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出発

 さて、その一本の鉄路は、晴れた日は決まってのんびり散歩する私の足下から、不注意な私に驚いて慌てて逃げたしたみたいに、唐突に先へ伸びていたのです。

 それは、アスファルトの道に白のチョークで引かれたもので、その均整なんかお構いなしの夢中な線は、ぐっと私の好奇心を高まらせた。特に、その先の角で折れ曲がって、簡単に全体が見通せないようになっているのが何とも心憎い。私は、今日の散歩はこのチョークの鉄路を辿ってみようと決めた。もとより、身軽な格好で足の向くまま、その日のテーマはその場で見付ける散歩なんだから。

 鉄路の上に最初の一歩をそっと下ろしてみる。すると、アスファルトよりは優しい感触が、サンダルの底を遠慮がちに押し返してきた。木製の枕木なんだ。そう気付いた途端、枕木の下に敷き詰められている小石の所々から、小さな植物たちがすくすく立ち上がってきた。瑞々しい葉っぱがそよいで緑の香りが濃くなり、私は見慣れた近所の家並みの中じゃなくて、どこかの森を切り開いて敷かれた単線の上を歩いている。

 私は最初、枕木の間隔に律儀に歩幅を合わせていたので、勢い子犬のような焦れったい進み具合だった。けれども、私を挟んで延びるレールの上面は、ずっと強い日差しをぎらぎら反射してて、なんとなく駆け出したい気分を誘ってくる。久しぶりに、思いっ切り駆けてみようかな。取り敢えずあの大きなカーブの先まで。私はサンダルを脱ぎ、片方ずつ両手に持つと、えいっと枕木を強く蹴った。朽ち始めた材木は、裸足の足にも優しい。だから歩幅は大胆に、枕木何本抜かしかで。目測は細心に、枕木から足を踏み外したりしないように。ぐぅんぐん。目標にしたカーブが迫ってきた。

 あくまでも鉄路を辿るのだから、私はそのカーブをショートカットしたりしない。思いっ切り駆けてみたかったから、スピードも緩めない。あれれ、けれど体が随分強く。そりゃ手抜きしないで走ってるけど、やけに外へ引っ張られるなぁ。それもそのはず、がったんと、倒れまいと抵抗していた体が今度は反対へ行き過ぎ、やっと姿勢が落ち着いた時には、私は車上の人になっていた。

 私は、四人が向かい合って掛けるタイプの座席に、一人きょとんと座っていた。座席のクッションはちょっと固い。座面の布地も、往時の鮮やかさは隅の方に偲ばれるだけ、広い部分で日に焼けて、所々擦り切れたりもしていた。でも、木製の床には深い艶があって、裸足でいても不愉快な気はしない。小さく揺れるつり革も、あちこちの手摺りも、丁寧に手入れされながら長く使われてきたって感じがする。私はくすくす笑いながらサンダルを履いた。線路の上を面白がって散歩してた無法者が、何かの拍子でいきなりのお客様待遇になっちゃった。重い窓を些か苦労しながら持ち上げれば、透き通り、それでいて生気に満ちた風がさっと私の髪を巻き上げ、リラックスさせてくれる。この車両には私しかいないから、何を気にすることもない。と言うか、何両編成かまでは分からないけれど、この列車のどこにも、私の他には乗客がいないような気がした。それくらい単調に、列車はかたんことんとしか、私の耳に囁かない。

 わっ。窓からほんのちょっと身を乗り出して、列車の行く手を眺めていた時だった。ああ、もうすぐ森が切れるな、どんな景色が見えるのかな。わくわくしてたのに、森が切れて実際に起こったことは、景色が眼前にわっとは広がらず、全く反対に、私に向かってぎゅっと縮まってくるという事態だった。垣間見えた遠くの景色がぐにゃりと歪んだようなのを、最初は錯覚だと思った。でも、次の瞬間には、遠くの景色も直ぐ近くの景色も、みんな一斉に、等しく同じ速さで、私目掛けて空を駆け始めていたのだった。視界に入る限りのありとあるものに殺到されて、どうして髪を逆立てないでいられるだろう。私は、思わず窓枠を強く握りしめ、体を小さく丸めてしまった。

 ん。急に物音ひとつしなくなったので、私は訝しく思った。恐る恐る、竦めていた首を伸ばしてみる。目をゆっくりと開く。んん? 両方の目を軽く擦ってみた。それでも見えるものは、強く目を閉じていた時と一向に変わらない。闇だ。どうやら、先程の事件で唐突になくなってしまったのは、音だけではないようだった。光も音の波と同様に、どこか遠くへ引いてしまったものらしい。

 そう思って途方に暮れていると、その当の光が、目の端でぽっと灯ったように感じた。顔を向けてみると気のせいじゃない、確かに虚空に、薄青い人工的な光が寂しげに浮かんでいる。私は直感的に、あれは駅名を記した標識だと思った。ってことは、ここはどこかの駅なのだ。降りてみていいのだろうか。降りてみたい気はする。でも、どうやって。今まさに、鼻を摘まれようとしてたってぜんっぜん分からない。私は、そんな濃い闇の一隅に、すっぽりと嵌め込まれてしまっている。

 それくらいの暗さの中だから、寂しげな明かりといえど、じっと見詰めてると目がしょぼしょぼしてくる。私は数回、立て続けに瞬きした。瞼が幾度か視界を掃いて、その人が標識の真下に掃き出されてきたのだった。その中年風の男性は、唯一の光源である弱々しい光の下で、何故かその全身をくっきりと見せていた。これはまったく、闇が皓々と彼を照らしてるみたいだ。あ、目が合った。おじさんが手招きする。思わず頷いてしまうと、私はもうおじさんの正面に立っていた。なんかこう、当たり前じゃ無いのが、どんどん当たり前になってくなぁ。あ、そうだ。駅名。私は、失礼と思いつつも、先ずは正面のおじさんよりも自分の疑問の方を気に掛けた。頭上を振り仰ぐ。そのぼんやり光るものは、やっぱり駅名の標識だった。さっきは遠くて読めなかった文字が、今は難無く見て取れる。“イレコノ駅” って、有り触れた字体で書いてあった。イレコノ。ふぅむ。

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