縮まる距離
二度目の収録のため練習場の最寄り駅に降り立った春香は、バスの時刻表を見て絶望した。
「えぇ~、次のバスまで四十分以上あるの?」
そんなに待つのは、さすがに時間がもったいない。
「ちゃんと時刻表調べておけばよかった。失敗したなぁ……」
仕方なく歩いて行こうと思ったが、道がわからなかった。
交番で聞こうかと探したけれど見当たらない。
スマホの地図アプリを見たものの、とても自分一人ではたどり着ける気がしない。
「しょうがないな。誰かに道を聞いてみよう……」
それでダメなら仕方ない。バスの時間まで時間を潰そう。そう決めた春香が駅前できょろきょろと周りを見回していると、シーサーペンツのロゴが入ったジャンバーを着た人物が目に入った。
(地元のファンの人なら、きっと道を知ってるはずだよね)
春香は迷わず声をかけた。
「あの、すみません。横浜シーサーペンツの練習場への行き方をご存じじゃないですか?」
声をかけた相手が振り返った。その人物は自分とそう変わらない年齢のようで、しかも見覚えのある顔だった。
「……あ」
「……あ」
二人同時に声が出た。
春香が声をかけた相手は、昨日練習場で会った選手だったのだ。
(北野さん……だったよね?)
「椎名さん? なんでここに?」
「北野さん!? ええっと、収録があって来たんですけど、バスが全然来なくて……ていうか北野さん、選手だったんですね」
「……言いましたよね、この前」
「あ、そうでした。すみません」
春香は少し顔を赤くして頭を下げた。
「次のバスまで40分くらいあるので、時間がもったいないから歩こうかと思ったんです。でも道がわからなくって……」
「歩いてですか……けっこうありますよ?」
「道、わかりますか? 教えてもらっていいですか」
北野は小さくため息をついてから「行きますよ」と言った。
「教えるの難しいんで、一緒に行きますよ」
「いいんですか?」
「いいも何も、俺も戻りますから」
北野がそう言って歩き始めると、初めて会った時と同じように、パタパタと足音が追いかけてきた。
北野は初対面の人物と話すのがさほど得意ではない。女の子と二人きりで話すのはもっと不得意だった。歩きながら、彼は頭の中で話題を探し続ける。
「収録の時間まで、まだだいぶあるんじゃないですか?」
「実は、選手の皆さんの練習を今日も最初から見ようと思って早めに来たんです」
「それで早く来すぎてバスがない、と」
「はい。完全に確認不足でした」
(あれ?)
北野は、ふいに疑問が湧いた。だったら前回はどうしたのだろう。あの時も朝早く練習場に来ていたのに。
「この前はバスで来たんじゃないんですか?」
「前回は、駅に着いたらちょうどバスが来ていて、それにすぐ乗ってしまったので……」
「だから時刻表をチェックしてなかった、と」
「はい」
春香は少しはにかんだような、苦笑いのような、そんな笑顔を見せた。昨日と同じく表情が豊かで、それが北野には妙に可笑しく可愛らしく感じられる。
「ところで椎名さんって、野球のこと、あまり詳しくなかったりします?」
「……どうしてわかったんですか?」
「このあいだの感じで、なんとなく」
春香はうつむき加減になって「実はそうなんです」と答えた。
「このお仕事が決まってから毎日勉強はしているんですけど、まだ全然わからないことだらけで。もっと勉強しなくちゃいけないとは思っているんですけど」
「別に責めてないですよ。ただ僕が育成枠って言ったら首を傾げてたから」
「ごめんなさい。あの、育成枠って何ですか? よかったら教えてください」
北野は簡単に説明した。プロ野球のチームには支配下登録選手と育成選手がいること。支配下は最大七十人で、登録されないと一軍の試合には出られないこと。育成選手に与えられた時間は最大三年であること。
「そんな仕組みがあるんですね。初めて知りました」
春香は目を丸くした。聞く話が全て新鮮で興味津々といった様子が伝わってくる。自分の話をこれほど真剣に聞いてくれる人間が珍しくて、北野は少し話を続けた。
「育成から支配下登録されるのに競争、登録されてから一軍に上がるのに競争、一軍に上がったら落ちないように競争。気を抜くヒマなんてありゃしない」
「プロって、どの世界でも厳しいものなんですね」
その言葉には、不思議と実感がこもっていた。
だが、考えてみるとそれも当然だろう。彼女だって売れていないだけで、立派なプロの世界の住人なのだから。
「椎名さんも芸能界っていうプロの世界にいるんですもんね」
「はい。なかなか望み通りの仕事は貰えなくて。私、本当は歌手になりたくてこの世界に入ったんです。でも現実は厳しくて」
「僕もなかなか思うような結果が出せなくてね。やっぱり焦りますよね」
「お互い大変な世界に入ってしまったということですね」
そう言いながらも春香の表情は落ち込んでいるわけではなかった。むしろ毎日が楽しくて仕方がないように見える。自分と同じだな、と北野は思った。
「北野さんは最初からピッチャーだったんですか?」
「そうですね。他のポジションもやりましたけど、やっぱりピッチャーが一番楽しいかな」
「どうしてですか?」
「だって、ピッチャーが投げない限りゲームは絶対に始まらないんですよ。グラウンドの中心にいてゲームの主導権を握ってる。おまけにマウンドってちょっと高いから、なんか王様みたいじゃないですか」
春香はクスクスと笑った。
「王様、いいですね。なんだかカッコイイです」
「でしょう? だからもう他のポジションをやろうとは思わないですね」
「マウンドの上って、ステージの上みたいなものですもんね。きっと気持ちいいんだろうなぁ」
そんな憧れを語るようなことを口にしながら、春香はやはり笑顔だった。その笑顔を見ているとなぜか自分も楽しい気分になってくる。それが北野には不思議だった。
話をしているうちにいつの間にか時間が経っており、気がつけば練習場の入口が見えてきた。
「北野さん、ありがとうございました」
入口の前で春香は北野の前に出ると、クルリと向き直り頭を下げた。
「今度、もっといろいろ教えてくださいね。野球のこと、まだ全然わからないから」
「まあ、機会があれば」
「機会、作ってください」
春香はそう言ってまた笑った。北野の方が照れてしまうほど屈託のない、眩しい笑顔だった。
春香が事務所の中へと入っていくのを見送ってから、北野は合宿所へと歩き始める。
(不思議なコだな)
女の子と二人きりでこれほど会話が弾んだのは初めてだった。何がそうさせるのかはわからない。ただ、とにかく話しやすかった。それだけは確かだ。
翌日の午後、北野は練習グラウンドで一人走りこみをしていた。
他の選手たちは既に練習を終えたり、筋力トレーニングをしに行ったり、室内練習場の方で練習していたりで、グラウンドには彼一人だけだった。
北野はピッチャーだ。ピッチャーと一口に言っても一人で試合の最初から最後まで投げていた昔と違い、今は分業制が確立されて様々な役割に分けられているが、大きく分ければ先発とリリーフということになる。
先発とは試合の最初から投げる者、リリーフとは前のピッチャーに代わって途中から投げる者のことだ。そして北野は先発ピッチャーとして練習を積んでいる。なにしろそれしか出来ないから。
たった一人で黙々と走っていた北野がふとスタンドに視線を移すと、そこに見覚えのある女の子の姿があった。
(あれ? あのコ……)
思ったとおり椎名春香だった。視線が合うと春香は軽く手を振った後お辞儀をした。北野も走りながら軽く頭を下げて挨拶を返す。
北野はそのまま走り込みを続けたが、その間春香はずっと北野のことをスタンドから見つめていた。
ランニングを終えて次に筋トレをするために北野がグラウンドを後にすると、春香が小走りに駆け寄って来た。
春香は「こんにちは北野さん」と挨拶をしてから改めて北野に昨日のお礼を言い頭を下げた。
「昨日は本当にありがとうございました」
「今日はバスで?」
「はい! 今日はちゃんと時刻表を調べましたから」
「それで、二日連続でどうしたんですか? 今日も何かの打ち合わせ?」
そう言われて春香は今までの表情をガラッと変え、何とも申し訳なさそうな声で答えた。
「いえ、あの、今日はその、レッスンが今日は無くって……。学校はもう冬休みだし、部活動もしてないから時間が空いてしまって……」
「あ……そ、そうなんですか……」
自分の一言で春香を傷つけたかもしれない。北野は自分の迂闊さを恥じたが、幸い春香は特に気を悪くした様子はなく、なぜかただ申し訳なさそうにするばかりだった。
「ごめんなさい……私、お仕事少なくって……」
「いや、別にそんな、俺に謝るようなことじゃ……」
2人の間になんとも微妙な空気が流れ、沈黙がしばし2人を包み込んだ。
「あ、あの、私、昨日帰ってから色々自分でも調べてみたんです。育成選手のこととか」
気を取り直すかのように、春香が自分から話題を振った。
「調べれば調べるほど大変なんですね、育成選手って」
「ま……まあ、ね。プロ野球選手の中でも最底辺ですから。実際給料も安いし、怪我したり結果を残せなければすぐクビだし。正直しんどいですよ。精神的にもね。でも……」
「でも?」
「でも、何か最底辺から成り上がっていくのってカッコよくないですか? サクセスストーリーって感じで」
「そうですね。なんだかすごくドラマチックですよね」
「でしょう? だから自分がそのドラマの主人公になるんだって言い聞かせながら、毎日頑張ってるんです」
春香はノリ良く北野の話に付き合ってくれた。ホントに話しやすいコだよなぁと北野は改めて思った。
「じゃあ、これから筋トレするんでこの辺で」
北野がそう言うと春香は「練習の邪魔しちゃってごめんなさい」と言ってまた頭を下げた。本当にキチンと躾られたコだなぁと北野は思った。礼儀正し過ぎて逆にこっちが恐縮してしまう。
「椎名さん、一人でちゃんと帰れます?」
北野がそう軽口を叩くと春香は「子供じゃないから大丈夫です!」と言って頬を膨らませた。
「ははは。じゃあ、気をつけて帰ってくださいね」
「北野さん、春香でいいですよ。北野さんの方が年上なんだし、春香って名前で呼んでください」
「えっ!?」
思いがけない言葉に北野は困惑した。
彼の今までの人生で、女の子を下の名前で呼んだことなどない。そこまで仲の良いコもいなかったし、なにより女の子をそんな風に呼ぶのはなんとなく照れくさかった。
「えっ、いやそれは、どうなんだろ」
「乙倉さんにもそうしてくださいってお願いしましたし、名前で呼んでもらった方が私も嬉しいです。苗字で呼ばれると何だかよそよそしい感じがしちゃって。ダメですか?」
少し上目遣いになって春香はそう言った。
「いや、ダメっていうかなんていうか。会って間もない女の子を下の名前で呼ぶとか、いつきさんじゃないから、その、慣れてないっつーか」
しどろもどろになる北野に「イヤだったら無理にとは言いませんけど」と春香は言ったが、目を伏せたその表情はなんとも悲しげだった。女の子にこんな顔をされたのではイヤとは言えない。
「えっと、じゃあそしたら、春香さん、ってことで」
「はいっ!!」
悲しげな表情から一変した満面の笑み。その破壊力たるや、女の子に免疫の無い北野の心を激しく揺さぶるには充分だった。
(なんだかわかんねーけど、このコと話してるとなんかドキドキすんな。なんだコレ?)
自分でもよくわからない胸の高鳴り。それは北野にとって初めての感情だった。




