また1人、虜になる
試合開始時間が近くなり若生とも別れた向井と川島は、そのまま川島の妻の元へと向かった。
「久しぶりね、拓海くん」
「ご無沙汰してます、志保さん」
「聞いてくれよ、志保。コイツさあ、若いヤツに檄飛ばしたらしいんだ」
「あら、そうなの? でも拓海くんだってもうベテランだものね。それくらいするわよね」
「あのヤンチャ坊主が後輩に檄だってさ。笑っちゃうよな」
「もう、よしくんったら。拓海くんだってもうそういう年齢と立場なんだから、あんまりからかっちゃダメだよ」
「川島さん……マジでもう勘弁してください」
3人がひとしきり昔話に花を咲かせていると、いよいよ試合が開始された。
「で、正直あの北野ってコは、実際のところどうなんだ? 見たことも無い変化をするチェンジアップを投げるって聞いてはいるけど」
「そうですね。少なくとも俺はあんなチェンジアップ見たことありません。若生コーチも他のコーチも、広岡2軍監督もそう言ってましたよ」
そりゃあ楽しみだな、と言って川島は試合を観始めた。
1回、2回と北野は順調にイニングを消化していく。そのピッチングは、もうすっかり以前の輝きを取り戻していた。
だがマウンド上の北野は少々戸惑っていた。彼は試合前に川島から貰ったアドバイスを実行していたのだ。
(俺がカッコイイところを見せたい女の子か……うーん、やっぱ春香さんかなぁ?)
彼はアドバイス通り、試合前に春香が今ここに居て自分のピッチングを見ている想像をしてみた。カッコよく抑える姿を見せて、そして……そして、どうする?
(春香さんに良いとこ見せて、それで俺はどうしようってんだ?)
そもそもなぜ春香に自分の良いところを見て欲しいのか。見てもらって、その先に何を求めているのか。
(いや、そんな複雑に考えることじゃないか。春香さんじゃなくても、女の子が見てるんだったら。やっぱり自分のカッコワルイところよりカッコイイところを見て欲しいもんな)
そこで北野はハッと気がついた。
(あ、そうか。これが自分のために投げるってことか)
女の子に自分を良く見せたい。これ以上に自分自身だけのために投げる理由を北野は思いつかない。川島は自分のために投げるという漠然としたワードに、具体的な例を示してくれたのだ。
最初聞いたときはむしろ肩に力が入ってしまいそうに思えたが、実際そんな想像をしてみると、いつもよりもリラックスできている気がする。そして試合が始まる。
結果は上々だった。
(うん。上出来だ。ますます調子が上がってるって自分でもわかる。良い感じで力も抜けてる。球も走ってる)
どうやら川島のアドバイスは効果があったようだった。
3回、内野スタンドから試合を観ていた川島が、突然席を立った。
「よしくん、どうしたの?」
「ちょっとバックネット裏で見てくる。ここからじゃイマイチよくわかんねぇ」
そう言って川島は、バックネット裏へ小走りに移動していった。
「よしくん、ずいぶん気に入ってるみたい」
「川島さんが北野を、ですか?」
「うん。あんなに熱心に見たがる選手なんて、私の記憶にないもの」
「でもわかります。アイツはそういうピッチャーなんですよ。見たヤツはみんな魅了されちまう」
「……拓海くんも、そうなんだね」
向井は少し嬉しそうに頷いた。
「志保さん。俺は優勝したいんですよ。リーグ優勝がしたいんです。いくら代表で世界一になっても、いくらタイトルを獲っても、俺は一度もリーグ優勝してないんですから」
「拓海くん、ずっとそう言ってるけど、未だに優勝できていないものね」
「北野がもし1軍に定着したら、その時には絶対俺に次ぐ、いや、俺を越える存在になると思ってるんです。アイツがいれば引退するまでに優勝できるかもしれない。そう思ってるんですよ」
「スゴイね。拓海くんもベタ惚れじゃない。だから檄を飛ばしたりしたのね?」
そう言って悪戯っ子のように笑う志保は、夫の良樹とまるで同じように向井には見えた。
「からかわないでくださいよ。俺もさすがにもう現役生活は残り少ないって自覚してるんです。だから優勝するためには若いヤツに檄飛ばしたりアドバイスしたりもしますよ」
「それで? 拓海くん推しの北野くんはどうなの? よしくんから話は聞いてるけど、もう大丈夫そう?」
「はい。もう大丈夫だと思います。別に俺の檄でどうこうじゃないですけど、アイツを応援している人間は何人もいますからね。そのおかげですっかり立ち直りましたよ。もうじきに上がってくると思いますよ」
楽しみだね、と言って笑う志保のその表情は、さきほどの悪戯っ子のようなものとは全く違う。それはまるで向井を祝福しているかのような、そして慈しんでいるかのような柔らかく優しい笑顔だった。
「いやいやいや、なんだあのピッチャー。あれ、ホントにチェンジアップなのか?」
5回を終えて北野が降板するのを見届けた川島は、戻ってくるなり開口一番でそう言った。
「バックネット裏でずっと見てたけどさ、あれはエげつねえわ。バッターからしたら、とんでもねえ変化球だろ。久しぶりにアツくなったぜ」
興奮冷めやらぬ様子の川島の言葉を聞いて、向井は満足げに頷く。
「どうでした?」
「どうもこうもねえよ。どいつもこいつも全員タイミングが全然合わねえし、バッティングフォームもガタガタに崩されちまってる。バッター全員がこんなになる変化球なんて見たことねえよ。おそらく手元でめちゃ変化してるんだろう。そりゃ三振の山も築くさ。あれはたぶん、ちょっとやそっとじゃ打てないぞ。そんな気がする」
一気にまくし立てた川島は、さらに「できることなら直接捕ってみたいぜ」と付け加えた。それはこのレジェンドにとっては最大級の誉め言葉だ。彼がキャッチャーとして捕球したいと言うピッチャーは数少ない。
「川島さんからそう言われたって聞いたら、北野のヤツもさぞ喜ぶでしょうね」
「俺らはそろそろ帰るけど、あの若者に1軍でも俺のアドバイスを忘れんなよって伝えといてくれ」
「えっ? 帰っちゃうんですか? せっかくだから食事でも……」
「オマエ、今夜の先発だろ? さっさと球場行ってコンディション整えとけよ。それにこの後は志保とドライブしてから食事をする約束なんでな」
志保がほんのりと顔を赤らめるのを横目で見ながら向井は、相変わらず夫婦仲良いんですねと言った。
「そういうことなら、残念ですけどまたの機会にってことで」
「ああ、そうしてくれ」
川島は「今日の試合、勝てよ」と向井に声をかけると、妻と寄り添うようにして球場を後にした。向井は川島の姿が見えなくなるまで直立不動のままだった。
「よしくん、なんだかすごく嬉しそうだね」
車を運転している夫の横顔に向けて、志保はそう言った。
「そ、そうか? そんな嬉しそうかな」
「うん、そう見えるよ。そんなにあの北野っていうピッチャーのコが気に入ったの?」
「そうだな。アイツと向井が1年間ローテーションを守れたら優勝できるかも、ってぐらいには注目してるよ」
「よしくんも、シーサーペンツでは結局優勝できなかったもんね。けっこう気にしてるんだ?」
「まあな。その後俺は移籍しちまったからさ、結局向井に良い想いをさせてやれなかったし、ずっとアイツには申し訳ないって思ってはいるんだ」
「……拓海くんに直接そう言ってあげればいいのに。感激しちゃうと思うよ」
「いいトシこいたオッサンが、いまさらそんなこっ恥ずかしいこと言えるわけねえだろ」
川島はそう言って苦笑いを浮かべた。
「そんなことよりさ、あの北野ってコが投げるの見てたら、なんかコーチをすんのも悪くねえかもって思ってさ」
「あれぇ、心変わり? 自分は指導者には向かないって言って、来るオファーをずっと断り続けてきたのに」
「そうだな。久しぶりだよ、自分の手で育ててみたいなって思ったのはさ」
川島の元へは引退する前から指導者としてのオファーがいくつも舞い込み、それは今でも変わりがなかった。向井拓海をバッテリーを組みながらシゴき鍛え上げた他に、彼は何人ものピッチャーやキャッチャーを育て上げている。その実績を評価されてのものだ。
だが本人の自己評価は周囲と真逆なので、彼が引退してから今まで指導者の立場に立ったことは一度もない。
「やっぱりさ、自分の手で育ててみたいって思えるようなヤツじゃないとな」
「拓海くんみたいな?」
「アイツは良いモン持ってたし、根性も他のヤツらとは違ってたしな。鍛えれば必ずモノになる、エースにだってなれるって思ってたからさ。俺が育てたって言われてる連中も、みんなそうよ。コイツはっていう魅力があったんだ」
「……あの北野くんにもあるの?」
「あるね。あれは魅力的だわ。見たこともない変化球を駆使して三振の山を築く。これだけでファンは熱狂するだろうな」
「シーサーペンツからコーチのオファー、なかったっけ?」
「あったような気もするけど、シーズン始まる前の話だし時効じゃね?」
それに、と川島は付け加えた。
「あのコは若生コーチが手塩にかけて育ててるみたいだからさ、横取りしたら悪いしな」
川島はそう言って笑ったが、その横顔には少しばかり後悔の色が混じっているように志保には見えた。




