悠久の初恋
声変わりってやつだろうか?
よりによって、今。この時期に。
「合唱始めるよ」
「ちょっと男子さぁ、もう時間取れないんだからまじめにやってくれない!?」
「女子うるせぇよ!」
「まじめにやらないからでしょ!」
「ちょっと!始めるよ!」
春川は、辛くないのだろうか?
伴奏者として一人ポツリ、ソプラノとアルトだけが異様に響くこの歌を、彼女はどう思っているのだろう。
この、ボロボロと崩れていく古城の様な歌を。
彼女は何も言わずに、ただ黙々とオルガンに指を躍らせる。
ただ、黙々と。
当たり前に存在するような背景を、彼女は一人作っているのだ。
たとえ主役が背景を蹴散らすような道化師達だとしても。
「おい、今日も合唱練習あんの?」
あるに決まってるだろう。
「あんじゃねーの?めんどいけど」
お前だけが面倒なわけじゃないだろ。
「今日、帰っちゃうか?」
おい、何言ってるんだよ。
「あ、それいいな!挨拶したら速攻帰る!これ決定!」
「南もそうするだろ?」
しねぇよ。
「……俺は、歌うな」
それから、俺はゆっくりと孤立していった。
本当にゆっくりと、穏やかな波に打ちあげられていく魚の様な感覚だった。
悲しいとか、寂しいとか、そんな感情は一切なかった。
春川の奏でるメロディーに、知らず知らず癒されていたのかもしれない。
合唱に参加する男子の人数は日々を追うごとに減っていったけれど、彼女は素知らぬ顔でオルガンを弾く。
いつの間にか男子は半分に減り、迫力も何もなくなったが、その分彼女の音が心地よく響く合唱となった。例えるのなら純白のハンカチ。子どもの時からのお気に入りのタオルケット。
「おい、男子どこ行ったんだよ?」
「あ、先生」
「先生、男子帰っちゃったんですよ~」
「どうしますかぁ」
女子特有の「私たちはまじめにやってますよ」アピールに、小さな笑いがこみ上げた。
目線をふとあげる。すると、春川が俺の一連のしぐさを見つけていた。
「みなみ」口元がそう動いた気がして、俺は騒がしい女子の群れを横切ってオルガンの近くの椅子へ腰かけた。
「南の声、あんまり聴こえないね」
少し傷ついた。チクリと刺されるような痛み。不甲斐なさ、情けなさが主成分。
「声変わりしてるんだ」
「そう」
それから彼女は曲を弾き始めた。いつもよりもゆっくりと、一つ一つの音を確かめるように。なめらかな曲線を描くような彼女の指先に、小さく胸が鼓動していた。
「春川」
ふと出た言葉は彼女の名前だった。別に呼び掛けたわけでもなかったのだが、顔を上げ、次の言葉を待つ春川の不思議そうな表情に自然と言葉がわき立った。
「春川、俺、春川の伴奏すごく好きだ」
少しだけ顔をほころばせ、春川はうなずいた。
「ありがとう、南。私、南の声小さいけど、南の声好きだよ。低くなってきてるけど、まっすぐに響いてて」
俺も同じようにうなずいた。
「ありがとう」
今思い返すと、それが俺の初恋だったのだろう。
そして、初恋は実らないだなんて嘘であった。
彼女の少し大きくなったお腹に手を当てると、新しい小さな命が脈打っていた。
「ねぇ、俺と結婚して幸せ?」
春川の姓ではなくなった彼女があの日と同じ顔でうなずいた。
「幸せじゃないなんて言ったらこの子に怒られちゃうわ」
あの日の少女は、母親の顔をしてそう言った。
あの時よりも一層、彼女を愛しく思う。彼女を腕に抱き「愛している」と、歌うように囁いた。
「相変わらず、まっすぐね」
俺は黙って、幸せをかみしめた。
桜が淡いピンク色を散らせ、彼女の髪に小さな花が咲いた。
この時が悠久に続けばいいと俺は笑った。