監督の眼
北野が1軍のキャンプに合流して3日目、投げ込みのためにブルペンへ向かうと、そこには三原監督がいた。隣には1軍の投手コーチも一緒におり、投手陣の仕上がり具合を直接チェックしに来たようだった。
(ようやく見てもらえるんだな。こりゃ気合入れて投げなきゃ)
ここまでの2日間、北野は三原監督に自分のピッチングを見てもらう機会が無かった。
それはたまたまではなく、環境にある程度慣れてからの北野を見たいという気持ちが三原にあったからだ。若生コーチが強く推薦するほどの素材なのだから、少しでもベストに近い状態で見てみたいと考えていた。
北野はブルペンの一番端へ行き、キャッチャーを相手に軽いキャッチボールから肩慣らしを始めた。
コンディションは決して良いとは言えない。1軍キャンプのキツさにまだ慣れきっていないこともあって、身体の疲労は溜まりに溜まっている。
しかし今はそんなことを言っている場合ではない。せっかく1軍監督に自分のピッチングを見てもらえるのだから、このチャンスに何としてでもアピールしたかった。
(ほほう、なるほどこれは)
北野のピッチングを見た三原は、まずその投球フォームに少々驚いた。
身長は170台半ばと特別大きくないが、その投球フォームはダイナミックかつ躍動感に溢れ、腕はまさにムチのようにしなる。
そして小気味良いくらいに思い切りシャープに腕を振る。
(ずいぶんと躍動感のあるフォームだな。たしかにチェンジアップの効果を高めそうなフォームだ。若生さんの言っていた通り、球の出どころも見にくい。そしてこのノビだ)
事前に聞かされていたように、北野が投げるストレートは、スピードこそやや物足りないが異様にノビがあるように感じられた。
ノビがあるとは簡単に言うと、バッターから見て向かってくるボールが途中で再加速してくるような感じがするということだ。
ピッチャーの投げたボールはキャッチャーまで届く間に必ずスピードが落ちていくのだが、この落ち幅が小さいとバッターの目には途中からスピードが上がってくるように見える。
これがいわゆるノビると呼ばれる現象で、ボールの回転数が高いとそうなるとも言う。
もちろん投げたボールが途中から再加速するわけがないので目の錯覚なのだが、しかしバッターからは本当にそう見えてしまう。見えてしまえば反応してしまうのが人間の身体だ。
(球速は物足りないが、良いフォームだし、なかなか良いストレートじゃないか)
バッターは投げられたボールの球種や速度からミートポイントを瞬時に見極め、ここだと思う最適のタイミングでバットを振る。
だがノビのあるボールだと予測したポイントよりも手元にボールが来てしまう、これが野球用語でいう差し込まれるというヤツだ。
それを振り遅れると言い換えてもいいが、とにかく自分が打てると思ってバットを振ったらずっと手元までボールが来ていたのでは、どれほど優れたバッターであってもマトモに打つのは難しい。
(育成枠のピッチャーにしては素晴らしいな。しかも左投げだ)
左利きが右利きと比べて圧倒的に少ないため、左投げのピッチャーはそれだけで重宝される。
異様にノビのあるストレートを投げるサウスポー。
高校を卒業したばかりの育成枠投手であることを考えればこれだけで十分及第点と言っていいし、少なくとも可能性を秘めた素材であると期待することは出来るだろう。
だが三原が見たかった本命は別にある。
「オマエさんのチェンジアップは他の連中のとは一味違うと聞いとるんでな。それを見せてくれ」
求められるままに北野はパラシュートチェンジを投げた。
(これは……なんだ?)
それは初めて見る光景だった。いや、それがチェンジアップだということは聞いているから知っている。だが北野の投げるソレは他のピッチャーが投げるものとは全く違って見えた。
(なんだこれは。とんでもなく急ブレーキがかかって止まってから落ちてくるように見えるぞ。こんなの見たことが無い。こんなチェンジアップがあるのか? いや、そもそもこれは本当にチェンジアップなのか?)
三原はストレートと交互に投げ続けるよう指示したが、何度投げさせてもそのチェンジアップは急ブレーキをかけて一瞬止まってからストンと鋭角に落ちるように見える。
何度目をこすりジッと凝視して見てもそうにしか見えない。
しかもよく見ると左に曲がったり右に曲がったり揺れたりしながら落ちている。これが北野の投げるチェンジアップだった。
そして不思議なことに、キャッチャーがしばしばそのチェンジアップを取り損なう。
「あれはチェンジアップらしいが、そんなに取りにくいのか? さっきから何度か取り損なっているが」
三原はキャッチャーにそう尋ねてみた。実際に捕っている者はあのチェンジアップをどう感じているのだろうか。
「捕り難いですね。1球ごとに左行ったり右行ったり、ユラユラ揺れたりバラバラの動きをするんです。まるでナックルを投げられてるみたいですよ。今までに見たことがない軌道のボールだし、長いことキャッチャーやってますけど、こんなチェンジアップ見たことないです」
「北野、ちょっと今投げた球の握りを見せてみろ」
三原は一旦投球を中断させてマウンドへ向かった。
「今投げたのは何だ。フォークか? それとも縦スライダーか?」
チェンジアップを投げていると知っているのにそう尋ねてしまった。どうしても今のは違う球種に思えたからだ。
その剣幕に少々面食らった北野は、言われた通りに握りを見せた。
「これは……なんだ?」
「なんだって……その、チェンジアップの握りですけど」
北野は戸惑い混じりにそう答えた。
その握りは掌の真ん中でボールを包み込むようにし4本の指が縫い目に添えられているが、中指だけは少し立て気味にして縫い目には触れていない。親指と人差し指は気持ちОKサインを形作っているように見える。
「あれがチェンジアップだって? 本当にあれはチェンジアップなのか? ウソだろう……」
チェンジアップ自体は珍しくもなく、それこそ投げるピッチャーは掃いて捨てるほど幾らでもいる。
なにしろアメリカでは子供が1番最初に覚える変化球に最適と言われるくらい比較的習得が容易で、それゆえ投げる者も数多いというわけだ。そしてそれは日本でも同様だった。
しかし他の変化球のようにボールの軌道が曲がったり落ちたりしているのとは違い、あくまでストレートとの速度の違いでバッターのタイミングを狂わして打ち取るのがチェンジアップの狙いであり、それゆえチェンジアップは変化球ではないという者もいる。
――下に落ちるのではなく単なる自然落下であって、それは変化しているとは言えないのではないか?
そう、チェンジアップは縦方向に変化しているのではなく失速して下に落ちているのだ。もっとも打者から見れば変化だろうが失速だろうが落ちていることに変わりはない。
しかしこの球種に求められるのはいかにストレートと誤認させるかということとストレートとの速度差であり、速度差があればあるほどバッターとしてはタイミングが取りにくくなり打ちづらくなる。球速が遅いから自然落下するだけで、極端なことを言えば変化しなくてもタイミングさえ外せれば本来全くかまわないのだ。
ところが北野のそれは明らかに違う。
(信じられん……こんなチェンジアップがあるのか。これは緩急で打ち取るんじゃない、自分の知っているチェンジアップとはまるで別のシロモノだ)
明らかに鋭く落ちているようにしか三原には見えない。速度差でタイミングを狂わせて空振りさせたり凡打に打ち取るソレとは全く違う。
「見ていると右に曲がったり左に曲がったり揺れたり毎回変化の具合が違うが、意識して投げてるのか?」
「あっ、えっと、それはその、一応縫い目に指を掛けるか掛けないか、どの指を掛けるかによって変化が違うんで意識はしてますけど」
変化球が変化する原理は回転と空気抵抗により、回転の有無・回転する角度・そしてボールの縫い目に対する空気抵抗の強弱の加減によって様々な変化球となる。
それは握り方や縫い目に対する指の掛け方や投げ方に起因し、それゆえピッチャーの誰もが握り方には細心の注意を払うのだ。
(それプラス回転数の少なさが影響しているのだろうな。そういう意味ではたしかにナックルみたいなものだ)
ボールの回転数が少なくなればなるほど空気抵抗による影響が大きくなり予測不能な変化をするようになる。その典型例がナックルボールという変化球で、これはほぼ無回転のため投げた本人ですらどんな変化をするかわからないと言われている。
北野のチェンジアップは無回転とまではいかないが、非常に回転が少ないように見えた。それが変化の度合いに影響しているのだと三原は推測した。
北野の投げるストレートの球速は、異様なノビがあるとはいっても最速で時速140キロ程度と思われる。
腕の振りとボールのノビに騙されてしまってもっと早く感じられるが、プロのピッチャーとしては特別速いわけではなくむしろ遅い方と言ってもいい。
しかし実は機械で測る速度はあくまで目安でしかない。
――変化球で一番大切なのは、バッターボックスに立ったバッターからどう見えるかだ。
そして緩急を使い分けることで、実際よりもはるかに球を速く見せることは可能なのだ。
(このストレートのノビと、このチェンジアップがあれば、スピード不足を補って余りあるのでは?)
三原はそんなことを考えた。
(あのフォームが大きいな。ダイナミックで思い切り腕を振るから、なおさらチャンジアップに引っかかりやすくなる。かと言ってチャンンジアップにタイミングを合わせたらストレートのノビに食い込まれてしまうだろうし、そもそもチャンジアップに的を絞ったとしてもアレをバットに当てるのはなかなか難しいだろう)
ここのスカウトは、どうやってこのコを見つけ出したんだろうか。北野が育成枠だとは三原にはどうしても思えなかった。普通にドラフトで指名されても不思議ではない素材であると、彼の長年の経験が告げている。
「よし、もういいぞ」
30球ほど投げたところで三原は北野のもとへと歩み寄った。
「まだまだだが、なかなか面白い球を投げるじゃないか。話に聞いていた通りだな。確かに課題は多そうだが、そのチェンジアップは本物のようだ。そのまま磨き上げて、早く上で活躍するようになってくれよ」
「はい! ありがとうございます! 頑張ります!」
チェンジアップは本物だと言われたことに北野は気を良くした。
裏を返せばそれ以外はまだまだだということかもしれないが、そんなことは全然気にならなかった。1軍の監督に褒められたという事実が自信の裏づけになっていく。今はまだチェンジアップだけだが、すぐに総てのピッチングを認めさせてやるぞと闘志を掻き立てられた。
北野のピッチングを見たのを最後に三原監督はブルペンを後にした。
「あの北野というピッチャー、どう思うかね?」
歩きながら三原は隣の投手コーチにそう話しかけた。コーチは「まだ1軍の練習に戸惑っているでしょうからベストの状態ではないでしょうが」と前置きした上で答えた。
「面白い素材だと思います。あのチェンジアップのキレだけは1軍レベルだと思います。あんなにブレーキのかかるチェンジアップを私は見たことがありません。アレをストレートと同じフォームで投げられたら、ちょっと誰も打てないんじゃないですかね。一度実戦で見てみたいなと思いました。監督が呼びつけた理由がわかりましたよ」
コーチが自分と同じ感想を抱いていたと知り、三原は満足そうに頷いた。
「私もそう思ったよ。試しに一度紅白戦で投げさせてみるか。1軍のバッターを抑えられれば自信にもなるだろうし」
「打たれて自信を失う可能性もありますけれどね」
「ははは、まあそうだな。しかしあのチェンジアップは尋常じゃない。右に曲がったり左に曲がったり曲がらなかったりしながら沈む。実に興味深いものを見せてもらった」
「スタミナに難があってリリーフも苦手なのでは今すぐどうこうはありませんけど、先々は楽しみな存在じゃないですか?」
「あれはな、パラシュートチェンジだそうだ。若生さんはそう言っていた。なんでもメジャーで一世を風靡したとか何とか」
「ああ、思い出しました。ヨハン・サンタナですね」
「そのサンタナの握りを真似して投げてみたら一番シックリきたので、それからずっとその握りなんだとさ」
「まさにパラシュートが開いたかのようなブレーキのかかり具合でしたね」
「ふふふ。また新しい原石が見つかったな。あれが実戦で使えるようになったら……こりゃあ楽しみだ」
三原は上機嫌だった。キャンプ自体はすこぶる順調に来ている。そこへもってきてこの将来を期待させる新戦力だ。監督として機嫌の悪かろうはずがなかった。
同時に三原は、どうにかして北野を1軍で使えないかと考え始めていた。




