花束を君に
妙齢の男女が二人、向かい合わせに座っていた。
二人が居座るその空間――豪華な調度品で囲まれた煌びやかなそこは、田舎娘が夢に見るような貴族の部屋そのものだった。
そんな部屋に美丈夫と二人きりになろうものなら、きっと年頃の娘たちは胸を高鳴らすに違いないだろう。
もっとも今現在、そこに部屋に合わせたような甘い雰囲気はない。
むしろ決闘が始まる前のような重苦しさが場を支配しているといっていいだろう。
緊張が極限まで圧縮された室内。
針の一突きで破裂しそうな雰囲気の中、口火を切ったのはこの屋敷の主人であるエドワード・シュタインだった。
「まったく、下手な振り方をしてくれたものだな。メリアート嬢」
鋭利な刃物で切り付けるかのような言葉の刃に、対面に座る女性はビクリと肩を震わせた。
その女性――クリス・メリアートは自身を落ち着かせるため、膝の上においた手をギュッと握りしめる。
普段の彼女が見せる朗らかな笑顔も今はなりを潜め、口元は何かを拒むように真一文字に結ばれていた。野に咲く花のように力強い意志を持った琥珀の瞳も、今は不安げに揺れている。
常の彼女を知る人からすれば、まるで別人のように固い顔で押し黙るクリス。
その姿を鼻で笑いながら、エドワードは言葉を重ねた。
「振るなら振るで、希望も持たせないくらい木端微塵にすればいいものを。中途半端な振り方をしてくれたおかげであれがどれだけ苦しんだか、貴様にわかるか?」
その吐息さえ凍らせる絶対零度の言葉は、部屋の温度を数度下げたかのようにクリスに錯覚させる。
――そんなことはない
テーブルの上で湯気を漂わせる紅茶をジッと見つめながら、クリスは静かに己を鼓舞した。
それでも心の中に残る後ろめたさからか……視線を合わせることなくどうにか口を開く。
「……何の、お話でしょうか」
「今更とぼけたところで何になる?」
やっとのことで絞り出した答えは、即座に切って捨てられた。
苦い顔をする彼女をあざ笑うかのように、エドワードは付け足す。
「レオからすべて事情は聞いている」
クリスはグッと奥歯を噛みしめた。無論彼女もそうであろうことは予想していた。
クリスとエドワードは初対面ではない。クリスの元恋人が、恋人になる前から彼を通して何度か対面している。二人の仲も彼の知るところだ。事情を聞いていてもなんら不思議ではなかった。
そうでなくてもこの切れ者と名高い侯爵の手にかかれば、抵抗しようとも自分たちの間に起こった問題など容易く暴かれることだろう。
だから来たくなかったのだ、とクリスは内心で悪態をついた。
だが、呼び出しを無碍にできるほど二人の家格差は軽くなかった。まして今回は内容が内容だ。
使用人を下がらせたこの二人だけの空間は、クリスにとって拷問部屋のようなものだった。例え、それが世間一般では羨ましがられるような状況だとしても。
代われるものなら代わってほしい。きっと希望者は多いはずだ。なにせ相手はあの王国一の色男である。
誰か戻ってきてはくれないだろうかと、クリスは現実逃避気味に願う。今の彼女は切実に彼らを必要としていた。彼女の人生において初めてといっていいほどに。
「それがレオとの……レオナルド様と私のことだというのなら、あなた様と一体何の関係がございます?」
仕方なく言葉を紡いだクリスに返ってきたのは、予想通り答えだった。
「関係? もちろんある。私とレオは唯一無二の友だ。貴様が知らぬはずがあるまい」
男爵家の三男であるレオナルド・ダルシェと侯爵家嫡男のエドワード・シュタイン。
容姿も性格も家柄さえも全く正反対の二人は、何の縁か親友の契りを交わしている。 それは社交界でも知らぬ者がいないほど有名な話だった。
そして、それはまたクリス自身が最も理解しているところである。なぜなら元恋人のレオナルドはことあるごとに彼の友人がどれだけ素晴らしいのか、それこそ彼女が嫉妬するくらい嬉々として語っていたのだ。
二人の間にはクリスですら乗り越えることのできないくらい、高い友情の壁がそびえ立っていた。
「それで、言い訳があるなら聞こうか?」
「……あくまで双方にとって最善の選択をしただけです」
ひどい言いぐさだと思いながらも、クリスはまともに反論することができなかった。
だが彼女が次に発した言葉もまた、自分で選んでおきながらひどいものなのだからお相子だろう。
クリスは慎重にならざるを得ない。なにせ下手なことを言おうものなら、この顔だけじゃなく頭もいい当主は遠慮なく突いてくるのだ。
問題は、どうやってこの場をやり過ごすか。この一点である。
彼女の脳は目まぐるしく回転を始め、いかにして逃げ出すかを真剣に考えだした。
……が、そのおかげでクリスは次の攻撃を無防備に受けることになる。
「違うな。貴様は逃げたのだ」
突きつけられた言葉の刃は、油断していた彼女の心をいとも容易く切り裂いた。冷水を浴びせられたようにクリスの全身から血の気が引いていく。
「己の想いから逃げ、レオンの想いからも逃げ、そして遂には貴様たちを取り巻くすべてから逃げた。それもこれも自分が楽になりたいがためにな」
「ち、違――」
一切の情け容赦ない追撃に、既に古傷を負っていたクリスの心はより深く酷く抉られていく。ただでさえ華奢な彼女の肢体は、無意識のうちに外敵から身を守る小動物のように小さくなった。
「何が違う? 縁談を理由にレオを一方的に振ったそうだな。金のために、自分に尽くした男をいとも容易く捨てた。話し合いをしようと何度も貴様の家を訪れるレオを無視した。逃げたと言われても仕方なかろう? メリアート卿が縁談を通して再興を狙っているのも周知の事実であるしな」
先々代の当主がとんでもない浪費家だったのは、メリアート家の長い歴史の中でも群を抜いた恥部であった。
それでも、それ相応の価値あるものに金を使うならまだ救いようがあった。だが、審美眼の欠片もない先々代の阿保当主はガラクタの購入に巨額の富を投じていたのだ。
その影響は当代に至っても大きく、クリスのいる伯爵家は今なお困窮している。家計どころか領地運営は常に火の車だ。クリスの父親は先々代の恥を雪ぐべく身を粉にして働いていたが、なかなか借金の返済は進まなかった。
だから一人娘であるクリスの縁談を通して、父親が家の再興を狙っていることも彼女は知っていた。
知っていたが……ここに至って縁談の話を持ち出されたことで、彼女本来の負けん気の強さが表に出ることになる。
「何を他人事のように……! あなたが、あなたがその縁談を持ちかけたのでしょう!」
一方的に責められる謂れなどないと言わんばかりに牙をむいた令嬢に対し、エドワードはそれがどうしたというように泰然と見返した。
彼女の元恋人であるレオナルドは男爵家、それも三男で残念ながら伯爵家を支援できるような財力もない。むしろクリスの家と五十歩百歩といっても差支えない経済状況である。そんな家との婚姻など反対されるのが目に見えている。
だからこそクリスは父親にレオンとの交際を伝えられなかった。それが言い訳だと自覚しながらも。
「正確には娘の縁談について話がしたいと言っただけで、誰とのまでは伝えていない。その時点ではメリアート卿の早合点だな。それと、私が仕組んだのは確かだが、貴様の縁談については私がしなくても時間の問題だったろう」
クリスは咄嗟に言い返せなかった。確かに19になるクリスには、遅かれ早かれいずれ縁談が届いたことだろう。
だが、そもそも侯爵家から打診を受けて、伯爵家のメリアート家が断れるはずがないのだ。
クリスの脳裏に、この縁談を知り喜ぶ父親の姿を浮かんだ。数日前のことである。
厳しいところもあるが、貴族として誇りを持ち、誰よりも領民のために働く父の姿をクリスはずっと見てきた。だからこそ、どれだけ心苦しく思っても、最後には娘よりも領民を優先させるだろう。それは娘である彼女が誰よりも理解していた。
理解はしていたが、なかなか感情は追いつかなかった。
そして、ただただ糾弾されるのも、彼女のちっぽけなプライドが許さなかった。
「それでも、レオのことを友と呼びながらその恋人である私に縁談を持ってくるなど……裏切りではありませんか」
恨みごとのように零すクリスの精一杯の反撃にも、エドワードは眉ひとつ動かさず淡々と答えた。
「友と思うからこそだ。覚悟のない人間に我が友はやれぬ」
クリスはその意味を咀嚼するのに少々時間を要した。そしてやがて導き出した答えにゾッとした。悪寒に応えるように、冷や汗が彼女のなだらかな背中を伝っていく。
「………試したというのですか、私を?」
確かめるように、クリスはゆっくりと己の推測を舌にのせた。相手からの返事はなかったが、むしろそれが答えなのだと彼女は理解した。
瞬間、怒りよりも先に、身一つで虚空に放り投げられたかのような不思議な恐怖が彼女を襲う。
エドワードがこの件をレオナルドに隠していることを、クリスは暗黙のうちに理解していた。その彼女も、レオナルドには格上の貴族との縁談が決まりそうだから別れてほしいとしか伝えていない。
むしろ言えるはずがない。自分の親友が恋人に縁談をもちかけ、それを本気にした恋人は、心情はどうあれその縁談を原因として自分を振ったなど。
「レオの話も聞かずに一方的に突き放したのも、すべては自分が傷つきたくなかっただけだろう? 振られる前に振った。それだけだ」
胸が軋んだ。傷つくことなど許されないとわかっていたが、心はどこまでも正直だった。
「レオも憐れな男だ。昔からあれを知る私でも、あそこまで落ち込む姿は初めてみた」
その姿は容易に想像できた。家令に頼んで追い返すたびに、肩を落として帰っていくレオナルド。
傷つく彼に心を痛めながら、まだ諦めないでいてくれる姿を見て、どこかホッとしていたのも事実だった。まったく、ひどい女もいたものだ。
「言い返さないのは図星だからか?」
今度はクリスの沈黙を肯定とみなしたのか、エドワードは静かに問いかける。
だが射抜くようなその目が、何よりも雄弁に語っている。沈黙は許さぬと。
「……ええ、あなたがおっしゃるとおり私は最低の女ですよ」
血が出そうなくらい唇を噛みしめ、やっと絞り出した声は虚しく室内に響いた。
罪を認めたところで、心は何一つ救われないのだとクリスは自嘲した。
良くも悪くもクリスは己が不器用な女であると自覚していた。自分には媚びを売って、長いものに巻かれるようなあざとさが無い。うまい下手はどうであれ、それは現実の貧乏弱小貴族には必要不可欠なスキルであった。
クリスはそんな自分が歯痒く、だが一方で嫌いにもなれなかった。それはきっとレオナルドのおかげだろう。そんな自分だからこそレオナルドは選んでくれた、その自負が彼女の中にあった。
だが、クリスの中にあった残り少ない自尊心も、エドワードの度重なる言葉の刃で瓦解していた。
ここに至り、ようやく視線をあげたクリスは、暗い目で対面の美丈夫を見上げる。
「私はメリアート伯爵家唯一の子。もとよりダルシェ男爵家の三男の彼とは釣り合うはずもなかったのです」
「ならばなぜ、安易に付き合ったりなどした」
投げかけられた言葉は、クリスが最も恐れていたものだった。
本当に容赦がない。とどめを刺しにきているようだった。
そう思うとクリスはむしろ笑えてきた。
視線だけで人を殺せる人間がいるのなら、彼こそがそうだろう。スカイブルーの瞳には、もはや殺気ともいえる何かが混ざっていた。
「本気ではなかったのか? 遊び相手としてレオを選んだのか?」
「違う!!」
それは本能で出した声だった。
遊び。それはクリスにとって、到底看過できない言葉だ。彼女の何にかけても、ここだけは譲れなかった。
さっきまでの虚無感が嘘のように、クリスの中の何かに火が付いた。闘志といっていいのかもしれない。体の奥から湧き上がる衝動が、彼女を動かしたのだ。
クリスは胸まで伸ばした栗色の髪を振り乱しながら立ち上がった。レオナルドのお気に入りだった髪。クリスが己の容姿で誇れる唯一のものだ。
「違うものか。私が最も癇に障るのは、貴様が己のことを可愛そうだと、憐れだと自己憐憫に浸っていることだ。自分一人が傷ついたつもりになって――」
同じように立ち上がり詰め寄ってきたエドワードの声は、途中で遮られることになる。
バシンと部屋に響き渡った音が、その原因だった。
「そうよ! 私は……私は悲劇のお姫様になったつもりでいたわよ! いい加減そこまで言われればわかるわよ!」
思わず手を出してしまったのは、やはり図星だったからだろう。クリスの心のどこかでもう一人の自分が囁いた。
男性でありながら社交界で宝石とも称される侯爵家当主のその顔に、クリスは渾身の平手打ちを食らわした。それも、そこらの令嬢など足元にも及ばないような強烈なやつをだ。
伊達に家の裏庭で農作業をしてきたわけではない。きっとしばらくは跡も残るだろう。
暗殺されても家を潰されても文句を言えないような、まごうことなき暴挙である。
だが、彼女はもう後には引けなかった。
ここで引いたら女が廃る。その一心で彼女は高い位置にあるその瞳を睨み付ける。
「でも、だったら、どうしろって言うの!? 私はレオを愛しているわ! 誰よりも!」
それは魂の叫びだった。
そう、好きになってしまったのだ。
本来なら家の再興のためにも玉の輿を狙うべきだった。彼女自身も最初はそのつもりで、様々なパーティーに赴いて狩人のように男を物色していた。
だが、実際好きになった人は違った。
それが唯一にして最大の誤算だった。
ダメだとわかっていてもまっすぐな瞳に引かれてしまった。彼は目の前にいる大貴族のような美丈夫ではない。だが、レオナルドはその大らかな人柄で、彼女を優しく包み込んでくれた。
そして、いつしか恋に落ち、結ばれた。
それは物語のように劇的な、燃え尽きんばかりの激しい恋ではなかったかもしれない。
だが、春の日差しのように暖かい、どこからともなく生れ出る自然な愛がそこにはあった。
こんな日がずっと続けばと、どこかで願っていた。
夢見がちな少女のように、甘ったるい考えだった。
いずれ終わりが訪れることなど、誰に言われずともわかっていた。
そして……目をそらし続けたツケが、ここに来た。
「駆け落ちだって考えたわ! でも、私はお父様を、領民を捨てられない! だって……私がいなくなったら一体誰があの家を支えるの!?」
彼女の父は貧乏ながら必死に仕事をしてきた。
何とか力になれないかとクリスなりに道を模索したこともあった。だが、結局は財力がものをいうのだ。元手がなければ何一つできやしない。
父も伝手を頼って援助を願ったが、先々代の悪評はどこまでも足を引っ張った。
女の身でできることなど知れている。貴族として生まれた責任と己の感情。天秤にかけてしまえば、結局クリスが重きを置くのは前者だった。
ここまで育ててくれた両親、そして領民を裏切ることは、彼女の人生を否定するにも等しかった。
断腸の思いだった
心の中で何度も何度も懺悔した
自分勝手だと理解もしていた
それでも――
「この気持ちだけは嘘じゃない! レオが好きよ! 誰よりも! でも……でも好きだけじゃどうしようもないことだってあるのよ!」
その叫びを最後に、場はシンと静まる。
柔らかな斜陽が室内に差し込み、肩で息をするクリスの呼気だけが音として存在した。
先ほどと打って変わって訪れたこの静寂は、クリスの理性を呼び起こすのに十分なものだった。
――やってしまった
こんなところで八つ当たり気味に愛の告白をして何になるというのだろうか。クリスの中で羞恥と後悔と何やら得体のしれない感情がごちゃ混ぜに渦巻いた。
ここまで無礼千万を働いて殺されないだろうか。侯爵家を敵に回して家は潰れないだろうか。頭が冷えると同時に、クリスの全身も違う意味で冷えてくる。
だが、恐る恐る相手を窺うクリスの予想に反し、相手は叩かれた頬を気にすることなく静かな眼差しで彼女を見つめていた。
「全く、貴様のような頭がからっぽの女にレオはもったいない。だが、私が止めようとも我が友は……レオは貴様がいいそうだ」
「………どういう意味、ですか?」
クリスには彼が何を言いたいのか、全く理解できなかった。なんとなく貶されているのはわかったが、それだけだ。
まさか自分が叩いたせいで頭がおかしくなってしまったのか、そんな失礼なことを考えながら彼女は目の前の秀麗な顔を見返した。
「貴様はまずレオに相談すべきだった、ということだ。あれは、普段はおちゃらけているが有能な男だ。そして私の唯一無二の友である………あれを本気にさせたことだけは誉めてやろう」
先ほどのような殺意を滲ませたものの代わりに、今度は大いに呆れを含んだ目をクリスは向けられた。
クリスにとっても、それはそれで嫌なものだったが、ひとまず「はぁ」と何とも言えない返事で誤魔化すことにした。
混乱するクリスをよそに、エドワードは懐から一枚の紙を取り出す。
「これを見ろ」
渡された紙は薄っぺらいものだった。いぶかしむように見返すクリスを無視して、エドワードは言葉を続ける。
「今日の本題だ。貴様の縁談相手が書かれている」
――今このタイミングでその話を持ってくるか。だとしたら悪魔以外の何者でもない。
クリスは心の中で大いにエドワードを罵倒した。もう一発くれてやろうかとその高い鼻を睨み付けるが、相手は早く見ろとでも言わんばかりに顎をしゃくってきた。
そんな姿でさえ様になるのだから、美形というのは本当に得である。
致し方なく紙を開くクリスの目に飛び込んできたのは、見覚えのあるようでない名前だった。
クリスの琥珀の瞳は、いまだかつてないほど大きく見開かれた。
「レオナルド・ハウワーズ……え、レオナルド!? ……ハ、ハウワーズ!?」
ハウワーズ伯爵家。メリアート家と同じ伯爵位というのが申し訳ないほどの名門だ。 安定した領地運営、財政力、人間性。どれをとってもこの国で一二を争う水準だと耳にしている。
現に優良物件としてクリスも当初マークしていた家である。もっとも、ハウワーズ家には年頃の男児がいなかったので、諦めざるを得なかったのだが。
そんな名門ハウワーズ家の前に収まっている元恋人レオナルドの名前である。両者を結び付ける意味がわからない。一瞬同名の別人かと思ったが、そもそもハウワーズ家にレオナルドという名前の男はいないはずである。
そんな風に目を白黒させるクリスを、馬鹿な子でも見るかのようにエドワードは見下ろした。
「養子縁組だ。そして我がシュタイン家が仲介人となり貴様とレオの縁談を取り成す。……あの男は、貴様のために家を捨てたのだ」
理解が全く追いつかなかった。
クリスの脳はいまだ衝撃から覚めやまず、混乱の極地にいた。
「え? あ? ………は、はあ!?」
やっとのことであげた声も、全く意味をなさない。
陸に上げられた魚のように口をパクパクさせる彼女を、エドワードは面白いものでも見るように静かに観察していた。
先ほどよりも柔らかくなっている場の雰囲気にも、彼女は気付けない。
そして、恋人同士でもこんなに長く見つめ合わないだろうというほどの時が流れ、ようやくクリスはまともな呼吸ができるようになった。
それを見計らったかのように最後の爆弾が投下される。
それは微笑だった。
たかが微笑とあなどることなかれ。王国一の色男のそれは、尋常ではない破壊力なのだ。
しかも、その男は未だかつて女に笑顔を見せたことがないと評判だった。
おかげでクリスの呼吸は再度停止することになる。
普段は全く神など信じないくせに、都合のいい時だけ神頼みをするのがクリスだった。
だが、今日からは本気で信じてもいい。彼女は心からそう思った。
その男は微笑をたたえながら、固まる彼女に耳にそっとこう囁いた。
「あとはあなたの選択次第だ、メリアート嬢」
……そう、この日クリスは神を見たのだ。
非礼を詫び、ドタバタと出ていった令嬢と入れ替わるように入室してきたのは、エドワードもよく知る二人だった。
「兄上、どうでし……………うわっはははは!! な、なんですかそれ!? 見事な手形じゃないですか!!」
初っ端から部屋の空気を弛緩させた発言の主は、信じられないことにエドワードの弟である。不躾に兄の顔を指さし、腹を抱えながら爆笑する弟をエドワードは射殺さんばかりに睨み付けた。
「これはこれは………派手にやられましたな。すぐに冷やすものを持ってきましょう」
そしてこの声は心配そうに、顔は面白そうにという器用な真似をするのが、侯爵家の誇る勤続40年の執事である。
よりにもよって口喧しい二人がやってきた。エドワードは、隠すことなく思いっきり舌打ちした。
「でも兄上、本当にいいんですかー? 本来は兄上との縁談だったんでしょ?」
ようやく笑い終わった弟は、殺気を放つ兄にもめげず無邪気に質問してくる。
15といういい年にもなってこの体たらく。同じ兄弟でありながらエドワードとのいろいろな意味での格差。どこでどう育て方を間違えたのか、両親が頭を抱えるのも納得だった。
その能天気を絵に描いたような彼の人柄に、周囲の人々は全く敬意を込めずにこう呼ぶ『侯爵家が生んだ奇跡』と。
だが、その屈託のない性格も彼の愛される理由なのだろう。これもひとつの才能かと、エドワードは己とは無縁のそれにほんの少しだけ、本当に少しだけ憧憬を抱いた。
そして、ほとんど効果をなさないのはわかっていたが、それでも彼はこの無自覚な弟を睨み付けざるを得なかった。
「ふん、あんな他人どころか自分さえ騙せない人間を嫁にしては、我が侯爵家が潰れてしまう。レオに押し付けて正解だ」
それも事実である。メリアート伯爵程度の家格までならともかく、それ以上の――魑魅魍魎が蔓延る上級階層を渡り歩くならそれ相応の覚悟とスキルが必要である。
もしクリスを侯爵家夫人にしようものなら、あらゆる意味で潰されるのが目に見えていた。
エドワードはぬるくなった紅茶を優雅にすすった。最高級の茶葉で淹れられた紅茶は時間が経っても十分彼の舌を満足させた。
そして、カップ越しに結局飲まれることのなかったもう一つの茶器を眺める。エドワードの目には、数週間前同じ席に座っていた友人の姿が幻影のように映し出された。
彼の友人が侯爵家としての権力を行使するような頼み事を自分にしてきたのは、後にも先にもその時だけだった。つまりは、それほど本気だったのだろう。
男爵家の三男と侯爵家跡取りの自分が今まで友人でいられたのは、レオナルドの大樹のような朗らかな性格のおかげだった。出会いは偶然の産物だったが、当時裏切りや謀略に疲れ切っていたエドワードに、人付き合いも悪くないと思わせてくれたのが彼だった。
本人には一生言うつもりはないが、その気性にエドワードは何度も救われている。
その彼が、頭を下げてきたのだ。
友の幸せを願い、結局は二人の幸せを願ってしまった。
情に流されたのはエドワードのほうで、その時点で彼の負けはほとんど確定していたのだ。
エドワードはそう自分を納得させているのだが、こういう時に茶々をいれてくるのが侯爵家の誇る老齢の執事であった。
「いやはや含蓄のあるお言葉です。さすがは坊ちゃんですな」
「……いい加減坊ちゃんはやめろ」
「失礼いたしました。エドワード様はもう立派な大人ですな」
「……その目もやめろ」
我が子の成長を見守る親のような眼差しは、エドワードをイラつかせるのに十分なものだった。だがこの執事だけは、いくらエドワードが辛辣な言葉で追っ払おうとしても、どこ吹く風といった具合に受け流してしまう。
幼少期――まだエドワードが己を偽ることを知らなかった頃から世話をしていたのだから当然かもしれないが、いくつになってもこの執事には頭が上がらない。
早々に戦いを諦めた彼は、話の矛先を変えるべく弟へと質問を投げかけた。
「ところで、例の話はどうなっている?」
「援助のお話ですか? でしたらすでにハウワーズ家を通して始めていますよー。でも兄上、なんでそんなまどろっこしいことするんですか? 直接メリアート家に援助すればいいじゃないですか?」
相も変わらず空気を読まない弟にエドワードは、ゆっくりとこめかみを押さえる。そして嫁うんぬんより、まずはこのおとぼけた弟の教育を最優先しようと密かに心に誓う。
――そのためにも、まずは何があろうと自分は生き残ろう。でなければ侯爵家は滅亡の道を辿る。
決意も新たにしたエドワードは、ひとまずこの変なところで勘が鋭い弟を諭すことから教育を始めることにした。
「私はあくまでレオに投資しただけだ。あの男なら倍にして返してくれるだろうからな」
「でも、そもそもコットー家の豚親父があのお嬢さんに縁談を持ちかけようとしたのが始まりですよねー? それに養子縁組を提案したのも兄様ですよねー?」
「……レオの才能が、あんなところで埋もれるには惜しかっただけだ」
「でもでも――」
「ユーリ様、もうそれぐらいでいいでしょう。これ以上エドワード様を追い詰めるのは酷というものですよ」
「……セバスチャン」
エドワードは酸っぱい気持ちになりながら、執事の名前を呼ぶ。切れ者過ぎる執事を持つのもまた嫌なものだと彼は改めて実感した。二人を足して割ったらちょうどいいとも常々感じていた。
静かにさせてくれない取り巻きにエドワードは己を不憫と思ったが、それではクリスに説教する資格もないかと考え直す。
ままならないことに嘆息しながらも、彼の優秀な頭脳は今後の予定を素早く組み立てていった。
「セバスチャン、明日ハウワーズ家に行く。馬車を用意しておいてくれ」
「かしこまりました」
「それと……花束を一つ用意しておいてくれ」
「花束、ですか?」
不思議そうに復唱する執事に、エドワードは何もない空間をぼんやりと眺めながら返した。今ぐらい無気力であっても許されるだろう。常に難しい顔をするのは彼だって疲れる。
「ああ、二人一緒にいるだろうからな。ここまで私に手間をかけさせてくれたからには、嫌味のひとつでも言ってやらねば気がすまん」
既にひとつどころか数えきれないくらい嫌味を飛ばしていたのだが、当の本人にあまりその自覚はなかった。
そのままそっと目を閉じた主のリクエストに、執事は意味ありげにほほ笑んで了承の意を伝えた。
その後、侯爵家の有能な執事は、メイドに頬を冷やすものを用意させ、弟君に教育という名の説教をし、コックに今日の夕食は主の好きなもので作るよう命じ、主の部屋にストレス発散効果のある香を焚くよう指示し、最後に侯爵家が誇る熟練の庭師の元へと足取り軽く赴いた。
翌日、用意された花束を確認したエドワードは、思わず渡した本人を二度見した。
「セバスチャン……」
眉根を寄せて苦い表情を作る彼は、他人からすれば怒っているようにも見えた。だが、長年使える執事には、それが困惑している時の表情だと簡単に看破されていた。
もの言いたげな主の視線に、老執事は安心させるように綺麗な笑顔でこう答えた。
「嫌味のひとつでも、というお話でしたので。微力ながら我々使用人一同もお手伝いさせていただきました」
お茶目にウインクする執事にエドワードは呆れを通り越し苦笑してしまった。彼はこの老獪な執事が、意外と根に持つ性格だということを思い出した。
件の花束を眺めながらしばらく逡巡したエドワードだったが、やがて諦観したようにひとつ溜息をついた。
「………まあ、あの二人ならいいだろう。根がおめでたいから、害がなければきっと気付かん」
そして、名門シュタイン侯爵家の若き当主は、馬車に向けて一歩を踏み出す。
切れ者として名高い彼は、誰もが羨む容姿を持っていた。
いつもはどことなく不機嫌そうなその顔も、この日は少しだけ――親しい人間でもわかるかわからないか程度に和らいでいたという。
そんな彼が右手に持つ花束は、なんとも珍妙な組み合わせだった。
花束の中央には、隠されるように二輪の白薔薇が寄り添い存在していた。
その周囲を囲むのは、侯爵家のシンボルでもあり、ここでしか栽培されていない貴重な青薔薇である。
悪趣味とまではいかないが、個性的とは揶揄されるだろうその花束の意図に気付く人間は果たして何人いることだろうか。
まるで中央の白薔薇を守るかのように、堂々とたたずむ青薔薇。
空にも負けない清々しさを持つその青薔薇は、それはそれは誇らしげに咲き誇っていたという。
その後、新婚夫婦がシュタイン家を訪れるたびになぜか使用人からささやかな嫌がらせを受けたとかなんとか。本人たちあまり気付いてないけど。
はじめましてorお久しぶりです。jadeです。
リハビリ作&スタイリッシュ失恋を目指した……つもりでした。
好きになる相手がいつも都合よく王子様とは限らないよね、って話。最終的にはご都合展開ですけど。
エドワードには後に素敵な奥さんができることでしょう。いい意味で裏表激しそうな(笑)