<第三十一章>尋獄(しんごく)・後編
暗闇と太陽の赤い光が交差する中、街の中心部から、無数の火の手が上がっている。
戦うことも忘れてその光景に見入っていた截は、しばらくして、それが起きているのは中心部だけではないと気がついた。そこよりもさらに奥のほうや、右側のオフィス街。左側のショッピング街など、ほぼ見える範囲全ての場所から黒煙が上がり、悲鳴が聞こえ始めている。これはもはや、第三の都心とすら謳われているこの洗泉橋全域で同様の事態が起きているとしか思えなかった。
「何なんだ? 六角は何がしたいんだ……!?」
これまでに得た知識をまとめると、彼と白居が成し遂げたかったことは、まったく新しい情報体系を確立することだったはずだ。超感覚者の情報伝達メカニズムの構築と、イグマ細胞によるその実現。それが目的だったはずだ。なのにこれではまるで東郷とやっていることが何もかわらない。感覚が伝えてくる反応は明らかにイグマ細胞の脅威。何故わざわざ大人数の黒服を雇い、かつてないほど大規模なバイオハザードを起こしたのか、截には理解ができなかった。
「オル・オウン計画は、この国全土の人間を巻き込む大計画だ。かわいそうなモルモットをいくら使っても、それはあくまで限られたスペース、人数が相手の成功で、実際の計画を実行するためのサンプルにはならない。人数が多ければ多いほど結果は変わるものだからな。やつらは、日本で三番目に人口の多いこの街で、計画を成し遂げるための練習を始めたんだろう。この洗泉橋でリハーサルした結果を元に、チューニングを行い、本番での成功を完全なものにしようとしているんだろうな」
「そのためにバイオハザードだっていうのか? 意味がわからない。何で感覚ネットワークを形成するのにこんなことをする必要があるんだ?」
核心を知っていそうなキツネの物言いに、截は不安と疑問をぶつけた。
「簡単な話だ。その感覚ネットワークを人々に強制的に移植し、構成するための存在。それが、『イグマ細胞』だからだ」
「何……だって……!?」
「勿論、人間を完全な感染者にしてしまっては意味がない。奴らはあくまで人間としての新しい情報伝達体系を生み出そうとしていた。お前も白居邸の中を見ただろ。あそこで研究され、ここで引き継がれていたものこそが、それを成功させるための生物だ」
安形を助けたあと、見て回った研究室の様子を思い出す。あのミミズのような生物。人間に寄生し、構造を変えることなくその指揮系統、思考を乗っ取る生き物。あれを応用したものが、今この街中でばら撒かれているというのだろうか。だとしたら、オル・オウン計画とは……――
「こんなことしてる場合じゃない。六角を止めないと、とんでもないことになるぞ」
「だから僕が今日一日かけてそうしようとしてただろ。草壁の奴が邪魔さえしなければ、この事態は起こらなかった。防げていたんだ」
むくれるようにキツネは言った。
これでは、東郷のテロは完全に意味がなくなってしまった。常世国を開放することなく、既に感染者は街に溢れている。いくらなんでももう戦いは止めてくれるだろうと截は思ったが、その期待はあっさり裏切られた。
強い教脅威を感じ、横へ飛ぶ。東郷の大きな手が、一秒前まで立っていた地面を丸ごと抉り取った。
「東郷……!」
歯軋りしながら睨みつけるも、東郷は意に介さないように次の攻撃を放つ。截の背後にあった柵が盛大にひしゃげ、下へ落下していった。
もうこの戦いに何の意味もないことは、東郷だってわかっているはずだ。それでもなお攻撃の手を緩めないなんて、どういうつもりなのだろうか。截にはわからなかった。
荒い息を吐きながら、東郷は口を開いた。
「今の話が真実ならば、その実行には媒体となる普通の人間が必要だ。ならば、ここを解き放ち、それらを全て先に感染させれば計画は失敗する……!」
「東郷……お前は……!」
いくら東郷が頑固者だとはいえ、この状況を見て己の敗北がわからないはずがない。もはや、彼の言葉は言い訳でしかなかった。自分の行為を正当化するための、無駄死にしないための、暴れる理由を強引に作っているだけ。現実を認めることのできない子供の戯言だ。恐らくどれほど説得しようとも、どれほど合理的なことを言おうとも、彼はその全てを否定するだろう。こうなってはもう、『殺す』ことでしかその暴虐を止める方法はなかった。
体力も、ダメージの具合も限界寸前。致命傷こそないものの、これまでに受けてきた傷の数はかなりのものだ。あちらこちらから神経の悲鳴が聞こえ、体が震える。だがその苦しみなどまるで意に介さないというように、截は真っ直ぐに立ち続けた。
「……死にたいんだったら、勝手に死ねばいい。その他大勢を巻き込むなよ」
期待し、楽しみにしていた我が子を化け物に改造され、目の前で妻を殺された彼の苦しみは計り知れるものではない。しかしだからといって、その思いや恨みを他人にあたっていい理由にはならない。人は生きているだけで、どんなに幸せそうに見える人間でも何かしらの苦労や苦痛を経験している。他人から見ればどうでもいいような小さなことでも、その人にとっては 大事な問題だ。どれほど苦しかろうと、どれほど辛かろうと、どれほど悲しかろうと、その痛みに優劣なんてものはない。自分が苦しいからって、その辛さを関係ない人々に押し付けるのは間違っている。
截は真っ向から彼の顔を見つめ、二対のナイフの切っ先を向けた。
「ゴォオオオォオッ!」
咆哮をあげながら、東郷はこちらへ再度接近する。キツネがすぐにナイフを投げようとしたが、既に手持ちを使い切っていたようだ。屋上のあちらこちらに落ちているナイフを拾うという手段もあったが、その前に東郷が截の目の前にたどり着いた。
大きく肘を引き、押し出すように掌を撃つ。感覚が瞬時に反応し脅威を知らせるも、そんなものにあまり意味はない。東郷は己の脅威を利用したフェイントを打ってくる。彼の赤鬼としての脅威は絶大だ。力を込めた攻撃を外したところで、僅かに肘を曲げて相手にかすらせれば、それだけで致命傷を与えることができる。つまりそれは、截にとって『脅威』として捕らえきれない『脅威』が多数存在することを意味していた。もし『脅威』を視覚化することができるのならば、東郷はそこにいるだけで大きな脅威を纏っているように見えるはずだ。その『脅威』の中で腕や足の配置がどう換わろうと、截には何もわからない。例えるならば、そういうことだった。
――もっとだ、もっと――!
迫る東郷の掌を見て、極限まで感覚に意識を集中させた。截の超感覚は、自分の命を奪えるような危険を察知する能力。全身が脅威となる東郷といえども、その脅威には僅かな度合いが存在する。普段ならばただ「死の危険」としか捕らえていなかったが、東郷を倒すためにはそれでは駄目だ。頭が割れそうになるくらい感覚を研ぎ澄ませ、ぎりぎりのところで東郷の攻撃を読んだ。
巨大な腕の側面を転がるように前へ出る。東郷は待ってましたとばかりに左膝を伸ばしたが、神経の全てを感覚に運用した截は、それを見抜きかわした。
風や地面、光すらも、世界の全てが鋭敏に感じられる。これほどの集中は、恐らくもう二度とできないかも知れない。
伸ばされた東郷の膝に足を乗せ上へ飛んだ截は、叩きつけるように東郷の右頭部を貫いた。
自分の援護を一切受けず、正面から大きな一撃を与えた截を見て、キツネは口角を上げた。
三年前、自分に傷一つつけることもできなかったあの青年が、今ではイミュニティー最大の敵である東郷を追い詰めるまでに至っている。サードブラックドメイン、紀行園、常世国。これまでの数々の経験は、無駄ではなかった。自身では中の上程度の実力しかないと言っていたが、今の截ならば十分に上位の黒服隊員と渡り合える力があると、キツネは確信した。
右目の機能が一時的に遮断される。頭の半分を抉られたのだ。当然だろう。どこまでも黒く、黒く、深い黒。まるで自分の人生のように、東郷の視界が闇に染まった。
東郷大儀は中学生の頃、両親に見放された。
理由は大したことじゃない。ただの万引きだ。友人にそそのかされ、何となくやってしまった衝動的なものだった。盗んだものは、当時流行っていたコマの玩具。値段も大したことのない、どこにでも売っているポピュラーなものだった。
しかしそのたった一度の過ちが、東郷の人生を大きく変えた。
一緒に万引きをした友人が、現行犯でその店の店員に捕まった。盗みの常連だった彼は自分の罪を減らそうと、東郷の名前を出し己の罪の半分をなすりつけた。店側は当然学校に連絡し、東郷はやってもいない罪で咎められ、酷い叱責を受けることになった。一度万引きしてしまったことは事実だ。負い目のあった東郷は半ば仕方なくそれを認めたのだが、正直に話さなかったことで不幸を招く結果となった。
友人は、店以外でもかなりの数、盗みを行っていた。同級生のお金、ペン、時計など、欲しいの思ったものは手当たり次第に懐へ入れていた。その余罪の半分が、東郷の所為になってしまったのだ。
東郷はクラス中からバッシングを受けた。男子生徒からは殴られ、蹴られ、女子生徒からは陰険な嫌がらせを続けられた。教師と店の話を信じた両親も、東郷を攻め立てた。厳格で、他者の目を過敏なほど気にする人間だった彼らは、こんな奴は己の息子じゃないとすら言ってのけた。
家でも、学校でも居場所を失った東郷は、結果としてグレた。家にあったお金を全てかき集め、その足で両親の元から離れた。行く場所のなかった彼は、半分ホームレスのような生活をし、毎日意味もなく夜の街を歩いた。賑やかな町の、人の中にいることで、寂しさを紛らわしていたのだ。そんな生活をしているうちに、東郷はとあるヤクザの男と親しくなり、彼の元で働くことになった。盗み、恐喝、詐欺、強盗、金になることならば何でもやった。所詮、人間は全て己のために生きている。だから俺が俺のために何をしようと、それは当然の権利だというのが、東郷の持論だった。
十七歳になる頃にはいっぱしのチンピラとなった東郷は、ある日荷物を運ぶ仕事をあてがわれた。どうせ中身は白い粉だろとたかをくくっていたのだが、そこに入っていたのは、まったく予想外のものだった。彼が運んでいたのは、人を化け物に変えてしまう生物兵器だった。
政府が開発してるその兵器を、とある闇組織が手に入れようと画作したというのが、その仕事の背景だった。東郷は届け先へたどり着く前に政府の人間に捕縛され、拷問を受け届け先の情報を漏らした。届け先の人間たちはあっさりと全滅し、東郷を雇ってたヤクザのメンバーも、証拠隠滅のために多くが消されたのだが、東郷を含んだ腕っ節の強い一部の人間は命を助けられた。日々のケンカで鍛えた精神力とセンスを買われた彼らは、その日から政府直下組織、イミュニティーの一員となったのだ。ヤクザの人間を取り込むなど、よほど人手が少なかったのだろう。そこで生活し、仕事をこなして行くうちに、東郷は自分と同様の価値観を持った横谷という男と知り合った。イミュニティーの名家である彼は、どういうわけか東郷のことを甚く気に入った。自分を育ててくれたヤクザの男に似た空気を感じた東郷は、彼を慕い、その直属の隊員となった。東郷は、彼の理想を実現するために邁進し、横谷が組織の代表になったときには、彼を守るための特別な部隊を作った。番犬部隊と称されたその集団は、かなりの戦闘力と任務達成率を誇り、横谷の威厳を保つのに大きく役立った。
全てが順調に進み、横谷が就任してから数年立った頃、東郷はある女性と出会った。官庁で財務を行っていた一般女性だ。イミュニティー内の事務担当が情報を漏らし、牢獄行きになったことで、代わりによこされたのが彼女だった。横谷代表の秘書の下についた彼女は、東郷と会う機会が多々あり、時が経つにつれて自然と恋人のような関係になった。ごく普通の環境から突然、イミュニティーのような陰惨きわまる世界に飛び込まされた彼女は、東郷にとって新鮮そのものだった。彼女と話してると、日々の任務やまどろっこしい権力抗争のことを忘れら得る気がした。ずっと欲しかった人の温かさを、やっと得られたような気がしていた。
横谷代表が暗殺された後、番犬部隊は多くの人間から声をかけられた。だが東郷は、六角を裁判で追い詰めたあとは部隊を辞めるつもりだった。元々横谷のために作った組織だ。彼がいない以上、在籍する理由も特にない。彼女と二人で裏方に回り、安穏とした人生を送るつもりだった。戦いだらけの生活に、幕を引くはずだった。
消えた視界の代わりに浮かぶのは、血まみれの手術室。妻の喉に食らいつき、血を啜る小さな黒い塊。
悲鳴を上げる看護婦。
放心したような医者。
ぴくぴくと痙攣し、動かない妻。
どう殺したかはまったく記憶になかった。ただ気がついたときには、既にその黒い塊は妻の上からどき、地面の上で痙攣していた。
腕を動かしながら、彼女と話した会話が浮かぶ。
男の子かな? 女の子かな?
名前は何にしようかな?
あなたに似てるかな?
今お腹を蹴った!聞こえるあなた?
私たちの赤ちゃん、もうすぐ生まれるね。
黒い塊が完全に動かなくなったころ、東郷大儀という男の何かは、完膚なきまでに破壊された。彼女にあって蘇りかけていた暖かい気持ちも、一瞬にして消化されてしまった。
残ったのはもう、六角構成に対する尋常ではない憎しみだけだった。
「ウぅぅぅぉぉおおおおぉオ!!」
声帯が吹き飛ぶんじゃないかと思えるような、大声で叫ぶ。
前に立っていた黒服の男が気迫に押され一歩引いた。
ろっかく。
ロッカク。
六角。
六角構成――!
――お前が憎い! 憎い! 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い、憎いぃぃぃぃぃぃいいいい!
腕を肩ごと上に持ち上げ、男に向かって叩きつける。まるで落雷のような激しい音がなり、地面が砕けた。
『お前が新しい事務員なのか? とろくさい女だな』
『すいません、まだ慣れてなくて。皆さんに迷惑をかけないように、頑張って早く仕事を覚えます!』
避けた男に向かい、逆の腕を突き出す。まだ右手は地面を穿ったままだ。男は仕方がなしに左へ逃げた。
『俺と結婚して欲しい。ずっと、一人だと思ってた。このまま戦いの中で生きて、磨耗して死ぬんだと思ってた。でもお前に会えて、俺は救われた気がする。俺はお前と一緒に生きたいんだ』
『……東郷さん。……あり、がとう。すごく嬉しいです』
両手を支点にして体を支え、足を左へ投げる。進もうとしていた男の目の前の地面を砕き、盛大に破片を散らした。衝撃と振動で男の体勢が揺らぐ。
『お、驚かないで聞いてね? 大儀さん。実は私……赤ちゃんが居るの。もう二ヶ月だって』
力強く地面に足をめり込ませ、左手で柵を掴み、右手に力を込める。
『今日からあなたもパパだね。何だか、変な気分だな~』
体中にムカデが這いずり回っているような痛みが走る。口から黒い血が漏れ、視界がぼやけた。
――俺は……お前たちの仇を……――
六角に、報いを――
左腕を引き、その反動で右手を真っ直ぐに打ち出した。
黒服の男は後ろに飛んで威力を消そうとしたが、東郷のほうが僅かに早かった。
赤い手。怒りを、憎しみを、後悔を、悲しみを乗せた真っ赤な手が、その瞬間、男の胸を無残に貫いた。
血を撒き散らし、放り投げられた人形のように、截は地面へ転がった。
ぐったりと倒れ、ナイフが手から落ちる。夥しい血が胸から流れた。
「截……!」
キツネが心配そうな顔でこちらを見るが、もう言葉を返す気力もない。既に助からないと悟ったのか、東郷は体の向きを変え、キツネへと向かっていった。
胸が溶岩のように熱い。まるで血液が茹っているかのようだ。口の中には血の味が充満し、呼吸もうまくできない。嫌でも、負けを認めるしかなかった。
――ここまでか。ここで俺は……――
助けるはずだった亜紀は生死不明。追い詰めるはずだった六角はやりたい放題に振る舞い、食い止めるはずだった東郷には負けた。これまでの戦いが、自分の行動が、全て無意味だったと、絶望する。
人生を、全てを投げ打って六角を倒すつもりだった。白居を倒すはずだった。この不条理な世界を変えるつもりだった。でも、所詮これが自分の限界だ。超感覚があろうと、訓練をつもうと、元々はただの臆病な学生でしかない。むしろあの時の自分と比べれば、大した進歩なんじゃないかと自画自賛した。
截はぼうっと空を見上げた。自然と、涙が流れる。
こんな結末を迎えるために、自分は戦ってきた、頑張って来たというのだろうか。これではあの時、庄平たちと一緒に死ねていたほうが、まだ惨めじゃなかった。まだ無力感は少なかった。
体が重い。血の流れが、心臓の音が、肌を撫でる風の動きが、全て鮮明に感じられる。これが死の感覚というものなのだろうか。倦怠感と眠気に押されるように、截はそっと目を閉じようとした。
地面に倒れ動かなくなった截を見て、キツネは舌打ちした。
直撃のダメージこそ殺したものの、その爪は背を突き抜けていた。どれほど楽観的に見積もっても、あれでは無事なはずがない。
――もう使えないか? いや、まだ……
傷の具合とリスクを計算し、どうするべきか考える。今すぐに治療すれば、截が生き延びる可能性はまだ微かにあった。
ここで見捨てて逃げるのは簡単だが、そうなれば計画に支障が出る。東郷はもう虫の息だ。逃げて截を見殺しにするか、戦って少ない可能性にかけるか、利になるのは明らかに後者だろう。キツネは拾った小型ナイフを口に咥え、腰から黒柄ナイフを抜いた。
全速力で走ってきた東郷が掌を伸ばし、顔の横のコンクリートに風穴を空ける。キツネは口のナイフを東郷の腕に刺し、そこを支点に体を前へ移動させた。
――この、破滅願望者が……!
東郷が膝を打ち出してきたが、この状況ではそうするしかないとパターンを読んでいたキツネは、あっさりとそれをかわし、足で踏み台にする。
元の位置に戻そうとする東郷の右手に首を載せ、その勢いで左手のナイフを相手の首に刺した。
血が噴出し、激しく暴れる東郷。振動で砕けた右腕と破片に削られた腹部が酷く痛む。半ば振り落とされるようにキツネは東郷から離れた。
「ゴァガァァアアッ!」
全身の穴から血を撒き散らしながら、東郷は両の鉞を振り回す。壁が、地面が、次々に東郷の爪によって削られ、醜い痕を刻んでいった。
攻撃を掻い潜りながら、キツネは口に咥えたナイフを東郷の胸へ向けて吐き、そのまま前へ突っ込んだ。普通に考えれば小型ナイフのダメージなど、それも口の力で押し出した攻撃など、大したことはない。東郷は最初の一撃には微塵も目をくれず、遅れて出てきたキツネに向けて斜め下から掌を振り上げた。
仰向けに仰け反ることで、キツネはそれを何とか避ける。不利な体勢になったキツネに留めを誘うと東郷が右手を振り下ろしにかかったところで、キツネは東郷の胸に軽く刺さったナイフをそのまま足の裏で強く押し込んだ。
「ぐがぁあっ!?」
キツネの起こしたミスディレクションにまんまと嵌った東郷は、心臓の痛みに顔を歪め、悶絶した。既にかなりの細胞が侵食されているのか、彼の赤かった胸は、ほぼく黒く染まり、逆に本来の赤い肌が斑のように点在している。もう、あと一息といったところだった。
キツネはニヒルに笑い、再び首を狙って前へ躍り出る。あと数撃。あと数えるだけの攻撃で、この怪物を殺しきれる気がした。
威力は桁外れだが、東郷の攻撃はその大きさゆえに近距離での使い勝手が悪い。今の超近距離では小回りの利くキツネのほうが断然有利だった。
予想では、危険を察知した東郷は後方へ逃げるはずだった。しかしこちらが向かうと同時に、彼は足を強く前に踏み出した。
刃が対象に刺さるためには、押し出す力と刃自体の鋭利さもそうだが、何より角度が大切だ。東郷は前進することでキツネの攻撃が当たるタイミングをずらし、その力と角度を狂わせたのだった。
強靭な筋肉に弾かれ、腕が後ろへ流される。右手がイカれている今、キツネに反撃する武器はない。東郷が軽く肩で押すだけで、その背は背後の壁にめり込み、口から血が漏れた。
衝撃で身動きの取れないキツネに向かって、東郷は腕を振り下ろす。キツネは何とか腰をひねり直撃を回避したが、攻撃の延長線上にあった右足は完膚なきまでに砕かれてしまった。ずるりと、地面に滑り落ちる。
目の前に立った東郷は、無表情のまま拳を打ち出す構えを取った。
右腕、左足が破壊された今、まともな回避行動を行うことはできない。独力でこの状況を生き延びることはほぼ不可能だった。
――くそっ、仕方ない。『あれ』を使うか? 白居に対する重要なキーだったんだが――
隠していた最後の切り札。使えばここでの勝率は上がるが、同時に六角と白居に対する唯一のコンペティッション(対抗策)をバラすことになる。しかし自分がここで死んでしまっては元もこうもない。
苦々しく左腕を懐へ忍ばせかけたとき、キツネは東郷の背後で何かが動いたのを見た。
妙な冷たさを胸に感じ、截は閉じかけていた目を開けた。
灼熱の痛みの中に僅かだけ違和感がある。一体何なんだと重い首を持ち上げて見ると、銀色に光る物体がそこにあった。
――ああ……――
すぐに納得する。ずっと服の中にしまっていたから存在を忘れていた。両親の不仲の象徴であり、庄平や鈴野の死を連想させる遺産。長年截が見つけてきた十字架が、血溜まりの中に浮かんでいたのだ。
とうとう、自分がこれに見取られる番かと截は苦笑いしたが、ある部分を見たことでその笑みを止めた。十字架の横線部分が折れ曲がり、血のあとが左側へ滑るように続いている。よくよく目を凝らせば、東郷によって貫かれた位置は、心臓から僅かに左へ逸れていた。十字架に当たった所為で東郷の爪が滑り、位置がズレたらしい。
痛みと気だるさの中、截は先ほどの戦いを思い出した。心臓は全身を動かすための動力源。そこを破壊さえすれば、一撃でコンクリートを砕ける筋力があろうとも体を動かすことはできない。だがそれは逆に言えば、心臓さえ無事ならば、どれほど損傷を受けていようが、肉体に力を込めることはできるということだ。
強烈な痛みは確かにあった。出血も激しいし、意識も遠のきかけている。だが、まだ、まだ命の臓器は脈動を続けていた。
肺の一部が破損している所為で呼吸がうまくできない。咳き込み血を吐き出しながら、截は死ぬ思いで立ち上がった。
腰から、足から、胸から血が吹き出ようと、お構いなしに背筋を伸ばす。
ま動けるのなら、生きているのなら、息があるのなら、最後まで戦おうと思った。
もう六角を止めることはできない。亜紀や友を助けることもできない。でもまだ、ここで東郷の暴挙を防ぐことはできる。
どうせ長くない傷だ。どうせ死ぬならばせめて少しでも、誰かの命を助ける役にたちたかった。正義感からではない。義務でもない。自分の三年間を、これまでの地獄のような生活を、無駄にしたくなかったから。せめて東郷を倒すことで、生き伸びてきた理由を作りたかった。自分の戦いに意味を見出したかった。
死に掛けている所為で、まるで五感の全てが超感覚になったような気がする。ありとあらゆる脅威を鮮明に感じることができた。
――これで最後だ。これで……――
キツネを攻め立てる東郷の背を見て、截は死人のようにふらりと歩き出した。
全身血塗れで立ち上がった截を見て、キツネは一瞬ぎょっとしたものの、すぐにニヤリと笑みを浮かべた。
どうやや首の皮一枚の差で心臓から外れていたようだ。重症には違いないが、生命活動を数分保つくらいの余裕はありそうだった。
普通なら痛みにのた打ち回る傷。血の多さに気を失いそうになる傷。歩いていることが信じられないような傷だ。しかし、それでも截が歩みを止めないことはわかっていた。
黒服にもっとも必要な素養は、何があっても、どんな目にあっても、絶対に生を諦めない不屈の意思。三年前、截は唯一あの地獄で生きることを諦めなかった。どれほど酷い目に、恐ろしい目に遭おうとも、涙を流しながら最後までもがいた。その境遇や特別な感覚の所為じゃない。誰よりも生きる意志が強いから、自分は彼を黒服へ引き入れた。『使える』と判断したのだ。
生きるとは、化学反応の延長上にある自然現象。木をくべれば燃え続ける炎のように、ただ栄養を取り続けることでその反応を維持してるだけの存在。しかしそれでも、人は生きようとする。勝手に目的を生み出して、意味を作り出して、望んだ死へ向かって突き進む。それが『存在する』ということだから。キツネは強い存在への渇望を、截から見出した。これほど生きる意志の強い男ならば、そう簡単には死なないと、最後まで自分の計画に付き合えると、だから、彼をもっとも重要な駒に選んだ。自分のバックアップとして、認めたのだ。
背後からいきなり腰にナイフを抉り込まれた東郷は、目を見開いて振り返った。截の青白い顔を見て、驚いたように腕を振るう。
「コノ、死ニンがァあっ!」
呂律の回らない声で東郷が叫ぶ。腕を潜りながら、截は前へ滑り込んだ。東郷と位置が丸々逆転する結果となる。
自分、截、そして東郷。ちょうど一直線上に並んだ格好だ。截の体のごしに覗く東郷の姿を見て、キツネは最後の策を閃いた。
出血の所為で目がかすむ。東郷が次の攻撃を繰り出そうと前に出たが、その腕が截にはぶれて見えた。もう超感覚だけが頼りだった。
東郷が逆の手で裏拳を放ち、截はそれを左斜め前に飛ぶことでかわす。しかしそれはフェイクだったようだ。東郷は裏拳として放った腕をそのまま返し、截の胴を掴もうと手を開いた。
いくら極限まで感覚に意識を集中していようとも、東郷の細かな脅威を全て把握できるわけではない。その攻撃は、截だけでは反応しきれなかった。
東郷が腕を返す直前、背後から小さな脅威が迫った。截は無意識の内に膝を折り、その直線状から身をすらす。同時に、折りかえった東郷の腕が、頭上を通過した。
通り過ぎた小さな脅威を確認すると、小型ナイフがかすかに見えた。キツネが投げたようだ。截は援護かと思ったが、あの軌道は胴考えても自分の頭を狙っているように見えた。そこで、キツネの考えに気づく。
大きな脅威の中に隠された東郷のフェイクは、確かに感じきることはできない。だが、背後から来る小型ナイフならば話は別だ。経験則から来る予測で、キツネは截に東郷の攻撃の位置を教えてくれたのだった。これならばもう、――東郷のフェイントは効かない。
「貴様らァアアア、いい加ゲンにィイ――……」
片や腕と足を砕かれた行動不能者。
片や胸に風穴を開けられた半死人。
黒目細胞によって死にかけているとはいえ、まだ正常に体を動かせる分、東郷のほうが圧倒的に有利だ。
しかしそれでも、彼は二人を殺すことができなかった。
触れることができなかった。
まるで見えない壁に阻まれているかのように。
追えば追うほど逃げる蜃気楼のように。
どうしても、あと一歩のところでその命は手の中から抜ける。
一体一ならば決して避けることはできなかっただろう。
決してここまで生き延びることはできなかっただろう。
迫る東郷の爪を感じながら、截は生まれて初めてキツネに感謝した。
強い脅威を感じる。右斜め前に飛び出し、截はその巨大な掌底をかわした。東郷はそのまま飛び込むように膝を打ち込んできたが、キツネが投げた黒柄ナイフが攻撃の存在と位置を教えてくれた。
左に身を捻りながら、腕を伸ばす。
――東郷――……!
地面を蹴り、渾身の力を込めて前に出る。突っ込んできた東郷の力は強大だ。それは最高のタイミングでの、カウンターとなった。
白い柄の刃が深々と赤黒い肉に吸い込まれる。同時に東郷の膝は深々とキツネの横の壁にめり込み、大きなヒビを作った。
朝日が完全に昇り、三人の姿を照らす。視界のおぼろげな目で見ると、東郷はがっかりしたような、それでいてどこか納得したような表情を浮かべていた。
ナイフを抜き、血を振るう。
大量の血液を放出した東郷の心臓は、もう修復することはなかった。
次第に光を失っていく東郷の眼。勝利を確認すると、截は滑るようにその場に倒れた。
勝手に瞼が閉じられる。
最後に感じたのは段々とその数を増やしていく小さな脅威と、人々の悲鳴だった。