<第三章>髑髏鬼
清掃員の手首を切り落としてから、截の立場は悪くなっていた。
この洋服店の中に避難している人間の多くは、あの鬼が感染増殖するということも、イグマ細胞による産物だということも、何も知らない。
だから真っ黒なレインコートを被り、あからさまに銃刀法違反である大きな刃物を所持していた、しかも自分たちの一人を傷つけた、そんな截に恐怖の視線を向けることは当然の反応だった。
それらの視線から逃れるように店内の奥、職員用の控え室に入ると、截は残った包帯を取り出し、それを自分の顔へと巻いた。
――フードを被っている理由は、鬼から受けたこの頭の怪我を見られたくなかったからってことにして、問題はここからの脱出だな。いくらなんでもこれ以上行動を共にすれば、流石に亜紀も怪訝に思うだろう。
非常用の救急箱でもあったのか、店内には自分のように包帯を頭や顔に巻いている人が二~三人居た。決して不自然ではないはずだ。
再びフードを被り、生存者たちがいる商品部屋へと戻る。
截の黒い姿が見えるなりに、部屋にいた面々の顔に緊張の色が走った。
打ち合わせでもしていたのか、扉を閉める時に活躍していた店員と、ガテン系の中年の男がお互いに視線を混じらわせながら截へと近付く。
截は彼らの茶色の長髪と、短い短髪を視界に納めながら、何気なく視線を移した。
「おい、お前。一体何者なんだ? あんな物騒な真似しやがって」
物騒とは清掃員の手を切り落としたことを言っているのだろう。截はガンを飛ばすようなそのガテン系の男の目を真っ直ぐ見つめ、素直に答えた。
「僕はこの常世国と関わりのある会社の人間です。さっきあの人の腕を斬ったのは感染を止めるためですよ。ああしなければ彼は外を歩き回っている鬼と同じような化物になっていた」
「か、感染? 何を言ってやがる」
感染という言葉に一瞬驚いたような顔をしたもの、それが嘘だとでも思ったのか、男は引き続き責めの言葉を続けた。
「とにかくさっきのナイフをこっちに渡せ。お前が持っているとまた誰かが傷つくかも分からん」
「無理ですよ。これは僕のナイフだ。ちゃんと国に正式な許可も取っている」
截は財布を取り出すと、そこから一枚のカードを取り出した。
このカードはイミュニティーの隊員が銃刀法違反から逃れるために作られたもので、国が正式に認めている証明書だ。截は黒服として活動するうちにイミュニティー側の恩恵でこれを手に入れ、自由に利用していた。
「僕が所属しているのは派遣警備員のような会社でして、刃物の所持が認められているんです。あなたがこのカードを無しにナイフを持つことは犯罪になる」
「はぁ? ……そんなもの知るかよ。いいからそのナイフを渡せって」
だが、そんな証明書の存在を何も知らない男はカードを一瞥すると、すぐに視線を逸らし、截の前に手の平を突き出した。
その顔を截は無表情で見つめる。
「何睨んでんだよ、さっさと寄こせ」
男は凄みのある声を出し、截の腰に手を伸ばした。
そしてその瞬間、截は男の膝裏をかかとで蹴り、同時にその胸を押した。
「おごっ!?」
男は仰向けにひっくり返るように倒れる。
「この野郎!」
一部始終を見ていた店員が殴りかかってきたが、截は彼の腕を首を僅かに傾けかわすと、そのまま足を引っ掛け横転させた。傍から見ていた人々はその一連の動きに驚嘆の声を漏らす。
激しく動いた影響で截のフードは捲れ、その奥に隠してあった包帯だらけの顔を表に出した。
「僕はさっきこの目で人が感染するところを見たんです。この傷はそのときに受けたものだ。信じてもらえますか」
猫のように鋭い目を倒れている二人に向け、フードを被りなおす。
それを見た男は簡単に床に這い蹲らされたこともあり、何も言葉を返すことが出来なかった。
――不安で感情を爆発させられる対象を探している。不味いな……ここに立て篭もる時間が長くなれば、なるほどまたこういった争いが起きるかもしれない。
訓練を受けている自分とは違い、ここに集まった多くの人間はこんな異常な状況、世界に慣れてはいない。一刻も早く脱出しなければ殺し合いが起きるかもしれないと截は思った。
皆の緊張を高めないように静かに壁際へと移動すると、そこに居た亜紀と目が合う。
亜紀は不安そうな、怖がるような、不審そうな目でこちらを見ていた。
その顔を複雑な心境で見つめると、截は座り込んだ。
顔を下に向け、出来るだけ早くこの悪夢が終わることを願う。
イミュニティーの救援が現われ、無事に亜紀が脱出する。
それだけが、今の望みだった。
截たちが駆け込むと同時に洋服店内へ入った集団に、姉宮夏は居た。
截や感染者、そして店員とガテン系の男が起こした一騒動が過ぎ去った頃。彼女は体育座りの姿勢でぶるぶると震えていた。
必死に逃げた性で所々着崩れし、無数の皺を刻んだセーラー服。
上の一部を小さくツインテールに結んだ黒っぽい茶色の長髪。
どこからどう見ても、そこら辺にいる普通の女子高生だ。
他の人々が畏怖の篭った視線を截に向ける中、彼女だけは別の意味で彼を見つめていた。
あの男は普通の人間とは違う。
この異常極まりない状況の中でも冷静に行動し、自分を見失わずに過ごしている。
先ほど二階でサラリーマンの男が感染する現場を目撃した夏は、千秋や亜紀を省き、唯一截の言葉を理解していた。
あの時截が手首を切り落とさなければ、この密閉された場所で「鬼」が出現するという最悪の事態を招いていたはずだと。
恐怖に震える自分の体を腕に抱き、夏は思った。
あの男についていけば自分は死なない。
助かるかもしれない。
外に出れるかもしれない。
何とかしてあの男に近付く必要がある。
あの男に守って貰う必要がある。
どんな手を使っても。
他の何を犠牲にしようとも。
自分の不安を、恐怖を紛らわせるように、夏はそればかり考えていた。
――送信完了っと。
亜紀はメールを送り終わると、携帯の画面を見た。
そこには国鳥友と宛先が表示され、本文には自分の身に起きたことや、助けを求めていることなどが簡潔に書かれている。
これでここに立て篭もってさえいれば、後は彼が助けに来てくれるはずだ。亜紀はそう確信していた。
携帯を閉じてズボンのポケットにしまう。
そのまましばらく考え込んでいたが、ふと気になり、隣に座っている截を見た。
半時前、僅かだけ見えた彼の顔にどこかで見たことがあるような違和感を感じていた亜紀は、もう一度そのフードの奥を見たいと思った。
包帯の奥から覗いているあの目には懐かしい感じがする。
まるで自分のことを知っているような、守ろうとしているような、そんな目だった。
「……ん?」
何やら肩に圧力を感じ、截は顔を上げた。横を向くと、躊躇いがちに亜紀がこちらを見ていた。
――バレたわけじゃないよな……?
僅かに躊躇した後に、截は低い声で亜紀に声をかけた。
「何ですか?」
動揺を隠すように、機械的な言い方で尋ねる。すぐに答えが返って来ると思ったが、亜紀は困ったように微笑み、その細い指でフードを指差した。
――何で喋らないんだ? そういえば、まだ会ってから一度も声を聞いていないな。
再会したときと同様の彼女の様子に流石に疑問を持つ。
「フードを外せってことですか? 悪いですけど、あまりあの包帯だらけの顔を見られたくは無いんです。勘弁して下さい」
そう断ってみたが、どうやら亜紀の目的は違うらしい。彼女は自分の頭に手を置くと、治療するようなジャスチャーをして見せた。
――ああ、頭の怪我は自分では対処し難いから、ちゃんと見てあげるってことか?
そう彼女の動きを介錯したあとに、截の頭に不安な影が走った。
亜紀の行動とこれまでの動きを思い出す。
「まさか……」という思いが浮かんだ。
「話せ……ないんですか?」
恐る恐るそう聞くと、亜紀は困ったように頷いた。思い出したくない何かに耐えるような瞳で。
「何で?」、「どうして?」、頭の奥を金槌で打たれたような衝撃と共に、截はすぐにその原因を理解する。
決まっている。
三年前のあの事件だと。
一女子高生だった彼女にとって、あの事件の恐怖や精神的な不安は到底耐えられるものではなかったはずだ。
いや、もしかしたら、自分の死も関係しているのかもしれない。
――そんな……!
截は後悔と亜紀に対する懺悔の気持ち、そして再びそんな彼女をこんな事件に合わせてしまった運命に、呪いの言葉を吐いた。
「いつから、ですか?」
震える声で聞く。
亜紀は何故截がそんなことを聞くのか、不思議に思いながらも、指を三本上にあげた。
それを見て、截は確信する。
やはりあの事件の所為だと、あの時の悪夢が、自分の死が、彼女をこんな状態へと追い込んでしまった。
泣きたくなるような申し訳のない気持ちを心に抱き、截は顔を伏せた。
絶対に彼女をここから出さなければならない。
なるべく早く。
この悪夢から。
自分と彼女の運命を狂わせたこの地獄の領域から。
何がなんでも、必ず――……!
亜紀の視線を感じる。
截はゆっくりと顔を上げる。
「……頭の傷はこう見えても大したことはないんです。気にしないで下さい」
そして辛うじて、その言葉を搾り出した。
「何あれ……?」
黒いカーテンの隙間から外の様子を見ていた千秋は、鬼たちが奇妙な動きをし始めたことに気がついた。前に掛かった邪魔な自分の前髪を押しのけ耳にかける。そして片目を扉に押し付けるように、ガラスに近づけた。
既にホールに人の気配はなく、殆どの人間はどこかに隠れたか、逃げたか、殺されたか、感染したかの道筋を辿っている。二十匹あまりになった感染者――鬼たちは自由気ままにホールの中を徘徊していたが、その内の一部が呻き声をあげ、頭を上に向けていた。
「ザァアァア……!」
千秋がそのままこっそりと様子を伺っていると、その鬼たちの体に変化が見られた。
赤灰色に染まっていた肌は人体模型のように筋肉がむき出しとなり、白い筋を全面に表出させる。
浮き出ていた体中の骨は完全にその姿を体外に出し、禍々しい形となり外骨格のフレームのように、全身を網目に覆いつくした。
さらに、もっとも特徴的だったその頭部は顔の前面が完全に髑髏にしか見えなくなり、まるで中に肉の詰まった骸骨から毛が生えているようだった。
膨れ上がったその禍々しい髑髏鬼は、一回り小さい元の鬼たちを押しのけ、より攻撃的に周囲の探索を始めた。
――第二形態? それにしても早すぎる……!
通常イグマ細胞の感染者が第二形態へと進行するには、二日か三日の時間を要する。だが、目の前にいるこの化物は災害発生から僅か一時間足らずで体を変化させてしまった。あまりに恐るべき成長速度だ。千秋は戦慄し、自分の体が震えるのを感じた。
「みんな大丈夫か?」
隊員たちの詰め所に辿り着き、用意されていた椅子に腰を下ろすなりに、六角行成はそう聞いた。
普段は休憩室として使用されるこの部屋は、今では完全に様変わりしていた。
置かれていた全ての長机は一つにまとめて中央に設置され、その周囲を囲むように椅子がある。そしてそのそれぞれに紺色の隊服や警備員の服を着たイミュニティーの面々が座り、正面に居る六角と臨時で用意されたモニターの映像を見ていた。
「六角代表、警備の者が事件発生直前に東郷大儀の姿を目撃したそうです。やはり、これはディエス・イレのテロかと」
警備主任であり、この詰め所を任された男、中崎が言う。
「やはりそうか。二日前の復讐のつもりだろうな。――脱出が可能なルートはいくつある?」
「管理区画から外に出る道は全て感染者に塞がれています。商業区画の方も、感染拡大措置のためにシャッターを下ろしていますし、正規のルートからの脱出は困難かと」
「君らは化物退治のプロだろ。あの感染者たちを殲滅することは出来ないのか?」
「それが……今回の感染者たちは――我々は鬼と呼んでいますが、彼らの性能は凄まじく高く、既にルートを確保しようと送った隊員に死者や怪我人が出てしまいました」
「何人だ? 倒した鬼の数は?」
「死者が九人。倒した鬼の数はゼロです」
「ゼロだと!?」
六角は我が耳を疑った。イミュニティーの隊員は黒服の者たちには劣るとはいえ、考えられる全ての事態に対する完璧な訓練を受けている。それが、そんな彼らが、まさか上級感染体でもない、ただの感染者にいい様に殺されるとは思ってもいなかった。
「いったいあれはなんなんだ?」
それは当然の疑問だった。
「分かりません。全く情報がないので……今のところはなんとも……」
中崎は恐縮するように肩を落とした。それを見た六角はあからさまな溜息を吐く。
「このままではジリ貧だ。どうにかならないのか?」
「増援の要請を出しましたので、数時間以内には実績を持った隊員たちが駆けつけるはずです」
中崎の左に座っていた女性の隊員が全員の不安を慰めるように言った。だが、その言葉で六角の不機嫌さは上昇してしまった。
「増援? 君たちも正規の隊員だろ。何故君たちだけで解決する事が出来ない。一体普段君らは何をやっているんだ?」
「す、すいません」
釣りあがった目で睨まれた女性隊員はそのまま顔を伏せ、落ち込んだように席に座りなおしてしまった。
「――こうなったら……仕方がない。黒服を雇うか。彼らは一人でイミュニティー一部隊ほどの実力があるからな」
「で、ですが、既に増援部隊の編成が始まっているのですよ」
「ああ、それはそのまま続けさせてくれ。ただ僕は、自分の生存率を上げたいだけなんだ。君らやイミュニティーの人間では実力に心もとない。分かってくれ」
ディエス・イレの崩壊に黒服が関わっていたという噂は当然ここにいる幹部たちはみな知っていいる。この時期に黒服を雇う事の危険性を、誰もが一考した。
部下たちの考えていることを悟ったのだろうか。六角は急に表情を崩しながら彼らを見渡した。
「心配ない。雇うのは僕がもっとも信頼している人間だ。あの男なら、何も危険はないさ。そもそも、黒服が僕に危害を与えて一体なんの得がある?」
六角は自然な笑みを浮かべ、そう言った。
「……分かりました。代表がそうおっしゃるのなら、私は何も言いません」
六角が救助を頼もうとしている相手が誰か予測がついた中崎は、諦めたようにそう答える。
「取り合えずはここで待機ということになりそうだ。黒服にしろ、増援組にしろ、脱出ルートが確保出来ない限りはどうしようもない」
そう言うと、六角は席を離れた。
「何処に行かれるので?」
慌てて会議に参加していた一人の隊員が聞く。
「何、このところずっと働き詰めでね。少し休むよ。今後のためにも十分に体力を作っておいた方がいい」
「この状況で寝るのか?」といったような表情を浮かべている彼らを背に、六角は歩き出した。
何故ならばそれが六角自身の生存力をあげるもっとも確実な方法だったのだから。
睡眠を取ることによって、彼の「感覚」は力を発揮する。
全てを見通し、先読みする正夢、予知夢として――
截はこの洋服店にいる他の人間の不穏な動きを感じ取った。
先ほど自分と争ったガテン系の男や長髪の店員を中心に、数人の男たちが何やら部屋の隅でひそひそと話し合っている姿が見える。
外に蔓延る鬼の軍団。そして中に紛れている怪しすぎる男。
まるで板ばさみのように襲い掛かった不安が、彼らの心を狂わせていた。
「あいつ、今は大人しくしているが、いつ何をするか分からない。俺たちが寝ている間に首を斬るかもしれないぞ。今のうちに動けないようにとっちめた方がいい」
「そうだな。でも本気でやるのか? あいつなんか荒事になれてそうだったぞ」
ガテン系の男の物騒な言葉に、店員は躊躇う素振りを見せた。
「何言ってるんですか。ただでさえ店の外があんな状態なのに、これ以上ヒヤヒヤする要素を抱えるなんてごめんですよ。わ、私はやりますよ」
メガネをかけた買い物客らしき中年の男がチラチラ截の方を向きながらそう言った。それに対し、店員が疑問をぶつける。
「でも、あのデカいナイフはどうする? 刺されたらもともこうもないだろ」
「おう、だからいきなり殴りかかるんじゃなくて、最初に会話に持っていくんだよ。一人があいつの気を引いている間に、残りの数人が後ろから腕を拘束する。いくら何でもあいつだって会話してきている相手に斬りつけたりはしないだろ」
「そ、そうか……それならなんとかなりそうだな……!」
ガテン系の男のセリフにようやく安心したのか、長髪の店員は自分の手の平を合わせ、不安を紛らわせるようにぎゅっと握りしめた。
怪しげな目つきで時たま自分の方を振り返る男たちを見て、截はすぐにその狙いを理解した。
彼らは自分の存在を許すことが出来ない。
自分が平然と同じこの空間にいることが不安で堪らない。
極限状態の精神が、彼らの心のベクトルをそう一つの考えへと結論づけたのだ。
――まずいな……五人か。さすがに同時に相手にするのは厳しい。
出来れば揉め事になるような真似はしたくなかったが、唯一の武器を取り上げられるのも、自分の身を拘束されるのも、何が起きるか分からない現状では命取りとなる。仕方がなく、截は臨戦態勢を取った。
壁につけていた背を離し、僅かに腰を曲げる。
「行くぞ」という掛け声と共に部屋の奥で男たちが立ち上がったとき、それは起きた。
「え、まさか……!」
千秋は口元を押さえ、扉からさがった。
第二形態へと変貌した髑髏鬼がその体中の筋肉を膨れさせ、スタート前のマラソン選手のように前傾姿勢を取る。カーテンの隙間から覗く千秋の目と視線が合うと、髑髏鬼はほくそえむように、自慢するように高らかに鳴いた。
「ザァァアアァアッー!」
「みんなさがって!」
後ろに飛ぶようにその場から離れる千秋。今にも一色即発の状態だった男たちと截は、その声に動きを止めた。
「ドンッ」という激しい音と共に、扉のガラスにヒビが入る。
「なっ……」
――特殊強化ガラスだぞ!
波紋状に広がってゆくその割れ目を見て、截はカーテンの隙間から見える髑髏鬼の姿に恐怖心を抱いた。
再び髑髏鬼が突撃し、大きな音と共にヒビの範囲が増える。
――ヤバい、入ってくる!
截は立ち上がり、亜紀の腕を引いて一緒に壁際にくっ付くと、その瞬間に備えた。
刹那、銀色に輝くガラスが飛び散り、部屋の中にきらきらと反射による光の花火が生じると同時に、髑髏鬼がその赤灰色の体を、筋肉繊維がむき出しとなった禍々しい体を、無力な獲物が無数に潜むこの最後の安息地へと投げ入れた。
「う――ああぁぁぁぁああああ!」
「あああぁあああっー!?」
「ザァアァアァァァァァアアアア!」
髑髏鬼に連れられて続々と鬼たちが入ってくる。
洋服店内に隠れていた人々はみな飛び上がんばかりに絶叫をあげ、顔を醜く歪めた。
「亜紀ちゃん!」
千秋は入口から見て右斜め前にいた截と亜紀に近寄ると、彼女を守るようにその頭を胸に抱いた。
――……一点突破するしかない!
鬼たちが店の中にいる人々に気を取られている今なら、まだ助かる望みはある。
ここにいる全員を無事に救うことなんて不可能だし、自分の命を守れるかすら怪しい。
截はただ、亜紀だけは助けたい、亜紀だけは殺させてなるものかと、二本のナイフを抜き、彼女たちを背に隠すように立ちながら、そう強く心に念じた。
「俺から離れるな!」
背後にいる二人にそう叫び、冷や汗の滴る顔を向ける。イミュニティー隊員である千秋はすぐに截の意図を察し、頷いた。
感覚が知らせる。
あの部屋の中央にいる髑髏のような鬼には手を出すべきではないと。
あいつが自分たちに目をつければ全てが終わる。
ただの鬼しかこちらを向いていない今しかチャンスはない。
久しぶりに感じる身を包むような死の気配に耐えながら、截はナイフを握りしめ、床を蹴った。
この場所から店の出口まではやく四メートル。外には二体の鬼が待機していたが、扉までの間にいる鬼は一体のみ。截はその鬼に体当たりするように突っ込むと、ナイフを勢い良く繰り出した。だが、鬼は截の存在に気がつくとすぐに後方へと飛び、その攻撃を避ける。空振りしたことに軽い苛立ちを覚えつつも、截はそのまま足を進め割れたガラスの前にいる鬼に二撃目を打ち出す。後ろにある扉の淵に足を取られ、鬼は截のナイフをかわすと同時に仰向けに倒れた。
「行けっ!」
今しかチャンスは無い。截はそう叫ぶと倒れた鬼に止めを刺すため、飛び掛るようにナイフを振り下ろした。勢い良く風を切ったため、被っていたフードが後ろに落ちる。鬼は背中に突き刺さったガラスの破片に痛みの声をあげながらも、截のナイフを咄嗟に自分の腕の側面で防ぐ。ギリギリと黒い血が流れるその腕を截が押している間に、背後を亜紀と千秋、そして付近にいた数人の者たちが駆け抜けた。
店の目の前には二体の鬼が居る。
截は真下にいる鬼に止めを刺すことを諦め、その鬼の体をマットのようにして前方へと転がった。顔を上げると同時に店の中に居た髑髏鬼と目が合う。
――不味い!
そう思ったが、髑髏鬼は截よりも目の前にいる店員の方が狩り易いと感じたらしく、あっさりと視線を逸らすとその店員にのしのしと近付いていく。店員は截に気がつき、助けを求めるような視線を送ってきたが、二体の鬼から今すぐにでも亜紀たちを守らなければならない以上、彼を助けるわけにはいかない。
截は歯を噛み締め、心の中で彼に対する謝罪の言葉を述べながら、視線を外し亜紀たちと、それに引き付けられた鬼の後を追った。
ホールを走り出してすぐに店員のものと思われる絶叫が響き、その声が強く自分の心を締め付ける。
一階ホールを歩き回っていた鬼や髑髏鬼たちは、目の前を走りぬける亜紀たちや截に気がつくと、嬉々としてその後を追いかけ始めた。
生存者たちの中で一番後ろを走っていた夏に狙いを定め、一体の鬼が跳躍する。が、横を走り抜けられたあとに夏に気づき彼女を襲おうとした別の鬼が右から飛び出したため、その鬼は飛び出した鬼とぶつかり地面に転がった。その際、店の前から亜紀たちを追っていたもう一匹の鬼も巻き込まれ速度を落とす。
截は彼らの間を何とか走り抜けると、最後尾にいた夏の横へと辿り着いた。
「頑張れ!」
そういって青い顔で前の集団から僅かに遅れていた彼女の背を押す。それに励まされたのか、夏は自分に気合を入れなおすと、力を振り絞るように足を動かした。
この逃走集団の先頭を走っていた亜紀と千秋はホールを抜け「憩いの広場」へと到達した。
一時間前までは多くの客が弁当やペットボトルなどを手に握りこの広場で休んでいたのだが、今は尋常ではない量の血が広がるだけで死体の姿しか見ることが出来ない。
亜紀は強すぎる血の臭いに吐き気を催しながらも、必死にそれらの凄惨な亡骸から目を逸らし、走り続けた。
このまま真っ直ぐに行けば第二出入口へと繋がる長い廊下と、その前にあるスポーツ良品店区域に入るのだが、亜紀たちが憩いの広場を抜ける前に向かいから数体の鬼が物凄い勢いで駆けて来たため、その逃走ルートはいきなり消えた。
「亜紀ちゃん、あそこ!」
憩いの広場の側面にある窓ガラスは全て高い位置にあり、広場の隅にある梯子を昇ることでその開け閉めやカーテンの操作を行える。千秋は前後に現われた鬼から逃げるために、その梯子を指差し、進むようにと支持を出した。
広場の両端から無数の鬼と髑髏鬼が迫ってくる。それを見て截は舌打ちした。前にはまだ多くの生存者がおり、とても自分が梯子に辿り着くころまで鬼が待っていてくれるとは思えない。
「――こっちだ!」
梯子は第二出入口側の通路口を挟んで二つある。截は前を走っていた数人に声をかけると、亜紀たちが昇ったものとは逆の方へと走り出した。僅か一メートル付近まで迫った鬼の合間をぎりぎりで駆け抜け梯子に手を付く。昇りながら後ろを振り返ると、自分に付いてきた人間はたった二人であり、ついてこなかった者たち、先に向こうの梯子を昇りきった二三人以外の生存者は全て鬼に捕まってしまっていた。
「助けてっ!」
足先を無数の鬼の腕が霞め、夏は目に涙を浮かべて叫ぶ。截ともう一人の生存者が彼女を持ち上げた途端、その足があった位置を髑髏鬼の腕が通過した。
「梯子を外すぞ――!」
鬼は梯子を昇るという行動を理解しているのか、夏が上に上がると同時にその手すりへと手を伸ばす。それを見た截ともう一人の男は、壁際に背を付くと、仰向けに寝るような格好で梯子の上を蹴った。
「ザァアァアァァアッ!」
その間もゴキブリのような物音を立て鬼が梯子を昇ってくる。截たちはいつのまにか自分が蹴っているものが梯子なのか鬼の頭なのか分からなくなっていた。
もう梯子を外す事は無理だと諦めかけたとき、下にいた数体の髑髏鬼の一匹が梯子に手を付き、引っ張った。昇ろうとしたのかは分からないが、その強烈な力で留め金が大きく歪み、梯子が揺れる。
――取れろ!
最後に截が渾身の蹴りを突き出すと、ぶら下がっていた鬼の重みが助けとなり、梯子は外れた。
「やったー!」
一緒に蹴りの雨を繰り出していた男が嬉しそうに大きな声を出す。亜紀たちのことが気になった截は素早く目を反対側の梯子の上に向けたが、幸いなことにそこの梯子もしっかりと外れていた。どうやらこちらと同様、無理に昇ろうとした髑髏鬼の力でネジが外れたようだ。随分綺麗に分解されていた。
熱狂している格闘技ファンのような鬼の熱い吐息と声が真下から響く中、店から出てきてやっと呼吸することが出来たように、截は深く息を吐いた。
「――危なかったな。あんたがこっちの梯子を見つけなきゃ、今頃どうなってたか分からなかったよ。助かった」
横に寝ていた生存者の男が苦笑いとも微笑みとも取れない奇妙な笑顔で礼を言う。どこにでもいそうな普通の、気のよさそうな中年の男性だった。
「いえ、こちらこそ助かりました。手伝ってくれてありがとうございます」
自分一人の力で昇ってきた鬼を全て蹴落とすことなど出来なかっただろう。お互いに命を救いあったようなものだ。截は本心からそう言った。
「俺は長島春道。孫の誕生日のプレゼントを買おうと思ってここに来たんだけどな。参ったよ」
長島は手を出しながらそう言った。
「巳名截です。僕のことは……先ほど説明しましたね」
「ああ、あんときは正直俺もあんたのこと怖かったんだが……まあ、今はそんなこと思ってないから安心してくれ。命の恩人だしな」
握手を交しながら、躊躇いがちに笑う。ほんの僅かな時間彼と会話すると、截は立ち上がり、向かいの生存者たち、といっても亜紀と千秋と見知らぬ男の三人だけなのだが、彼らの方に向き直った。
「そっちは大丈夫ですか?」
片手を口の横に当て、声が良く響くように導きながら尋ねる。
亜紀は何も話す事が出来ず、男は截を怖がっているようだったので、千秋がそれに応じた。
「大丈夫です。――これから、どうします?」
良く通った声でそう聞く。截はしばらく考えた後に、こう答えた。
「この様子だと、警備員やここの関係者は僕たちの救助をする気は無いみたいです。だから、こちらから彼らがいる場所に出向いて保護してもらおうと思うのですが、どうですか?」
イミュニティー隊員である千秋には願ってもない答えだ。もう截がディエス・イレ側だという考えは殆ど薄れていた彼女はすぐにそれに同意した。
「分かりました。それじゃあ、まずはこっちに来て下さい。詳細を話し合いましょう」
そう、大声で言う。
この窓の前にある通路は丁度カタカナの「コ」の字に設置されており、足伝いに千秋たちの場所まで移動する事が出来る。それに今初めて気がついた截は、ここから大声で話し合いをしようとしていたことが恥ずかしくなり、僅かに顔を伏せた。もっとも、その表情は包帯が邪魔し誰にも見えないのだが。今更被る意味もないかとフードをそのままにし、截は歩き出した。
長島と、僅かに狂気を持った目を向ける夏を連れて。