見守る眼
「足首の方はどんな調子だ? もう痛みはないのか?」
向井と顔を合わせるなり若生はそう声をかけた。
エースとはいえ2軍で練習する以上、若生には向井のコンディションを知っておく義務がある。それは2軍投手コーチとしての仕事の範疇だ。
「ええ、おかげさんで痛みはもうないです。行けと言われりゃ今日にでも投げられますよ」
「そりゃあよかった。最短の日にちで戻れそうなのは何よりだ」
2人はしばし談笑していたが話題はやがて若いピッチャーたちへと及び、そして当然の流れの様に北野の現状についての話になった。
「さっき会ったんで少し話をしたんですがね、しばらく見ない間に、ずいぶんとまあ覇気がなくなってましたね。しょぼくれた顔してましたよ」
向井は自分が北野に言ったことを若生に話して聞かせた。最初はその荒治療さに驚いた若生だったが、次第にむしろそれでよかったのかもしれないと思い直した。
「北野が真鍋のためにもと思いつめていることは、私も広岡さんもわかっていたんだ。おそらくそれが原因で精神的に不安定になり調子を崩してしまったこともな。ただ我々の言葉では耳に逆らってしまうのか、北野自身が今ひとつ納得できなかったようでな。だからといってオマエさんが言ったようなことを私たちが言うわけにもいかんし」
「そりゃあ指導する側の人間が、オマエにそんな力は無い、なんて言えませんものねぇ」
「まあな。ただ結果的にはその方が良いのかもしれん。正直アイツに関しては手詰まりの状態なんでな。我々には言えないことだが、それをオマエさんが代わって言ってくれたことがプラスになれば……」
精神面の問題だけに慎重を期していたのだが、誰かが厳しいことを言う必要があったのかもしれない。だとしたら向井が厳しく突き放したことで何かが変わるかもしれない。
「まあ自分は正直言って今日は練習をするだけのつもりで、アイツにあれやこれや言うつもりはなかったんですけどね」
「そうなのか? じゃあどうして言ったんだ?」
「さあ、どうしてですかね。まあ強いて言うなら、俺もアイツには期待してるから……ですかね」
「期待? オマエが北野に?」
若生は若干訝しげにそう問いかけた。自分たち指導者が期待するのならともかく、向井はバリバリの現役選手。まして同じピッチャーでありしかも若いのだから、自分を脅かす者と認識することはあっても期待することはないのではないだろうか。
少なくとも若生自身は現役当時そういう認識だった。
「そりゃあ期待しますよ」
その問いに対して向井は明確にこう答えた。
「若生さん……俺はね、優勝したいんですよ」
優勝したい。それは向井の心からの叫びだった。
プロ入りしてから長らくシーサーペンツのエースを張り、今では日本代表チームにも毎回選ばれる彼だが、残念ながら所属チームでのリーグ優勝には悲しいくらい縁遠かった。
2位には何回もなったし、自身は何度か年間20勝を達成しているのだが、それでもリーグ優勝のタイトルを得ることは未だにできていない。
望んで望んで望んで、今年こそイケると手応えをを感じたことも何度かあったが、それでも願いは一度としてかなえられていない。
団体競技では、1人だけが活躍してもチームの最終的勝利は得られないとよく言われるが、向井拓海は正にそれを具現化したかのような人物なのだ。
リーグ優勝を果たすためには最低でも70勝以上、年によっては80勝ないし90勝以上しなければならないこともある。
それだけの勝ち星を向井1人で賄うことは当然不可能であり、彼に続くローテーションピッチャーが必要不可欠だ。
もしも2位になった年にもう1人、あともう1人でいいから2桁勝利を上げられる先発ピッチャーが居たならば……もし居たなら彼はもう何度も優勝の美酒を味わっていたことだろう。
もちろん彼以外のピッチャーも精一杯努力はしている。誰だって優勝はしたい。しかし悲しいかな、ローテーションを1年間守って安定した勝ち星を上げられる者が足りなかった。
「自分で言うのもアレですけど、俺も長いことこのチームでエースと呼ばれてきました。いくつもタイトルを獲ったし、エースと呼ばれるにふさわしい成績を残してきた自負もあります。代表チームに呼ばれて世界一の称号を得る力にもなれました。あとはリーグ優勝、そして日本シリーズ制覇なんですよ。そう思いませんか?」
数々の栄光を手にしてきた男の、最後に残されたものがそれなのだと向井は言う。そんなことを彼が対外的に語ったことは1度としてない。まだ手にしていない国内でのタイトル。それは他人が思う以上に向井にとっては重要なものなのだ。
「野球は1人じゃ勝てないって言いますけど、俺だけが勝ったって優勝に届くだけの勝ち星には到底足りない。もっともっと優秀なピッチャーが育ってこなきゃ優勝なんてできやしない」
「まあ、それはたしかにそうだが」
「俺が現役でいられるのも、いいとこあと5年かそこらでしょう。残り少なくなったチャンスをモノにするためには、もう自分の知識も技術も経験も出し惜しみしてる場合じゃないと思ったんですよ。若いピッチャーが成長するためなら、それが優勝に繋がるなら喜んで自分から手を貸します。アドバイスだって何だってしますよ。優勝するためにね」
その話しぶりは、若生を一瞬たじろがせるほどの熱意を感じさせた。もちろん優勝したいだろうとは思っていたが、しかしこれほどの熱意をもってそれを望んでいるとは知らなかった。
プロ野球選手は個人事業主であることもあって、苦労して手にしたものを自分から気前よく若手に与えることをヨシとしない者も多い。
教えを請われたら教えるけれど、自分から積極的にはアドバイスなどしないというスタンスだったり、教わらないで見て盗めというスタンスだったり、そもそも口で教えても本当の意味で身には付かないという考えからだったり理由は様々だが、向井は請われない限り教えない男だった。職人気質と言い換えてもいいかもしれない。
――教えること自体はむしろ好きだけど、1から10まで教えたんでは本人のためにならないからね。
以前テレビ番組のインタビューで彼はそう答えたことがある。総て教わるのではなく、自分でも考え工夫し努力しないとダメなのだと。自分から動かないとダメなのだと。
だから彼は今まで、自ら積極的に若い選手へ何か働きかけようとはしてこなかった。
肩書きこそないものの、キャリアと年齢から自分はコーチ的な役割も期待されているだろう自覚はあったし、それも給料のうちだと考えていたから異論などはなかった。それで優勝できるのならお安い御用だ。
そして彼は考えた末に、自分から動くのではなく相手が教えを請うてきたら手を貸そうと、選手個々の自立と自主性をまず求めようと、そして自ら教えを求めてきた者に対しては惜しみなく自分の知る総てのことを教えようと決めた。正式なコーチでもない自分の立場ではそれが最も正しいと思ったから。
「オマエさんは自分からは教えに動かないタイプだと思っていたんだが、北野に関してはそうじゃないんだな」
それは至極真っ当な問いかけだった。それに対して向井はこう答えた。自分もアイツのチェンジアップに魅入られたんですよ、と。
「初めてアレを見て、それがチェンジアップだと知った時は、まあホントに度肝を抜かれましたよ。右だったり左だったりに揺れたり曲がったりしながら落ちるチェンジアップなんて、そんなもんテレビゲームの世界にしか存在しないと思ってましたからね。けどアイツのが正にそれだった。そんなもの打てるわけないでしょう? それを育成のヤツが投げるんだから驚いたなんてもんじゃなかった。コイツが上がって来たら絶対に優勝できると思いましたよ」
毎年新たな新人選手が期待の戦力として入団してくるし、その誰もがやはりプロ入りするだけの何かを持っているのだが、自分だけの特別な何かを持っている者はそういない。
北野はその特別な何か、パラシュートチェンジという1級品の武器を既に持っていた。ただし他の部分が欠点だらけだったが。
「まあそんなわけなんで、俺なりにアイツには期待していたんですよ。でも、あの調子じゃどうだかなぁ。去年のフレッシュオールスターで一瞬輝いてみせましたけど、それがプロでは最初で最後の輝きになるかもしれませんね」
そうなって欲しくはないんですよ俺は、と言う向井は、しかしこうも続けた。
「春香に泣きつかれてしまいましたしね」




