<第五章>死の治療
両面扉の先は細い通路となっていた。そのまま扉から出て左にある道と、真っ直ぐに続いている道に分かれている。
――こっちは確か第三出入口へと続いているから、行き止まりのはず。
千秋は記憶を頼りに正面に進むことを選んだ。走っているとすぐに別の両面扉が見えてくる。
「あそこを潜ればパーティー会場よ、みんな急いで!」
追って来ている三体の鬼の位置はほぼ真後ろと言ってもいい。まさに最後の賭けだった。
先頭を走っていた麻生と亜紀が体当たりするように扉を開ける。そしてその直後に千秋たちが続いた。
「うわ、すげ……!」
入ってすぐに麻生が驚きの声をあげる。
会場の中には何故か大きな穴が二つ作られていた。中央の床と右側の壁が盛大に吹き飛び、灰色の煙がもくもくと上がっている。
「あそこ!」
部屋の向かい側にある非常用扉を指差して夏が叫ぶ。地下施設へと通じている道だ。あの扉が開けば安全な場所まで逃げることが出来る。
千秋はすぐにそこに向って駆け出したが、あと少しというところで邪魔をされた。四足になって走っていた鬼の一匹が、海を割るようにして生存者たちの間を飛び抜けたのだ。
「ザァアァアァァア……!」
その鬼は扉の前に着地すると、舌なめずりをしながら振り返った。
――くそ、どうすればいいんだ?
このままでは万事休すだ。二本のナイフで鬼たちを牽制しながら截は打開策を必死に考えた。
「んぁ? な、何だあいつ!?」
きょろきょろと周囲を見回していた麻生が大きな声をあげる。截がその視線の先を見ると、会場左側から数体の影がこちらに向っていた。
薄茶色に染まった肌。全身から生えた棘とその先から伸びた糸。何かしらの感染者なのは明白だ。
「こんな時に……!」
これ以上の敵はカバーしきれない。截はごくりと息を呑みながら亜紀を背に隠した。その様子を目ざとく夏が見ていたが、感染者たちに注視している截は気づかなかった。
「ホロロロォォオオ……」
梟のような声で鳴くと、彼らは散らばっている丸いテーブルを押しのけ、真っ直ぐにこちらに向って来た。
「何だよ、あのサボテン人間は!?」
頬を引きつらせながら長島が呟く。
彼らが近付いてくるごとに截は奇妙な感覚を覚えた。
――何だ? 鬼の存在ははっきりと感覚で分かるのに、こいつらは……認識しているのに何も感じない……!?
よく見るとそのサボテン軍団は自分たちではなく鬼の方へと向っているようだ。距離が狭まるに連れて鬼たちは壁際にさがっていった。
理由は分からないがこのチャンスを逃す手は無い。千秋は素早く非常用扉まで駆け寄ると、ノブを掴んだ。だが、いくら引いてもそれが下に降りることは無かった。
「開かない! 鍵が掛かってる」
「そこから行けないのか?」
麻生が会場の中央に開いている大穴を指差す。截はその下から無数の鬼の気配を感じ取りった。
「駄目だ、鬼が居る! それに床までの距離が遠すぎます。無理に降りれば骨折しかねない」
「じゃあ、こっちしかないな――!」
他に手が無いと思ったのだろう。長島が一直線に会場右の壁に開けられた大穴を目指し、走り出した。
「ちょ、長島さん!」
状況から考えれば床から出た「何か」がその壁の穴を作り先へ進んだこととなる。千秋は進むことを躊躇った。
「行くしかない――! 大丈夫です。あっちの方からは鬼の気配はしない」
感覚を頼りに截が言う。
黒服の言うことだ。仕方が無く千秋はそれを信じることにした。
「ザアアァァア!」
ふらふらと歩いてくるサボテン人間に痺れを切らしたのか、鬼たちは自分の方から彼らに飛び掛った。首を引き裂き、肉を抉り、歯を突きたてる。
しかし、サボテン人間たちはただ突っ立っているだけで何もしようとはしない。人形のように鬼の攻撃を受けている。
その光景を不気味に思いながらも、亜紀は駆け出した。前方から千秋の声が届く。
「亜紀ちゃん、早く!」
穴の中を通り抜け反対側の場所に出ると、そこは最初のホールと瓜二つの場所だった。丁度二階が一階、一階が地下一階になったような間取りだ。奥の方にはシャッターが降りている。店のようなものは無かったが、代わりに全く同じ構造を持った部屋が各階の壁際に並んでいた。
「倉庫街?」
横で千秋が呟く。
どうやらあの奥に見えるシャッターは外の駐車場に続いているようだ。トラックを横付けするためのものなのかもしれない。そんなことを考えていると、亜紀は地下一階に見える大きな扉、正確には扉自体は吹き飛んでいる場所から、何かが飛び出たのを見た。人間のようだ。自分の片腕を抑えて何かから逃げるように走り出てくる。
「みんな、伏せろ」
それを見た瞬間、反射的に截がしゃがんだ。亜紀たちも釣られるように身を屈ませる。背後を警戒してか良く見える場所を確保するためか、截は皆を連れてそのまま右へ移動した。丁度端まで来ると同時に声が聞こえる。
「く、来るなぁああ!」
転がっていた死体に足を取られ、男は転倒した。鼻を強く床に打ちつけたらしく、そこからは血の雫が垂れている。服装から判断するに警備員のようだ。
――何かから逃げている? 何の存在も感じない。……人間か――?
截が観察するように視線を向けていると、それに答えるかのように先ほど男が出てきた場所から無数のサボテン人間が現われた。皆一様に男を見つめ、腕を伸ばしている。
「何をする気なの?」
手すりにしがみ付くようにして夏が呟く。
サボテン人間たちは腕を伸ばし男を拘束しつつも、それ以上の暴力を振るうことはなく、ただずっとそれを維持していた。
このままでは感染するのではないか。亜紀は彼を助けたいと思い、截の腕を引いた。男を指差して拳を前に突き出す動作をする。
だが、截は首を横に振りそれを否定した。
「あれが感染して広がるものならそれを確かめる必要があります。どっち道ここからではもう間に合いません。彼には申し訳ありませんが、犠牲になって貰います」
それを聞いた亜紀は目を見開いて截を睨んだ。
「助けられないなら、彼の死を無駄にしないためにもそうすることがベストなんです。我慢して下さい」
あまり感情を感じさせない声でそう言う。亜紀は怒ったように目を細めたが、それ以上截に口論する気は無かった。
――似ていると思ってたけど、性格は正反対ね……
冷たい截の横顔を見て亜紀はそんな感想を漏らす。まさか自分が似ていると思った「悟」本人だとは思いもせず、彼の背にかつて見た黒服の男の姿を被らせた。
この截はあの時の男に良く似ている。雰囲気も、考え方も。自分たちを見捨てて居ない分いくらかマシだろうが、それでも好きになれそうには無かった。
「また何か出てきたぞ」
長島が扉の在った位置を見て小さく叫んだ。
全員の注意が向く中、それは現われた。まるで貴族女性のように優雅な動きで一歩一歩進む。
大きなスカートを穿いたような下半身。漢字の「円」のような形の胴体と腕。長い薄茶色の髪。そして全身から生えた棘と糸。
どう考えてもサボテン人間の親玉だ。
「何だあの貴婦人みたいのは?」
目の前にいる巨大な存在が理解出来ず、長島の声は震えていた。
「来るなって言ってんだろぉおお!」
サボテン人間の輪に囲まれ身動きの取れない男は必死に声を張り上げたが、そんなものをこの怪物が聞くはずも無い。あっと言う間に目の前まで来ると、彼女は優しく微笑みながら両手を伸ばした。
「おあぁあああっ、あぁああっ!」
恐怖に歪んだ男の声が虚しく響く。
長島が貴婦人と呼んだそれは、男が怪我をしている部分。腕と鼻の位置にそっと自分の手の平を乗せた。するとまるでゼリーが溶けるかのように男の体にその手が染み込む。
「あぐごがぁががが……!」
鼻を塞がれ息をすることが叶わなくなったからか、男の絶叫は鈍い音に変わった。
「ポォオォォオォオー!」
貴婦人が高らかに奇声を上げる。同時に、男の体を拘束していたサボテン人間たちが一斉にその手を離した。
「な、何してんだょぉ……」
歯をがちがちと鳴らす麻生。
全員が身動き一つせず見つめていると、貴婦人はやっと男の体から腕を抜き取った。
截は男が死んだのかと思ったが、その予想に反して彼は生きていた。
「あぁぁあっ! 畜生ぉお!」
叫んでいる男の体を見ると、どういうわけか全身の傷が消えており、流れていた血も綺麗にふき取られている。まるで治療されたようだ。
絶望したような表情を浮かべる男をそこに残すと、貴婦人は元の場所、扉が倒れている部屋の中へと戻った。
「どうなってるんだ……?」
感染させるわけでも、殺すわけでもない。ただ治療を施しただけだ。貴婦人の行動理由が分からず、截は首をかしげた。
「ザァァアアァアッ!」
壁の穴を飛び越え鬼たちが出現した。サボテン人間たちを殺し終えたらしい。
「まずい……! みんなこっちに――」
截は一階の中央側、二階を見渡せる位置にある手すりとそこに括り付けられている看板を盾に、皆を奥へと誘導した。鬼はまだこちらの位置を特定出来ていないのか、鼻をくんくんと言わせている。
第三出入口は封鎖され、パーティー会場は鬼だらけ。完全に切羽詰まった状況になってしまった。
「――ちょっと待って?」
何かに気がついたのだろうか。千秋が足を止めた。
振り向くと、截はその理由をすぐに理解した。
鬼たちは穴の前に出たきり進んでこないのだ。どうやら貴婦人や無数のサボテン人間の存在を警戒しているらしい。唸り声をあげるだけでその場に留まっていた。
――三本腕のときと同じだな。
一般感染体は本能的に上位感染体を恐れる。そのことを思い出した截は、とりあえずほっと息を吐いた。
「誰だ!? 一般人か」
突然吹き抜けの空間を挟んだ向かい側から声が響いた。そちらを向くと三十代前半程の男が睨むようにこちらを見ていた。
「他の生存者?」
男のボロスーツを見て夏が目を細める。
截たちが何も答えないことを勝手に肯定の意思表示だと判断したのか、男はさらに大きな声でこちらに呼びかけた。
「怪我人は居るか?」
随分と親切な質なのか心配そうにこちらを見る。
南側にある吹き飛んだ大穴の前にはまだ鬼が居る。それなのにあれほどの大声を出すということは、奴等がここへ来ないということを知っている証拠だ。「一般人か」と聞いている以上、イミュニティーの人間なのだろう。その髪形から服装まで全てボロボロの男との対話を、截は千秋に任せることにした。
「大した怪我をしている人間は居ないわ。大丈夫」
「小さな怪我でもいい! 居るのか、居ないのか!? 居たら絶対に下へは近付くな」
小さな怪我でもいいとは不思議な話だ。よほど治療したくてうずうずしているのだろうか。千秋は多少躊躇いながらも答えた。
「全員打撲程度ならしているわよ。それがどうかしたの?」
「血を流している奴は居ないんだな?」
「居ないって言っているでしょ!」
意味不明な質問の連続で流石に頭にきたようだ。千秋の声に怒気が篭る。
「そうか、そっちに行く。待ってろ」
男は勝手にそう決めると、どかどかと足音を立て走り出した。そっとナイフを服の下に隠し截は思考を巡らせる。
下の男の服装はどう見ても警備員のもの。つまりイミュニティーの人間ということになる。ディエス・イレが敵の治療を施すなんて意味のない兵器を撒くとは考えられない以上、あれがイミュニティーの実験物なのは確実だ。男が逃げていたことを考えれば、やはりら何かしらの危険があるのかもしれない。一応の用心を心に留め、截は目の前に到着した男を眺めた。
「唐沢だ。――本当に怪我人は居ないんだな?」
「だからそう言ってるでしょ。さっきから一体何なの?」
「ちょっと待ってくれ」
自分から振ったにも拘わらず話を切ると、唐沢は下に座り込んでいた警備員に声をかけた。
「山田くん、大丈夫か?」
山田と呼ばれた男は空ろな目を上に向けた。
「奴の巣の中の状態を教えてくれ。時間が無い」
巣とはどうやら貴婦人たちが入っていった部屋のことを言っているらしい。山田は感情の篭らない声で淡々と答えた。
「い、生き残りがあと一人います。残り二人は既に治療されました。あ、あいつ……」
そこでいきなり山田の声が裏返る。
「あいつ信じられませんよ。あ、あなたは怪我さえしなければ大丈夫だと言った。だ、だけどあの怪物は怪我人が居ないと思ったら、ワザと俺たちに傷を作ったんだ。おかげで俺ももう……」
「ワザと傷を作った? 攻撃してきたということか?」
「そうですよ! あのサボテン野郎たちを使ってね。どうしてくれるんですか。あなたの所為で俺は、俺は……」
山田の瞳からは涙が流れる。唐沢はそれを無視すると、独り言のように口を動かした。
「怪我人が居ないと自らそれを作る……そんな本能があったとは……まだまだ実験が必要みたいだな……」
「あ、あなた大丈夫?」
一人あらん方向を向いてブツブツと言っている唐沢が怖くなったのか、千秋は彼から一歩足を引いた。
「治療と言いましたね。どういうことですか」
怪我、そして治療。これまでの会話から考えると、どうやら治療されることは人間にとって不味いことに繋がるようだ。截は二人の会話の合間を縫うように聞いた。
唐沢がこちらを見る。
「さっきの女性を見たか?」
――女性? あの怪物のことか?
唐沢のいやに丁寧な呼び方に引っ掛かりを覚えつつも、截はすぐに答える。
「見ました。貴婦人みたいな奴のことですよね」
「そうだ。彼女はここの地下で研究されていた生き物でね。人の怪我を治療する細胞の開発を目的として作られた。怪我をしたり流血して彼女に近付けば、あっと言う間にサボテン人間たちに拘束されてしまう」
「治療しにってことですか? でも、それだとこっちにとっては何のリスクも無い気がするんですが」
「ただの治療じゃ無いんだ。彼女は対象の傷を自身の細胞で塞ぎ修復する。それで確かに傷は言えるだろうが、怪我人は変わりに体内に彼女の細胞を持つことになる。さっきのサボテン人間を見ただろ。あれがその末路さ」
「感染ってこと? でも下にいる人は……」
千秋が口を挟んだ。
「元が医療用として作られた生き物だからな。感染能力はそれほど高くはない。潜伏期間が通常の……そうだな。君たちに分かりやすく言えば、この常世国中に現れた鬼よりも僅かに長い。下にいる山田もあと数分で奴らの仲間入りだ」
「何でそんなものがここに居るの? 一体イミュニティーの隊員は何をしているのよ」
「君は……『こっち』の関係者か?」
千秋は軽く頷いた。
「そうか。なら話は早い。俺はここの研究員だ。実は、ホールで騒ぎが起きた時と同時に地下でもテロがあった。純イグマ細胞の流出こそ食い止めたものの、その影響で彼女が水槽を脱出してしまった。制御装置にウイルスが流されたらしくてね。担当にはどうしようも無かったそうだ」
「そう……じゃあ、研究所はもう安全な場所ではないのね」
肩を落とす千秋。それを見た唐沢は明るい声を出した。
「いや、確かに一部には鬼の手が及んでいるが、隊員の詰め所は安全なはずだ。先ほど連絡した際に六角代表が指揮を取っていると聞いている」
――六角行成……やっぱりあいつはここに……
截はピクリと耳を立てた。
「安全な場所があるのね。じゃあ、そこまで案内して。お願い!」
一部始終を聞いていた夏が顔を明るくして縋る。だが、唐沢は残念そうな顔を作りそれを拒否した。
「申し訳ないが、俺には彼女を食い止めるという役目がある。この人もイミュニティーの隊員のようだし、そっちに案内してもらってくれ」
「でも、私は詳しくは構造を知らないわよ。パーティー会場の非常階段から出れるの?」
千秋は常世国の職員では無い。当然、詰め所の正確な位置など分かるはずも無かった。
「床に開いた穴を見たか? 階段の先はあの穴の奥に出るだけだ。確かに管理区画へは繋がっているが、あそこはもう鬼の住家といってもいい状態だ。別のルートから行くしかない」
「別のルートって?」
「生存した隊員たちの収容が終わった以上、各非常階段は全て封鎖されている。詰め所を目指すのなら直接あそこの出入口に行くしかないだろう。連絡で聞いた情報だと、詰め所から一階に伸びている直通階段は封鎖していないそうだ。そこまで行ければきっと保護してくれる。確か、西部エリアにあったはずだ」
「西部エリアって言えば、宿泊関連の区域ね。ここからだとどうやって行けばいいの?」
「どうって……普通に憩いの広場まで戻って西側に移動すればいいんじゃないのか」
「無理よ。食品売り場も憩いの広場も、全て鬼に塞がれてる。他に行き様がないの?」
唐沢は困ったように頭を掻いた。
「俺が一緒に行けるのなら一階の職員用通路を案内することも出来るが、そういうわけにもいかないな。彼女の対処をしなければならないから」
「案内が必要なほど複雑な構造なのか?」
ずっと黙っていた長島が始めて口を開いた。唐沢がイミュニティーの研究者。つまりこのテロや感染者に関係する人間だと分かり、警戒していたようだ。
「別に大したものじゃない。ただ、今は鬼が徘徊しているし、テロの影響で職員用エリアの大部分の電灯がおじゃんになったと聞いている。構造や間取りを完全に把握している人間がいなければ、間違いなく迷って食い殺されるだろう」
職員用通路とはこの倉庫街の右上端にある通路のことらしい。截がそこを向くと、電灯が切れ闇が空間を支配していた。この巨大な常世国の中を、しかも電気が消え道筋も分からない区域の中を、案内もなしに鬼を避けながら進むことは確かに至難の技だ。無事に詰め所まで辿り着くために唐沢の存在が必要不可欠なのは間違いなかった。
「あごぉぉがぁあっ――……!」
喚き声が響く。ぎょっとして全員がその方向を見ると、地下一階の床の上で先ほどの警備員がのた打ち回っていた。
「時間か……彼が完全にサボテン人間化すれば、恐らく彼女は新たな怪我人を求めて探索を始めるはずだ。さっき彼から聞いた話だと、怪我人が居ない場合でも自ら攻撃してそれを強制的に作るらしい。行くなら今だぞ」
唐沢の言葉を背景に男の体から無数の棘が突き出る。それが完全に全身を取り巻くと、倉庫街に静寂が戻った。
「あの貴婦人みたいなのを殺せば、あなたも協力してくれるのね?」
ゆっくりと貴婦人の巣に戻っていく元山田、ボテン人間を眺めながら千秋が尋ねる。唐沢は何かを考えるような顔で千秋を見た。
「私もイミュニティーの人間よ。感染者との戦闘経験もある。それに、どう考えてもいつ鬼と遭遇するか分からないあそこの暗い道を進むより、怪我人しか襲わない貴婦人と戦う方が楽だわ。いいでしょ?」
「手伝うってことか?」
唐沢は確認するように聞き返した。その様子を見ていた截は、何か唐沢が最初から話をこの方向に持ってこようとしていたような気がした。山田の話が正しければ、現在戦闘可能な人間は唐沢ただ一人だ。いくらイミュニティーの隊員だろうと一人で貴婦人を殺すことには無理がある。怪我人を優先的に襲うと言う事実も、それは貴婦人自身に何の危害も加えていない場合での話だ。もし唐沢が既に貴婦人に何かしらの危害を加えた後ならば、きっと彼女は唐沢を優先的に攻撃するだろう。それを紛らわすために、新たな壁を用意するために自分たちを巻き込んだ。截はそんな予感を感じていた。
「何故今のような状況になったんです?」
突発的にそんな質問をぶつける。
「今の状況……というと?」
横からいきなり発せられた質問に戸惑ったのか、唐沢はこちらの意図が分からないというような目を向けた。
「あの怪物が怪我人だけを襲うのなら、警備員たちにここまでの被害は出なかったはずです。それが何故あなた一人だけになるまで追い詰められたのですか?」
「……同僚の一人がヘマしてね。自分の太股にナイフを付きたててしまったんだ。パーティー会場の壁の穴を見ただろ。あれはその同僚が彼女の体当たりを食らった時に出来たものだ。こちら側に吹き飛んだ彼を救おうとして多くの仲間が傷を負い、彼女の配下となってしまった」
「あなたも傷を?」
唐沢が怪我をしているのなら、自分たちを利用する必要性に拍車が掛かる。截は問い詰めるように聞いた。
「俺に怪我はないよ。運が良かったらしくてね。――どうやら君は俺に疑いを持っているようだな。君もこちら側の人間なのか?」
今度は唐沢が鋭い視線を截に飛ばす。
どうせこれから行動を共にするのなら、自分の正体を隠し切ることは不可能だ。截は今後のことや戦闘時の協力を安易にするためにも所属を明かした。
「僕は黒服です。六角代表の保護のためにここに侵入しました。あの方とは個人的な関係がありまして、直接の依頼を受けたんです」
それを聞いた唐沢は驚いたような顔をした。
「ナグルファルか。随分と早いな。どうやってこの常世国に入った?」
「事件後に入ったわけではありませんよ。別件で呼ばれていたところ、偶々(たまたま)この事件に遭遇したんです。尽いていないことにね」
六角が黒服を雇ったかどうかなんて全く知らないが、そういう可能性もありえるはずだ。まして今は二日前に黒服がディエス・イレを壊滅させているという情報があるのだから。
この言葉に亜紀や千秋も表情を変えた。千秋は安堵するような顔を、亜紀は怖がるような顔を、それぞれ浮かべる。亜紀にとって六角行成は悟を、庄平を、小宮を、自分の友人である優子を殺した元凶と言っても過言ではない。そんな人間と親しいという截に親しみを持つことなど出来なかった。先ほど彼が見捨てた山田のこともあり敵意のある目を向ける。無意識のうちに片手を自分の喉に当てていた。
唐沢は完全には信じていなかったようだが、取り合えず納得の素振りを見せた。
「そうか。道理で立ち振る舞いに余裕があるわけだ。君がキツネか?」
「え?」
何故ここでキツネの名が出てくるのか分からない。截は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
それを訝しげに唐沢が見る。
「――まあいい。黒服ならばかなりの戦力になる。俺と取引しないか?」
「取引?」
「そうだ。俺は君の任務にも目的にも興味は無い。ただ彼女を止めることさえ出来ればそれでいい。もし君が協力してくれるのなら、無事に君たちを詰め所まで案内してやろう。勿論望むならその後もな。どうだ?」
願ってもない話だ。元々それ以外に方法はない。唐沢が貴婦人を殺したいのは本当のようだし、自分を黒服と分かっている上で協力を申し立てるのなら、盾や囮として利用される可能性も低いだろう。それに上手く行けば、生存者の一人として地下に潜入することにも繋がる。彼の物言いが多少引っ掛かるものの、截は素直にそれに応じた。
「分かりました。それでいいです。ただし、彼女たちの安全を第一優先事項として下さい」
亜紀たちの方向を指差す。
唐沢は六角を助けに来たはずの截が何故そんなことを言うのか分からないようだったが、口には出さずそれを了承した。
「黒服のわりに随分と優しいんだな。まあ、いいだろう。取引成立だ」
ニッと笑い前歯を覗かせる。
截は無表情でそれを見ると、視線を下へ、貴婦人の巣へと向けた。
腕に刺さる針が痛い。
うじゃうじゃと充満しているサボテン人間たちの真っ只中で、住岡は震える体を縮込まらせていた。
ダンボールや金属製の棚が並ぶ部屋は、本来ならば真っ白に塗装されているはずだった。だが、今はどこを見てもサボテン人間の皮膚が目に付き茶色にしか見えない。
あの時、唐沢を攻撃しようとして自らの足にナイフを突き立てた直後。
貴婦人が血の臭いに引き付けられ目の前に現われた。
気がついた時には強烈な痛みが腹に生じ、背中を壁にめり込ませながら倉庫街の中へと吹き飛んでいた。自分を助けようとしてこちら側にきた警備員たちがやられている隙をついて逃げたものの、結局は感染した彼らの手によって拘束され、こうしてこの一室に連れてこられてしまった。
先ほど自分と同様にここに捕まっていた男の一人が逃げ出したが、どうやらあっさりやられてしまったようだ。丁度今、彼は扉の方から変わり果てた姿で戻ってきている。
「ポォオォォオ……」
その背後には貴婦人が立ち、白衣の天使のような笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「つ、次は俺かよ……!」
体に力を入れるも、左右にいるサボテン人間が腕を掴んでいるため動くことが出来ない。貴婦人の視線に合わせるように、部屋の中に密集していたサボテン人間たちが一斉にこちらを向いた。
「くそぉおお!」
膝で強く隣の一体を蹴るも、殆ど効果は無い。ただ足元をふらつかせるだけで終わる。
目の前に影が差し彼女が足を止めた。ゆっくりと顔を上げると、頬と腹に手の当たる柔らかい感触がした。
彼女の優しい目と視線が交差する。
住岡は自分の体が熱く火照っていくのを感じた。内側から熱を持った根が蔓延るような、体の中で別の血管が生まれたようなそんな感覚。
いつの間にか腹部の痛みは消え、口元に垂れていた血もなくなっていた。
彼女が手を離す。住岡は自分が「治療」されたのだと理解した。
これでもう終わり。もうどうにもならない。
物凄い恐怖が沸き起こってくる。
いきなり殺されるのとは違う、数分間の執行猶予がある恐怖。
サボテン人間たちからの拘束が解けた住岡は、震える手で自分のナイフを抜き取った。
頭の中を一つの感情が満たす。
怖い。
怖い。
怖い。
一人は嫌だ。
このまま自分だけで死ぬことが怖くて堪らない。
――唐沢……
同僚がまだ外に居たことを思い出す。自分や警備員たちがやられていく中、たった一人上手く立ち回り貴婦人の攻撃を回避していた男。
住岡は彼を巻き込もうと思った。彼が貴婦人に治療されれば、自分は一人じゃない。同じ運命を辿るである彼を残して、勇気を持って死ぬことが出来る。
いや、別に唐沢である必要はない。
警備員でも、生存者でも……誰かが居てさえくれればこの恐怖から逃れることが出来る。
ふらふらと歩き出した住岡は扉の前まで来ると、上方、一階に立っている女性を見つけた。
艶やかな黒髪。くっきりとした大きな目。か弱そうな細い体。
――あの子なら、俺の手でも傷を与えられるかもしれない。
血走った目でその女性を眺めると、視線を彼女に固定し、真っ直ぐに走り出した。
その顔に迷いはなく、寧ろ喜びに溢れたものだった。
この章は展開が気に食わないため、五回ほど書き直しました。
疲れた……。