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<第三十章>尋獄(しんごく)・前編

 大地を揺るがすほどの大声を上げ、東郷大儀は常世国の屋上に立った。

 縦横無尽に広がる長い髪。

 地面を貫く巨大な爪。

 鎧のような真っ赤な筋肉。

 現存する全ての感染生物の中で最強と名高い怪物が、怒り狂った形相でそこに居た。

 もう戦う意味はない。截は何とか彼をさとせないかと考えた。

「東郷、止めるんだ。六角はもう――」

 地面にめり込んでいた東郷の手の周囲に、ひびが広がる。

「そんなことは承知している。姿が見えないんだからな……!」

 車のエンジンのような低く重い声で、東郷が言葉を吐いた。

「だが、まだだ。まだ終わっていない。キツネに乗せられ余計なことをしたが、本来の目的は常世国が破壊されるよりも早く感染者を解き放つことだ。奴が脱走してからそれほど時間は経っていない。今感染者を外へ放出すれば、まだぎりぎり目的は達成出来る」

「そんなことに何の意味がある。東郷、草壁はお前に抗イグマ剤を注入したんだな? ちょうど僕が黒目細胞を打ち込んだ位置に。今お前が生きていられるのは増殖した黒目細胞が抗イグマ剤と相殺して大多数破壊されたからだ。時間が経てば元の状態に戻る。奴がそんな真似をしたということは、お前が何をしようと痛くも痒くもないからだ。既に六角にとってイミュニティーの地位などどうでもいいということだ。お前は僕たちの足止めをするためだけに復活させられた。このままだと奴らの思い通りだぞ」

「草壁? 一体何の話だ? 俺は自力で再生しここへあがってきた。お前にお返しをするためにな。……確かに時間は少ない。だか、その僅かな時間さえあれば俺は六角を追い詰められる。この事件を起こした目的を達成できるのだ!」

 吼えるように東郷はそう言った。

「どうやら意識が朦朧としてる間に打たれた所為で、草壁の存在に気がついていないようだな。運がない」

 大きくため息を吐くキツネ。諦めたようにナイフを構え直した。

「拘束して一週間くらいかければこの馬鹿を説得できるかもしれないが、そんな時間はない。ここの様子は遠距離から監視されている。東郷の行動次第でいつ爆撃されてもおかしくないぞ。もしかしたら既にその準備が始まっているかもしれない。死にたくなければ全力でこいつを殺しにかかれ」 

 もう、何を言っても無駄だろう。東郷は本気でそう考えているというよりは、そうあって欲しいという感じだ。現実から目を背け暴走する男に、言葉は届かない。亜紀や友の安否も気になる。余計な時間をかけている暇はなかった。

「……ああ。わかった」

 截は頷き、感覚に意識を集中させた。

「黒服のゴミどもめ! 俺の計画を、俺の邪魔をしたことを、永遠に後悔させてやる!」

 巨大な両手を左右に広げ、空気を振るわせる東郷。六角には逃げられてしまったが、ここで彼を倒さなければより大きな被害を招いてしまう。何が何でも、倒さなければいけないと思った。

 地面を蹴り、東郷が飛び上がった。そのまま真っ直ぐ自分たちの前上に落ちてくる。截は左に、キツネはそれぞれ右に転がり、それをかわした。

 轟音が響き、地面の一部が大きく陥没する。あれをそう何度も繰り返されれば、屋上が崩壊してしまうかもしれない。相変わらずの威力に截はぞっとした。

 吼え続けながら体を起こす東郷。もはや人の気配など一切せず、完全に化け物と化していた。

「截、用心しろ。見た目はあんなんだが、東郷は普通の大型感染体とは違い、人の意思を残したままだ。人間のときに学んだ格闘術も、戦略も全てそのまま扱うことが出来る。いつもの調子で挑めば簡単に殺されるぞ」

「そんなこと、紀行園で十分経験済みだ。いちいち言われなくてもわかってる」

 もう二度とこの男に負けるつもりはない。截はよりいっそう意識を引き締めた。

 風をもぎ取る音と共に放たれる左右の拳はまるで人間大のまさかりだ。普通の感染者が相手ならば防ぐという選択肢もあったが、東郷に対してそれを行うことは自分の死を認めるのと同じことだった。

 左から迫ってきた腕をかがんで避ける。通り過ぎた東郷の腕によって背後の柵が大きくひしゃげた。

 赤鬼の手は爪が大きく拳を作るのには適していない。攻撃するにはどうしても掌を開いて引っかくように行う必要があり、その戦略は狭まるはずなのだが、東郷の攻撃は妙に形になっていた。

「あの男は元々骨法の達人だ。打撃系の技に秀でている。掌底や裏拳など、手を開いて戦う技はお手の物だろう」

「それを踏まえたうえで、あのデザインってわけか」

 考えてみれば、戦力が低下するような肉体を高橋志郎が設計するわけがない。キツネの補足に截は納得した。

 間を空けた二人を睨みつけ、再び攻撃の用意に入る東郷。体が大きい分隙も多いが、あちらの攻撃力が常軌を逸している以上、懐へ侵入するリスクは非常に高かった。そして侵入し攻撃を当てられたとしても、あの再生する肉体である。結果的にはただリスクを負うというだけで、何の意味もないのだ。それが、二人が反撃せず逃げ続けている理由だった。

 ――奴の不死身さを何とかしない限り勝ち目がない。倒せないまでもせめて気絶されることは出来ないのか?

 紀行園では、彼の意識を奪うことで何とか戦闘をやり過ごすことができたが、この状況ではそれを再現するのは不可能だ。道具も手段も何もない。黒目細胞の増殖が再発し、勝手に倒れるのを待つほうが確実ではあるが、それまでにどれくらいの時間がかかるのかもわからない。下手をすれば一緒に爆撃されてしまう可能性が高かった。やはりこの場を収めるのは、自力で東郷を『倒す』しかないのだろう。

「逃げても追い詰められるだけだ。俺が攻撃するから、援護しつつ何か策を考えてくれ」

 あれほどの計画を練った男なのだ。時間さえあればきっと解決策を思いつくはず。そう信じ、截は前に飛び出した。

 屋上の側面を囲うように伸びている網に沿って、回るように東郷の背後を取ろうと試みる。しかし流石というべきか、歴戦の戦闘員である東郷も簡単にそれを許さない。近づこうとするたびにあの豪腕が飛び、截の命を危険にさらした。

 いくら人間の技術があるとはいえ、その体型は元の肉体とかけ離れている。同じように動こうとしても再現しきれない部分は存在するはずだ。東郷が攻撃態勢に入っている間は何も出来ないが、攻撃直後ならば僅かに隙が出来るのを截は見抜いた。

 次に来る脅威を感じ取り、右足を前に伸ばす。普通の大型感染者が相手の場合はただこのまま攻撃かくるのに合わせて飛び込むだけでいいのだが、東郷の場合はそうはいかない。こちらの超感覚を理解している東郷は、怪物としての尋常ではない脅威を利用しフェイントをうってくるのだ。一瞬迷った末、截は右へ足をスライドさせた。爪を真っ直ぐ伸ばした東郷は、攻撃直後、ひじを曲げて横なぎに払った。間一髪それをかわした截は、まるで顔の横の空気がまるまる吹き飛んでいったかのような錯覚を覚えた。

 ――肘ひとつでこれか。だけど――

 今回の読み合いには勝った。

 腕の下を潜ると同時に左手の黒柄ナイフを東郷の喉へ突き立てる。いくら再生するとはいえ、それを行うには栄養が必要だ。そして生物の体内で一番栄養豊富で、一番栄養を運ぶのに役立っているものは血液である。頚動脈を斬ることで、截は東郷の再生能力を弱めようと考えた。

「ゴォオォオッ!?」

 大量に噴出す黒い血。それを全身に浴びながら、截は右の白柄ナイフを東郷の胸に叩き込んだ。

「再生するための材料がなくなれば、いくらお前でも死ぬだろう」

 ナイフを抜き、後ろへ飛ぶ。それを追うように東郷は手を振りぬいたが、截の髪をかするだけで命中はしなかった。

 首を押さえるような動きを見せ、東郷はこちらを睨んだ。

「やるな。確かに血液を放出し続ければいずれ再生は出来なくなる。だが、そうなれば貴様やキツネを食らって補給すればいいだけよ」

 東郷が首から手を離すと、既に傷は消えていた。この分では、もし本当に東郷の全身の血を抜こうとすれば、相当な時間がかかりそうだ。截は僅かに落胆した。

 右手で地面を押さえ、そこを始点に前に飛び出し急接近する東郷。身体能力の差は圧倒的だ。正面から戦えば五秒も持たない。截はすぐに貯水タンクが乱立しているエリアへと逃げ込んだ。

 追いかけてきた東郷はタンク郡を両手でなぎ払い、紙くずのように吹き飛ばしていく。障害物などまるで関係なしだ。あっという間に眼前に迫り、截は思わず叫んだ。

「――うぉぉおおおっー!?」

 脅威の感じでは、このまま上から叩き潰すように拳が降りてくるはずなのだが、それが本当の狙いなのかはわからない。横か後ろか、截は再び命の選択を強いられた。

 ――くそ、接近するたびにいちいちこれか! 心臓が持たないぞ。

 先ほど自分は右に避けた。ならば、東郷はそこを狙うはずだと考える。截は後方へ飛ぶことを選んだ。

 東郷の手が横なぎに地面を叩く。瓦礫を吹き飛ばし、小さなクレータを作り、多くの小石を飛ばした。

 截は自分の判断が正しかったと思いかけたが、その直後、真上から貯水タンクのひとつが落ちてきた。突撃してくる段階で最初からこれを考えていたようだ。思わず舌打ちする。

 タンクを避ければ東郷にやられ、避けなければどっちみち大きなダメージを受ける。万事休すだ。

「前に出ろ」

 斜めから声が届く。截は反射的にその通りにした。

 背後に落ちる貯水タンク。腕を振り上げる東郷。とても避けきれるタイミングではない。爪が頭部を貫きかけたとき、東郷の膝裏に複数のナイフが突き刺さった。バランスを崩す東郷。いつの間にか東郷の横へ現れたキツネは、彼の膝のナイフを足で深く蹴り押した。腕の軌道が僅かにずれる。截の頭を粉砕しようとしていた爪は、その肩を撫でるだけですんだ。

 痛みに顔を歪めながらさらに後方へ逃げる截。キツネもすぐにその場を離れた。

 常世国の屋上はその建物と同様、かなり広い。逃げ先だけなら、無数にある。截は屋上に設置されたガスの制御装置の影へ身を潜ませた。

 はぁ、はぁ、と、苦しい息が漏れる。

「……追ってこないか」

 頭の半分だけを装置の影から出し、来た道を確認する。どうやらキツネを追いかけたようだ。それほど離れてない位置から戦闘音が聞こえた。

 息を整えながら上を向くと、うっすらと輝く輝く月が見えた。どことなく水色に見える。そこで初めて、もうすぐ夜明けがくることに気がついた。周囲はまだ暗かったが、時間の問題だろう。完全に明るくなれば一般人にもここでの出来事が観測されてしまう。イミュニティーの上部はそうなる前に手を打つはずだ。本当に、もう時間は無かった。

「亜紀……」

 先ほどヘリが墜落した方向を見る。一体誰があれをやったのだろうか。可能性が高いのは黒服や六角派の人間だが、ディエス・イレの仕掛けていた罠という線もある。とにかく、無事で居てくれることを願った。

「……――ォォオオオッ!」

 東郷の雄たけびが聞こえる。いくらキツネといえども、あれが相手では命がけのはずだ。流石に助けに行かなければやられてしまう可能性が高い。

「……よりによって、あいつと二人っきりとはな」

 庄平を殺した直接の原因。

 もっとも嫌った存在。

 その人間と背中を預けあって、命を助け合って、戦わなければならないとは、神様も随分とあれな真似をする。小さく息を吐くと、截は装置から背を離し、そこへ向かった。


 


 

 屋上の中心部に無数に延びるパイプ。その隙間から、キツネは複数のナイフを投げた。

 キツネの姿を捉えていなかった東郷は、それをもろに頭部と腹部に受けたものの、瞬時に再生し、ナイフを体外へ押し出した。

「そこか」

 人間のときとはかけ離れた重い声で、にやりと笑った。

 ――やはり、無駄か。

 キツネは軽く落胆した。

 ナイフを体内へ入れた状態を維持させれば、いくら再生しようともその度に怪我をし続け、再生能力が弱まると考えたのだが、どうやら異物は自動的に排除されるようになっているらしい。恐るべき生物兵器としての完成度だった。

「さすが、あの高橋志郎の最高傑作といったところか……」

 六角構成から遠ざけるためにディエス・イレを隠し場所としてあてがったものの、こんな怪物を作り出してしまうとは予想外だった。せいぜいディエスイレの兵器レベルがある程度上昇するぐらいだと思っていたのだ。もし六角が高橋志郎を手に入れていたのなら、オル・オウン計画はあと一年は早く実行できていたに違いあるまい。

 鉤爪のような形を作り、東郷は掌を前に押し出した。たったそれだけの動きで、キツネとの間を塞いでいたパイプが跡形無なく爆散する。東郷はすかさず第二撃目を打ち込もうとしたが、既にキツネはそこから消えていた。

 パイプの間を移動しながら、横目で東郷の姿を見る。

 キツネはこれまでずっと黒服という異常な集団の中で生きてきた。『生きること』のスペシャリストと呼べる黒服の中で、幼少のころから命をかけ、戦ってきた。戦死した者も生きている者も含めて、ありとあらゆる黒服の猛者たちを見てきた。ありとあらゆる感染者との戦いを経験してきた。多すぎる経験は知識や思考を飛び越え感覚へと昇華する。六角構成の超感覚は遺伝しなかったものの、既にキツネの『勘』はそれに近いレベルのものにまで達していた。それは截や六角構成のような超感覚とはまったく別種の、人間として鍛え上げられた努力による超感覚だ。この勘により、キツネは東郷の攻撃をことごとく予測し、かわしていた。

 足音、これまでの動き、性格から、東郷が真後ろに飛び出してくると感じる。キツネはパイプを飛び越え、隣の道へと逃げた。直後に先ほどまで自分が居た場所のパイプが弾け、東郷の巨大な体がそこへめり込んだ。

「くそっ、どこへ行った!? ちょこまかと……!」

 怒りにあふれた唸り声が響く。キツネは再びパイプの隙間から小型ナイフを投げ、東郷の頭に命中させた。

 苦しみの声を上げ東郷は狂ったように周囲のパイプや壁を粉砕した。

 その様子を見て、キツネはあることに気がついた。東郷は確かにこちらがつけた全ての傷を再生してはいるが、部位の修復速度には差があるようだ。先ほど截がつけた首と胸部の傷、そして自分がつけた膝裏と頭部の傷。体の中心に近づくにつれて治りの速度が遅い。

 ――これは……――

 通常時ならば例え自分や草壁でも倒すことは至難の相手だ。だが、この場所で、このときだからこそ、打ち勝てる見込みがあった。

 思いついたことを行動に移そうとしたところで、東郷が暴れるのを止めた。何か不穏な気配を察知し、キツネは動きを止める。

 イミュニティーがディエス・イレを長年倒せなかったのには、二つの理由が存在する。ひとつは彼らが元々イミュニティーの人間であるということ。組織のやり方を熟知している彼らは、当然組織からの身の隠し方や逃げ方を知っていた。現役時代の伝手で隠れ場所や利用できる仲間も多く確保していた。黒服へのコンタクトの仕方についても、当然知識を持っていた。

 数多くあるテロ組織の中で、ディエス・イレはもっとも多く黒服というシステムを利用した存在だ。様々な制約があるイミュニティーでは成せなかった命令や任務も、ディエス・イレという組織ならばなんのこだわりもなく行うことが出来る。彼らは黒服を雇い、利用し、大々的に、堂々と隠すことなく破壊活動や諜報活動を行った。イグマ細胞の存在を隠さなければならないイミュニティーは、そうなればどうしても後手にまわざる終えない状況にあったのだった。

 東郷は自分の感情を落ち着かせるように、息を吐き出し、目を閉じた。

 ディエス・イレが国に対して脅威として存在できたもうひとつの理由。それは、東郷大儀という男の存在だ。

 先代イミュニティー代表の隠密だった東郷は、誰よりもイミュニティーの闇に精通していた。彼は隊員時代の知識やつながりを活かし、実に巧みに、ずるがしこくイミュニティーからの追撃を逃れた。時には過去に手に入れた弱みを利用し、本部の人間に直接的に情報を操作させるなど、そのやり方は大胆かつ手段を問わなかった。イミュニティーの人間の中でも、ディエス・イレの容赦のない行動と力、東郷のカリスマ性に引かれ、援助を申し出る人間すら多く存在したほどだ。

 だが、東郷大儀が危険視されたのは、その政治的手腕が恐れられたからではない。本当の理由は、彼がただ純粋に『強かった』からだ。

 イミュニティーの本部の人間たちは、横谷元代表の番犬の存在を痛いほど知っていた。横谷元代表は、六角のように本部の意向に逆らって裏で暗躍することはなかったが、ルールを破った者や裏切り者には容赦のない報復を与える男だった。そしてその執行者が、東郷大儀率いる横谷の番犬部隊だった。数多くの知り合いを、粛清された仲間を見てきたイミュニティーの人間たちは、解き放たれた野獣とも言える東郷大儀のことを、酷く恐れた。うかつに手を出せば間違いなく何倍にも増幅されて自分に返ってくると知っていたから。

 キツネも当然、東郷の背景や実力はよく理解していた。赤鬼などという化け物になっていないとしても、強敵にはかわりのない相手だ。クールダウンした東郷の様子を見て、もう少し暴走してくれればよかったのにと残念に思った。

 右、左、前。目玉をゆっくりと動かし、それぞれの方向を一度ずつ確認した東郷は、囁くように声を出した。

「考えてみれば、普通にお前と戦う必要は、俺にはないんだったな。キツネ」

 どこか達観した様子で言う。

「お前のことはそれなりに知っている。直接仕事の依頼をしたこともある仲だ。強さという面において、俺は他の誰よりもお前を高く買っている。タヌキや、この俺自身よりもな。純粋な一対一の戦闘ならば、お前は恐らく俺よりも強い。いくら経験を積もうと、修羅場を潜り抜けようと、それは全て身につけた後付けのもの。普通の生活の『外』にあったものだ。だが、お前の技術は、経験は、技は、お前にとってはまさに生きるための一般的な行動。普通の生活そのものの『内』にあるものだ。そんな奴に、普通の人間がまともに戦って勝てるわけがない」

 東郷の言い方から、キツネは何か嫌なものを感じ取った。

「だから、俺は人間として戦うのはもう止めにする。全てを捨てる覚悟を決めたはずなのに、まだどこか未練が残っていたようだ。俺はもう、人間じゃない。イグマ細胞を全身に移植した『怪物』だ。だから怪物は怪物らしく、醜く、おぞましく、常軌を逸した戦い方で――お前を殺してやろう」

 勢いよく顔を上げ、轟音ともとれる雄たけびをあげる東郷。

 周囲の空気どころか、地面すらも揺れ、彼の周囲の埃や砂が全て吹き飛んだかのような錯覚を覚えた。

「……まずいな」

 何をするつもりなのか、瞬時に理解する。これは、もっとも恐れていた展開だ。

 東郷大儀は赤鬼と化しても自身の意識を保っていた。戦闘スタイルを変えることはなかった。それは人間時の格闘技術や知識をそのまま使えるということなのだが、同時に赤鬼としての身体機能や能力を制限することにも繋がっていた。だからこそ、敢えて東郷がそういう行動をとるように截に彼の技術や人間時の経験について注意を与え、東郷がそれを使って戦うように誘導していたのだが、東郷は自分を倒すためにその束縛を自ら解いた。ただ再生能力と腕力頼りに攻撃してくる化け物なら何とかなった。人間としての技を使う大きなでくの坊なら、さばくことも出来た。だが、今の東郷はそのどちらでもない。人間としての常識をかなぐり捨てた、理性のある怪物だ。いわば、上記の両特性を存分に振るうことの出来る最悪の存在だった。

 ギロりと、真っ赤な双眼がこちらの姿を捉える。

 キツネが後ろへ飛ぶと同時に、東郷が突撃を開始した。

「ゴォォォオオオォオオッ!!」

 左右のパイプが吹き飛び宙に舞う。障害物だらけの道をまるでクロールでもするかのように、東郷は強引に進んだ。

 無数に飛び散る破片や残骸の中には、鋭利に尖ったものもいくつかある。普通ならば避けるか遠ざけるかして移動しなければならない場所だが、自身を怪物だと認めた東郷にとって、そんなものはどうでもいいことのようだった。

 破片が突き刺さり、皮を裂き肉を貫く。しかし数秒後、その傷は何事もなかったかのように消えさった。まさに不死身ならではの我が身をかえりみない行進だ。

 ――デス・マーチ(死者の行軍)か。強引だが、利には叶っている。このままでは――

 東郷が黒目細胞に侵されるよりも早く、自分が死ぬ。

 全力で逃げに徹するものの、障害物を避けなければならない分、どうしても速度に差ができる。気がつけば、東郷の爪は後ろ髪をかするまでになっていた。

 おぞましい声と共に、背後で空気が消失した。キツネが目の前の低いパイプを飛び越えた瞬間、東郷の腕がそこを貫く。捕らえたと、東郷は思ったに違いない。だがキツネは、彼が狙った場所にはいなかった。

 伸びきった赤い腕の下を潜り、強靭な胸の前に足を滑り込ませる。圧倒的に不利な状況、殺される一歩手前。普通なら、敵の懐へ飛び込むなど考えられない場面。だからこそ、キツネはそこへ身を投げた。

 動物が獲物を狙う上でもっとも利用するタイミング。それは、獲物が『別の獲物を狙う』瞬間だ。キツネの命を狩れるところまで迫った東郷は、油断し自分が相手を殺すという事実に意識を集中させていた。その隙間を、見事についたのだ。

「なっ、にっ、いぃい!?」

 軽く柄を握り、魚を下ろすように東郷の肘の内側を刃でなぞる。筋を斬られた東郷の腕は力を失い、ぶらんと大きく内側へ揺れた。

「武器は使うものじゃない。利用するものだ」

 キツネはナイフを滑るように右手に移動させ、東郷の膝の腱をも切断した。そのまま背後に抜けると、足で東郷のもう片方の膝裏を圧迫し、肘で彼の背を前方へ押しのけた。

 右の腕はキツネによって内側へ曲げられている。どうすることも出来ず、東郷はそのまま盛大に地面へ倒れこんだ。

 なんともいえない重い音が響き、東郷の背から数本の爪が突き出る。キツネはクスクスと笑い、そこから離れようとした。

 ――これで少しは時間が稼げるはず。一旦距離をとらなければ――

「な・め・る・なぁあ!」

「なに……!?」

 東郷は体を倒したまま左手を後方へ振った。パイプや設置された機器を削り取りながらキツネの顔面に凶悪な裏拳が迫る。

 上半身を後方へ仰け反るようにして、キツネは間一髪それを避けた。が、直撃こそ回避したものの、副産物はどうすることもできなかった。

「ぐっ――……!?」

 飛び散った破片の一部が腹部と脇に突き刺さる。東郷ならば大したことのない傷でも、キツネにとっては致命傷になりかねないものだ。痛みに唇を結び、目を細めた。

 足の損傷を瞬く間に再生した東郷は、右腕を己の胸に突き刺したまま立ち上がった。

「言っただろう。お前を高く評価していると! 赤鬼になろうが、不死身だろうが、油断などするものか!」

 口から血を吐きながら、苦しそうに腕を引き抜く。大量の黒い血が一気に噴出した。

「……――随分と謙虚なことだ……!」

 軽口を叩いたものの、額からは大量の汗が流れ出る。いっぱいいっぱいなのは、こちらも同様だった。

 東郷の胸の傷は、骨から肉と、すぐに塞がっていく。その様子を見て、キツネは自分の考えを確信に変えた。

 ――やっぱり、思った通りか。

 全てが無駄に終わったというわけでもないらしい。普通ならばほぼ勝てない相手だが、今なら僅かに勝機がある。キツネは口角を上げた。

 それを嘲笑と受け取ったのか、東郷は目を血走らせて追撃を放った。

 腹部の傷が痛み、動きを遅らせる。先ほどは気を制したからこそ隙を突くことができたが、この状態ではそうも行かない。キツネに、この一撃を凌ぎきる余裕はなかった。

 ――くそっ……!

 予想した以上に東郷は冷静だった。これは完全に自分のミスだ。塵を掻き分けて黒い爪が頬に刺さる。そのまま右目をえぐられるかと思った瞬間、体が大きく背後に引かれた。

 キツネは考えることなく、上半身をその男の肩と背に乗せ、バク転するように後方へ移動した。その所為で東郷の爪は空を切り、横にあった大きな盤へめり込んだ。

 男の顔を見ずに叫ぶ。

「截――!」

「わかってる!」

 力を込めた一撃を外した東郷は、大きく体勢を崩している。その隙を狙って、截は一気に懐へ侵入した。

 普通ならばこの隙に逃げるべきだが、東郷の心臓は治りきっていない。体を動かす力は血液だ。心臓が正常に動かないということは、その力をまともに出すことができないということ。キツネの指示と東郷の様子からそれを理解したらしい截は、こちらの思った通りに前へ突っ込んだ。

 赤腕を掻い潜り、左右のナイフを存分に振るう截。弱っている今なら、東郷はあの過大脅威を利用した誘導を使うことができない。

 地に足をつけたキツネはそれ以上傷口が広がらないように破片を引き抜くと、出血することなどお構いなしに攻撃へ加わった。

 ――心臓を損傷状態にし続ければいつまでもこちらが有利だ。このまま殺しきる――!

 東郷もこちらの思惑に気がついたのか、必死に胸を守りつつ二人を遠ざけようとする。しかし、『避ける』ということにかけては黒服の中でも群を抜くキツネと截の動きは、彼の実力をもってしても捕らえきることができなかった。

「グゥオォオォオ――!?」 

 首、肩、頭、胸、腕、腰……あっという間に、まるでミキサーにかけれられた肉のように、東郷の体は切り刻まれていく。

「休むな! 動き続けろ!」

 ここで倒せなければ、後がない。疲れも、痛みも、無視し、二人は猛攻を続けた。

 さすがに命の危険を感じたのか、東郷は強引に横の盤を倒し、後ろへ飛びのいた。伸ばしたナイフが金属の壁に衝突し、火花を散らす。

「くそ、もう少しで……!」

「截、下がれ!」 

 障害物越しに東郷の右手が上から振る。間一髪で截はそれをかわしたが、東郷の手によって地面は大きく抉られ、間を塞いでいた盤も真っ二つに割れた。

 この力、もう心臓の傷は修復し終えたらしい。土煙の隙間から見える東郷の目は、殺気に満ちていた。

 正面から全開の赤鬼とぶつかれば、瞬殺される。キツネはすぐに距離をとろうとしたが、截の様子を見て動きを止めた。なぜかその場から動こうとしないのだ。

 ――ガス欠か……!

 ダニの怪物と戦っている時点で、既に彼の体力は限界だった。一旦息を整える時間があったとはいえ、人間の疲労がそんな短期間で完全に回復するわけはない。今の攻撃は截の体を動けなくさせるには十分すぎるほどの労働だった。

 指を下に向け、後ろに引き、しっかりと溜めた掌を全力で前に押し出す東郷。あんなものを食らえば内臓が破裂するくらいではすまない。キツネは舌打ちし、素早く前に飛び出した。

 迫る巨大な掌。必死に避けようとする截。

 次の瞬間、トマトを潰したかのような音が、その場に響き渡った。




 

 肺が引き千切ちぎれそうだ。酸欠の所為で頭が働かない。東郷の掌底しょうていをどこか他人ごとのように見た。

 黒い爪の先端が肩にめり込み、やわい肉を貫こうとする。截は視線の定まらない目でそこへ視線を向けるも、何かが景色を塞いだ。

 鋼色の光。

 刺さりかけていた東郷の中指が後方へ飛んでいき、代わりに黒柄ナイフがそこから前に飛び出した。

 ――キツネ?

 余裕に満ちた上司の顔を想像したが、瞳に写った光景はそれを大きく裏切った。

 東郷の突きによって弾き飛ばされたキツネの腕は、二段階に屈折し後ろへ押しやられ、肩から顔の右半分にかけて、ヤスリで削り取ったかのようなざらりとした傷が、血を飛び散らせて存在を主張する。

 指一本を吹き飛ばす代わりとしては、痛すぎる代償だった。

「なっ――!?」

 それはまったく想像だにしなかった光景だった。どんなことがあっても、キツネは涼しい顔であのクスクス笑いをしていると思っていた。どんな強敵が相手でも、顔色ひとつ変えず冷静に対処できると思っていた。そんなあの男が今、苦痛に表情を歪ませ、追い詰められた犬のように全身から汗をにじませている。

「何してる、逃げるぞ!」

 ぐいっと肩を引かれる。いつの間にかキツネの左腕が乗っていた。どうやら右手で一瞬の間を作ったときに、東郷の攻撃線上から自分をどかしたようだ。その事実に、截はさらに衝撃を受けた。

 ――俺を助けるために? この男が? そんな馬鹿な!?

 キツネは誰かを救うために自分の身を犠牲にするような人間じゃない。そんな奴じゃない。むしろ、相手の隙を作るために嬉々として他人を犠牲にする人間だ。命をなんとも思わない人間だ。

 強引に腕を引かれ、走らされる。

 東郷は逃がさないといわんばかりに腕を伸ばそうとしたが、当然体をビクつかせ、よろけた。まだ心臓の傷が完治していないのかもしれない。その隙に、二人は配管エリアから抜け出た。




 

 壁に手をつくことで、何とか体重を支える。どういうわけか、体がうまく動かなかった。

 ――何故だ? 何が起きた?

 不死身のはずの自分にダメージが残るはずがない。何故これほどまでに力が入らないのか、理解できなかった。

 震える右手を胸の前に上げ、覗き見る。斬られた傷は全て完治していたが、その周囲に複数の黒い斑点のようなものができていた。

「何だ? これは……?」

 毒でも食らったのかと思ったが、どちらにせよ自分の回復力があれば問題はないはずだ。傷が多すぎて再生できなくなたとも考えにくい。だとすれば、黒目細胞の影響という線が強かった。

「まだ……まだ時間はあったはずだ。何故こうも急に……!?」

 不死身、再生、回復、イグマ細胞、黒目細胞……。そこまで考えて、あることに思い至った。

「……そうか、だから勝てないとわかっていたはずなのに、あそこまで無駄な攻撃を……」

 キツネの顔を思い浮かべ、強く壁を叩く。一気にヒビがヒビが広がり、周囲のパイプから埃が落ちた。




「東郷は、最初から詰んでいたんだ」

 截に肩を支えられ、逃げながら、キツネはクスクスと笑った。

「黒目細胞をぶち込まれたにも関わらず、抗イグマ剤によって強制的にイグマ細胞の比率を上まわされた東郷は、一時的に体の自由を取り戻した。だが、それはあくまで一過性のものであって、時間さえ経てば残った黒目細胞も増殖を繰り返し、奴の体を破壊する。当然奴自身もそれを知っていただろうが、認識が甘かった」

「どういうことだ?」

 暗い屋上を、転ばないように気をつけながら進み、截は聞いた。

「初めてファーストブラックドメインに入った東郷は、あれがどういうものかわかっていなかった。黒目細胞は、死んだ細胞に寄生し、擬似神経系を伸ばしてその細胞の主導権を奪い取る。僕たちが一体何度奴の細胞を壊したと思う? 傷をつけるたびに、奴の体では驚異的な速度で黒目細胞が増殖を続けていた。もう、命に届くレベルにな」

 キツネが辛そうだったので、截は移動をやめ、彼を壁に寄りかからせた。ちょうどヘリポートの左側に位置する場所だ。

「きっかけはお前の与えた心臓の傷だった。首の損傷に比べて、あそこの治りは妙に遅かった。考えてみれば、あそこは俺が黒目細胞を打ち込んだ場所の真裏だ。抗イグマ剤の細胞が死ねば、真っ先に黒目細胞が増殖する位置だった」

「それで、あそこまで強引に心臓を攻めさせたのか」

「別に嘘は言っていないだろう? 僕は言葉遊びはしても、嘘はつかない。冗談やからかいぐらいはするがな。まあ、おかげでこのザマだが」

 複雑に折れ曲がった右腕、血まみれの半身と腹部を見て、キツネは苦笑いを浮かべた。

「何故、あのとき俺を助けた? あそこで俺を犠牲にしていれば、無事に逃げれただろ」

「お前は僕にとって『最重要のこま』だ。こんな場所で失うわけには行かない。ただそれだけのことだ。別に情に流されたわけでも、上司としての責任感に追われたわけでもない」

 淡々とそう言うキツネ。恐らく、その言葉に嘘はないのだろう。だが截は、彼に命を助けられたことで、ここまでの犠牲を払って彼が自分を救ってくれたことで、彼に対して少なからず負い目を感じてしまった。庄平の敵だというにも関わらず。

「……何故そこまで俺にこだわるんだ? 俺は、ただ超感覚があるだけの普通の人間だぞ。お前みたいに才能も経験もないし、黒服内の実力でいっても良くて中の上だ。何故俺にそこまで期待できる?」

 今回の事件のことだけじゃない。思えば三年前、庄平を殺した直後から、彼は自分に対して妙な期待を見せていた。いくらあの地獄を生き残ったからとはいえ、戦い方も知識もなにもないただのド素人だった男に、だ。戦闘能力で言えば翠だってかなりのものだし、安形もそれなりに戦える。部下に拘らなければ優秀な黒服隊員だって数多く居るのだ。何故、自分だけがこれほどまでに特別視されるのか、截にはわからなかった。

 キツネは涼しそうに目を細め、背を壁から離した。

「何も特別視などはしていない。ただお前が……」

「俺が……何だ?」

 僅かに間が空く。

 しばし時がたったあと、キツネは何かを言おうとした。

 だが運が悪いことに、ちょうどそのタイミングで、東郷がヘリポートを挟んだ向かい側へ降り立った。砂埃の波が広がり、重い衝撃音が響く。

 キツネは開けかけていた口を閉じ、そこへ視線を移した。

「……まだまだ元気そうじゃないか」

 彼の全身に浮かぶ黒い斑点をを見て、楽しそうにクスクスと笑う。東郷は眉間に強く皺を寄せ、激しくこちらを睨んだ。

 感じるするどさに変化はない。しかし截の目には、彼がかなり疲れているように見えた。

「俺は、俺は六角を追い詰めなければならない。奴を極限まで苦しませなければならないんだ。こんな、ところで……」

 一歩足を踏み出し、強大な腕を地面につける。

「このまま死んでは、妻に……彼女に顔向けができない。俺はまだ、何もむくいていない」

 長年力を蓄え、仲間を増やし、組織を作り、自分の体すらも捨て復讐の鬼と化した。六角構成を倒すためだけに、何もかも捨て全てをかけてきた。その結果、生まれたものといえば、数え切れない死体の山だけだ。疎まれ、憎まれ、最後には利用され死を迎える。そんな東郷大儀の人生に、截は多少の同情心を抱いた。

 赤い光が遠くから伸び、キツネの血塗れの顔を照らした。真っ暗だった周囲が、かすかにオレンジ色に染まる。朝日だ。

 ――タイムリミットか? いや、まだ飛行機やヘリの音は聞こえない。まだ、まだ間に合う。

 東郷大儀は弱っている。キツネの力によるところが大きいとはいえ、ここまで追い詰めたのだ。あと少し、あと少しダメージを与えることができれば、勝てるはずだと、截は手に力を込めた。

「ディエス・イレ(怒りの日)とは、神が最後の審判を行う日。救済を与える者と、地獄の責め苦を与えるものに、人間を分類する日のことだ。俺は、このテロで、イグマ細胞の存在を解き放つことで、イミュニティーや六角に虐げられてきた多くの人間の苦しみを開放し、奴らの悪事を世間に暴露するつもりだった。全てに決着をつけるつもりだった。普通に災害を起こすだけでは食い止められ、隠蔽されるが、ブラック・ドメインの開放となればその規模もイグマ細胞の濃度も違う。これが、最後の希望だったんだ」

 東郷の目から黒い涙が流れた。

「たとえいくたび体を貫かれようと、細胞を殺す毒を打ち込まれようと、その目的を達成するまで俺は決して死なない。死ぬわけにはいかないのだ!」

 とてつもない覚悟を背負っているかのように、鬼気迫る気迫が伝わる。だがそれでも、截は真っ直ぐに彼を見つめた。

「自分のエゴで他人を殺した時点で、お前も俺も、六角たちと何も代わらない殺人者だ。いくら綺麗ごとを述べようと、正義を振りかざそうと、そんなものはただの飾りだ。己の行動を正当化するための言い訳でしかない」

「……綺麗ごとの何が悪い? 結局、正義だ悪だんなんてものは幻だ。人は自分が心地よく生きることしか考えていない。何故人を殺してはいけないのか? 答えは実に簡単だよ。自分が殺されるかも知れないからだ。人間は自分たちが生きるために、自分の命を守るために、法律というルールを作り、正義だなどという薄っぺらなシールを貼った。警察も、法律も、結局は己の身を守るために必要だったから存在するのだ。どう御託を述べようとも、この世は結局、エゴで動いている。エゴを押し通せたものが、正義であり、勝者なのだ。自分のやってきたことが悪だということはよく理解してるさ。だが、それを成功させてしまえば、世間からなんと言われようが、目的さえ叶えば、それは勝者なのだ」

 黒い涙を流しながら、東郷は一歩ずつこちらへ近づいた。

 彼の言いたいことは何となくわかった。結局どうつくろおうとも、この世界は力のあるものが支えている。不利益になりそうな場合は武力で脅し、己の意思を通す。そして利益になりそうな場合は、その武力を持って欲しいものを強引に奪い取る。学校でも、企業でも、政会においても、国家間のやり取りですらも、何も変わらないこの世の心理だ。

 自分のやっていることが最悪な行為だとわかっていてなお、東郷はこのテロを起こした。多くの人間を殺した。結局のところ、彼は妻を殺した六角が許せなかっただけなのだろう。深く妻を愛していたからこそ、子供の存在を大切に思っていたからこそ、受けた仕打ちに耐えられなかった。その苦しみを、思いを支えきることができなかった。だから、自分の外に、六角構成という明確な敵をつくることで、その苦しみを、痛みを発散していた。突き詰めれば、それだけのことだった。

「そうだな。……結局は、意地を通し抜けた奴が、勝ちなんだ」

 もしかしたら、東郷は草壁の登場を知っていたのかもしれない。知っていて、利用されているとわかっていて、それでもなお、こんな行動に出るしかなかった。そうしなければ、心に巣食った苦しみに耐え切れなくなっていたから。

 体だけじゃない。心理的にも、東郷は既に限界だったのだ。

 己の体を引きずるように、キツネが腰を落とす。あの大怪我を受けた状態で、なお戦う意思が消えていないようだった。

「無理するな。複雑骨折してるんだぞ? とんでもない激痛のはずだ」

「拷問を受ける訓練は気が狂うくらい経験しているからな。こんなもの、痛みの内には入らない。……だが、流石に前衛で戦うのは無理だ。僕はお前のフォローに徹するとするよ」

 黒柄ナイフを腰に仕舞い、代わりに小型ナイフを抜くキツネ。そういえば、彼は投げナイフが得意だったなと、截は思い出した。

 朝日がさらに昇り、暗闇に切れ込みを入れていく。光に照らされることで初めて、截は自分の服装を顧みた。何度も返り血を浴びたからか、灰色だったはずの服は、赤い太陽の光も相まって、真っ黒に見える。まさに、『黒服』だ。

「様になってるじゃないか」

 キツネはおかしそうに口元を歪めた。

 この男にも、通したいエゴがあるのだろうか。ただ六角構成を止めたかった、気に食わなかったというだけでは、ここまでボロボロにまでなって戦い続けるとも思えない。血塗れのキツネを見て、截は何となくそんなことを思った。

 東郷がさらに距離をつめる。彼も追い詰められていることには変わりないが、放たれる殺気と気迫は、身を震わせるには十分なものだ。

 亜紀と友の顔を思い起こす。

 ――俺も、まだ死ぬわけにはいかないんだ。

 截は目を開け、二本のナイフを構えると、最強の怪物に向かって、飛び込んだ。

 

 

 弱っているとはいえ、赤鬼の身体能力と、東郷大儀の格闘技術が脅威であることは、未だにかわらない。磨り減り、死を迎える直前の東郷は、もう失うものなど何もないとでもいうように、自分が傷つくことを一切恐れず捨て身の攻撃をしてくる。例え傷を受けることで黒目細胞の侵食を受けようとも、それが全身に回るよりもはやくこちらを殺せばそれで勝ちなのだ。まるで特攻のような彼の攻撃に截は防戦一方になった。

 疲労や損傷具合からみれば互角かもしれないが、それは黒目細胞の影響とキツネの存在があったからだ。彼が補佐に回ったことで、こちらは絶大なハンデを負ったことになる。截は今、これまでの人生でも類をみないほどの、死に物狂いの戦いを強いられていた。

「ぐっ――!」

 東郷の爪がかすり、左足の太ももの肉が削げる。白い骨が一瞬顔を出した。痛みに苦しむ暇もなく、東郷の肩が迫る。

 ただの体当たりでしかないが、東郷がそれをやれば車一台を簡単に吹き飛ばせるほどの威力になる。どんな攻撃も、受けるわけにはいかなかった。

「――ぁああぁあっ!」

 叫びながら身をひねる。血の吹き出る左足を前方へスライドさせ、東郷の背後へ体を飛ばす。振り返ろうとした東郷の足首に、キツネのナイフが刺さった。再生しようとも、物理的に不可能な挙動は行うことができない。固まった東郷の脇へ、全力で白柄ナイフを叩き込み、横へ回して引き抜いた。さらに返り血がかかる。

 刺さったナイフを弾き飛ばし、東郷が肘を撃つ。截はバックステップでさがったが、タイミングが遅く僅かに胸部へそれを受けた。ミシリという音が鳴り、肋骨の一部が砕ける。

 この位置ではキツネの援護を受けることができない。截は全ての痛みを無視し、右斜め前飛んだ。

東郷はさらにそれを追おうとしたが、黒目細胞の痛みで鈍ったのか、動きを遅らせる。その間に、截は二メートルほど、距離を開け遠のいた。

「この……羽虫が……!」

 口から黒い液体を垂れ流しながら、東郷が地面の一部を握りつぶす。

 自分の怪我に気を配っている余裕などない。瞬きをした瞬間、死んでいるかもしれないのだ。截は膝を折り曲げ、再度突撃をしようとした。東郷もそれに応じるように両手を腰へ移動させる。

 だがいざ突っ込もうとしたそのとき、截は妙な気配を感じた。

 ――なん、だ? 

 東郷からではない。もっと遠く、常世国の外。小さいが、かなりの数の脅威を感覚が捕らえる。

 東郷も何かを察知したのか、どうどうと視線を横へ動かした。

「これは……悲鳴……か?」

 そう怪訝そうに眉を細める。

 空気が、おかしかった。

 右側、ちょうど町の中心部のほうから、なにやら騒ぎ声のようなものが聞こえる。多少ためらったが、相手がすでに目を逸らしているのだ。截は僅かに、視線をそちらへ向けた。

 真っ赤な朝日に照らされかけていることで、街の様子が良く見える。すぐに、截はあるものに気がついた。

「……煙?」

 所々から、灰色の柱が立ち上がっている。銭湯の湯気や焚き火というよりは、火災現場で目にするような、あんな煙だ。何かが妙だと、感じた。

 戦いのことなど完全に意識から忘れ、さらに目を凝らす。すると、複数のヘリがそこら中で飛んでいるのがわかった。一瞬爆撃用のヘリかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。くるくると、街の中を徘徊している。

 ――あれは――

「黒服のヘリだな」

 断言するように、背後でキツネが言い切った。

「な、何だ? 感染者はまだ出ていないはずだ。何が起きてる?」

 ブラックドメインへの出入り口はここの高速エレベータだけ。正規の扉は全て強化シャッターで塞がれているし、内部の感染者が漏れるはずはない。イグマ細胞が流出していても、あれほど遠くにまで広がっているなんてありえない。あれは、こことはまったく関係のない、『別のもの』が要因だとしか思えなかった。

「どうりでここまで日の光がでても、何も来ないわけだ。……最悪だな」

 截がこれまでに見たことのないほど、落胆しきった表情を浮かべるキツネ。それだけで、どれほどの事態かが想像できた。

 次第に増えていく煙。

 騒音。

 人の声。

 遠くを見つめたまま、キツネは重々しく呟いた。

 「六角構成あのおとこ、とうとうやりやがった」

 

 

 




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