シート打撃
春香がスタンドから見守る中で練習に精を出していた北野だが、突然投手コーチに呼ばれた。
「コーチ、なんですか?」
「北野、オマエちょっとシート打撃で投げてみろ」
「俺が? シート打撃に? 投げていいんですか?」
「監督が、オマエのチェンジアップが実際どれくらい効果的なのか見たいんだそうだ」
シート打撃とは、実戦に近い状況で投手と野手が守備位置につき走者を置いて行う実戦形式の打撃練習だ。投手は打者との対戦感覚、野手は守備の判断力、打者は実戦的なタイミングを養うのが目的で、プロ野球キャンプでは選手の状態確認あるいは調整として行われる。当然変化球もアリだ。
(あれ? なんの準備をしているんだろう。違う練習を始めるのかな?)
ちょうど通りがかった選手に尋ねてみると「シート打撃をするみたいだよ」と教えてくれた。
「シート打撃って、なんですか?」
春香の質問にその選手は、イヤな顔をすることもなく、丁寧に教えてくれた。
(そっかぁ、つまり北野さんがバッター相手に投げるってことね)
そこで彼女はふと気がついた。自分がマウンドに立つ北野の姿を見るのは初めてであることに。それに気がついたらもう、ワクワクが止まらない。春香はシート打撃が始まるのを、今か今かと心待ちにしていた。
(緊張するなよ。俺はただボールを投げるだけだ)
そう自分に言い聞かせてはみるものの、マウンドに上がって1軍の打者たちがズラリとバッターボックス待ちの列を作っているのを目にすると、さすがに気持ちが引き締まるのを感じた。
(何人相手に投げるのかわからないけど、とにかく精一杯投げるだけだ)
最初の打者が入った。クリーンアップを打つ4番打者の小松だ。小松は北野よりふた回り近く年上のベテランで、通算2000本安打まであと少しという大打者だった。
(落ち着け。俺がやることは変わらない)
北野は大きく深呼吸してからセットポジションに入り、まずはストレートを投げた。
カキン、と小気味いい音がして打球がセンター方向に鋭く飛んでいった。
(さすがだな)
だが北野は動じなかった。シート打撃は投打双方が調整をするためのものだ。紅白戦とは違い、ここで打たれても何も問題はない。次のボールに集中しろ、と彼は自分に言い聞かせた。
続けてストレートを2球。どちらも鋭い打球になった。
そして4球目。
北野はパラシュートチェンジを投じた。
直後、バッターボックスの小松が振ったバットは、完全に空を切った。
一瞬、グラウンドに静寂が訪れた。
それはほんの数秒のことだったが、北野にははっきりとわかった。その場にいる全員が息を呑んだのだということが。
「……なんだ、今の」
小松が呆然とそう呟いた。それは独り言のようだったが、静まり返ったグラウンドにはっきりと聞こえた。
次の打者が入った。今度は2番を打つ俊足巧打型の選手だ。バットコントロールの巧みさに定評があり、三振が少ないことで知られている。
北野はストレートを2球続けてから、パラシュートチェンジを投げた。
またもや空振り。
しかも今度は打者がバランスを完全に崩して、危うく転びそうになった。
「おいおい」
誰かが笑い交じりにそう言った。打者本人も苦笑いしながらバッターボックスを外した。
「ちょっと待て。もう1球、同じの投げてくれ」
打者がそう言うと、北野は頷いてパラシュートチェンジを投げた。
三度目の空振り。
「信じられん」
打者は首を振りながらバッターボックスを出た。
それからしばらくの間、シート打撃はいつもとは全く違う雰囲気に包まれた。バッターが交代するたびに北野がパラシュートチェンジを投げるたびに、グラウンドのあちこちから驚きの声や笑い声が上がった。打てた者は一人もいなかった。ファールにすることすらできない打者がほとんどだったのだ。
ベンチ裏で腕組みをしながらそれを見ていた三原監督は、隣に立つ投手コーチに向かって静かに言った。
「昨日よりキレが増してるな」
「ええ。昨日はまだ遠慮があったんでしょう。今日は思い切って投げてますね」
「打てた者が一人もいないな。ブルペンよりマウンドで良いタイプなのかもしれん」
「まあ、初めて見る球ですからね。データも無ければ対策も立てられない。それに」
コーチは少し言葉を切ってから続けた。
「正直なところ、対策の立てようがないかもしれません。毎回変化が違うんですから」
三原は無言で頷いた。
スタンドから北野のピッチングを見ていた春香は、いつの間にか息をするのも惜しむくらいに見入ってしまっていた。
(北野さん、スゴイ!)
北野が何を投げているのか、何を打たれ何で抑えているのか春香にはわからない。だが抑えた時のバッターの様子で異様さは伝わってきた。
空振りした時、見逃した時、どのバッターも体勢を大きく崩し、信じられないような顔をして引き上げてくる。それだけで北野が凄いことをしているのが理解できた。
(北野さんが投げるとこ、もっと見たいな)
たった一度ピッチングを見ただけなのに、春香はもう北野のピッチングに心惹かれ始めていた。
シート打撃が終わった後、北野はグラウンドの隅で一人黙々とランニングをしていた。すると背後から声をかけられた。
「おい、北野」
振り返ると、先ほどシート打撃で最初に対戦した4番打者の小松が立っていた。
「あの変化球、ありゃなんだ」
「なんだって言われても、チェンジアップですとしか……パラシュートチェンジっていうんですけど」
「パラシュートチェンジか……なるほど、ピッタリの名前だな。しかしあれがチェンジアップとはな。やっぱり信じられん」
小松は腕を組んで少し考えてから言った。
「正直に言うが、俺の長い経験であんなボールは初めてだ。打てる気がしなかった」
北野は「ありがとうございます」と言うしかなかった。
「あれを実戦でも同じように投げられるなら、1軍で十分やれると思うぞ」
「あ、ありがとうございます!」
「コーチから聞いたが、リリーフだと全然ダメなのに先発だとスタミナ不足なんだって?」
「あ、はい。恥ずかしい話なんですけど……」
「育成なんだから欠点なんて当たり前だろう。それよりオマエには誰にも負けない武器、パラシュートチェンジがある。磨いとけよ」
それだけ言うと小松は踵を返して歩き去った。北野はその背中に向かって深く頭を下げた。
(俺のパラシュートチェンジが……1軍でも通用する。小松さんにお墨付きをもらったのか)
胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
夕方、ミーティングが終わった後で北野は投手コーチに呼び止められた。
「今日のシート打撃、良かったぞ。やはりあのチェンジアップは本物のようだ」
「ありがとうございます」
「ただ……正直に言う」
コーチは少し表情を曇らせた。
「自分でもわかっていると思うが、残念ながら今のオマエでは1軍での使い道がない」
北野は息を呑んだ。だがコーチの言っていることも当然理解していた。
「先発は頭数がいちおう揃ってる。だがオマエはリリーフができない。いくら左投げでも、今の戦力事情ではどこに使えばいいかわからないんだ。わかるだろう?」
「……はい」
「あのチェンジアップのキレは認める。あの球だけなら確かに1軍で即通用するだろう。だがオマエの問題点はそこじゃない。だから今すぐどうこうはできないというのが正直なところだ。今シーズンは2軍でしっかり先発として実績を積め。話はそれからだ」
北野は「わかりました」と答えて頭を下げた。
正直に言えば悔しかった。あれだけ1軍の打者たちを翻弄しておきながら、それでも使い道がないと言われる現実が歯痒くてたまらない。
だがコーチが何ひとつ間違ったことを言っていないこともわかっている。つまりはそれが現時点での自分の実力なのだ。総ては実力不足のせいなのだ。
ミーティング室を出ると、廊下の窓から夕日が差し込んでいた。
(わかってる。わかってるけど……)
悔しさを噛み殺しながら北野は拳を固く握った。
(なら、使わないわけにはいかないと思わせてやる。先発でローテーションに入って、絶対に結果を出す。まずは3軍で)
夕日が長い影を廊下に伸ばしていた。その影を踏みながら北野は歩いた。まだ見ぬ1軍のマウンドへ向かって、一歩ずつ。




