38 領民に避難の用意を
「リョーリア……!」
と俺は叫んだ。
厨房が血の海だった。
壁には大穴があき、夜の闇が流れ込んでくる。
赤と黒の地獄絵図がそこにあった。
「オサムちゃぁん……」
厨房の主、リョーリアは無事だ。
でも、しくしくと泣いている。
「何があったんだ? 今すごい音がしたが……」
領主邸を揺らすほどの轟音だった。
てっきり外からヴラド公に攻撃されたものと思っていたが、どうも様子がおかしい。
壁の石材は厨房の中ではなく、外――真っ暗な裏庭に転がっている。
攻撃は内から外に向かって行われたということだ。
「ぐすん。窓の外からぁ、青白い顔のおじさんが逆さまに覗いててぇ……。『入れてくれないかね、お嬢さん』って言ったのぉ」
コック帽を抱きしめながらリョーリアは大粒の涙をこぼしている。
青白い顔で逆さまのおじさん……。
ヴラド公だな。
「わたし、てっきりどこかのお貴族様だと思ってぇ、どうぞぉって言って、勝手口を開けようとしたのぉ。そしたら、ぐすん、壁をすり抜けて入ってきてぇ……」
招かれなければ家に入れない。
ヴァンパイアの特徴とも合致する。
「わたしぃ、びっくりしてぇおニンニク投げちゃったのぉ。そしたらぁ、その人もびっくりして血を吐いちゃってぇ」
「この量の血を!?」
「そうなのぉ。どっばどばなんですよぉ……」
壁も床もペンキで塗りたくったみたいに赤黒い。
バケツ10杯分とか、そういうレベル。
「で、なぜ壁に大穴が?」
「貴様の血をいただいてやるぅって言われて、つい……」
リョーリアは震える握り拳をおずおずと突き出した。
ぱーんち、って感じ。
え!?
まさか、階層主をグーパンで殴り飛ばしたと!?
それで、風穴があいたと。
どうなってんだよ、リョーリアのフィジカル……。
横でシーフィアも口をポカンだ。
「あっ、そうだぁ。オサムちゃん、パーティーで疲れたでしょぉ? おニンニクたぁっぷりの精力剤を作っておいたのぉ。飲んでぇ? ぐすん」
リョーリアが血まみれの小瓶をくれた。
ふむ。
吸血鬼の弱点と言えば、十字架とニンニクだ。
「ありがたい。いただこう!」
俺は小瓶をあおった。
臭みとエグみのあるドロッとした液体が喉を滑り落ちる。
ボゥ!
胃の腑に火がついた。
一気に血が巡り、全身の毛穴が、ぶほぉん、と広がる。
ハイソな振る舞いで凝り固まった肩回りの筋肉が、ばゆん、とほぐれた。
んおぉ……!
「生き返ったよリョーリア!」
「はぁーい。がんばがんばなんですよぉ。ぐすん、わたしはお掃除をしないとぉ……」
災難だったな。
壁の修理代は俺が持ってやろう。
「オサム様、血が……」
シーフィアが裏庭の芝目に赤黒い痕跡を見つけた。
点々と続いている。
これをたどればヴラド公に行き当たるはずだ。
「行こう!」
「はい!」
ヴラド公は徒歩で移動したのかと思ったが、どうやら砲弾みたいに吹っ飛んだらしい。
領主邸の外壁上や家々の屋根に、血が雨粒みたいに散らばっている。
「リョーリアは相当な力でぶん殴ったらしいな」
「ほ、本当ですね……」
そして、俺たちは厨房から200メートルほど離れた屋根の上で人型の穴を発見した。
ヴラド弾はここに着弾したようだ。
手形や足跡が右へフラフラ、左へヨロヨロしながら杉の木広場のほうに続いている。
俺は瞑目し、意識の方向を絞った。
ちょうど大魔杉の根元あたり……。
大きな力を感じる。
困惑と動揺。
そして、激しい怒り。
そんな気配が渾然一体となり黒い渦のように逆巻いている。
うちの料理長にぶん殴られてヴラド公は情緒不安定らしい。
苦笑しつつ、夜の路地を急ぐ。
丑三つ時の、杉の木広場――。
燃え残った篝火が小さなオレンジ色を弾けさせる以外は深い闇の支配下にあった。
黒い壁のように見える大魔杉の下。
幽鬼みたいな影がある。
影の主は黒マントの紳士だった。
リョーリアに殴られたところだろう、鼻が曲がっている。
それがコキリと音を立てて正位置に戻った。
青白い顔が俺を見つけ、険しく歪む。
「ヴラド公、お茶の一杯も出せず恐縮だが、私に用事があるならうかがおう」
「……用向きならば、もう伝わっておろう」
ヴラド公は口の奥でくつくつと笑った。
俺は本心を抑えて、なるべくフラットな口調で問う。
「町に手を出さないという約定を違えるおつもりか?」
「さてな。そんな約束をした覚えなどないわ。そも我輩は町をつくることに同意しておらぬ。これまでは貴様の勝手に目をつむってきただけのこと」
いけ好かない物言いだ。
俺は表情を少し険しくした。
でも、会話が成り立ったことにホッとしてもいた。
町の中で階層主同士がぶつかり合えば犠牲者の数は百や二百ではすまないからな。
「なぜ、このような暴挙に及ばれた?」
「無論、貴様が気に食わぬからだ」
ヴラド公は真っ黒な地面を滑るように歩き、月明かりの下に出てきた。
わなわなと震える唇の間に鋭い白が覗いている。
「我輩より弱い貴様がなにゆえ、これほどの町を持つ? 我輩より大きな城に住まい、我輩より多くの女を侍らせ、我輩より豊かな暮らしをしておるのはなぜだ? 不敬であるぞ」
要するに、お前ばっかズルい、と。
思ったよりしょうもない理由だったので、逆に返答に困る。
「貴様も、貴様の町も許しておけぬ」
ヴラド公の手から赤黒い液体が伸びた。
血の剣だ。
話し合いで解決。
……とは、いかないらしい。
「どうあってもわかり合えないか」
「貴様ごとき愚物とわかり合うなど寒々とする」
「ヴラド公、今ここにいる私はこの町の領主だ。貴公が剣を抜くならば、私も抜かざるを得ない」
頼むから引いてくれ、と思いながら俺は鞘を握った。
しかし、
「ウサギめが角を生やして息巻くか。狩られるだけのものに変わりなかろう」
ヴラド公は一笑に付した。
殺伐とした空気がどんどん冷え込んでいく。
「座興よ。貴様はこの木に串刺しにしてくれる。燃ゆる町を特等席から眺めるがいい」
黒い笑みの中で赤い瞳が禍々しく光る。
本気なのだ。
ならば、いたしかたなし。
「ヴラド公は俺より格上だ。領民に避難の用意を」
十中八九、俺は死ぬ。
そう付け加えようとして、やめた。
でも、シーフィアには伝わったらしい。
静かに息を呑む気配を俺は背中に感じていた。




