イナ駅
機械式腕時計のふりをしたそれを、既に何回か確認している。もう1時間以上は走り続けてるな。いくら私が車窓からの景色を愛でると言ったって、さすがに飽きてきた。そういや時計っぽいこれ、ゲームになったりしないのかな。いやいや、旅にそれは邪道だ。あーあ、せめて他にも旅人がいたらな。お喋りで気を紛らわせたのに。そんな時のマストアイテム、冷凍みかん。あ。こんな陽気だし、思い出したら食べたくなっちゃった。車内販売してないかな。
そうだ、他の車両に誰かいるかも。なんとなく決めつけて探してなかったもんね。よーし。私は立とうとし、わっ。体重が爪先に移ってる、その時だった。列車が急減速をし始め、私は危うく顔から前の座席に突っ込みそうになったのだ。え、緊急停車? 咄嗟についた両手に暫く力を込め続け、完全に止まったところで首を伸ばし、外を見る。ふむ。普通に駅に着いただけみたいですネ。はぁ、なんだかなぁ。車内放送はひとつも無いし、運転手さんは乱暴だし。おもてなしの心が足りないよね、絶賛無銭乗車中の私はちょっと憤慨する。再びお茶の包みだけを車内に残して、乗降口へ向かった。
プラットフォームに降り立って、駅名を探してみる。今度は “イナ” 駅ときた。否。異なかな。そろそろこの旅に慣れてきた私は、後者じゃないかと睨んでみる。今度はどんな不可思議体験が出来るのだろうか。むむ、テンション上がってきた。
表示に従って、自然と大股になって駅舎の出口へ向かうと、途中、通路がトンネルの中へ続いてる。案外暗いな、ちょっと足下不安だな。歩調を緩めたのも束の間、突然強い風に背中を押され、帽子を飛ばされかけた。わわ、何このトンネル、危ないんじゃないの? 強風はおさまる気配がまったく無い。危険を感じ、慌ててしゃがみ込んだ私の目に、風下の出口が明るく見えた。風は私を追い立てるように、髪の端や衣服の裾を激しくばたつかせる。意を決し、風下目掛けて駆け出した。私の耳許で風が一際高く鳴って、何故だかそれが歓声に聞こえた。出口までもう少し。風がぐんぐん背中を押して、殆ど転げるように走ってる。外へ出た…って! ええーっ!!
私は上体を後ろに引いて全体重を踵にかけるけど、だめ、止まれない! 逆立つ髪、最後の手段と思って地面を力いっぱい蹴りつけ、両足を空へ向けた。あいたっ! 逆噴射キックとも呼べそうなその一蹴りは、無事に私の突進を止めた。けれど受け身までは取れなくて、お尻をもろに固い地面に打ち付けてしまった。声にならぬ声で唸り、涙目で腰をさすりつつ身を起こす。そんな私の傍をまた風が吹き抜けていったけど、今度は何故か、自分ががっかりされたような肌触りだった。
まだ心臓がばくばくいってる。腰が抜けちゃって立ち上がれない。そりゃそうだ、私の目の前に大きく口を開けてるのは、まさに千尋の谷なんだから。私が突っ走ってきたトンネルの出口が設けられているのは、どうやら断崖絶壁の中腹のようだった。出口から続いて、猫の額ほどのコンクリ製テラスが張り出していて、半円形のそれの突端ぎりぎりの所に私はへたり込んでいる。あわわ。見るのも恐い深い谷底から、冷たい風が吹き上げてきた。それに前髪をなぶられ、腰に力が入らぬまま、腕の力だけで後ずさった。
ようやく人心地がついた。それで始めて目に留まったのだけれど、実はこの谷向こう、こっちより土地が低くなっている。そして、お陰で一望できるその眺めといったら! さっきまでの恐い思いなんか木っ端微塵に吹き飛ばしてくれる、快哉叫ばずにはいられないものだった。それは奇岩が密集した広野だった。増改築を繰り返しながら高くなっていった塔があり、滑らかな縁・滑らかな波形があり、幾何学の問いに添えられた図形が空ろにあり、何かを模した形がある。加えて興味深いことに、塔状の岩の間や穿たれた穴のあちこちに、一本の綱に様々な笛をまちまちな数取り付けた仕掛けが、一つ一つ差し渡されていた。私は音楽には詳しくないけれど、どうもその一本一本が、一つの和音を表現してるような気がする。それらの笛は、風が弱い時はてんでにぴーぷーと恥ずかしげに鳴っていて、それで遠目に見る私にも笛と分かったのだけれど、ひとたび大きな風が奇岩の間を通り抜けると、一転、一致団結して世界を朗らかに振るわせてみせるのだった。凄いなぁ。どんな人がこの楽器を作ったんだろう。きっとここでは、風が生活の一部なんだろうな。するとあの奇岩の群れも、風が彫刻したのかも知れないね。
笛たちに名演をさせた風が、ぐうっと回ってこちらに向かってくるようだった。低い轟きが正面から、急速に近付いてくるけれど、私はむしろ拍手で迎えたい気分だった。実際そうしたら、あっ、帽子が飛ばされた! まだ座り込んでいた私だから、慌てて上体を捻ったところで間に合わないよね。けれど、勢い良く振り返ってみて、思わず目を丸くしてしまう。帽子は、私の頭からちょっと風に引っ張られただけで、まだ手の届く高さで、くるくる回りながら浮かんでいたのだ。目を奪われ、ゆっくりそちらへ向き直ってみても、まだ帽子は宙に浮いている。そっと両手を差し上げた。帽子の回転がぴたっとやんで、きちんと差し出してもらえそうな雰囲気になった。いや、雰囲気じゃなかった、私は本当に、帽子をそっと両手に載せてもらえたのだ。一瞬、私は状況を忘れて、相手の顔を見ようとしてしまう。いや、ある訳ないよね。けれど、その代わりのように、私の耳許で風が丸く鳴った。…えっ。そうだったの? それは思いも寄らぬ告白。自分はさっきからずっと、あなたを遊びに誘おうとしてた。その風は、確かにそう言ったのだ。
一緒に風になりましょう。風はそれだけ言うと、私から離れて行ってしまう。いや、なりましょうって、ホント要件だけですな。でも私は、風になる方法なら既に分かってるような気がした。それにここは “異な” 駅だ、それで正しいに決まってる。私はすっくと立ち上がると、衣服の埃を払うのもそこそこに、トンネルの中へ駆け戻った。うん、きっと風になる! 私も笛に合奏させて、岩で創作する!
トンネルの奥まで戻ると、元来た方へ振り返った。よーし、行っくぞー! 私は走り易いよう、大胆にワンピの裾をたくし上げ、緩く縛ると、頭の中で号砲一発、全力で駆け出した。直ぐさま風が追ってきて、足が浮いて空回りしそうになるくらい、頼もしく背中を押してくれる。やっぱりこれで風になれるんだ! 確信し、ふんすっ、と鼻息荒くして、更に足を速める。風下の出口までもう少し。3,2,1! 私は大空の下へ、いいや、真っ只中へ飛び出した。行っけーっ!
…おんや。これで風になれたつもりの私だったけど、なんか様子がおかしい。飛翔感が全然無いのだ。それどころか、私は今、四方八方から体当たりを受けている。猛烈に揉みくちゃにされている。かくいう私も、近くの何者かを揉みくちゃにしてしまっている。これ要するに、私はこの場に釘付けにされてしまっている。
よっぽど気を張ってないと簡単に意識が飛びそうな混乱の中、私は奇跡的に、自分の身に起こった余りにも “異な” ことを理解できた。と言うより、私の姿、私を揉みくちゃにする連中の姿を垣間見て、納得せざるを得なかったのだ。一体、これはどんな “異な” 違いか。だって私は風じゃなく、それを伝える方、つまり気体分子になってしまったようなのだから! こうなってしまっては、私は位置と運動を互いに不確定にしつつ、この周辺に緩やかに囚われるしか無い。お? お? 何かの指示があったかのように、突然、混沌の中に秩序が生まれた。天文学的数の勝手が演じられるだけだった舞台上に、タイミングを計る機運が生じたというのは驚くべきことだ。すると、その内部に無数の分子を構成員として含む、やはり無数のチームが、少しずつの時間差を伴いつつ、隣り合うチームと連携した舞いを始めたのだった。私もあるチームの一員として群舞しながら、ああ、今この場所を風が通ったんだなと思い、悔しくなった。私もこうやって群舞に、気の遠くなりそうな数の舞いに、遠く高く運んで貰えるはずだったのだ。でも今の私は、まさに飛翔を夢見る、その他大勢のバックダンサーだった。
群舞を続けさせられつつ、私は思案した。こんな身分で一生を終えるつもりはないけれど、でもどうやって風になるのか、少なくとも私だけではどうにも出来なさそうだった。改めて風に連れ出してもらえば良さそうだけど、それにはどうかな、さっきトンネルでやったみたいに、全力で走ればいいだろうか。じゃあ、今も私の全周から雨あられとぶつかって、私をその場で孤独に舞わせ続けようとする、これら気体分子をなんとかしよう。妙案なんてないけれど、この荒れ狂う粒子の海の中で、意志あるそれは私のみ。ならば意図もって、統計の軛から抜け出すのだ。
私は、ひとつの方向へ動き出そうとした。途端、そっちからの抵抗が激しくなって、まったくタールの海を進むようだった。それでも私は、統計的な平均から大きく外れてやろうと躍起になった。だってほら、私の傍にも、そういう分子はいるじゃないの。最初、そういったはぐれ者は、偶然私と似たようなことをしているのだと思った。でも待てよ。その内にどうも、偶然じゃない気がしてくる。ただのはぐれ者は、時間が経つに連れて抵抗する力を失って、やがて自身もその他大勢のひとつに溶けてしまう。ところが私の周りには、私のように抵抗をやめないのがたくさんいる。しかもその抵抗勢力、私が走り出したのを機に、一斉に蜂起したようにも思う。私はあっと思った。そうか、私は一個の分子になったんじゃなかったんだ。真実は、私の体そのものが無数の分子に還元されて、それで空気中にまき散らされていたんだ。そう思えば、やはり天文学的数の粒子が、私の野心に呼応したのは当然だった。私は今や、その他大勢を掻き分けるのに申し分ない、充分な質量を手に入れた。よーし、もう一度行っくぞー! 丁度いいことに、背後で再び、あのタイミングを計る機運が生じたようだった。来る、来る。迫ってくる。私は、今は可変の体を持つことを最大限利用した。両手を翼のように広げるよりもっと上等に、全身で翼になったのだ。
わぁ…! 私の歓声はそのまま、明るく風の鳴る音だった。直前まで粒子に留まっていた私を、その粒子性から解放してくれた頼もしい風が、別れ際、更に勢いを分けてくれようとする。こういう歓迎は風の流儀だって、今は私も了解してるから、遠慮無く受け取って初めての友達を見送った。それにしても、自分に形があるのでは無く、誰かにかたどられて始めて在るのが分かるっていうのは、なんて不思議な気分だろう。さっきはその他大勢とか酷いこと言っちゃったけど、その粒子たちの無心な舞いがあって、私を先へ先へと送ってくれるからこそ、私は “風” という名前が貰え、空を自由に渡れるのだ。
こうして無事風になれたことだし、私は早速例の笛を鳴らしに行った。私を心底怖がらせた谷なんか一跨ぎ、少し高い所まで吹き上がって、よし、あの楕円形の穴に差し渡されたやつにしよう、一気に吹き下った。私は、各々の笛の中を通り抜ける自分とそれらの外側を過ぎる自分、訳なく分身するというスリリングな体験をする。笛を上手に合唱させ、かつ同時に、この笛、外側に小さな翼が付いてる、ある程度の風を向かえるとちゃんと正対するようになってるんだ、楽器制作者の工夫を知って感嘆する。奇岩が迫ってきた。その肌の窪みに逆らわず、優しく磨き上げて、しゅるしゅるとまた高みに上った。
高い空に目が移ると、まるまる太った雲の塊が幾つも、隊列を組んで通りかかっているところだった。私がまだ人の目しか持っていなかったら、それらの雲塊は停泊中だと思い込んだだろう。けれど今の私には、雲塊に纏わり付き、それらを決まった方向へ運ぼうとしている仲間たちの姿が見える。彼らは気負うでも無く、明るく仕事に勤しんでいるようだった。なんか楽しそう。それに私は、風としていろんな経験をしてみたかった。よし。心を決め、飛び入りでお手伝いをさせてもらうことにした。
傍に寄ってみれば、かなり賑やかな仕事場だった。雲の側面や背に、寄り掛かったり寝そべったり、寛いだ様子でお喋りをしている風が多い。順番に雲に体当たりしていって、どこまで跳ね返されたかを競ってるのは、多分若い風たちだろう。お、競う内容が変わったみたい。今度は、どれだけお洒落に雲の欠片を散らせたかが、彼らの審査対象だ。これをやると雲が痩せるせいか、あまり良い顔をしない風もいる。そして少し離れた空では、航海士役の風が、賑やかさを余所に生真面目に吹いている。
私はざっと全体を見渡して、いちばん風の足りなさそうな雲を探した。隊列のしんがりを進む雲は特に大きく、その分手が要りそうだった。よし、あの雲に行ってみよう。その雲の最後端を受け持っていた風は、巨大船のスクリューの如き馬力を見せていて、この場のリーダーかな? そう思えたので挨拶してみた。その風は無愛想だったけれど、別段見慣れぬ私を怪しむでもなく、顎をしゃくって自分の隣を示し、そこに私の居場所を与えてくれた。おお、これはいきなり大役を任された気がしますよ。私は張り切って、指示された場所に取り付いた。
ふにゅう、重い。勇んで雲を押し始めた私だったけど、直ぐ様この仕事の大変さを思い知らされた。私は必死に押そうとして、あっさり押し返されてる始末だった。こんなん、一体どうやって押すのですか。情けない思いで隣を見ると、その太い風は体の一部をにやっと渦巻かせ、ぐいぐいと更に雲を加速させてみせる。おお…。よっ、親方! うっかり体を震わせて、そんな意味を鳴らしそうになった。それにしても、この場であの力強さはやっぱり羨ましい。私もあんなふうに力が付かないかな。誰かが勢いを分けてくれるといいんだけど。
そんな事を考えていると、いきなり私の近くで光が真っ白に炸裂し、その帯状の破片が私の風体を貫く際、今度は網膜の裏から私を眩ませて、忽然と静かに…と思いきや、私は続いて荒れ狂った爆風に消し飛ばされかけて、酷く恐い思いをした。爆風は空を振るわせ、その轟音は鳴り続けたまま、どんどん駆け下っていくようだ。私は体のあちこちから小さな渦を逆立てて、何が起こったのか必死に考える。たぶん雷だ。稲妻が私を貫いて、周囲の空気を爆発させたのだ。
また同じ事が起こったら…この仕事の危険な面も見せ付けられた私は、呆然と棒のように吹いていた。すると、誰か私に勢いを分けてくれる者がある。親方だ。親方は私を正気づけると、今度は急に小さな竜巻を投げ付けて、私を小突いた。お? 私は他愛もなくその衝撃を受けてしまったけれど、受けてみて、あれ、案外軽いな? そう気付き、更に別の事実にも気が付いた。親方の拳骨のみならず、押そうとしてる雲も幾らか軽い。これは…。気のせいじゃない、私は、より大きな風になっていたのだ。何故だろう、親方が勢いを分けてくれたから? いや。あれだけじゃ、風体はここまで育たなかっただろう。可能性はひとつ、先程の雷だった。雷鳴の源になる、あの爆発。私を消し飛ばそうとするのと同時に、またと無い、勢いの供給源でもあったのだ。
もしかしたら、親方もそうやって大きくなったのかな? すると親方は、再び体の一部をにやっと渦巻かせ、暗に肯定した。むむぅ、とても勇気が試される勢いの得方ではあるけれど。私にだって、やってやれないことはないのだろう。そうこうしてる内に、ずっと上の方でまた光が破裂して、轟きが降り注いできた。見上げると、私が取り付いている雲は高みへもどんどん成長を続けていたらしく、内部のそこかしこで稲妻が閃いている。ほら来た! この一瞬に、私は覚悟を決めた。やってくる爆風の吹き方を見極めて、打撃として受けてしまうのではなく、糧として飲み込んでしまえばいいんだ。先ずは一撃目、体の半分が吹き飛ばされて、同じ分取り込んだ。出入り無し。二撃目、今度は勢いの半分以上を糧に出来た。三撃目、四撃目…。コツを摑み、怖さよりも楽しさの方が勝り始めた私は、次々と破壊的な勢いを手懐けていく。そろそろ、親方より頼もしくなれたかな? ところがどっこい、この間に親方も負けじと、私以上に勢いを取り込んでいたようだ。あはははは。私たちは、雷鳴にも負けない風鳴りの音を立てた。もう、親方張り切りすぎ。かくいう私も、今度こそ楽々雲を押せるのが嬉しくて仕方なく、ぐんぐん押した。天を衝くような入道雲を、夢中で押しまくった。




