出会い
初収録の日。緊張のあまり家を出る時間を早めた春香は、指定された集合時間よりだいぶ早く練習場に到着してしまった。
入口の守衛に事情を説明すると「事務所にはまだ誰も来ていないので、よかったら施設を見学していてください」と言って、構内の地図を渡してくれた。
それが間違いだった。
シーサーペンツの2軍練習場は、練習グラウンド・合宿所・室内練習場・各種トレーニング施設などが同じ敷地内にあるので、広さでいえばかなりのものになる。
そんな中で地図を片手にうろうろしているうちに、春香はいつの間にかグラウンドに出てしまっていた。
(あれ? ここって入っていい場所なのかな)
見渡すと、広いグラウンドにはまだ誰もいない。
と思ったら、いた。
遠くの方で、一人の選手が黙々とランニングをしていた。
(わあ、もうこんな時間から練習してるんだ)
春香はしばらく、その姿を眺めた。
リズムが一定だった。速くもなく遅くもなく、ただ正確に、まるで機械のように同じペースで走り続けている。
その背中は華やかさとは程遠く、なぜかとても孤独に見える。
(プロ野球選手って、ああやって練習するんだ……)
なんとなく目が離せなかった。
北野翔がグラウンドの隅に人影を見つけたのは、もうグラウンドを相当な時間走り終えた時だ。
女の子に見えるけれど、ユニフォーム姿でもないし、関係者のような雰囲気でもない。
(部外者か?)
北野は走るのを止めて、その人影に向かって歩いた。
「あの、すみません」
声をかけると、相手がこちらを向いた。
やはり女の子だった。自分とそう変わらないだろう年齢の女の子が、地図を片手に立っていた。
「ここ、関係者以外は立ち入り禁止なんですよ」
北野がそう言うと、女の子は一瞬きょとんとした顔をしてから、慌てて頭を下げた。
「す、すみません! 受付の人に見学していいって言われて、地図を見ながら歩いてたらいつの間にかここに来ちゃって……あの、もしかして入っちゃダメなとこでしたか?」
「……一般の方は入れない場所です」
「そうなんですね。ごめんなさい。すぐ出ます」
女の子は素直にそう答えて、地図に視線を落とす。しかしすぐに顔を上げて、困ったような顔で言った。
「あの、出口ってどっちですか? 地図、よくわからなくて」
北野は小さくため息をついた。
「……こっちです」
仕方なく歩き出すと、後ろからパタパタと足音がついてくる。
「あの、選手の方ですか?」
「そうですよ」
「ランニングしてましたよね。もうこんな時間から練習するんですか?」
「しますよ。他の人はもっと遅いですけど」
「すごいですね。何時から走ってたんですか?」
「七時ですかね」
「七時!? いま八時ですよ!? 一時間も走り続けてたんですか?」
「そうなりますね」
北野の返答はことごとく短かった。別に意地悪をしているわけではない。余計なことを話す必要を感じていないだけだ。あとは単純に女の子と話すのが不得手だというのもある。
しかし女の子の方は、北野の素っ気ない返答など全く気にしていないようだった。
「なんでそんなに走るんですか?」
その問いに、北野の足が一瞬だけ止まった。
――なんで、って?
(スタミナが課題だから。コーチにそう言われてるから。支配下登録されるために)
頭の中にいくつかの答えが浮かんだが、どれも口から出てこなかった。どれも正確だが、どれも全部ではない気がする。
――なんでそんなに走るのか、か。そんなの真剣に考えたことなかったな。
「……走らないといけないから、走ってるんです」
結局そうとしか言えなかった。
女の子は少しだけ黙ってから、「そうですか」と短く答え、それ以上は聞いてこなかった。
出口の手前まで来たところで北野は立ち止まり「ここを出て左に曲がれば受付に戻れます」と言った。
「ありがとうございます。助かりました」
女の子は頭を下げて、それから少し躊躇するような顔をした後で言った。
「あの、私、今日からここで収録の仕事をすることになった椎名春香っていいます。またどこかで会うかもしれないので、よろしくお願いします」
「えっ!?」
北野は少しだけ驚いた。収録、という言葉でようやく合点がいく。
(そうか。このコが、いつきさんの言ってた女の子か)
「……北野翔です」
「北野さん。選手ですよね?」
「育成枠ですけどね」
なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。ただ、選手ですと答えることが、何となく正確ではない気がしたのだ。
春香は「育成枠」という言葉の意味がわからないのか、少しだけ首を傾げた。でも聞き返しはしなかった。
「北野さん、頑張ってくださいね」
それだけ言って、春香は事務所の方へと歩いていった。
北野はその背中を見送ってから、グラウンドへ引き返した。
(変な子だったな)
そう思いながら、また走り始めた。ペースは変わらない。一定のリズムで、ただ前へ。
でも頭の中に、さっきの問いがまだ残っていた。
――なんで走るんですか?
答えはした。でも何かが引っかかっている。
(走らないといけないから、走ってる。そうだけど、それだけじゃ……ないのかもな)
北野はその考えを打ち消すように、少しだけペースを上げた。




