既に不倫の証拠を掴んでいる私と離縁したい? 望むところですが……
「イレーヌ。話がある」
夫——エドワード・ノーラント伯爵がそう切り出したのは、晩秋の午後のことだった。
書斎の扉を開けた瞬間に、私は察した。
彼の表情が、いつもと違う。
後ろめたさを隠した、あの顔だ。
(ああ、とうとう来たか)
内心でそっと息を吐く。
扉を開ける前から、なんとなくそんな予感はしていた。
今日のエドワードは朝から落ち着きがなく、使用人に八つ当たりをしてみたり、かと思えば急に鏡の前で身なりを整えてみたりと、妙にそわそわしていたのだ。
それが何を意味するか、今の私にはすぐにわかる。
あの男が何かを決断しようとしているときの、いつものサインだ。
だが当然、私の顔には出さない。
にこりと微笑んで、彼のほうへ向き直った。
「エドワード様。どうなさいましたか?」
「……座れ」
促されるまま、ソファに腰を下ろす。
向かいに座ったエドワードは、しばらく黙ったまま指を組んでいた。
陽の光が窓から斜めに差し込んで、室内に長い影を作っている。
暖炉の火が穏やかに揺れていた。
その沈黙が、すでに答えだった。
「……離縁したい」
静かな声だった。
まるで天気の話でもするような、気負いのない声音で。
六年間連れ添った妻に告げる言葉として、あまりにも軽すぎた。
「——ッ」
私は唇を震わせた。
目に涙を浮かべて、震える声で言う。
「そんな……なぜ、ですか……?」
「理由は言えない。ただ、お互いのためだ」
(お互いのため。笑わせてくれる)
心の中では、もう笑いをこらえるのに必死だった。
お互いのため?
六年間、私がどれだけ尽くしてきたと思っているのか。
伯爵家の帳簿の管理も、使用人の取りまとめも、社交の場での立ち回りも——全部私がやってきた。
あなたが遊び歩いている間、ずっと。
(でも今日は、泣いて見せてあげましょう。まだその時ではないから)
私はハンカチで目元を押さえた。
肩を震わせて、うつむく。
「……そんな、突然……。わたくしに、何か不満が……?」
「お前のせいではない」
エドワードはバツが悪そうに視線を逸らした。
視線の向かった先——窓の外を見ているようで、でもどこも見ていない、空虚な目だった。
私はその横顔を静かに観察する。
(以前はあんなに眩しく見えたのに)
今は、ただ——哀れだと思う。
(証拠は揃っている。シルヴァお父様も、ヴィンセントも、準備は万端のはずだ。あとは、しかるべき場所で、しかるべき形で——全部、出す)
問題ない。
六ヶ月かけて積み上げてきた。
この日のために。
「……わかりました」
私はゆっくりと顔を上げた。
「離縁の手続きを、進めましょう」
エドワードが、少し意外そうな顔をした。
もっと縋ると思っていたのだろう。
泣いてすがる妻の姿を想像して、少しばかり心の準備をしてきたはずだ。
(甘いですよ、エドワード様)
私は静かに微笑んだ。
あなたが知らないだけで、私はもう随分前から、この日の準備を終えているのだから。
◆ ◆ ◆
——六年前のことを、時折思い出す。
私、イレーヌ・ド・シルヴァは、シルヴァ公爵家の一人娘として生まれた。
公爵家といえば、この国でも指折りの名門だ。
先々代から王家とも縁が深く、シルヴァの名は社交界でも一定の重みを持っている。
そんな家の令嬢として育てられた私は、幼い頃から様々な教育を受けた。
礼儀作法、語学、音楽、刺繍——そういった貴族令嬢としての嗜みはもちろん、父の意向で簿記や財務管理の基礎なども叩き込まれた。
「女であっても、財産の管理くらいは自分でできなければならない」
父はいつもそう言っていた。
(今になって思えば、父はとても先見の明があった。あの知識が、六年後に大いに役立つとは……)
当然、縁談も引く手あまたで、父はずいぶん慎重に相手を選んでいた。
そんな私が、伯爵家の嫡男と結婚したのは——正直に言えば、恋に落ちたからだ。
エドワード・ノーラントと出会ったのは、王都で開かれた春の夜会の席だった。
その日の私は、少し窮屈な気持ちでいた。
父から「今夜は何人かに紹介する」と告げられていて、縁談のための値踏みをされるのかと思うと、少し憂鬱だったのだ。
そんな私の前に、彼は颯爽と現れた。
「シルヴァ公爵令嬢とは、あなたのことですか」
振り返ると、背の高い男が微笑んでいた。
整った顔立ちに、丁寧に整えられた栗色の髪。
燕尾服の着こなしも優雅で——まるで物語に出てくる騎士のようだった。
「こんなに美しい方が、まだご縁がないとは信じられない」
(今思えば、口が上手いだけだったのだけれど)
当時の私には、その言葉が天の声のように聞こえた。
令嬢として丁寧に扱われることには慣れていたが、エドワードの話し方は他の男性とどこか違った。
決して媚びず、かといって傲慢でもなく——まるで対等な人間として話しかけてくれているような、そんな感覚があった。
その夜、私たちは随分長く話した。
本のこと、音楽のこと、王都のこと、お互いの好きなもの。
彼は聞き上手で、私が話すたびに目を細めて笑ってくれた。
「あなたは面白い方だ。令嬢というよりも、もっと自由な——そう、鳥みたいな方ですね」
「鳥、ですか?」
「ええ。籠の中に入れるには惜しい」
それが、私には嬉しかった。
帰りの馬車の中で、私は頬が熱いままだった。
こんな気持ちになったのは初めてで、自分でも少し驚いていた。
エドワードはその後も熱心に私に会いに来た。
夜会で見かけるたびに私を見つけて声をかけてくれる。
ときには花を持ってシルヴァ邸を訪ねてくることもあった。
贈られる手紙は美しい文章で、読むたびに私の心が浮き立った。
「お嬢様、ノーラント伯爵令息様のお手紙です」
侍女がそう言って持ってくるたびに、思わず笑顔になってしまっていた。
(恋というのは、これほどまでに人を変えるものなのか、と)
今思えば、すべてが計算された演技だったのかもしれない。
でもあの頃の私には、そんなことは想像もできなかった。
エドワードは求婚してきた。
父は身分差を気にした。
「ノーラント伯爵家は、格としてはシルヴァ家に劣る。下方婚になるが、本当によいのか?」
「はい。彼と一緒にいたいのです」
父は長く沈黙した。
それから、ため息をひとつついた。
「……お前が決めたことなら、反対はしない。ただ、困ったときはすぐに言いなさい。お前の味方は、いつでもここにいるから」
「ありがとう、お父様」
そうして私は、ノーラント伯爵家に嫁いだ。
大切な持参金も、土地も、宝飾品も、全部持って。
一切を捧げるつもりで。
あの人のそばで、ともに生きていくつもりで。
新婚の頃は、確かに幸せだった——と思う。
少なくとも私は、そう信じていた。
エドワードは多忙を理由にあまり顔を見せなかったが、それでも私は文句を言わなかった。
伯爵家の執務を覚えながら、使用人たちとの関係を築きながら、邸の管理を一手に引き受けた。
「イレーヌ、本当に助かっている。君がいてくれて良かった」
そう言ってもらえた日は、嬉しかった。
(あの頃の私は、本当に、あの人のことが好きだったのだ)
だから、変化に気づくのが遅れた。
いや——気づいていたのかもしれない。
ただ、認めたくなかっただけで。
◆ ◆ ◆
結婚して三年目を過ぎた頃から、エドワードの様子が変わり始めた。
最初は些細なことだった。
帰りが遅い夜が増えた。
夕食を一緒に摂らない日が続いた。
私が話しかけても、上の空の返事しか返ってこない。
それでも私は、仕事が忙しいのだと思おうとしていた。
伯爵として様々な付き合いがあるのだ、と。
私が気を利かせて、邸のことは全部引き受けてあげればいい、と。
しかし、変化は止まらなかった。
「エドワード様、今日のご夕食は何がよろしいですか?」
「……別に。お前が決めろ」
以前なら「一緒に考えよう」と言ってくれた人が、今では私に視線を向けることさえしなくなっていた。
家を空けることが増えた。
帰ってきても、私と言葉を交わさない夜が続いた。
執務も次第に放棄するようになった。
私が代わりに処理していても、礼の一言もない。
そして——些細なことで怒鳴るようになった。
「この帳簿の計上が間違っているだろう! お前は何をやっているんだ!」
「申し訳ございません。すぐに確認します」
(間違っていたのはあなたの前任の担当者で、私はすでに修正しました。でも、そんなことはどうでもよいのです。あなたは怒る理由が欲しいだけなのだから)
反論はしなかった。
言っても無駄だと学んでいたから。
ある夜など、帰宅したエドワードが夕食の席で突然こんなことを言い出した。
「お前は笑顔が足りない。妻たるものが暗い顔をしていてどうする」
私は内心で、思わず笑いそうになった。
(笑顔が足りない? あなたが笑いかけてくれた日がいつだったか、思い出せないのですけれど)
「気をつけます」
そう言って、にこりと笑って見せた。
エドワードはそれを見て、どこか不満そうに視線を逸らした。
(何が不満なのかしら。笑えと言ったかと思えば、笑っても気に入らない)
使用人たちへの態度も変わっていった。
細かいことで叱りつけたり、気に入らないと物を投げたり。
優秀な者から順番に辞めていって、いつの間にか邸の雰囲気はすっかり重くなっていた。
私は必死に使用人たちをフォローして、邸を保とうとした。
「グレタ、エドワード様の言葉は気にしないで。あなたの仕事は完璧よ」
「奥様……」
グレタは古参の侍女で、彼女まで辞めてしまったら邸が回らない。
私はこっそり彼女の給金を上乗せして、なんとかつなぎとめた。
(これも、私の持参金から出た資金で。いつか全部、取り返す)
夫が変わってしまった理由を、私は長い間わからないふりをしていた。
でも——本当は、わかっていた。
香水の匂いが変わったこと。
外泊の増えた夜の翌朝、どこか上機嫌なこと。
使用人たちの、こちらを見る憐れむような目。
(全部、気づいていた)
ただ——認めてしまったら、壊れてしまいそうで。
愛した人が、私以外の誰かのものになっているという事実を。
だから私は、気づかないふりをして、今日も邸の仕事を続けた。
◆ ◆ ◆
転機は、ある秋の昼下がりに訪れた。
その日、私は久しぶりに外出していた。
邸にこもることが増えていた私に、侍女のグレタが勧めてくれたのだ。
「奥様、お顔の色が優れません。少し外の空気を吸われてはいかがですか? 季節の花が出ているそうですよ」
「そうね、そうしましょうか」
王都の市場は秋の賑わいを見せていた。
色づいた果物が並んでいたり、新しい季節の織物が店先を彩っていたり。
久しぶりに邸の外を歩いて、少しだけ気持ちが軽くなっていた。
帰り道に、私は気まぐれに普段と違う道を通った。
そして——一軒の茶館の前を通りかかった。
何気なく窓の中へ目をやって——固まった。
奥のテーブルに、エドワードがいた。
隣には、見知らぬ若い女性。
淡い金髪の、華やかな顔立ちの——どこか舞台女優を思わせるような、人目を引く容姿をした女だった。
二人は身を寄せ合って、エドワードはその女の手を握り、何か囁いていた。
女は頬を染めて、嬉しそうに笑っていた。
エドワードが笑っていた。
久しぶりに見る、あの笑顔で。
かつて私にも向けてくれていた、あの笑顔で。
私の足が、止まった。
(ああ)
なんだ。
やっぱり、そういうことだったのか。
わかっていたはずなのに。
覚悟していたはずなのに。
胸が、鋭く痛んだ。
その痛みは、思ったよりずっと深いところから来た。
愛情が残っていたわけではないかもしれない。
でも——あれほど尽くした相手が、あんな顔で別の女を見ているという事実が。
惨めだった。
その場から動けなくて、私はしばらく立ち尽くした。
通り過ぎる人々の声も、馬車の音も、何も聞こえなくなっていた。
ただ、その窓の向こうの光景だけが、くっきりと目に焼きついていた。
(帰ろう)
私はようやく足を動かした。
震えないように、気をつけながら。
邸に戻った私は、部屋に鍵をかけた。
ベッドに倒れ込んで、毛布を被って——それからずっと、泣いていた。
涙は、なかなか止まらなかった。
(私は、何のために——)
六年間。
全部捧げてきた。
愛情も、時間も、持参金も、公爵家の令嬢としての誇りさえも。
なのに。
あの人は——あんな顔をする。
私には、もう何年もしていなかった顔を。
(もう、いっそ——)
暗い考えが頭をよぎった。
消えてしまいたいという気持ちが、波のように押し寄せてきた。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
夕食の時間になっても、メイドのグレタが部屋の外からそっと呼びかけてきても、返事ができなかった。
「奥様……? 奥様、大丈夫でいらっしゃいますか……」
グレタの声が、遠かった。
毛布の中で、丸くなって——私はただ、泣いていた。
どれくらい経ったのだろう。
夜中になった頃、ふと——窓の外に月が見えた。
丸い、白い月。
秋の夜の澄んだ空に、静かに輝いている。
私はゆっくりと、毛布の中で目を開けた。
(いや、違う)
(消えるのは、私じゃない)
怒りが、悲しみの底から静かに浮かび上がってきた。
冷たくて、澄んだ、怒りだった。
(あなたが奪ったものを、全部取り返す。それから——きちんと、終わりにする)
私はベッドから起き上がった。
鏡の前に立って、泣き腫らした顔を見た。
目が赤い。頬が腫れている。
でも——目の奥に、何か硬いものが宿っているのが、自分でもわかった。
そして——心の中で、ひとつ決めた。
復讐する、と。
泣くのは、今夜だけ。
明日からは——前を向く。
◆ ◆ ◆
翌朝、私は早起きして鏡の前に座った。
赤く腫れた目に冷たい布を当てて、丁寧に化粧を施す。
グレタが心配そうに側に控えていた。
「奥様、昨日は大丈夫でいらっしゃいましたか? 夜遅くまでご様子が……」
「ありがとう、グレタ。大丈夫よ」
私はにこりと笑った。
「今日、実家に行ってくる。一日戻らないかもしれないから、エドワード様にはそう伝えておいて」
「かしこまりました」
グレタは何かを察したのか、それ以上は聞かなかった。
ただ、静かに頷いて、馬車の手配をしてくれた。
シルヴァ公爵邸に着くなり、父——アルフォンス・ド・シルヴァは私の顔を見て眉をひそめた。
「イレーヌ、どうした。顔色が悪い」
「お父様」
私は包み隠さず、全てを話した。
エドワードの変化。目撃した不倫の場面。これまで続いてきた、邸での扱い。
そして——今、私が何を考えているかも。
父は静かに聞いていた。
途中で何度か眉間にしわを寄せたり、拳を握ったりしていたが、最後まで黙って聞いてくれた。
話が終わると、しばらく沈黙して——それから、静かに言った。
「……わかった。全力で力を貸そう」
その一言で、涙が出そうになった。
「ありがとう、お父様」
「礼を言うのはこっちだ。お前が辛い思いをしているのに、気づいてやれなかった」
父は立ち上がり、私の肩をそっと抱いた。
「あのとき、お前の婚約を認めたのは私だ。もっとよく見ておくべきだった」
「お父様のせいではありません。私が望んだことです」
「それでも——」
父は低く唸った。
「必ず、お前の名誉を守ってみせる。エドワードに好き勝手やらせたままにはしない」
(ああ、帰ってきた)
久しぶりに、実家の温もりを感じた。
シルヴァ公爵家の応接室の、あの暖かな空気。
子どもの頃から変わらない、父の力強い手。
少しだけ、泣いてしまった。
でも——それが最後の涙だと、心の中で決めた。
証拠集めは、父の伝手でひそかに進めた。
シルヴァ公爵家は王都に広い人脈を持っている。
父は懇意にしている調査屋に依頼して、エドワードの行動を洗い出してもらうことにした。
「時間をかけてもいい。ただし、確実に」
父の言葉通り、私たちは焦らなかった。
エドワードが頻繁に通う場所。
不倫相手の女——ローズマリー・クレインの素性。
下級貴族の娘で、容姿が自慢で、裕福な暮らしへの憧れが強いという評判の女。
エドワードへの金の流れ。密会に使っている部屋の賃貸契約。
全部、丁寧に、確実に。
六ヶ月かけて積み上げていった。
その間も、私は何食わぬ顔で伯爵夫人を続けた。
エドワードが家を空けていても文句を言わない。
戻ってきたら穏やかに出迎える。
帳簿を管理して、使用人を束ねて、社交の場では完璧な伯爵夫人を演じる。
(よく続いたと思う)
でも——目的があれば、人は意外と耐えられるものだ。
◆ ◆ ◆
私が父とともにエドワードの不倫の証拠集めに奔走していた折、思いがけない再会があった。
父の邸の庭を歩いていたとき、屋内から声がした。
久しぶりに訪問者があるらしく、使用人が応対している声が聞こえてくる。
「ヴィンセント・ハルベリー公爵様がお見えです」
その名前を聞いて、私は足を止めた。
「……ヴィンセント?」
思わず声に出してしまった。
庭から邸に戻ると、玄関ホールに見覚えのある——でも、随分と変わった人物が立っていた。
長身で、広い肩。
軍人らしい引き締まった体つき。
整った顔立ちは昔のままだが、少年らしさは消えて、厳しさと落ち着きを備えた顔になっていた。
深い翠の瞳が、私を見た。
「……イレーヌ?」
「ヴィンセント」
思わず、名前を呼んでいた。
「久しぶりだな。随分変わったと言いたいところだが——お前は変わらないな」
彼は少し目を細めた。
「随分失礼なことを言うのね。私だって変わっています」
「そうか? 俺には変わらないように見える」
言い方はぶっきらぼうだったけれど——その目が、穏やかだった。
(ああ、この人は昔からこうだった)
◆ ◆ ◆
ヴィンセント・ハルベリー
私が彼と初めて会ったのは、私が七歳のときだった。
父の友人であるハルベリー公爵が邸を訪ねてきた日で、その息子が連れてこられてきたのだ。
当時九歳だったヴィンセントは、背が高くて無口で、どこか大人びた顔をした少年だった。
「ヴィンセントです」
ぶっきらぼうに名乗って、それきり黙ってしまった。
私はしばらく彼を観察してから、思い切って話しかけた。
「お庭に行きましょう。大きな木があるのです」
「……木?」
「とても大きくて、枝がいっぱいあって、登れるのです。私はいつもあの木の上から邸を眺めるのが好きで」
ヴィンセントは少し驚いたような顔をした。
「……令嬢なのに、木に登るのか?」
「お父様が見ていないときは」
私がそう言うと、ヴィンセントは少しだけ笑った。
ほんの少し、目の端が緩んだだけのような笑い方だったけれど。
「……じゃあ、行こう」
それが始まりだった。
それから数年、父同士の交流に合わせてヴィンセントがシルヴァ邸を訪れるたびに、私たちはどこかへ一緒に出かけた。
庭で花を摘んだり、邸の裏の池で魚を眺めたり、ときには馬を並べて近くの野原を駆け回ったりした。
ヴィンセントは口数が少なかったが、話さないわけではなかった。
ただ、無駄なことを言わないだけで——聞かれたことには必ず誠実に答えてくれた。
「ヴィンセントは、将来どんな人になりたいの?」
「……騎士。本物の、役に立てる騎士」
「どうして?」
「守りたいものができたから」
十一歳のヴィンセントが、遠くを見てそう言った。
その横顔が、なんだか大人みたいで——私は少し胸がどきりとした記憶がある。
(あのとき、守りたいものって何だったのだろう)
今更ながら、そんなことを思う。
ヴィンセントが辺境の遠征部隊に参加するために王都を離れたのは、私が十六歳のときだった。
「行ってしまうのね」
「ああ」
「……寂しい」
思わず口から出た言葉に、自分で少し驚いた。
ヴィンセントは私を見た。
それから、珍しく少し迷うような顔をして——結局、何も言わなかった。
ただ、黙ったまま私の頭に手を置いた。
一瞬だけ、そっと。
「……達者でいろ」
それきり、馬に乗って行ってしまった。
(あれから八年。彼は変わっているだろうか)
その頃の私はまだ、まさか数年後に彼と再会する形がこんな状況だとは思ってもいなかった
◆ ◆ ◆
ヴィンセントが辺境の遠征部隊から戻ったのは先月のことで、挨拶にシルヴァ邸に来たら私がいると聞いて、と教えてくれた。
「お父様のところにいることが多いのです。実は——」
気がつくと、私はヴィンセントに全部話していた。
エドワードのこと。不倫のこと。証拠集めのこと。
彼はひと言も遮らず、最後まで聞いてくれた。
表情はほとんど変わらなかったが、話が進むにつれて目つきが静かに鋭くなっていくのがわかった。
「……そうか」
静かに言って、それから真っ直ぐに私を見た。
「俺も手伝う」
「でも、迷惑じゃ——」
「イレーヌ」
ヴィンセントは、少し眉を下げて、穏やかに遮った。
「お前が困っているのに、何もしないでいられるか」
(ああ、この人は昔から、こういう人だった)
余計なことを言わない。
でも、必要なときには必ず、そこにいてくれる。
私は頷いた。
「——ありがとう。頼りにしてもいい?」
「当然だ」
彼はそれだけ言って、腕を組んだ。
「具体的に何が必要だ。法的な手続きも、必要なら専門家を当たれる。ハルベリー家の繋がりで、王都の法務に詳しい人間を知っている」
「ありがたいわ。実は婚姻契約書の確認をしてほしかったところで……」
「任せろ」
即答だった。
(本当に、頼もしい)
そうして、三人の作戦が本格的に始まった。
◆ ◆ ◆
離縁の手続きのために、エドワードが邸へやってきたのは、三日後のことだった。
前日、私はグレタに頼んで応接間を整えてもらった。
花を飾り、茶を用意して——一見すると、穏やかな話し合いの場のように見えるように。
だが、その応接間には。
テーブルの上に整然と並べられた書類の束。
壁際に立つシルヴァ公爵とヴィンセント・ハルベリー公爵。
それらが待ち構えていた。
「……なんだ、これは」
応接間に入ってきたエドワードが、眉をひそめる。
「シルヴァ公爵まで……? なぜここに——」
「娘のことですから」
父が、静かに、しかし圧のある声で言った。
「当然、同席させていただきます」
エドワードは明らかに動揺した。
隣のヴィンセントを見て、さらに顔が強張る。
「……ハルベリー公爵まで。一体どういう——」
そのとき——扉が再び開いた。
エドワードが振り返って、そして固まった。
扉の外に、もう一人、人がいた。
淡い金髪の、華やかな顔立ちの女。
ローズマリー・クレインだ。
「……ローズマリー? なぜ、お前が——」
「あら」
彼女は入ってくるなり、エドワードを見て、次に私を見た。
すっと目が細くなった。
「ずいぶん、立派な場を用意されたのね。伯爵夫人様」
揶揄うような声音だった。
(あなたこそ、ここに来てよかったかしら?)
私は静かに微笑んだ。
「ローズマリー様。来てくださってありがとうございます。わざわざお招きしたのは他でもありません——あなたにも、直接お伝えしたいことがあって」
「……招いた?」
エドワードが眉をひそめた。
「お前が、ローズマリーを? なぜ——」
「イレーヌ」
ヴィンセントが静かに私を促した。
私は立ち上がり、テーブルの上の書類束をエドワードのほうへ押し出した。
「離縁に同意します」
エドワードが、ほっとした顔をする。
「その代わり——これを、ご覧ください」
エドワードは訝しげに手を伸ばし——開いた瞬間、顔色が変わった。
「……なんだ、これは」
「あなたとローズマリー・クレイン嬢の、密会の記録です」
私は淡々と言った。
「日付、場所、証人の証言——全て揃っています。その他、王都の外に借りている逢瀬のための部屋の契約書、そちらへの送金記録もございます。六ヶ月分」
「……ッ」
「伯爵家の財産から、ずいぶん多くの金額が動いていますね。我が家の持参金から出た資金も、含まれているようで」
エドワードの顔が、青ざめていく。
「こ、これは——誤解だ! あの女とは——」
「エドワード様」
私は静かに彼の言葉を遮った。
「言い訳は結構です。証拠がありますから」
「誤解って、どういうことかしら」
ローズマリーが、険のある声を出した。
「私のことを、あの女と呼んだの?」
「ロ、ローズマリー、今は——」
「今は、じゃなくて」
彼女は腕を組んで、エドワードを見た。
「あなたは私に何と言っていたか、覚えている? 必ず一緒になると、そう言ったでしょう。この人と別れて、私と結婚すると——」
「それは——!」
「嘘だったの?」
ローズマリーの声に、はっきりとした怒りの色が滲んだ。
エドワードは口をぱくぱくさせた。
(ふたりとも、お互いを利用しあっていたのに——どちらも自分だけが特別だと思っていたのね)
私は内心でため息をついた。
それから——父が口を開いた。
「エドワード殿」
静かだが、有無を言わせぬ声だった。
「貴殿がわが娘と婚姻したのは、シルヴァ公爵家の後ろ盾と持参金があったからでしょう。その持参金——土地、現金、宝飾品、その他一切——全額返還していただきます」
「なっ——そんな、それは——!」
「婚姻契約書をご確認ください」
ヴィンセントが別の書類を卓上に置いた。
「婚姻中の不貞行為が証明された場合、持参金の全額返還および慰謝料の支払いが義務付けられています。ノーラント伯爵の署名入りで。そちらに法務専門家の見解書も添えてあります」
(ヴィンセントが法律の専門家に確認してくれたのだ。本当に助かった)
エドワードは書類を見た。それから私を見た。ヴィンセントを見た。父を見た。
「……そんな、まさか」
「まさか、ではありません」
私は言った。
「六ヶ月前から、準備していましたから」
エドワードの顔に、はっきりとした動揺が走った。
「六ヶ月……? お前が、仕組んだのか——」
「仕組んだのではありません」
私は静かに答えた。
「あなたが積み上げてきたことを、記録しただけです」
沈黙があった。
それを破ったのは——ローズマリーだった。
「ちょっと待って」
彼女が一歩前に出た。
「持参金の全額返還って、どういうことかしら。伯爵家の財産が——」
「大半がなくなる、ということです」
私は彼女のほうを向いた。
「ローズマリー様、あなたはエドワード様との結婚を望んでいたと伺っています。でも——彼の財産の大半は、もともとわたくしの持参金から成り立っているものです。それを返還していただくということは、伯爵家に残る財産は最小限になる、ということを意味します」
ローズマリーの顔色が変わった。
「……最小限って、どのくらい?」
「詳細はこちらの資料に。ご確認ください」
私は別の書類を彼女のほうへ差し出した。
ローズマリーはそれを受け取り——開いて——固まった。
「……こんなに少ないの?」
「土地も、屋敷の一部も、わたくしの実家から持参したものでしたから」
「……そんな」
彼女はエドワードを見た。
「あなた、こんなに……財産があると思っていたのに……」
「ローズマリー、聞いてくれ、これは——」
「うそ」
ローズマリーは、低い声で言った。
「私、裕福な暮らしができると思っていたのに」
「だから聞いてくれ、まだ方法はある——」
「方法って何よ」
ローズマリーの声が、するどくなった。
「あなたは最初から——最初から、私に嘘をついていたのね? 財産があるふりをして、私を引き止めて——」
「そういうわけじゃ——!」
「同じことよ!」
二人の言い争いを、私は静かに眺めた。
(まあ、これはこれで——後は任せておけばよいか)
父が静かに私の隣に来た。
「イレーヌ、続けなさい」
「はい」
私は咳払いをひとつして、エドワードの注意を引き戻した。
「エドワード様。話の続きをよろしいですか」
彼はローズマリーとの言い争いを途切れさせて、こちらを見た。
「……なんだ」
「さらに」
私は続けた。
「この事実は、然るべき貴族の方々にお伝えすることになります。シルヴァ家とハルベリー家、それぞれの伝手で」
「……それは——社交界で——」
「ええ」
私はにっこりと笑った。
「あなたの評判がどうなるか、ご想像にお任せします。もっとも、エドワード様は社交界でのご評判より、ローズマリー様とのご関係のほうが大切でしょうから——その点は、あまり気にされないかもしれませんけれど」
皮肉が、静かに刺さった。
エドワードは——黙った。
完全に、黙った。
あの傲慢な男が。
いつも私を見下すような目をしていた男が。
今は、ただ——縮んでいた。
ローズマリーは、エドワードをもう一度見てから、踵を返した。
「……帰ります」
「ローズマリー!」
「話しかけないで」
冷たい声だった。
彼女は扉を開けて、出て行った。
残されたエドワードは、書類を見つめたまま動かなかった。
しばらくの沈黙の後、彼は——うつむいたまま、小さく言った。
「……わかった。書類に、署名する」
「ありがとうございます」
私は穏やかに言った。
「では、こちらの離縁状と、返還同意書にご署名をお願いします」
父が書類を広げ、ヴィンセントが羽ペンを差し出した。
エドワードは——震える手で、署名をした。
◆ ◆ ◆
応接間を出ると、廊下の窓から秋の空が見えた。
高くて、澄んでいた。
雲ひとつなくて、ただただ青い空。
(終わった)
長かった。
本当に、長かった。
「イレーヌ」
隣に来たヴィンセントが、私の顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
「ええ」
私は空を見上げたまま言った。
「思ったより、すっきりしています」
「そうか」
彼はしばらく黙っていた。
私も黙っていた。
ふたりで、しばらく窓の外の空を眺めていた。
「……ヴィンセント」
「なんだ」
「ありがとう。本当に、助かりました」
「礼はいい」
ヴィンセントは静かに言った。
「お前が無事であることのほうが大事だ」
(無事、か)
その言葉が、じんわりと胸に沁みた。
証拠を揃えること、法的な対応を準備すること——そういうことだけじゃなく。
私自身のことを、心配してくれていた、ということ。
わかっていたけれど、改めてそう言ってもらえると——胸の奥が、温かくなった。
「……ひとつ、聞いていいか」
しばらくして、ヴィンセントが言った。
「なにかしら」
「これが全部終わったら——お前は、どうするつもりだ」
私は、ヴィンセントのほうを向いた。
彼は真っ直ぐに私を見ていた。
その翠の瞳の奥に、言葉にならない何かが揺れているのが見えた。
(ああ)
気づかないふりをしていたけれど——彼の目に、ずっとそれはあったのかもしれない。
八年前、王都を離れる前の日にも。
今日、再会したときにも。
六ヶ月間、一緒に準備をしていたときにも。
「……さあ」
私はゆっくりと言った。
「しばらくは、実家でのんびりしようかと思っていますが」
「それから?」
「それから……は、まだわからないわ」
少し考えてから、私は続けた。
「でも——誰かに、そばにいてほしいとは、思っています。今度こそ、ちゃんと選んで」
ヴィンセントは、少し目を細めた。
「……俺では、だめか」
直球だった。
思わず、笑いが漏れた。
「昔から、あなたはそういうところが変わらないのね」
「答えになっていない」
「……だめじゃないわ」
私は窓の外へ視線を戻した。
「でも、少し時間をちょうだい。まだ、色々整理がつかなくて」
「いくらでも待つ」
彼は迷わず言った。
「急かさない。ただ——覚えておいてくれ。俺は、お前の味方だ。ずっと」
(ずっと、か)
(あの日も、そうだった。王都を離れる前に、私の頭に手を置いて——達者でいろ、と)
あのときの彼は、何か言いたいことがあったのだと、今なら思う。
でも言わずに行ってしまった。
それを今、言ってくれている。
(八年越しに)
その言葉が、胸の奥にじんわりと沁みた。
「……ありがとう」
私は静かに微笑んだ。
長かった。
でも、やっと終わった。
これからは——ちゃんと、自分のために生きよう。
(その隣に、誰かがいてくれるなら——もう少しだけ、未来が楽しみかもしれない)
◆ ◆ ◆
後日、エドワードは持参金を全額返還した。
土地の返還手続きには少し時間がかかったが、父が法的に手続きを進め、三ヶ月後にはすべて戻ってきた。
現金と宝飾品は、すでに邸で保管していたものをそのまま引き上げることができた。
社交界でのエドワードの評判は、ほどなく地に堕ちた。
シルヴァ公爵家とハルベリー公爵家がそれぞれの伝手で事実を広めたのだから、当然だ。
不倫の上に持参金まで使い込んでいたとあっては、貴族の名誉など残りようがない。
次の社交シーズンには、エドワードの名前は招待状から消えていた。
ローズマリーについては——エドワードから財産の話を聞いた翌日には、彼のもとを去っていたそうだ。
それほど早いとは、さすがの私も少し驚いた。
(まあ、それがあの人の本音だったということでしょう)
エドワードはしばらくローズマリーを追いかけていたようだが、彼女は振り向かなかったらしい。
伯爵家の財産のほとんどを失ったエドワードに、彼女が惹かれる理由はもはやなかった。
お互い様だと、私は思った。
利用しようとして、利用されて。
そういう関係は、利益が消えれば終わる。
(私はそんな結婚はしない。次は、絶対に)
そして——それから半年が経った頃。
ヴィンセントが再び、私に会いに来た。
シルヴァ邸の庭で、二人並んで春の花を眺めていたとき。
彼は前置きもなく言った。
「イレーヌ。整理はついたか」
「……ずいぶん直球ね」
「お前が好きだ」
さらに直球だった。
私は思わず吹き出した。
「もう少し、言い方というものがあるでしょう」
「ない」
「ないの?」
「俺は回りくどいことが苦手だ。前置きをしている間に機会を逃す気がして」
(それは、あなたが八年前に言えなかったことへの反省も入っているのかしら)
そう聞こうかと思ったが、やめた。
「……答えを聞かせてもらえるか」
ヴィンセントは、少しだけ——本当に少しだけ、不安そうな顔をしていた。
あの無口で、感情をあまり出さない彼が。
その顔を見て——私は、答えが決まった。
「よろしくお願いします、ヴィンセント」
彼はしばらく黙った。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
肩から力が抜けていく。
「……よかった」
それだけ、言った。
大きな手が、私の手に重なった。
「今度は——俺が守る番だ」
(守りたいものができたから)
昔、彼が言っていた言葉が頭をよぎった。
あのとき、守りたいものって何だったの、と——ずっと聞けなかった。
今なら、わかる気がした。
「今度こそ」
私は彼の手を、そっと握り返した。
「幸せになりましょう。ちゃんと」
「ああ」
ヴィンセントは、穏やかに笑った。
春の陽光が、庭いっぱいに降り注いでいた。




