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<第四章>かくれんぼ




 目を瞑り意識を深い闇の中に沈ませると、六角行成の瞼の裏におぼろげな映像が浮かんだ。

 暗い暗い通路。見た目からしてこの常世国の地下にある古い水路だろうか。得体の知れない物体があるということで調査隊が送られたという話を聞いた記憶がある。

 不意に足音が聞こえた。

 カメラのレンズを移動させるようにそちらを向くと、紺色の服を着た数人の男たちが走ってきたところだった。

 しばらく進むと、彼らは水路の通路と、中心に流れる水の中に数体の人間の死体を見つけた。残念そうに顔を伏せる。

 六角はその死体たちが調査隊のものであることをすぐに見抜いた。どうやらこの隊員たちは戻らぬ調査隊の安否と、脱出ルートの確認をかねてここにやってきたようだ。無線機で連絡を終えた彼らはそのまま先へと歩みを続けた。

 地震というのだろうか。急に大地が、周囲の万物全てが震えた。

 足元をふらつかせどよめく彼らを他所よそに、水中が大きく盛り上がる。その水の山は咆哮のような声をあげると、水路を覆い尽くすような巨体となり彼らを飲み込んだ。

 波が収まった後、紺色の服を着た男たちの姿は完全に消え、残ったのはただ赤く染まった水路の水だけだった。

 六角は目を開けた。

「あ、もうお目覚めになられたのですか?」

 部屋で待機していた秘書の女性が椅子に座ったまま声をかける。だが、六角は彼女の言葉を無視し、ぶっきらぼうに尋ねた。

「地下水路の調査隊とやらはどうなっている?」

 いきなり「クワッ!」と目を見開いたと思ったら、場違いな質問をされ、秘書はたじろいだ。

「え……調査隊ですか?」

「そうだ。もう戻ったのか?」

「いえ、派遣したっきり帰ってきていません。こちらも騒動でごたごたしていましたから、彼らのことを気にしている暇もありませんでしたし……万が一のために先ほど警備主任の中崎が救援部隊を送ろうかと話していましたが……」

「止めさせろ。送るだけ無駄だ。どうせ全滅する」

「え、どういうことですか?」

「地下に巨大な感染生物が居る。ディエス・イレが放ったのだろう。万が一僕たちがあそこから逃げれば、奴のエサになってしまう」

 六角が超感覚者であることを知っている人間はごく僅かだったが、この女性は秘書ということもあり、そのことを理解していた。

「――分かりました。中崎に中止するように指示してきます」

 そう言って部屋から立ち去ろうとする。

「あ、待ちたまえ」

「何でしょう?」

「例の増援部隊の方はどうなっている? もうこの常世国に向っているのか」

「はい。先ほど編成を終え、出発したそうです」

「どんな奴らなんだ? 頼りになるのか」

「心配ありません。多くの実績を持った者や、六ヶ月前の水憐島事件で生き残り、横谷晶子の暴走を食い止めた隊員が居ます」

「横谷晶子……ああ、あのお嬢さんを殺したという男か。名前は何だったかな?」

 自分の元腹心であり、先代代表の娘。水憐島事件の犯人。そんな彼女を倒した男ということで、六角は興味を引いた。秘書は淡々とした口調で答えた。

国鳥友こくどりゆうという男です」










 目の前の死体が、いや、正確には怪我人でありまだ生きているのだが、とにかく殆ど死んだといっても違いの無いほどの大怪我をしていた男が、立ち上がった。

 テーブルや椅子、移動式のキャビンで形作られたバリケードの裏。そこから彼の様子を見た唐沢は舌打ちした。

「くそ、また一人『治療』されたか」

 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、頭を抱える。

「唐沢、もう駄目だ。対策本部に助けを求めるべきだ」

 同じようにバリケードの裏に隠れていた住岡が諦めたようにそう言った。

「呼んでどうする? さっきの二の舞になるだけだ」

 地下から脱走した研究体を捕獲するためにこのパーティー会場へと集めた殆どの警備員は、既に死亡していた。バリケードを作り、いざ研究体を迎え撃とうとしたとき、鬼の襲撃を受けたのだ。パーティー会場の出入口は封鎖していたにも関わらず、髑髏のような姿をした鬼が扉を引き千切り侵入し、それをきっかけに多くの鬼が入ってきた。研究体がここに到着したときにはもう殆どの警備員が大怪我を負い、とても戦えるような状態ではなかった。

 今はその鬼たちも研究体の発する強烈な気配に気圧され、とっくに姿を消しているのだが、鬼たちに「怪我」を負わされたという事実が最大の危機を招いていた。何故ならば、その研究体は怪我の「治療」をすることで力を発揮するのだから。

 唐沢は言葉を続ける。

「それに、下の連中も脱出のことで頭がいっぱいのはずだ。俺たちや「彼女」に構っている暇なんて無いだろ」

「だ、だけど……俺たちだけでどうやってあれを止めるんだよ。もうどうしようもないだろ? いっそ俺たちも下に逃げようぜ」

「それは不味い。彼女が出てきた穴をつたって多くの鬼が下に行った。ここから降りればその鬼たちに食い殺されることは目に見えているし、何よりも彼女をこのまま放っておけば『感染者』が増える。常世国の中にはまだ無数の怪我人がいるだろうからな」

「でもよ……」

「彼女の近くにいることで俺たちは鬼の襲撃から逃れているんだぞ? 離れれば鬼は喜んで襲ってくるはずだ」

「じゃあ、ずっとこうしているのかよ。どっちにしろあれは『治療』するために怪我人を探してここから出るはずだ。いちいちその後に着いていくのか?」

 かなり混乱しているようだ。住岡は自分の頭を血が出そうなくらい強く掻きむしった。

「一番良いのは鬼がこの会場へ来る事を食い止めた上で、彼女を閉じ込めることだ。最悪の場合は殺すという選択肢もある。まあ、その場合は俺らの身も鬼の危険に侵されることになるだろうけどな」

「殺す? 俺たちのこれまでの研究を無駄にする気かよ!」

「良く考えろ。実験のデータは全て残っているんだ。被験者さえいれば何度でも彼女を作り出すことが出来る。大体このまま彼女による感染者が増えれば、研究事態が出来なくなる危険があるんだぞ」

 それこそが自分たちの全てを無駄にする。これまでの研究も、献体となってくれた彼女の意思も。

唐沢は六角や上の人間が彼女を「危険物」だと判断する前にこの状況を終わらせる必要があった。

「誰か……彼女を倒せるくらい強力な人間が居ればいいんだが……」

 集めた警備員や増援に駆けつけたイミュニティーの隊員の多くは死亡したか、既に彼女によって「治療」を受け感染してしまっている。生き残った者たちも自分のように隠れているか、下に逃げていってしまった。これ以上被害を出さないためにも、研究を無駄にしないためにも、唐沢は怪物退治のスペシャリストが必要だと感じていた。

「お、俺は反対だ……! あいつを殺せるわけねえし、ここに鬼が来ないようにするのだって不可能だろ? 殺した瞬間、外や下から鬼が現われる……」

「そうだな……でも、俺たちには彼女を作った責任がある。彼女の存在を後世に残すためなら、俺は鬼に食い殺されることになっても構わない。ここの封鎖が無理なようだったら、潔く彼女を殺して俺も死ぬさ」

 迷いの無い目で唐沢は言った。

「い、嫌だ……俺は死にたくない。そんなのごめんだ。絶対にやらせないぞ……!」

 住岡は下に転がっていた隊員の死体からナイフを奪い取った。

「おいおい、何をする気だ?」

 あまりにも馬鹿な彼の行動に唐沢は呆れた表情を浮かべる。

「お、お前を傷つければあいつはここにやってくる。そうすれば、お前ももう隠れるなんて真似は出来なくなるはずだ」

「それで俺が下に逃げるとでも思っているのか? 確かに俺に引かれて彼女も着いてくるし、それで鬼は近付かないだろうが……例えどんな怪我を負わされようと、俺は研究を無駄にするような真似はしないよ」

「だ、黙れ!」

 住岡はナイフを両手で握りしめた。

「やりたければ勝手にしろ。どっちみち俺は死ぬ気でこの事態を収めるつもりだったんだ。俺を傷つけて気が済むのならどうぞご自由に」

 両手を左右に広げ、唐沢は挑発する。

 住岡は混乱しているのか、パニックに陥っているのか、奇声をあげると真っ直ぐにナイフを突き出してきた。

「うぁぁぁぁあああああ!」

 唐沢はそれを半身にかわすと住岡の背を強く押し、壁に叩き付けた。「ドン」という音と共に、住岡の胸が壁に密着する。

「俺が元々イミュニティーの隊員だったことは知っているだろ。アホな真似はするな」

 耳元で唐沢が呟く。住岡は悔しそうにギリギリと歯軋りしていたが、不意に何かに気がつき、絶叫をあげた。

「あっ――ぁぁあああっ、そんな! 待ってくれよ、なんだよぉお!」

 唐沢が彼の体から腕を放すと、壁に押し付けられた時に刺さったのか、住岡の太股からはどくどくと血が流れ、そこにナイフが垂直に立っていた。

「――やっちまったな……!」

 冷や汗を流し、唐沢がそう呟いたとき、二人の隠れていたバリケードの前に大きな影が刺した。

 それは優しい微笑みを浮かべながら住岡を見つめると、盛大な、オーケストラーのような響く声で高らかに鳴いた。

「ホロォォォォー!」









「うっ――!?」

 強い脅威の存在を感じ、截はひたいを抑えた。

 今この瞬間、何かが物凄く喜んだような感じを覚える。

「どうした?」

 長島が急に足を止めた截に不思議そうな目を向ける。截は手を離し、顔を上げるとなんでもなさそうに答えた。

「ちょっと……眩暈がしただけです。大丈夫」

「そうか、気分が悪かったら言ってくれよ。このオッサンが優しく介抱してやるぞ」

「それなら彼女たちにしてもらいたいですね」

 軽く笑いながら、截は前を歩く三人の女性の方を見た。

 亜紀、千秋、夏は楽しそうにとは言わないまでも、同じ境遇にあったためかかなり心を開いたように仲良くしている。

「オッサンの懐の暖かさを舐めるなよ。俺の胸は安心するって女の子たちに評判なんだ」

「男に評判があるんだったら今すぐにここから離れさせてもらいますよ」

 目を前に戻すと溜息混じりに截はそう言った。長島はがっはははと笑いながら歩き出す。この天井通路の真下では無数の鬼たちが呻き声を上げ物欲しそうにこちらを見上げているというのに、随分元気なものだと截は内心彼の図太さを褒めた。

 自分が始めてこういった事件に巻き込まれたときはあんなに余裕がなかったなどと思いながら、先ほど感じた感覚について考える。

 ――鬼とは違う感じだった。また大きな何かがいるのか……。あいつらと戦うとろくなことが無い。出来るだけ会いたくはないな。

 普通の人間は声や視界に感染者を入れなければ、それ程の恐怖を感じることはない。だが、超感覚者である截は例え聞かなくても、見なくてもその脅威を常に認知し続けるのだ。感じる危機感と圧力に精神力を削がれながら、截はなるべく今感じた感覚の主に会わずに済む事を祈った。

「しかし、すごい数ね。もう生きている人は私たちだけなんじゃない?」

 UFOキャッチャーの景品のように五メートルほど下にひしく鬼たちを眺め、千秋はそう呟いた。

 「憩いの広場」から天井裏にある作業用の通路を渡り非常用扉をくぐる事で、こうして鬼たちの攻撃を受けることなく隣の区域、食品売り場へと移動することが出来た。だが、ここには飲食に関係する商品が無数にあるということでかなりの数の鬼が集まってしまっていた。

「それで、どうやってその警備員たちが居る場所に行けるの?」

 千秋は先ほど自分がイミュニティーの人間であることをばらしていた。截と亜紀以外はそれを国務に関係する何らかの職員なんだろうと判断し、彼女が居れば無事に警備員の詰め所に保護してもらえるのだと受け止めていた。だから夏は当然彼女ならここの構造も知り尽くしていると思い、そう聞いた。

 千秋自身は常世国に来るのは初めてではなかったものの、ここに駐在しているわけでも、ここで働いているわけでもないため、内部に関する知識は一般客に毛が生えた程度しかない。夏の頼り切ったような視線に困ったような顔をし、おぼろげな記憶の中から出来るだけの情報を引き出し、答えた。

「このまま食品区域を通り過ぎれば生活用品区域に出て、そこを進めば第三出口に着くはず。でも出口は塞がっているだろうから、警備の人たちと合流するにはこの区域の端にあるパーティー会場に出るしかないわね。確か、会場から地下へ続く非常階段があるの」

「パーティー会場?」

 何故そんなものが食品区域にあるというのだろうか。夏は怪訝そうな表情を浮かべた。

「新製品の試食会や、マスコミに対する会見を開くのに使用するらしいわ。出入口からも近いし、けっこう立地としては良いみたい。まあ、そういった場合以外には滅多に使用されないらしいんだけどね」

 千秋は前にイミュニティーの関係で来た時に受けた話をそのまま伝えた。本人としてはそんな人目につく場所に地下研究所への道を堂々と作ってもいいのかと思っていたが、実際は直に研究所に繋がっているわけではなく、職員たちの管理区画へと続いているだけだった。研究所へ行くにはそのまま管理区画からさらに別の隠し通路を通る必要があり、セキュリティーは万全なのだが、下まで降りてはいない千秋にそのことは分からなかった。

 道の先に折り畳み式の梯子が見える。

 亜紀たちと一緒にこの天井通路まで逃げた男、麻生雄二あそうゆうじは重大な事実に気がついたようにそれを指差した。

「通路が終わっているぞ! こ、これじゃあ、これから先は下に降りるしかない……!」

「静かに、鬼に気づかれるわ」

 騒ぎかけた麻生を後ろに引っ張り千秋は身を屈める。その直後、梯子の先、生肉が並ぶ陳列棚の奥から赤灰色の塊が頭を覗かせた。声を聞きつけたのか、探るようにしばらくそこから周囲を見渡す。千秋たちは床の上ではなく天井真近の非常用通路の上にいるため、場所までは特定されていないようだ。しばらくうろつくとその姿は奥に消えた。

 自分の白いズボンをぎゅっと掴み、亜紀は不安そうな目を截に向ける。無言の視線が来る度に「バレたのか?」とヒヤヒヤしつつ、截は亜紀と千秋の隣に並んだ。

「どうする?」

 截の顔を見て千秋がすぐに尋ねる。信用したからか敬語をやめ、かなり親しげだった。

「あの鬼だらけのホールに戻るわけにもいかないし、ここを進むしかないと思いますよ」

「でも、鬼たちはどうするの? 下に降りて歩けばあっと言う間に囲まれるわよ」

 鬼の危険度は尋常ではない。一体何体の鬼がいるのかも分からない以上、千秋はあまり降りることに乗る気にはなれなかった。

 降りるという言葉を聞き、背後に伏せていた麻生がヒステリックに叫ぶ。

「はぁ、降りる!? ざけんなよ、俺はごめんだ!」

 截はそれを完全に無視し、話を続けた。

「奴らの数は大体五匹ってところですね。うまく立ち回れば一匹とも会わずに向こうの両扉まで行けるはずです」

「五匹? 何でそんなことが分かるの」

「黒服でつちかった勘ですよ。信用して下さい」

 それ以上聞いても教えてくれそうにはない。千秋は截が鬼の数を見極めた理由の詮索を諦め、話を続けた。

「確かに戻っても行き止まりだし、他に道もないけど……到底上手く行くとは思えないわよ。どうやって五匹の鬼をかわす気?」

 折角パーティー会場につけても鬼に追われていては意味が無い。走る速度も圧倒的に向こうの方が速いし、何よりパーティー会場から地下へ続く道に鍵が掛かっていれば、出入口を鬼に塞がれる格好となってしまう。安全に、確実にイミュニティーの詰め所に辿り着きその保護を受けるためには、鬼の注意が自分たちに向いていないことが必要不可欠だった。

「そうですね……考えられるとすれば、要所要所で鬼の注意を逸らすってことですか。物音や囮を使って」

「それってかなり難しいと思うけど」

 千秋は顔をしかめた。困難な行動に困っているというよりは鬼が居る場所の中に入りたくないようだ。その躊躇ぶりから截は何故彼女が亜紀の護衛をやらされているのか理解した。

 バイオハザード時においてもっとも重要となる力は生存力。細かく分ければ、判断力、決断力、分析力、対処力、応用力などのことだ。危機迫る場所でじっくりと物事を考えている暇なんて無い以上、出来るだけ短時間で正しい、有効性のある判断を下せる者が長く生き残ることが出来る。千秋は今咄嗟に答えを出すことが出来なかった。もし感染者を目の前にした状態でこんな行動をとれば、彼女はすぐに大怪我を負うか死ぬ事になるだろう。事実、水憐島事件で起こした判断ミスにより彼女は任務続行不可能になるほどの傷を受けていたのだが、截はそんなことは知らない。

「とにかく、進むしかないんだ。あなた方が賛同しないなら俺は一人でもやる。さがって下さい」

 勿論截にそんな気はない。亜紀を助けるためにここに残り、こうして行動を共にしているのだから。イミュニティーの隊員なら黒服の実力も知っているはずだ。自分の判断力と戦力を失う事の損を千秋なら分かると思い、截はそう言った。

「わ、分かったわよ。ちょっとまって――!」

 案の定、千秋は截の腕を掴み引き止めた。

「本当に出来るんでしょうね」

「出来る出来ないじゃなく、やらないと死ぬんです。あなたもイミュニティーの隊員なら甘えたこと言っていないで、自分の力でここから出ることを考えてください」

 ――まるで俺が昔キツネに言われた言葉そのままだな。

 思い出したくない顔が浮かび、陰鬱な気持ちになりながらも截は千秋から目を逸らした。当然、その横に居た亜紀の方へと顔が向く。

 今の言葉を聞いたからだろうか。亜紀は眉を寄せ、何かを怪しむような、疑問に思っているような、そんな顔を截に向けた。少し茶色っぽい目を大きく開いて、まじまじと見つめてくる。

 ――この人……よく見ると悟くんに似てる?

 ようやく気がついたのか心の中でそう呟き、不審者を見るように怪訝そうな表情を浮かべる。

 見つめられていることと後ろめたさから動揺し、截は梯子の方へと体ごと向きを変えた。

 そんな截に後ろの方に居た長島が声をかける。

「降りるならさっさと降りよう。こんな狭いところに六人もいちゃ、暑苦しくて堪らない。俺としてはこうしてじっとしている方が何だか怖くて落ち着かないぞ」

 逃げていれば逃げているという実感がある。長島は一定位置に留まっている事で、いつ鬼が自分たちに襲い掛かってくるかも分からないといった恐怖を感じていた。

「そうですね……それじゃ、行きましょう」

 気を持ち直し、截は真剣な表情を浮かべる。

 今は動揺なんかしている時ではない。亜紀の命が、ここにいる五人の命がかかっている。まともに感染者と戦えるのが自分しかいない以上、心の乱れはすぐに死に繋がる。そう、自分に言い聞かせた。

 感覚を活かし鬼の存在を確かめながら、一歩一歩慎重に梯子を降りる。かなり古い梯子なのか、足を乗せる度にギシギシと地味にうるさい音を響かせた。

 截が降りると順に、千秋、亜紀、夏、麻生、長島と続く。全員が完全に床の上に足を着けたのを確認し、截は腰を落として歩き出した。

 ここからパーティー会場へと続いている両面扉までは、丁度食品売り場を横断し左斜め前に直進する必要がある。だが、中央付近からは二体の鬼の気配を感じていたため、敢えて截は右側から壁沿いに進むことを選んだ。

 心細かったからか、不安だからか。小走りで移動すると、夏は截のレインコートの腕の部分を掴み、強く握りしめた。截は最初こそ躊躇ったが、それで気が紛れるならばと何も言わずそれを認める。何となく亜紀の視線を気にしつつも、慎重に歩行を続けた。

 緊張からか、恐怖からか。どくどくと心臓の音が耳に伝わる。

 これほどの恐怖を感じたのはいつ以来だろうか。

 とっくに自分の中から消えていたと思っていた気持ちの再来に戸惑う。

 何故これほど怖いのか分からない。

 これまでにも危険な目には何度も遭った。何度も死に掛けたし、大怪我も負った。でも、こんな気分になったことはない。

 仲間が居ないからだろうか。

 自分の責任が大きいからだろうか。

 いや、そんなことは関係ない。理由は一つしかない。

 亜紀だ。

 彼女が居ることで、彼女の身が危険にさらされていることで、それを失うことに対する恐怖が沸き起こる。

 幸せとは言わないまでも、彼女の身は保障されていた。安全だと分かっていた。

 だから、既に手を血に染め、いつ死んでも構わないとまで己の運命を覚悟していたのに、それが彼女がこの場所に出現したことで揺らいでしまった。

 このメンバーで自分が死ねば、ほぼ確実に他の人間も死ぬことになる。鬼に食われる、感染することになる。

 だから死ぬわけにはいかない、守らなければならないと、その責任が、自分の身と亜紀の身に対する役目が、まるで一般人だったときのように大きな恐怖を感じさせていた。

 鬼の気配を北西の方角に感じ、截は足を止めた。合わせるように後ろの面々もじっとする。

「左斜め前に鬼が一体居ます。僕が注意を引いて右に移動させるので、その隙に進んで下さい」

「分かった」

 千秋は小さく頷くと、様子を伺うように身を屈めた。

 今彼らが居る場所は丁度生鮮食品が並ぶ陳列棚の前。截が鬼の存在を察知した場所はこの食品売り場の北の右端、その一歩手前に位置する。鬼を右に動かせば北の左端にある両面扉まで一気にいけるはずだ。

 ――問題は、気づかれたら終わりということか。

 追ってこられても、逃げ先である両面扉を特定されてもこちらの負けだ。もし見つかれば全滅するしかない。無事にパーティー会場まで行くには「認知」されずに鬼の注意を引きつける必要があった。

 正確に言えば気づかれずに、かつ追われずにことを成し遂げる方法はもう一つある。鬼を物音を立てないで各個撃破すればいいのだ。

 だが、それは無理な手だと截には分かっていた。

 あの鬼の知能は人間ほどとは言わないまでも、純イグマ細胞感染者よりは遥かに高い。戦闘可能な仲間が居るのならまだしも、たった一人で手際よく鬼を殺せる自信など截には無かった。

 千秋たちを左へ移動させ飲料水が収納された棚と棚の間に隠す。そして自分だけはそのままその場所に留まり、手に付近に設置されていた台から取ったキャベツを握った。

 ――上手く引っ掛かってくれよ。

 そう願いながら滑らせるようにキャベツを転がす。それは歪な回転を描きながら食品振り場の最北端の壁に当たると、「コツン」という音を僅かに鳴らした。

 この場所からでは鬼の様子は分からない。音に気がついていればこの先に姿を見せるはずだ。

 截はキャベツ台の裏に伏せながら鬼が現われることを願った。

「ザァァアァアァ……」

 波のような声が聞こえる。どうやら注意を引きつけることに成功したらしい。その声は段々と近づいてきた。

 何故か千秋たちの方へと。

 ――何でこっちに来る!?

 千秋は下唇を噛んだ。

 どういうわけか真っ直ぐに右に移動するはずだった鬼がカーブを描き、食品売り場の南方向、自分たちが潜んでいる場所へと向ってきたのだ。

「くそっ……!」

 身振りで後ろの四人に下がるように指示を出し、自分も一歩一歩その場から離れようとする。だが、それを後ろから亜紀が止めた。

 「待って」と言うように肩を押さえる。

 鬼は千秋たちが隠れているワンスペース前、十字路のようになっている別の棚の間を曲がると、截が居るキャベツ台の方へと進んだ。

 ――転がったキャベツじゃなくて、転がった元である台の方が気になったのか。何てうざったい……!

 中途半端に頭がいい鬼の動きに怒りを覚えながらも、千秋は後ろを振り返った。

「行くわよ」

 辛うじて聞こえるような声でそう言う。

 まるで鼠のように、斜めに歩行する蟹のように、千秋たちは左へと歩き出した。

「ザアァアァアア――」

 鬼の吐息が真後ろで聞こえる。

 截は鬼の存在を感じてすぐに北に進み、キャベツ台から離れ先ほど鬼を誘導する予定だった位置へと逃げていた。

「あ、あぶねぇ……」

 危機一発のタイミングで姿を隠したため、ほっと自分の胸を撫で下ろす。

 誰かが転がしたというまでの考えには至らないのか、鬼は不思議そうにキャベツを手の中で転がした。

 その隙に截は千秋たちと合流するため左へと進む。もう両面扉まではすぐだ。自分の直線上に鬼の姿は無いし、残り四体の鬼も左端に二体と、中央に二体いるだけ。無事にここから出れる。そう思ったときだった。

「あっ――!」

 一つの不安が頭を過ぎる。

 確かに元々の予定通りなら、千秋たちは両面扉まで簡単に行けた。だが、鬼がキャベツ台へと向ったため、本来ならばその鬼が通ってきた道を進むはずだった千秋たちは、鬼を避けるために真っ直ぐに中央付近へと進んでしまった可能性が高い。もしそうなら二体の鬼と鉢合わせすることになる。

 事前にある程度の鬼の位置は感覚で知り、千秋に教えているものの、まだ未熟な彼女のことだ。恐怖でそれを忘れてしまっているということも十分にありえる。

 截は肌寒いものを感じ、音が響かない出来る限りの速度で走った。

 自分に向って列をなすように横に広がった棚々の隙間に、焦りの色が浮かんだ目を走らせる。しかし亜紀や千秋たちの姿は見えない。

 ――どこに行ったんだ?

 截は嫌な予感をヒシヒシと感じながら、機械的な作業のように次から次へと棚の合間を覗いた。

 もし鬼に襲われたのなら悲鳴や物音が聞こえるはず。それが無い間は無事である証拠だ。鬼よりも先に彼女たちを見つける必要がある。

 前方に両面扉が見えてくる。とうとう食品売り場の左端まで来てしまったらしい。截は足の速度を落とした。再び左斜め前の方向、丁度食品売り場の中央から見て真西の方角に鬼の存在を感じる。二体いるはずだったそれは、何故か一体だけに減っていた。

 もう一体が別の場所へと移動したことを知った截は、さらに焦りを募らせた。

 付近にから感じる鬼はこの左斜め前の一体のみ、ということは先ほどやり過ごした鬼も含めて最悪中央には四体もの鬼が集まる可能がある。そうなればいくら千秋だろうと身を隠し続けることは不可能だ。

「仕方が無い――か……」

 こうなれば一刻の猶予も無い。截は亜紀や他の生存者を守るために、鬼に自らの身を晒し注意を引きつける覚悟を決めた。

 正直とても生き残れる気はしなかったが、それで亜紀たちに向く鬼が居なくなるのなら上々だろう。どっち道このままでは彼女たちは見つかる。この先はパーティー会場、イミュニティーの施設へと繋がる道。運がよければそのまま助かる可能性も無くはない。

 腰に納めていた二本のナイフを引き抜いた。「ギィーン」という金属音が鳴る。

 ――行くぞ――……!

 そう、走り出そうとした時だった。

 後方、南西から微かな足音が聞こえた。鬼にしては数が多い。截がそちらに目を馳せると、緊張しきったような顔をした千秋たちが駆けて来るところだった。

 「無事だったか」そう声をかけようとしたとき、彼女たちの背後に赤灰色の影を二体見つけた。唾液をあちらこちらに飛ばしながら棚を押し倒し、猛然と突き進んでくる。

「ザァァアァアァアアー!」

 どうやら上手く隠れていたものの結局千秋たちは見つかったらしい。せめてもの救いは見つかった場所が鬼に囲まれた状況でなかったことだろう。何とか千秋たちは両面扉の方へと進む事が出来たようだ。

 だが、こうなると自分たちの取れる選択肢は僅かしか無くなってしまった。もはやパーティー会場から研究所へと続く道が開いていることにかけるしかない。

 截は両面扉を開け放つと彼らを先に通し、その後に続いた。

 一メートルほど背後を鬼の爪がかすめる。

 感覚から知るに、パーティー会場には感染者は居ないようだ。少なくとも、「自分に危機をもたらす者」が居れば截には分かる。

 そう確かに、「危機をもたらす状況」ならば――

 その道の先に待ち受ける未知の存在を、このときの截が知る術は無かった。






截が包帯で自分の正体を隠すことは、何か無理やり感が強いような気がします。もしかしたら、今後書き直すかもしれません。

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