イレコノ駅
「こんにちは、お嬢さん。一人で旅行かい?」
おじさんが声をかけてきたので、私も慌てて挨拶を返した。表情、言葉遣い、物腰。どこを取っても、おじさんの人の良さが隠しようもなく滲んでいた。おじさんは、私をにこにこ眺めながら、なにやら頻りに頷いている。私は、彼の次の言葉を待った。
「お嬢さんは、随分身軽な格好で旅に出たんだね。コートを詰めた鞄は列車の中かい? それにしたって、帽子も時計も、傘だって持っていないようだ。足下も、長旅でサンダルじゃ心許ないだろう」
私はしゅんとしてしまった。今更ながら、近所歩きの服装に手ぶらで列車に乗ってしまった自分を、浮かれ過ぎたと反省したのだ。
「まぁまぁ、そんなに気に病むことではないよ。わしでもお嬢さんの手伝いを、どうやら出来そうだからね」
そう言うと、おじさんは闇の中から何かを摑み出したようだった。それは、新月に明々と照らされるおじさんの正面へ持ってこられて、始めて杖かな? と思える物だった。けれど、おじさんが私にそれを差し出そうと、くるりと向きを変えた時に、巻いてある生地の端が目に留まったのだった。あ、傘だ。サイズと飾り気の無さそうな外見から推して、たぶん男性用の洋傘。おじさんが、直ぐにでも手を放しそうな素振りを見せたので、私は慌てて右手を伸ばした。そしてぎょっとする。
「そいつを開いてみるといい。引いてしまった光やら何やらが、もう一度あらゆる次元に行き渡るだろう。その際、まぁ事情がこんな有様だから、お嬢さんにもちょっと変わった経験をしてもらうことになるけどね」
おじさんが気の毒そうに言ってくれたお陰で、私がこの驚きから立ち直るのも案外早かった。でもねぇ、そりゃ驚くよ。だって今、私は右手なんだから。これは、伸ばした右手がおじさんと一緒に照らされて、そこだけがあるように見えたからそう言ってみましたとか、そんな比喩じゃない。この時、この場所において、私は本当に右手だけで存在しているのだ。全てが引いてしまったこの世界には、右手の私しか居ない。じゃあ、他の部分の私は? どこへ行ってしまったのだろう。
「わしにはお嬢さんの全てが見えとるよ。理屈じゃさっぱり分からないだろうが、なに、心配することはない」
おじさんは、右手の私にしっかりと傘を握らせた。
「開けと念じればそいつは開き、お嬢さんをここから運び出す。一旦運び出されれば、いろんなところでそれぞれ生きているお嬢さんの他の部分とも、自然と呼び合うだろ。きっと楽しい思いができるはずだよ。さあ。良い旅を」
おじさんに励まされ、私は傘を斜めにかざし、教えられた通りに開けと念じてみた。傘は本当に、しゅるしゅるしゅるっと巻かれていた生地を自分で解き始める。お、これ面白い。でも、そんな余裕も最初の内だけで、私は程なく、またしても慌てふためくことになった。どういう仕組みか、巻かれた状態を勝手に、かつ滑らかに解除していく傘。けれどその精巧な回転が、何故だか一向に終わらない。最初は杖と見間違えたほどの細さだったのだから、これはどうにも不自然だ。おまけに、巻きが解けるスピードもぐんぐん天井知らずで増加していくようで、鋭く回る生地の端が、風と一緒に私まで切り裂きそうで恐くなった。右手の私は、文字通り手に汗握っている。おじさんはと言うと、その様子をにこにこ眺め、頻りに頷いている。どうやらこれでいいらしい。私は気を取り直し、再び傘に集中しようとした。その矢先、荒ぶる傘が私の掌を蹴って、勢い良く飛び上がったようだった。同時に、おじさんの姿も掻き消えた。
「はっはっは。お嬢さんは、宇宙を開くのが上手だなぁ…」
おじさんの声が急速に遠ざかる。私から飛び出した傘も、その黒無地の生地を際限なくどこまでもどこまでも広げつつ、やっぱり私から遠退いていく。代わりに右手の私に鮮明になりつつあるのは、左手の、胴体の、両足の、頭部の…私の他の部分の、今の経験。
左手の私は、手首に巻いたウェアラブル・デバイスに、通時データ対応の位置ナビゲーション・システムをダウンロードしようとしている。このデバイス、実はできたてのほやほや。そりゃそうだよね、著作権フリーのチップセットの改良・私、それを収める小型薄層ケースのデザイン・私、たった今、超高精細の3Dプリンタから出力されたばかりのものなんだから。とか言うと凄そうだけど、人が火星でも暮らす時代、工学部の学生だったら、誰にでもこれくらいは出来るんだけどね。
改良は上出来の模様、ダウンロードが速い速い。数十ペタバイトのデータを、瞬き一つで落としてくれた。私は夏休みに一人旅の計画を立てていて、この通時型GPSの設定はその準備の一環だった。最後の設定項目は、外部の環境設定だ。私はちょっと考えて、クラシック、とシステムに声をかける。私の意図を理解したそれが、デバイスの外枠を古風な腕時計を模したものに変形させた。あ、これいい。前に博物館で見たことのある、機械式腕時計ってやつかな。ユニセックスが当たり前の今とは違って、この頃は男女用でデザインが違ってたんだよね。その時に仕入れた知識に誤りが無ければ、こいつはちゃんと女性用だ。チクタクって音は…うん、さすがにそこまでは、芸が細かくないやね。
その頃、胴体の私は、間近に迫った家族旅行のために、お供させる衣装選びに余念が無かった。今回は半年以上も船旅を続けるのだから、最先端のモードのものを、それだけたっくさん用意しなければならない。これからは空の旅だ、船よりもずっと早く目的地に到着でき…とか気の早い人は言ってるみたいだけど、大西洋の向こうでエンジン積んだ飛行機が始めて飛んだのってつい最近でしょ。結局、広い広いと言われる私の部屋は、お抱えデザイナーたちが持ち込んだ衣装で足の踏み場も無いカオスと化す。いーや、混沌の原因はそれだけじゃあ無い。鉢合わせしたデザイナーたちの、マシンガンセールストークがやかましい。服を出し、片付け、お付きのメイドたちはてんやわんや。一番最近働き出したまだ幼さの残る子が、転んで服の山に埋もれて泣きだしてる…あ。今思ったんだけど、最新流行って言うなら、行く先々に、その都度送ってもらった方がいいんじゃないかしら。荷物も減るし。うん、お父様に相談してみよう。
さて、両足の私はと言うと、遮るものも何も無く、二つの満月にもろに照らされてるっていうのに、もう夜も遅い時間、お構いなしにすやすや眠っている。でも、私の寝付きがいいお陰で、小人さんたちはお仕事が捗るんだもんね。今夜も質素な部屋の中の、ありとあらゆる物陰から、一人、二人…と、作りかけの私用の靴にすっぽりと収まってしまうくらいの小さな人たちが、意気揚々と現れる。そう。小人さんたちは、目下、私のために一足の靴を作ってくれている。普段から目に見えないものへ愛情を注ぎ、感謝する私を、気に入ってくれたんだと思う。ところで、こういった古風な恩寵には、気付いていても素知らぬ顔を通すのが筋。私は、毎日をいつも通りに過ごすことで、こっそりこのプレゼントに感謝してきた。多分、明日の朝目覚めた時には、今まで経験したことが無いくらい良い履き心地の、世界でただ一足の革の靴が、普段履きの粗末な木靴の脇に、誇らしげに置いてあるんだろうな。
そんなこんなで、頭部の私は、普段から通ってるティーショップに、いつものお茶を買いに来ている。のだけれど、今日はなんだか店の様子が変だ。何故だか今日に限って、店内の壁一面に、紳士・婦人用取り混ぜ、いろんな形や大きさの帽子が、所狭しと掛けられているのだ。こりゃなんぞ。視線を感じて振り向くと、私と同い年の、顔馴染みの店長さんが、待ってましたとばかり爽やかに微笑んだ。うん、お姉さん。言ってごらん。
「今日はね、私プロデュースでいつもと趣向を変えてみたのよ」
ティーショップで働きながら将来は帽子屋として独立することを目論んでいる、その押さえきれない衝動が、雇われ店長に渡ってはいけない橋を渡らせたと。その様な理解でよろしゅうございますか?
「もー。そういう憎まれ口利いてると、サービスしてやんないぞー」
店長さんは、むくれながらもサービスの内容を教えてくれた。曰く、壁に掛かってる帽子の中から、どれでもお一つお選びください。その帽子で、お好きな茶葉を一種類、掬えるだけ掬って頂いて結構です。100グラム分のお値段で、帽子も付けてお売りしましょう…って、なんですと。帽子で掬っていいなら、100グラム以上なんて余裕で掬える。しかも帽子も貰えちゃう。な、なんていい日に来たのかしら。wktk,wktk
「どうどう。じゃ、帽子を選んでね。お茶は、いつものでいいんでしょう?」
私は、季節に合って涼しげで、華美に走らず大人しすぎず、とても気に入った帽子を壁から見付けることが出来た。店長さんに大きな茶袋の縁を持ってもらいながら、思わず真剣な表情で葉を掬う。本当はすり切り一杯なんだけど、お得意様だからおまけしてあげるわ。私と一緒に大笑いしながら、店長さんは相変わらず親切だった。いつもよりだいぶ大きな包みににこにこしっぱなし、お茶の香りのする帽子をちょんと頭に乗せて、気分も軽く、私はお店を後にする。
お店と通りを隔てる境のドアを抜けると、車内であった。
雪国ちゃうわ。私はびっくりして、勢い良く首を巡らせた。どこもかしこも地方在来線然とした、お日様のにおいがしてきそうな、どこか懐かしい車内調度品たち。私は直ぐに落ち着いて、再び背もたれに身を預けた。後先考えずに途中下車してしまったけれど、有り難いことに遅れもせず、元の列車に戻って来れたみたいだった。
私は、今度はゆっくりと首を巡らせた。次に確認するのは自分の姿。先ずは両足、家を出た際に履いていたサンダルは無くなって、革の自然な風合いを活かした、シンプルで可愛らしい、モカシンのような靴を履いている。甲の刺繍がまったく匠の技で、履いているのを忘れるくらい、私の足に合っている。
立ち上がって、背後も含めて服装をチェックする。軽くて涼しげな、ゆったりとしたラインの半袖ワンピースで、襟元には大きなリボンがあしらわれ、その真ん中にはこれまた意匠を凝らした素晴らしいブローチが輝いてる。私のワードローブにはかつて存在したことのなかったタイプのドレスだけど、ワンポイントで、人の目を奪う個性をしっかりと主張しているのがすごく好き。スタイルは昔の行動派のお嬢様風というか、長めの丈がアンティークな印象だけど、動きやすさのために軽々しく肌を晒さないところにも、今には無い奥ゆかしさを感じる。
お次は左手の腕時計。デジタル表示を見慣れた目に、アナログの文字盤が何とも新鮮。銀の竜頭を回そうとしてみるけど、ちっとも動かない。耳を近付けてみる。チクタクって音もしない、でも、秒針は規則正しく時間を刻んでいる。私はにやっと笑って、機械式腕時計のふりをしたそれを、そっと撫でた。
鼻先にふんわりとお馴染みのお茶の香りが漂って、あの帽子が頭の上に乗っていることは見なくても分かる。勿論、座席には更なる香りの源も置いてある。これ要するに、だ。色々な時・場所で生きていた私が、元の列車に戻って、改めて一つの時・場所を生き始めた。色々な私の経験は消え去らないで、一つの私の中に調和をもって収まっている。こう思った時、私はあっと声を上げた。イレコノ駅。そうか、入れ子か。いろんな私が、私の中にマトリョーシカ。うん。なに言ってるのかよう分からんけど、大体はそんな感じ。
私は席に座り直して、朗らかな空を窓から見上げた。素敵な旅装を一揃えプレゼントしてくれた、あのおじさんを思い出していたのだ。プレゼントと言えば、紳士物の傘もあったはずだけど、あれはどうなったのか。私は広い空を見渡して、そりゃああんだけ巻いてあるよなぁと、今は事情が分かってくすくす笑った。おじさんは最後に、宇宙を開くのが上手だって私に言ったんだ。うん、だから。きっとそうだよね。




