トラブル
春香は「収録前にキチンとご挨拶してきます」と言って向井の元へ向かったまま、なかなか戻ってこなかった。
やがて深刻そうな表情で番組スタッフたちと話し込む春香の姿に気づいた北野は、休憩中に何かあったのかと尋ねた。
「実は……向井さんが、不勉強な人間のインタビューには答えられないって怒ってしまって」
「うわ。何したんです?」
「それが……私も自分で何をしたのか全然覚えていないんです」
「ええ?」
春香は「どうやら名前を間違えて呼んでいたらしいんです」と付け加えた。
「あっちゃー」
北野は思わず後ろに仰け反りながら右手の平で顔を覆った。
「あの人は注意した方がいいって教えてあげたのに」
「もうっ! 北野さんがそんなこと言って脅かすのが悪いんですよ! だから緊張しちゃって頭が真っ白になっちゃったんですからぁ」
まさかの逆ギレには面食らったが、やっぱりやっちゃったなぁ、と北野は思った。
(名前間違えたら、そりゃこうなるか。そんなの基本中の基本だもんな)
ヘソを曲げた向井がすぐにインタビューに応じるとも思えない。北野に出来ることは何もない。手を貸してあげたいとは思うが、向井が北野の説得で機嫌を直すわけもない。
春香は意を決したように「もう一度行って謝ってきます」と言って、スタッフの同行を断り、一人で向井の元へと向かっていった。
春香が謝りに来た時、向井は一人でウェイトトレーニングをしている最中だった。
「あ、あの……」
「インタビューならしないぞ。さっきそう言っただろ」
穏やかな声ながらキッパリと言い切られた春香は、そのまま黙り込んでしまった。
(怖い……やっぱり北野さんが言った通りの人だったよぉ……)
別に怒鳴られたわけではない。ただ、黙っていても伝わってくる迫力に口から何も言葉が出てこなかった。
(足の震えが止まらない……)
しかしこのまま戻るわけにはいかない。自分のミスで番組スタッフに迷惑をかけるわけにはいかない。
「……あの、向井さん……」
春香は両手の拳に力を込め、ありったけの勇気を振り絞って震える声でもう一度声をかけた。
「さきほどは本当にすみませんでした。お名前を間違えるなんて失礼をしてしまって、怒られるのも当然だと思います。でもそれは私個人が悪いことで、番組のスタッフさんたちは何も悪くないんです。だから、予定通りインタビューをさせていただけませんか? お願いします!」
緊張でところどころ声が裏返りながらも春香は頭を下げた。
しかし向井は何も言わず黙ってトレーニングを続ける。重い沈黙が室内を支配した。
「名前を間違えたくらいで……と思ってるんだろ?」
やがて向井が口を開いた。
「いえ。そんなこと思ってません!」
再び沈黙。やがて向井はトレーニングの手を止め、タオルで汗を拭うと春香の方へ歩み寄った。
「一人で来たのか」
「はい。私が怒らせてしまったのだから、私が謝るべきだと思ったので」
「ふうん……キミは確か高校生だったな。高校生の女の子に一人で謝りに来させるスタッフってのも、随分無責任な話じゃないか」
「いえ、それは違うんです。スタッフの皆さんは一緒に謝りに行くって言ってくださったんですけど、私が一人で行きますってお断りしたんです。悪いのは私で、スタッフの皆さんは何も悪くないんですから」
「断わって一人で謝りに来たのか。良い度胸してるな。俺のことが怖くないのか?」
「それは……怖いですけど……」
「ふふん。正直だな」
「あ、いえ、それは……すみません! ごめんなさい!」
「まあいい。とにかく俺は真面目に仕事と向き合わないヤツは信用しないしキライなんだ。もっと勉強してもう一度出直すんだな。プロである以上、年齢が幾つであれ仕事には全力で臨むべきなんだ」
辛らつな言葉が春香の胸を貫いた。返す言葉が無かった。何ひとつ反論する余地の無い春香は、ただ黙って聞くことしか出来ない。
「キミ程度のコをインタビューに寄越す時点で大した番組じゃないし大したスタッフじゃないんだろう。そんなものに付き合うほど俺はヒマじゃないんだ」
「それは違います!」
向井の矛先がスタッフへと向かったその途端、春香は無意識のうちに反論の言葉を口にしていた。
「私が不勉強だからって、それはスタッフの皆さんには何も関係無いと思います。他の方を悪く言うのは止めてください! 悪いのは私なんですから! 私が失礼なことをしたことは幾ら責められても仕方ありませんけど、関係の無いスタッフさんたちを責めるのは止めてください!」
言ってからシマッタと思ったが、もう遅かった。これはまったくもって、自分の勉強不足を棚に上げた逆ギレだ。
春香は今度こそ怒鳴られることを覚悟して身構えた。けれどいつまでたっても何も言われなかった。そっと向井の顔を見ると、呆気にとられたような表情をしていた。
向井は目の前の少女に段々と興味が湧いてきていた。
ただ謝るだけでなく、スタッフに責めが及んだ途端に食ってかかった。怖いはずの自分のところへ一人で謝りに来たことも驚きだ。
(可愛い顔して、なかなか根性の座ったコだな)
プロ意識の高さを求める向井だが、この少女に対して不思議なことに怒りはなくなっていた。未熟さは確かにある。だが誠実さは本物のようだ。
「驚いたな。まさか高校生の女の子に説教されるとは夢にも思わなかった」
「あっ、ご、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
我に返った春香は何度も何度も頭を下げて謝った。
しかし意外なことに向井は何も言わず、黙ってタオルでまた顔の汗を拭っていた。
「名前、なんていったっけ?」
「椎名春香ですけど」
「椎名さんか……」
向井はしばらく春香の顔を見つめ、やがておもむろに口を開いた。
「エースと4番バッターってのはね、チームの顔なんだ。その顔である人間が軽んじられたまま黙ってたんじゃチームまで軽く見られる。わかるかい?」
「バカにするだなんてそんな! 私はただ間違えただけで……向井さんの前に立ったら緊張してしまって、頭が真っ白になってしまって……」
「まあそれはいい。キミが俺をバカにするつもりじゃなかったのはわかったよ。ただ俺が言いたいのはね、俺はエースとしてこのチームの看板を背負ってる。看板を背負ってる以上、些細なことであろうと軽んじられて黙って見過ごしたんじゃあ、チームの看板に泥を塗ることになるんだよ。わかるかい?」
険しさが消えた向井の口調は、遥か年下の少女を諭しているようだった。春香は無言で大きく頷いた。
「キミは俺の名前を何度も間違えた。インタビューをしようっていうなら相手の名前ぐらいはキチンと調べて覚えておくものじゃないかい?」
「それがその……自分で何をしたのか全く覚えていなくって……すみません」
「はぁ? 覚えてない?」
向井は目を丸くして驚いた。ウソだとしたらあまりにも下手すぎるウソだ。しかし目の前で何度も謝り頭を下げ続ける少女がそんな見え透いたウソを言い訳にするようには見えなかった。
「すみません。向井さんは凄く怖い人だって聞いていたので緊張してしまって、自分でも何を話したのか全然覚えていなくって……」
「ちょっと待ってくれ。そこまで緊張するほど俺って怖いか?」
向井は少々ショックを受けた様子だった。再び無言となった彼は、やがて大きくひとつため息をつき「覚えてないんじゃあ仕方ないか」と言いながら頭を掻いた。
「誰に吹き込まれたか知らないけど……しかしそこまで怖がられるとさすがにちょっとショックだなぁ」
「いえ! あの! その……ごめんなさい……」
「しかし、だったらキミはそんな怖い俺のところに一人で謝りに来たわけかい?」
向井はしばらく春香を見つめていたが、やがてクスクスと笑い出した。
「あの……向井さん?」
「高校生だっけ? 可愛い顔して良い度胸してるんだな」
「は、はい?」
「要するにキミは、世間で言うところの天然ってヤツなんだな。それなら総て納得だ」
「えっ! そんな、私は天然なんかじゃ……」
言いかけて春香は言葉に詰まった。自分ではそう思っているが、周囲の人間は皆「春香は天然だ」と言う。事務所でも学校でも。
「キミはたしか高校生だったな。学校はどこなんだ?」
「旭が丘です。神奈川県立の」
「旭が丘? じゃあウチの娘と同じ高校か」
「えっ!? もしかして向井さんの娘さんって、七海ちゃんって名前じゃあ?」
「なんだ、ウチの娘と知り合いなのか」
「同じクラスで、よく一緒に遊びにも行くくらいには仲良くさせてもらってます」
「ああ、じゃあアイツが言ってた同じクラスでアイドルやってるコっていうのはキミのことか」
「いえ、私は別にアイドルじゃないですけど……」
思わぬ形で春香が自分の娘の友人だとわかった向井は、もうこれ以上怒るわけにもいかなくなった。
「インタビュー、やらなきゃ困るんだろ?」
「えっ!?」
「インタビューだよ。やらないとキミが困るんだろ?」
「私よりもスタッフさんが困るんです。向井さんのインタビューを番組で放送するので画が撮れないと……」
向井は目の前の少女にますます興味が湧いてきた。怖いはずの自分のところへ一人で謝りに来る姿勢。スタッフに責めが及んだ途端に食ってかかる度胸。仕事を完遂しないとスタッフが困るのだという思いやり。
「わかったよ。今日のところは娘の友達だということに免じて水に流してあげよう。友達にイジワルしただなんて娘に誤解されちゃたまらんしな」
「ほ、ホントですか? ありがとうございます、向井さん。ありがとうございます」
「ただし! 今回だけだぞ。また同じようなことをしたら次は許さないからな。もっと勉強しなさい。わかったな?」
「は、はい! わかりました!」
「じゃあ、時間が決まったら教えてくれ、椎名さん」
「あ、春香でいいです。春香って呼んでください」
「おう、そうか。じゃあ春香、時間が決まったら教えてくれ」
「はい! わかりました!」
知らず知らずのうちに自分が春香のペースに巻き込まれていたことを、向井拓海は全く気づいていなかった。




