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<第八章>キツネの系譜


 階段から飛び降りた截を狙い、正面から、真上から、サボテン人間たちが襲いかかる。

 生存者たちへ彼らの注意が向かないように、かつ唐沢らの行動を阻害されないように、截は一定距離以上、貴婦人との間を空けるわけには行かなかった。

 自分の役目を再認識した今、出来る事は逃げ続けることだけだ。生死の基本にして生存競争では一般的な行動、「逃走」。

 自らの命を守るため、そして敵者を壊滅させるために、截は走った。

 階段でのことから、例え相手取る敵を減らしても「肉の壁」によってそれが無効化されることは分かっている。ならばやることは一つだ。逃げ続ける、それのみ。

 貴婦人から付かず離れず相手を翻弄することこそが、亜紀の命を、自分の命を救うのだから。

 背後から腐臭の漂う息を感じる。

 截は右足を前に踏み出し突然のバックステップを行うと、同時に両手に持った白黒のナイフで二体の感染者の首を刈った。黒い血が腕に掛かるが構わず腕を振り切る。どうせレインコートだ。染み込んだりはしない。

 こちらが足を止めたことで追跡者の一体が飛び掛る。それを押し出すような蹴りで跳ね除けると、勢いを利用して前へと体を投げた。止まれば彼らに飲まれてしまう。動き続ける事こそが命を繋ぐ。既に息は荒くなっていたが、こんなことで弱音は吐けない。甘えたところで誰かが助けてくれるわけは無い。他人にも、自分にも冷酷に対処する。それが黒服で学んだ生存するためのセオリーだ。

 ――あと九体か。

 受身を取りながら振り返ると、残りの感染者の数が確認出来た。貴婦人が登場する前に倒したサボテン人間の数が三体。たった今倒したものが二体。既に三分の一近くは相手の戦力を減らせたことになる。

 楽観的観測を抱くのが危険なことは分かっている。しかしこれならば何とかなるかもしれない。

 自然と希望が宿り、腕に力が篭る。

 ――やってやるさ。こんなことも乗り越えられないんじゃ、キツネを――黒服を出し抜くなんて夢のまた夢だ。絶対に生きて帰ってやる。

 自分の目的である憎らしい男の顔が浮かぶ。

 武者震いするかのように体を震わせると、截は強く床を蹴り立ち上がった。







 完全フリーな状態であった唐沢と長島は大量のサボテンたちが前方へと消えた隙をつき、見事に貴婦人の背後まで迫っていた。

 無防備な彼女の背中を見つめ、それぞれ左右に分かれる。

 ――やるぞ、やるぞ、やるぞっ、俺なら出来る……――!

 恐怖心を押し殺すように、長島は雄叫びを上げた。

「うぉぉあぁあぁあぁぁああっ!」

 両手で鉄パイプを振りかぶり、貴婦人の背中に叩きつける。本当は頭を狙いたかったのだが、高すぎて届かなかった。

 ――家族の所へ帰るんだ。

 明後日は孫の誕生日だった。子宝に恵まれなかった自分の最愛の娘が、ようやく生んだ初めての子供。その四歳の誕生日を前にして、記念すべき大切な日を前にして、この命を奪われるつもりは無い。孫の誕生日の日を自分の通夜にすることなどごめんだ。

 学生時代に励んだ野球部、毎日握り振るっていた包丁、それらの影響で膨らんだ腕の筋肉を極限まで膨らませ、まさに渾身の、出せうる全ての力を使い、何度もその背中を殴打した。

 一体どれほどのダメージを与えられたのだろうか。

 うるさいハエを見るような動きで貴婦人が振り返った。その目には怒りの色が浮かび、治癒の対象ではない存在を、長島を己の「敵」だと認めたように間に皺が寄っている。

「うぅっ……!」

 生きるか死ぬか。人間が長いこと忘れていた、自然の摂理にそった恐怖が引き起こされる。長島は反射的に後ろへと一歩さがった。

 貴婦人は角の方へと追い詰められている截に向けていた体を、優雅に反転させる。

 ――攻撃する気なのか? 

 彼女の腕は怪我の治療を目的として生み出されたもの。殺傷能力など無い。怯えながらも、長島は自分が大した手傷を受ける事はないと、心のどこかでそう思っていた。

 ぷくりと、貴婦人の腕が膨れ上がる。普通の人間とは違う、二つの上腕部を持った独特の腕が。

 確かに拳自体の強度は低いだろう。だがもしそれに猛烈な勢いが付いたのなら?

 水風船だろうが、スライムだろうが、猛烈な速度で打ち出されればその攻撃力は遥かに強力になる。速さは質量。質量は力。

 襲い来るその塊を目にし、長島は頭の血が一気に下へと下がったような錯覚を覚えた。

「ぐぉぉおおおっ!」

 無理に避けようとしたため左足が右足に絡まり無様に転ぶ。しかしそれが逆に吉となり、彼女の拳は横へと逸れた。全身の体重を拳ひとつへと集約したようなその重い一撃は、よくしなる鞭のように地面を削り取り、短い直線を床の上に刻んだ。

「ポォォォォォオオオオオ」

 貴婦人の整った唇が開き、天へ向って開けられる。

 何かの命令や指示だったのか、響き渡ったその声で数体のサボテン人間が截の下から離れた。どうやらこちらへ援軍として来るらしい。

 今でさえ一杯一杯なのに彼らが来ては完全にお手上げだ。長島は立ち上がり逃げようといたが、目の前に貴婦人の下半身が飛び込んできたため、考えを断念せざる終えなくなった。

 大きなスカートのような彼女の下半身の端には、地面と垂直に円を描くように口が形成され、無数の歯が並んでいる。その歯が自分をかみ殺そうと蠢きながら迫った。

 坂の上に置かれた丸太よろしく、長島は我が身を転がし必死にそこから離れよとする。しかし速度差は明らかだったようで、すぐに追いつかれ彼女の歯が服を引きちぎった。

 パニックを起こし長島が悲鳴をあげようとした刹那、彼女の背後に唐沢の姿が浮かぶ。

 ――こ、殺せ、早く――!

 生への渇望から黒い叫びを心の中で解き放つ。同時に唐沢の手に握られた刃が彼女の背中を貫き、視界に映り込んだ。飛び散った黒い血液が服や顔にかかる。だが彼女はその傷になど構わず拳を振り下ろした。

 どんっと、足に鈍痛が鳴り響く。

 長島は思わず、絶叫を響かせた。






「くそっ、外した」

 唐沢は舌打ちした。

 ナイフは心臓を貫くことはなく右にずれ肺を穿った。踏み込みが浅かったようだ。

 生物がもっとも隙を見せるのは獲物を襲う瞬間。長島を襲う貴婦人のその瞬間を狙い攻撃を繰り出したのだが、長い間実践を退いでいたことと、恐怖心から無意識の内に足がすくんでいたらしい。最大のチャンスを見事にふいにしてしまった。

 長島の痛む声が目の前から溢れる。先ほどの様子では骨にヒビが入ったか、骨折したのかもしれない。唐沢はもう彼が使い物にならないだろうと考えた。

 ――残念だが長島さんは見捨てるしかない。どうする? あの黒服の若者はとてもこの場にこれる状態じゃないし、俺一人でここから彼女を殺せるか?

 三体のサボテン人間が主人の身を守ろうと今もこちらへ向っている。残り六体の相手は截がしているとはいえ、貴婦人に加えあの三体が相手では自分の勝利は厳しい。かといって今このチャンスを逃せばもう二度と彼女を倒せる機会はないだろう。悲しそうなあの表情が自然と瞼の裏に浮かぶ。

 実験用素材として送られてきた彼女。最初にその姿を目にしたときはそのあまりの不憫さに同情したものだ。水憐島という地獄を生き延びることが出来たのに、家を持たないという理由で存在を抹消され、ここへ連れてこられた哀れな少女。まだ二十代前だというのに無残にもその命を捨てることとなり、恐らくは怖くて仕方が無かったはずだ。

 調整水槽に入れられる直前まで自分に向かい「助けて」と懇願していた。その顔が、あの悲しそうな目が、いつまでも心に残留している。

 唐沢は冷酷だが鬼ではない。

 元々イグマ細胞によって起こされる被害を最小限に抑えるために、化学系の大学を卒業したのにもかかわらず戦闘部隊へと所属した。そして自分のやっていることが人々を助けることではなく、人手を、実験材料を確保するためだけのものだと気がつき、現場を離れたのだ。

 彼女を殺す事は唐沢が自分に科したとがだった。せめてその命を無駄にしないようにと、人の命を救うための生物として改造したのに、その彼女が感染者を生み出し、ただの化物のように扱われることは我慢がならない。それは彼女の、自分のやってきたことの全てを否定することを意味する。

 だから唐沢は今ここで、己の手で彼女に止めを刺す必要があった。彼女を殺す必要があった。その命を無駄にしないためにも、その成果を後の世に残すためにも。これ以上彼女による被害を出すわけにはいかないから。

 ――あの時言われたじゃないか。「助けて」って。ここでその願いを叶えなければ一体いつどこで叶えるというんだ。

 ナイフを力いっぱい抜きその背から離れる。まだ彼女は長島の足を折った体勢のままだ。今二撃目を放てば避けられはしない。唐沢は雄叫びをあげるとダンクシュートをかますように激しく跳躍し、ナイフを降り下ろした。







 大分息が荒れている。体中も汗だくだ。

 流石に相手の数が多かったらしい。截は倉庫街の角へと追い詰められていた。

 三体のサボテン人間が離れ、一体を殺した現状、残りの相手は五体しかいない。しかしそれら全てを倒せるだけの、彼らから逃げれるだけの燃料が尽きかけていた。

 ――この常世国に入ってからずっと動き続けていたからな。さすがに体力も限界か。

 脂汗の吹き出る顔で目の前のサボテンたちを睨みつける。負ける気はしないが、正直勝てる気もしなかった。

 三体のサボテン人間が向こうへ行ってしまった以上、唐沢らも厳しい状況にあるだろう。いくら彼が訓練を受けているようだとはいえ、所詮はイミュニティーだ。単身で悪魔と渡り合える黒服の隊員には及ばない。このままでは負けるだろうと、截は確信していた。

 目の前のサボテン人間たちには貴婦人ほど感覚が効かないため、少しも意識を逸らすことが出来ない。こんな状態で唐沢たちの援護に行く事はかなり厳しかった。

 ――どうすればいい? 俺一人なら生き延びることも出来るけど、そうすれば亜紀は助からない。唐沢が居なければ生存者たちを引き連れて詰め所に行く事は無理だ。

 ジリジリと後ろにさがりながら思考を巡らせる。背中に冷たい感触を感じ、もう後がないのだと理解した。

 ――くそ、翆が居てくれたら。あいつが居ればサボテン人間くらいなら簡単に倒せるのに。

 後衛を負かされている相棒の姿が過ぎる。だが、彼女の同行を否定したのは自分だ。今更いくら望んだって、それが実現することはありえない。しかめっ面をしている彼女の整った顔を頭の中から追い出すと、自然にある男の憎らしい笑みが浮かんだ。

 キツネならばどうするだろうか。截は考えた。

 いつもそうだ。どうしようもない危機に、ピンチになると必ずあの男の顔が浮かぶ。あの男ならどうするか、どう考えるかと推測する。それは既に癖のようなものとなり、截の体に染み付いている行動だった。その影響か思考パターンが大分キツネに近い物になっていると、安形からは心配されているが。


 『己を主人公にするから真理が見えない。自分という殻に篭れば物事を全て主観というフィルターごしに眺めることになる。あるのは”事実”のみ。自分を含んだ全てを上から見下ろせば自ずと答えは見つかる。まるでチェスの盤上のようにさ。お前はいつまでも”自分”っていう我にこだわっているから見えるものも見えないんだよ』


 初任務の時に彼に言われたセリフ。思い出せばこの言葉を聞いていたからあの時自分と翆は生き延びたのかもしれない。この言葉が無ければ大怪我ではなく間違いなく死んでいただろう。

「主観か……」

 今の状況で自分が囚われている物が何かといえば、それは亜紀の命だ。それを無視して勝利のみを目的に定めれば、何か見えていなかったものが見えるというのだろうか。

 截に亜紀を見捨てる気持ちは毛ほどもなかったが、現状打破の手がかりになればいいと、キツネになりきって自分の状況を省みた。

 そして残念なことに、答えはすぐに見つかってしまった。







 貴婦人の拳が肩にかする。伸ばした手は弾かれ、唐沢は背中から地面へと叩きつけられた。丁度島と二人で貴婦人を挟むように寝そべっている。

 本体の危機を知ったサボテンたちが到着した。三体が三体とも無表情で貴婦人を囲むように立ち止まる。

 ――負け……か。

 もう無理だと唐沢は悟った。流血していない以上治療されることは無いはずだが、彼女に敵対したため攻撃を受けることは回避出来ない。

 痛む首を回し、そっと顔を上げる。

 白く濁った大きな瞳。鬼のように角の生えた頭部。長い、怨念の強さを感じさせる白髪。

 生前とは全く違う彼女の顔を見上げ、自分の死という未来を認めた。なるべくしてなった状況なのだと。

 これは彼女の復讐だ。

 無理やり連れてこられ、無理やり改造され、無理やり人生を捨てさせられた彼女の、呪い。

 どれだけ相手のためだと思い、行動しようとも、彼女から見れば自分もその他大勢の研究者の一人でしかない。その罪は、咎は決してなくなりはしない。

 貴婦人という研究が発展しようとも、再生細胞という技術が完成しようとも、それは彼女には全く関係がないこと。どうでもいいことなのだ。全てはこちらの主観でしかないのだから。

 ――仕方が無いのかもな。

 唐沢は本心からそう思った。

 これも運命だ。人の命をもてあそび、神の領分へと進行してしまった人間の末路。どうせ殺されるのなら、見も知らない鬼やテロリストより、彼女の手に掛かるだけましというものだ。少なくとも、復讐と捉えることで納得することが出来る。

 もういつでも死ぬ用意は出来ていた。

 殺され、元同僚たちと共に彼女の手足となりこの常世国の中を徘徊し、そしていつかイミュニティーの隊員たちに殺される。

 そんな未来が既に現実に起きているかのように、幻として見えた。








 一階から階下の戦闘を見ていた亜紀は、截の様子が変化したことに気がついた。重大な選択をしたような彼の瞳がこちに向き目が合う。

 一瞬だけその瞳の奥に悲しそうな光が宿ったが、気のせいだったと錯覚出来るほどの短さですぐにそれは消えた。

「おい、あいつこっちに向ってねえか?」

 ずっと壁にへばり付き震えていた麻生が、截がサボテンたちの間を突っ切り走り出したことで、不安そうな声を漏らす。

 その意を否定するように千秋が口を出した。

「まさか。何でそんなことを――」

 だが彼女の予想とは裏腹に、確かに截はこちらへと向っていた。迷いは一切ないというような動きで真っ直ぐに自分たちから見て右側の階段へと走っている。

「いや、マジでここへ向ってるって! お、おい逃げた方がいいんじゃねえのか!?」

「え、嘘でしょ……?」

 さすがに疑問を抱かざる終えなくなったようだ。千秋の表情にも恐怖の色が浮かんだ。

 ――まさか、私たちを囮に……?

 下では唐沢と長島がやられ、こちらの勝利はかなり厳しい状況となっている。今彼がサボテン人間の注意を自分たちへ向ける理由はそれしか考えられない。

 元々彼の目的は六角行成の保護だった。自分たちと行動を共にしているのは詰め所まで辿り着きたかっただけ。唐沢が殺されそうな状況を見て、もしかしたら彼は自分たちを見限ったのかもしれない。自分たちを囮にすれば一人で逃げる事が出来る。貴婦人から離れることが出来る。唐沢の命が助からないと判断したのなら、十分にありえる話だ。三年前のあの男に似ている彼ならなのさら……。

 激しい物音を立てて截が階段を駆け上る。まだ迷いのあった亜紀たちが逃げるよりも早く、彼は一階へと戻ってきた。

「あなた一体――!?」

「悪いな」

 千秋の言葉を遮り、截はそのまま手すりを飛び越え下へと降りる。慌てて亜紀が下を覗くと、フリーランニングの要領で前転し、無傷で立ち上がっていた。

 ――え? 本当に囮に……

 彼は確かにキツネに似ていたが、自分や千秋を助けるなど人道的な面もあったはずだ。まさか本当に截が自分たちを囮として利用するなどとは思ってもいなかった。信頼していた友人に裏切られたような痛みが心に走る。 

「ひっ!? 来たぞー!」

 麻生の叫びに合わせ、六体ものサボテン人間がこちらへと突撃した。

 無防備だった自分たちに抗う術は無い。千秋も必死に抵抗したが、最初に夏、次に麻生と、あっと言う間に皆拘束されていく。

 結局自分は生きてここを出ることが出来ないのか、ただ怯えることしか出来ないのかと、亜紀は悔しさで一杯になった。







「……耐えてくれ」

 上に居る四人を心配そうにながら小さく截は呟いた。

 キツネになりきった結果浮かんだ、現状を打破するための唯一の方法。

 サボテン人間単品に感染能力はない。貴婦人本体と接触しない限り、彼女たちの命は無事だ。だからこそ逆にそれを利用した。

 彼女たちを使いサボテン人間の数を減らし、その間に貴婦人を殺す。今あの怪物を倒せる手段といえば、それ以外に道はない。

 これは戦闘が始まった当初、截が唐沢に持った疑いそのままの作戦であり、生存者たちが感染する確率も高い諸刃の選択だった。

 自分が貴婦人の注意を引くことが出来なければ、一度でも貴婦人に抜かれれば、簡単に亜紀たちは感染してしまう。それほどの危険が伴うにも拘わらず、実行出来たことに、截は自分でも驚いていた。戦う前はあれほど亜紀の身を危険にさらしたくなかったというのに、いつの間にか今ではその感情を実に客観的に認識している。

 キツネに毒されていると自分でも分かっていたが、他に貴婦人を倒す手段は無い。截は心を鬼にして戦いへ意識を集中させた。今は唐沢だけじゃない。自分と長島も居るんだと誰かが詰問しているわけでもないのに、心の中で言い訳のげんを浮かべる。

「唐沢!」

 倒れている元イミュニティー戦闘員の名を呼ぶ。

 ――貴婦人の最大の武器はサボテン人間。今はその殆どが離れた場所にいる。三人でかかれば……

 そこまで考えた時、長島の様子がおかしいことに気がついた。右膝を押さえ痛みをかみ殺すかのように丸まっている。どうやら足をやられたようだ。これでは折角の優位性を無駄にすることになる。

 目の前にいるたった三体のサボテン人間を退かせばあとは貴婦人だけ。冷静に、かつ冷酷に、截はもっとも勝率の高い手段を取った。

 長島が役に立たないのなら役に立つようにすればいい。疾走しながら肩に収納していた小型ナイフを抜き、そのままの流れで斜め下に投入する。一直線に空を切った刃は長島の腕を浅く切り裂き、一筋の赤い傷を作った。

 元々貴婦人は長島に止めを刺そうとしていたため、すぐにその怪我に反応し治癒を試みようと初動に入る。三体の哀れなサボテン人間も本体の意のままに長島に向って腕を伸ばした。

 截は余計な策など一切講じず真っ直ぐに目の前の怪物を目指し、さらに足の速度を速めた。サボテンたちは長島に気を取られたことで一瞬反応が遅れ、截の突破を許してしまう。

 何の武器――感染者も居ないこの状況で貴婦人に勝ち目は無い。

 前屈みになり力を溜め、それを一気に吐き出すように前へと低く飛翔する。

「ポォオオオオォォオオッ!」

 白柄ナイフの刃が肉を抉り込むと、初めて彼女は苦悶の声を漏らした。だが、まだ死んではいない。

 ――ギリギリで体の向きを逸らしたのか。

 唐沢の渾身の一撃が逸れたときのことを思い出し、截はそれが偶然ではなく彼女が意図して行っている行動だと知った。決して知能が高くはない貴婦人だが、それくらいの真似は本能的に行えるようだ。

 湧き出る黒い血を胸に浴びながら続けて左手に持った黒柄ナイフを押し出す。振りかぶりの一切無い腰の回転を利用した押し出すような一突きは、恐ろしい速さで彼女の胸へと迫る。今度こそ命中すると思われたが、白柄ナイフの痛みで体勢を崩してしまったらしい彼女の急な動きで、それも心臓には届かなかった。

 大きく拳を振りかぶる貴婦人。ナイフは深く肉に食い込み、抜こうにも抜けず、避けようにも全力で前へと飛んでいたため前傾姿勢となり、かわせる余裕もない。砕かれるほどはいかなくとも、頭蓋骨にヒビが入るくらいの結果は覚悟した。チラリと背後を見ると、自分を拘束いようとしている六本もの茶色い腕が視界に入る。

 あと少しというところで、截は勝機を逃した。






 

「彼女に仇を打たせてやろうと思ったのにな」

 死を覚悟していた唐沢は心の底から残念そうに呟いた。

 死にたかったわけではない。

 自虐趣味があるわけでもない。

 しかし自分の行ってきた行動を罪と定め、その犠牲者である彼女に止めを刺されるのならば、それもまた仕方がないことだとは認めていた。

 だが、だけど、こうして彼女の苦痛を終わらせることが出来るチャンスを、怪物としての彼女を消し去る機会を、一歩進めば手に入れることが出来る状態で見過ごすことは不可能だった。

 たった一歩。

 たった一歩。自分が動けば彼女は助かる。

 人間に戻すことは敵わなくとも楽にする事は出来る。

 だから唐沢は立ち上がった。

 イミュニティーから支給された大きなナイフを握りしめ、必死に筋肉に力を込める。

 今更彼女に謝る資格は自分にはない。それでも、それでも少しでも早く、その苦痛を終わらせることが出来るのならば、やることは――ひとつだけだ。

 再び空中へと撒き散らされる漆黒の血液。

 詰め込まれていた音が開放されたかのように響き渡る悲鳴。

 唐沢の握ったナイフは、確かに彼女の心臓を貫いた。






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