歌
北野翔の毎日は、相変わらず日々練習に明け暮れていた。育成枠二年目の彼に残された猶予はそう多くなく、無駄に過ごす時間など有りはしない。
その日も朝から練習に励んでいた北野は、午後の自主練習を終えて合宿所へ戻ろうとしていた。
そんな彼がグラウンドの隅にある倉庫の前を通りかかった時、どこからか声が聞こえた。
どうやら歌声のようだ。
(こんなとこで、誰かカラオケ大会でもしてんのか?)
それは小さな声だったが、よく通る声だった。
(倉庫の裏から?)
北野は思わずそちらへ足を向けた。いや、自然と、まるで惹き寄せられるように足が向いたというのが正しいかもしれない。
歌われている曲自体は聞き覚えのあるものだった。
(これって、なんて曲だったっけ)
どこかのドラマの主題歌だったか、それともCMだったか。曲名は出てこないけれど確かに耳にしたことがある。
北野はそっと倉庫の角から、歌声のする方を覗き込んだ。
(あれ? あれって……春香さん?)
歌声の主は春香だった。
スマホを手に持ち、歌詞を確認しているのか画面を注視しながら歌っている。誰もいないと思っているのだろう。北野の存在には気づいていないようだった。
(はぁ……)
北野は思わず息を呑んだ。それはいつもの春香ではなかったからだ。
いつもなら可愛らしくクルクルと変わる表情が、今は微動だにしない。真剣な目で歌詞を追いながら、唇だけが動いている。
笑ってもいない。困ってもいない。ただひたすら、歌だけに向き合っている顔だった。真摯に、そう、真摯に歌と向き合っている。
(こんな顔するんだ、このコ)
声もいつもと違う気がする。話している時の声より少し高く澄んでいて、それでいて芯があった。
北野は音楽に詳しいわけではないし、歌が上手い下手を語れるほどの耳も持っていない。それでもわかった。春香の歌声は、間違いなく彼の心を打つものだ。
(さすが歌手志望だけあるなぁ……)
このコはきっと本物だ。そう思った。もっと聞きたい、このまま聞いていたい。
声をかけるタイミングを完全に失った北野は、そのまま立ち尽くしていた。
曲が終わったのか、春香が小さく息を吐いて、スマホの画面をスクロールしているように見える。次の曲に移ろうとしているのだろうか。
「……春香さん」
北野は気がついたら声をかけていた。
春香が飛び上がるほど驚いて振り返る。
「わっ!? き、北野さん!? い、いつからいたんですか!?」
「えっと……ちょっと前から」
「ちょっと前って、どのくらいですか」
「……たぶん今歌ってた曲が始まったくらいから、かな」
「もうっ! 最初から聞いてたじゃないですか!!」
春香は顔を真っ赤にして両手で顔を覆った。北野はなんとなく気まずくなって、頭を軽くかきながら苦笑いを浮かべる。
「ごめんなさい、声かけるタイミングを失って……でもその、上手かったですよ」
「からかわないでくださいよ」
「からかってないですよ。本当に上手かったですよ。本当に」
春香は顔を覆ったまましばらく動かなかったが、やがてゆっくりと手を下ろして、少しだけ俯いてから言った。
「……新しい曲の練習してたんです。レッスンで課題として出されたやつで。まだ全然上手く歌えなくて」
「そうなんですか。俺には十分上手く聞こえましたけど」
「北野さんには聞こえてない部分がいっぱいあるんですよ。音程とか、声の出し方とか、表現の仕方とか。自分で聞いてても、まだまだ全然ダメだなって思うことばっかりで」
そう言う春香の表情は、さっき倉庫の裏で歌っていた時の顔に少し似ていた。真剣で、少し悔しそうで、いつもの屈託のない笑顔とは違う顔だ。
「春香さんって、歌ってる時、全然違う顔しますね」
「えっ?」
「なんか、いつもと全然違う。真剣というか、怖いくらいというか」
春香はきょとんとしてから、少しだけ笑みを浮かべた。
「そうかもしれないです。歌ってる時は、他のこと全部忘れちゃうから」
「他のこと全部?」
「はい。仕事のこととか、うまくいかないこととか、不安なこととか。歌ってる間はそういうの全部どっかに行っちゃって、歌のことだけになるんです。だから歌ってる時間が一番好きで」
北野は黙って聞いていた。
「私ね、絶対に歌手になりたいんです。アイドルとかタレントとかじゃなくて、歌だけで食べていける人間になりたい。それだけがずっと変わらない私の夢なので」
ずっと変わらない私の夢だと春香は言う。彼女は子供の頃からの夢を真剣に追い続けている。ただ可愛いだけじゃない。彼女もまたプロの世界での成功を目指して日々戦っているのだ。
北野は春香に対して尊敬の念を、そして同時に親近感を抱き始めていた。
「だから今はどんな仕事でもやるし、どんな場所でも練習しようって思ってて。合宿所の裏でこっそり練習してるの見られちゃいましたけど」
最後は少し照れ気味に笑いながら春香はそう言った。北野もつられて笑った。
「なんか、俺と一緒ですね」
「え?」
「俺、どんなにキツくても辞めようと思わない、って言ったじゃないですか。春香さんも同じだなって」
春香は少しの間北野の顔を見てから、「そうですね」と言ってまた笑った。さっきの真剣な顔ではなく、いつもの屈託のない笑顔でもなく、その中間のような笑顔だった。
「北野さんも、絶対に夢叶えてくださいね」
「春香さんもね」
二人は並んでグラウンドの方へ歩き出した。夕暮れの空が、グラウンドの向こうに広がっていた。




