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確かな手応え

 春香に新しい仕事が舞い込んだその日の昼、北野は3軍の試合で先発ピッチャーとしてマウンドに立っていた。

 その頃の彼は、登板した試合では確実に7回くらいまではこなせるようになっており、その日も既に6回を2失点で抑えていた。

 その理由がトレーニングを積んだ成果なのか、それとも相手がレベルの一段落ちる関東独立リーグのチームだからなのかはわからないが、おそらくその両方だろうと本人は考えている。

 

 磨きをかけているパラシュートチェンジは独立リーグのレベルではそう簡単に攻略できるシロモノではなく、育成枠でありながら3軍の投手陣内で北野は誰もが認める中心人物となっていた。

 

「北野、まだイケるか?」

 

 6回を投げぬいてベンチに戻ると、若生2軍投手コーチが腕組みをしながらそう尋ねた。

 

「はい。大丈夫ですけど」

「そうか。なら、今日はこのまま完投してみろ」


 短い言葉だったが、それが若生からの叱咤激励であることはすぐにわかった。今までに何度か完投できそうなチャンスはあったのに成し遂げられてはいない。今日こそやってみせろと若生は言っているのだと。

 

「わかりました。最後までいきます」

 

 北野はそう答え、アンダーシャツを着替えるためにベンチ裏へと向かった。

 

(まずはここで第一段階クリア、だな。もらったチャンスはキッチリとモノにしなきゃ)

 

 北野は自分の両頬をパンッと叩いて気合を入れ直し、ベンチへと戻っていった。まずは3軍で完投し、その次は2軍での完投を目指す。それが出来てようやく1軍へのスタートラインに立てるのだ、と若生2軍投手コーチから再三言われている。今日こそその第一段階をクリアするのだ。

 


 だが8回、北野はにわかにピッチングに苦しみだした。制球が徐々に乱れ始め、球数が多くなってきてヒットも打たれ、ついには1点失った。


 誰の目にもスタミナ切れの兆候が見え始めている。

 

 だが若生は動かなかった。

 

(この試合はオマエに任せたんだ。ちょっとぐらい打たれても今日は代えないぞ。最後まで1人で投げ切ってみせろ)

 

 続投を告げた時点で若生の腹は決まっていた。あとは北野が期待に応えてくれることを願うばかりだ。

 北野は苦しみながらも8回を1失点でなんとか凌ぎきり、残すは9回のみとなった。ベンチに戻ると若生が、ポツリと一言だけ言った。

 

「代わるか?」

「いえっ! 投げます!」

 

 北野は反射的にそう答えていた。若生コーチは自分の成長を見込んで完投するチャンスを与えてくれた。代わるかと聞かれてハイと言えるわけがない。

 

(ここまで来たら石に齧りついてでも完投しなきゃ。ここで降板とかありえないだろ)

 

 9回はさらに厳しくなった。また1点失った。

 

(逃げて抑えるより向かっていって抑えるんだ。何が何でも抑えるんだ)

 

 最後の方はチェンジアップの連投だった。投球の8割以上がチェンジアップ。ストレートの球威も落ち、他の変化球も抑えが利かなくなっている現状では、チェンジアップで攻める以外に策が無い。

 ストレートと他の変化球を見せ球にしてカウントを稼ぎチェンジアップでしとめる。もはやゴリ押しともいえるキャッチャー苦心のリードだったが、北野もそのリードによく応えた。

 

 なんとか9回を投げきった北野は、ベンチまで歩いて帰ることすら億劫になるほど疲労困憊だった。

 だがしかし、同時に生まれて初めて完投できたことに大きな喜びも感じていた。

 

(9回を投げきっただけなのに、それだけでどうしてこんなに嬉しいんだろう)

 

 重い足取りでベンチへ帰ると、若生が北野の肩をポンッと叩いた。

 

「よく投げきった。内容はともかく、これでまたひとつ課題をクリアしたな」

 

 北野はその一言を聞いた途端に顔を紅潮させて「ありがとうございます」と返事をした。

 

(次はもっと楽に9回を投げ切らないとダメだ。そのためにはもっとスタミナアップしなくちゃ)

 

 身体はヘトヘトに疲れていたが、北野の頭はもう既に次の試合に向いていた。


 

 宿舎に戻り風呂に入ってから食事を摂り、自室に戻ったところで北野は春香からのラインに気がついた。

 

「へえ、新しい仕事が決まったんだ。週1でもテレビ新横浜でレギュラーってのは凄いな。春香さんも頑張っているんだ。俺も負けてはいられないぞ」

 

 (今頃ニコニコしながら嬉しそうにラインを送りまくっているかもしれないな)

 

 北野はふとそんな想像をした。その光景が容易に想像できて、なんとなく気持ちがほっこりとする。

 

「春香さんは新しい仕事が決まって、俺はプロ初完投か。今日は2人とも良い日だったってわけだな」

 

 返信のラインを打ちながら北野は漠然とそう思った。2人には確かに新しい波が来ている。間違いなく彼と彼女の周りの世界は動き出していた。

 


 それから1週間ほど経ったある日、北野は若生2軍投手コーチからこう告げられた。来週から2軍の試合に帯同しろ、と。

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