウェルカムだ。今、渉外と顧問が動いている」
──それなんだけど、現段階でさっきたんに発言権全然なくって顧問同士の話し合いになってるみたいなんだよ。さっきたんもおとひっちゃんの提案すっごく喜んでてぜひって言ってるんだけど、可南は青大附高と違って生徒の発言権全然ないんだって。
やはり青大附高は特殊な環境なのだろう。しかかたないだろう。
──けどさっきたん、おとひっちゃんのおかげで勇気出たって。がんばろうって気になれたって。だから絶対無駄じゃないよ。たぶん四月以降になる可能性高いけどその時はよろしくって伝えて欲しいって言われたよ。たぶん今度直接おとひっちゃんに言ってくるんじゃないかな。
妙に身体が熱っぽいのは、まさか変な風邪もらったからじゃないだろうか。早く風呂に入って寝よう。
──それとさ、おとひっちゃん。この前、郷土資料館で佐賀さんが一年下の男子に絡まれてるとこ見たって言ってただろ? 俺、なんか気になってさ。健吾くんがこの前うちの店に来てくれた時伝えておいたんだ。
「おい、お前それ告げ口だろ!」
あせる。そんなつもりで雅弘に伝えたわけじゃないのだ。雅弘からしたら新井林と佐賀のみの視点でしか見ることできないだろうが、乙彦からしたら霧島も十分知り合いのひとりだ。癖はあるが悪い奴ではない。
──だってさ、俺もたまに佐賀さんと店で話をするけど、健吾くんに誤解されたくないっていつもしょんぼりしてるんだよ。きっとその男子がまとわりついているからなんだなってことで、伝えただけだよ。まあ、おとひっちゃんに許可もらわなかったのは、ごめん、だけど。
「言ってしまったんだったらしょうがない。どうせ新井林も気づいていたんだろう」
どちらにせよ新井林と霧島との間で恋人を巡る決闘は避けられないだろう。
──それでさ、さっきたまたま佐賀さんがうちの店に来たんだけど。
「ずいぶんしょっちゅう来るな」
──だって本屋なんだよ、しょうがないよ誰でも来るよ。御礼言われたんだ。誤解が解けてよかったって。結局、新井林くんがそいつに決闘申し込んで余裕で勝ったらしいんだ。ほら、おとひっちゃんがそいつとふたりでいるとこ見たって言ってただろ。あれはさ、佐賀さんが無理やり迫られてただけなんだって。
聞きもしないのに雅弘は一方的にぺらぺら並べ立てていく。乙彦は黙って聞き流しつつふと、背中を震わせながら歩く霧島と、なぜか先導していく杉本梨南の姿を目に浮かべた。
──負け戦の帰りだったのか。




