<第二十六章>デジャヴウ
血に塗れたその塊を見て、一瞬唐沢の生首かと疑った。だがよく目を凝らせば、すぐにそれがただの岩だとわかった。怪物によって砕かれたものだ。間一髪で避けたらしい。付着しているのは、雫が与えた頭部の傷から飛び散った血液だろう。
唐沢の姿は崩れた岩の下敷きになっているのか、最初まったく見えなかったが、目を凝らすと、岩の隙間にかろうじて動く腕があった。まだ息はあるようだ。
ほっとしたのもつかの間、振り返った怪物は、今度は亜紀たちのほうへ視線を向けた。
「やら、せるか……!」
先ほどよりもしびれは弱くなっている。截は気力を振り絞って何とか立ち上がった。
自分たちが狙われている。
怪物が一歩足を踏み込むたびに体が震え、全身から冷たいものが噴出した。
あっという間にみんなやられてしまった。あんなに無残にあっけなく。
麻生の絶叫が、長島の雄たけびが耳から離れない。ごく普通の生活を送ってきた少女には、たった今見た光景はショックが大きすぎた。
怖い。とにかく怖い。殺されることが、命を失うことが、あの爪に切り裂かれることが、とてつもなく怖かった。恐ろしくて仕方なかった。
千秋は少し離れた位置にいるため、今ここで追われているのは亜紀と自分の二人だけだ。夏は截のほうを見た。負傷しているようだったが、まだ生きていた。必死に立ち上がり、こちらに向かって走っている。
早く彼の元へ行かなければと思った。截に助けてもらわなければと思った。
だが彼がこちらに来るよりも、自分が彼の元へたどり着くよりも早く、怪物は真後ろまでやってきた。
その濁った声を聞いた途端、反射的に全身の毛が逆立った。
――生きたい。
そのとき夏の中にあった感情は、ただそれだけだった。ただ助かりたかった。だから、自然と手が伸びた。
前を走っていた亜紀の袖を掴み、どけるように後ろへ引いた。悪意も何もない、ただ自分が生きたかったからゆえに出た行動だ。
一歩遅れた亜紀は怪物の目の前に放り出される格好となった。
彼女が犠牲になれば、その隙に逃げることが出来る。截が助けてくれる。彼は今まで何度も自分を助けてくれた。亜紀がいなくなれば、きっと自分の命を最優先で守ろうとしてくれるはずだ。
そう信じて疑わず、夏は亜紀の横を抜けた。
急に引っ張られ、亜紀はどきもを抜かした。目の前に怪物の崩れた顔が映る。
今回、死を覚悟したタイミングは何度もあったが、今以上にそれを強く認識したことはない。血とヘドロのような臭いを感じながら、亜紀は時間がスローになったような気がした。
怪物が爪を振り上げ、頭の上に持ち上げる。息が止まりその瞬間に備えようと体が固くなった。
しかしその直前、突如横から截が飛び出し、体当たりに近い格好で亜紀を押し飛ばした。爪足は截の頭部にかすりつつも、致命傷を与えることなく地面に激突した。
あれほどの速度で走っていれば、急に横へ移動することは出来ない。怪物は横へ逃げた二人を諦め、前を逃げている夏を追っていった。
亜紀はすぐに截を見た。自分に覆いかぶさるような格好になっている彼の額からは、爪足の所為で血が流れ落ちていた。
――何でそこまで……――
戦闘員ではない亜紀は、実際に黒服の隊員にあったことはない。けれども、彼らがどういう存在で、どういうスタンスで行動しているのか、しっかりとした知識は持っていた。
金で動く傭兵。冷酷無比で、残酷な、感染者専用の殺し屋。そう教わっていたのに、目の前の截はまったく正反対の人間に見えた。
必死に生存者たちを逃がそうとし、自分たちを何度も守り、一人ならば逃げれたにもかかわらず、じゃまな怪物をそのつど倒してくれた。
何故この男はこれほどまでに、見ず知らずの自分たちを守ってくれるのか分からなかった。イミュニティーの隊員たちのように仕事でも義務でもなく、ただ善意からそうしてくれる。本当に黒服の人間なのか、あの六角の仲間なのか、信じられないくらいだ。
流れ出た血が彼の左目を塞いでいる。亜紀は手でそれをぬぐってあげようとしたが、タイミングを合わせたかのように、その時、彼の顔に巻かれた包帯が落ちた。
高速エレベータが設置されている建物に入った二人は、まっすぐにその移動台の下へ向かっていた。
外から聞こえてくる激しい音に意識が囚われそうになるも、我慢し先へ進む。自分の目的を達成するには、今この瞬間しかない。これは不可能を可能に出来る、数少ない機会だった。
「彼らのことが気になるのか?」
六角が前を向いたまま言った。
「まあ、多少の興味はありますよ。あの絶望的な状況でどう行動するのかね」
「そんなもの、全滅しかないだろう。生き延びられるほうが奇跡だ」
「それでもその瞬間を楽しむことは出来る。人間にとって『死』というものは最終的な目標で、最高の見せ場だ。そこで自分の人生をどう結論づけるかによって、その人間の価値、意味が決まる。僕は、人の死に目を見るのが好きなんですよ。死ほど美しく神秘的な現象はないですからね」
ふむと、六角は首をかしげた。
「死そのものに芸術性を感じているのか? どちらかといえば、僕はそこへ行き着くまでの過程を見ることが好きだからな。お前の感覚は理解できないよ」
「過程も大事だとは思いますよ? でもやはり最後に考えることは、その死の意味だと思うんです。自分の人生はどうだったか、どんな意味があったか、何を残せたか。世間では金持ちが勝ち組、貧乏人が負け組みと言われていますが、その瞬間に意味を見出し、満足して逝ける人間こそ、本当の勝ち組だと僕は思いますよ」
「面白い考え方だな」
不思議そうに六角は笑った。その世間的な勝ち組になることに人生を費やし、上り詰めた彼には、自分の考えが理解できないのだろう。まあ仕方のないことだと、キツネは苦笑いした。
両開きの扉を開けると、高速エレベータの本体が見えた。あそこに飛び込み、上昇スイッチを押せば、この常世国から脱出することが出来る。だが――
――六角構成がそれをなすことは未来永劫ない。
今このときのために、自分はこのテロを起こした。この作戦を練った。ディエス・イレ、イミュニティー、六角派、そして截。全てはここで、まさにこの場で六角を仕留めるための駒だった。普通ならば絶対に殺せない男を、殺すための。
珍しく、キツネは手に汗を感じた。
「六角代表、東郷の動きは封じていますが、あのエレベータ自体に罠が仕掛けられている可能性もあります。僕が調べてくるので、この倉庫に隠れていてください」
「ここで待っているのでは駄目なのか?」
「爆発物の可能性もありますからね。死の危険があればあなたには予知できますが、エレベータ自体が破壊されたり、多少の怪我を受けるだけならばそれは予知出来ない。僕が行動不能になっている間に、ディエス・イレの者が手を出してくる危険もあります。身を隠しておくことは必要でしょう」
キツネはもっともらしく聞こえるように努力した。本心を悟られないようにわざとらしく笑みを浮かべる。
六角はしばらく考える素振りを見せた。こちらの言葉の信憑性や危険性を計算しているのかもしれない。
実際には数十秒だろう。だがキツネにはとてつもなく長い時間に感じられた。
六角はキツネの目を見ると、ようやく口を開いた。
「わかった。お前の言うことはたいてい当たる。今まで何度もそれに助けられてきたからな。早く終わらせてくれよ」
倉庫の扉を開け中に踏み出す。その瞬間、キツネは勝利を確信した。
赤く染まった包帯が落ち、顔が見える。最初は自分が見ているものが何か理解できなかったが、徐々にそれが何であるか認識していくにつれ、亜紀の目から自然に涙が流れた。
ずっと感じていた違和感の正体が、判明した。
何故彼が自分たちをあんなに守ってくれたのか、理解できた。
当然だ。
当たり前だ。
彼は、截は、――あの悟だったのだから。
多少大人びていたが、間違いなく曲直悟本人だと言える。そう思えるだけの行動を、彼はしていた。
何故? どうして?
聞きたいこと、伝えたいことはいっぱいあったはずなのに、それを伝えることが出来ない。ただじっと彼の目を見つめるのみだ。
悟ははっとしたように自分の包帯を見て、それから気まずそうに視線を泳がせた。
亜紀は何とか意思疎通を図ろうとしたが、その前に夏の悲鳴が響いた。
「――きゃぁあっ!?」
現状を思い出す。今は何かを話している場合ではない。
悟も瞬時に立ち上がり、彼女の元へ向かった。
亜紀を優先的に助けたわけではないといえば、嘘になる。
二人がピンチなのを見て、亜紀が殺されそうなのを見て、反射的に、無意識のうちに、彼女の身を守ることを優先してしまったのは事実だ。その反動として、今度は夏が追い詰められてしまっていた。あれほど自分を信じてくれたのに、頼ってくれたのに、守ると約束したのに、あの瞬間実に簡単に、彼女の命を見捨てた。
亜紀を助ければ夏が死ぬかもしれないことはわかりきっていたのに、キツネのように命の価値を計り、簡単に亜紀のほうを選択した。
そしてその行為に対して、自分がそれほど罪悪感を感じていないことが余計に腹立たしい。まるで助けることが義務だから助けにいこうとしているかのような自分が、腹立たしかった。
怪物が爪を伸ばす。
夏の足元の土が吹き飛び、小石が中に舞う。
それでも必死に前に進もうと彼女は四つんばいに近い格好で走利続ける。
怪物がうなり、さらに爪足を振り上げた。
背後の気配を感じたのか、夏が振り返った。
そこで彼女と目があった。
怪物への恐怖に染まっていた彼女の瞳は、自分の目を見た瞬間、ほっとしたような、既に助かったといわんばかりの嬉しそうな色を見せた。
ついさっき見捨てられたばかりだというのに。
あっさりと命の選択から除外されたというのに。
一度捨てられた子犬がまた拾われたときのような、安心しきった顔で。心の底から嬉しそうに笑みを見せた。
そして、彼女の頭部は横へ掻き消えた。胴体だけをその場に残して。
死ぬかもしれないことはわかっていた。
危険になることはわかっていた。
それでも自分は亜紀を助けた。
わかっていて助けたのだ。
だが。
しかし。
それでも。
彼女の死を見た瞬間、あの笑みを見た瞬間。
截は全力で叫び出しそうになった。
きっと彼女があの『笑み』を見せなければ、その死に対してこれほど衝撃を受けなかったのかもしれない。ただ残念がって、すぐに次の行動に移ったのかもしれない。
でも自分は見てしまった。
あの信頼しきった表情を。
自分を信じた目を。
自分は彼女に何と言っただろうか。
必ず守ると、無事にここから出すと、言ったはずだ。
それが、そう決めたはずの約束を、あっさり破ってしまった。
何の罪悪感もなく。ただ普通に。
自分は犠牲者を増やさないために、イミュニティーや黒服の毒牙にかかる存在を守るために、黒服へ入ったはずだった。それなのに、いつのまにか実に簡単に他人の命を取捨選択し、見捨てた。選んだ。捨てた。
友に言われるまでも、安形に言われるまでもない。既に、紛れもない事実として、自分は『黒服』だった。
己の欲に忠実で、それ以外のものはすべて二の次。報酬のためだけに動き、邪魔なものは容赦なく消す。
内心どう思うとも、何を誓っていようとも、どんな目的があろうとも、結果を見れば、はたから見ればごく普通の黒服隊員でしかなかった。
振り返った怪物と対峙し、截はその場に強く足を踏み込んだ。
もう友も雫も動けない。
自分ひとりでは決してこの怪物には勝てないだろう。
だとしたら、もう残った道はひとつだけだ。取れる方法はひとつだけだ。
彼女を守るためにここに残った。だからせめて、彼女だけは無事に帰したい。脱出させたい。それさえもかなわないなら、もはや黒服として染まりきった自分の存在価値など無いに等しいだろう。
――せめて亜紀だけはこの地獄から……
両手にナイフを握り、左足を前に出す。
全感覚をフルに使い、怪物の挙動に集中させた。
お互いに身構えた悟と怪物を見て、あの屋上の光景がフラッシュバックした。
あのときとまったく同じ光景。まったく同じ状況。
傷ついた友。
身動きの取れないイミュニティーの隊員。
守れなかった仲間。
そして逃げるしかない自分。
まさに、三年前のあの光景そのままだ。
「今なら六角と上に出られる。早く行くんだ」
静かに截が言った。
高速エレベータのほうへ目を向ける。いつの間にか六角の姿はなかった。こちらが不利になったため先に逃げたのかもしれない。彼のあとを追えば、確かにここから脱出することは出来るだろう。
自分がここに残っても、邪魔にしかならないことはわかっている。
声も出ない。
戦闘技術もない。
何の技術も知恵もないただの一般人。
彼からすれば、いても居なくても同じ存在だ。
けれども、そうわかっていても、亜紀はその場から動くことが出来なかった。そこを離れることが出来なかった。
あまりにあのときにそっくりだったから。
悪魔に埋め尽くされていく悟を眺め、何も出来ずにただ空へと逃げていったあのときに。
当時の悔しさが蘇る。自分はただ泣き叫ぶしかなかった。悲鳴を上げるだけの存在だった。それが悔しくて、情けなくて、悲しくて、無意識のうちに声を殺した。失ってしまった。
もうあんな思いはしたくなかった。せっかく生きているとわかったのに、再び会えたのに、また目の前で彼の死を見なければならないなんて、嫌だった。こりごりだった。
「何してる? 早く行くんだ!」
怒ったように截が声を荒げた。
怪物が攻めてくるまで時間はない。彼からすれば、お荷物の自分は早く消えてほしいのだろう。
彼の考えはわかる。それがいかに正しいのかも。
それでも、亜紀は逃げなかった。意地を張るようにその場に居続けた。
もう二度と彼を見捨てないために。
あの瞬間つかみ損ねた手を、今度こそつかむために。
潤んだ目で友のほうを見る。今の自分に出来ることは、友と雫を起こし悟の加勢をさせることぐらいだ。亜紀は悟の静止を振り切り、彼らのほうへ走り出した。
怪物が濁った咆哮を上げ、悟に向かって飛び掛った。しかたなく、彼も怪物との戦闘行為に入る。その様子を見ながら、亜紀は一心不乱に友の場所を目指した。
足の痛みなど忘れたかのように激しく腕を振り、体を前へ、前へと押し出す。横では悟がなぶり殺されんばかりの勢いで追い詰められている。あせりと恐怖で心臓が痛かった。
亜紀は友のもとに座り込むと、彼の胸を叩いた。何度も何度も、早く起きてといわんばかりに。
だが友は唸るだけで目を覚まそうとはしない。腹部の傷のせいで、だいぶ顔色も悪かった。このままそっとしてあげるのが、彼の体調を考えれば一番いいことはわかっている。しかしそれでは悟が殺され、結果的に友自身も死ぬことになるのだ。
亜紀は心を鬼にし、何とか友の目を覚まそうと努力した。
――お願い、起きて、起きて、起きてよ! 今友くんが目を覚まさなかったらみんな死んじゃうんだよ? せっかく悟くんが生きていたのに、また会えたのに、このままじゃ死んじゃうよ!
怪物の爪足が地面を抉り、悟の体が飛ぶ。それを見て亜紀は気が気じゃなかった。
このままでは本当に悟が死ぬ。一体どうすれば友は起きるのか、自分の意思が届くのだろうか。亜紀は友の胸部分の服を、強く握りしめた。
――……て……――……
遠くのほうで何かが聞こえた。
小さくか細い、何か。
悲しそうな、辛そうな、怖がっているような、そんな何か。
それはゆっくりと大きくなり、自分の内側へ浸透してくるような気がした。
友はその感覚に覚えがあった。
子供が、怖い夢を見て、いやな体験をして、親にすがるときのような声。
押し付けるような、必ず助けがくるとわかっているような声。
そのときの感情のすべてをのせてぶつけてくるような、そんな声。
ずるいと、友は感じた。
子供の声というのは本能的に助けたくなってしまうものだ。
耳にしたら、聞いたら、助けずにはいられなくなるような響きだ。
放っておいたら壊れてしまうような、死んでしまうような、そんな音だ。
「――……たす、けて……おねが……きて……」
声の主を探すように、意識を前へ進ませる。
早く、早くと、声の主が焦っているような気がした。それを聞いて、友自身も急がなきゃと思った。
――大丈夫だ。今行く。
なんとなくそう答える。
相手に届いているのかはわからない。
伝わっているのかもわからない。
だから。
だから早くその子のところへ行こうと、さらに意識を前へ加速させた。
まぶたを開けた友の目に最初に映ったのは、両目を潤ませた亜紀の姿だった。こちらの意識が戻ったことに気がついたのか、切羽詰った表情で言葉を吐いた。
「はやく、悟くんが、あぶない!」
目覚めたばかりで状況がよくわからない。悟がどうしたのかと横を向きそうになったが、その前にある異変に気がついた。
亜紀が声を出しているのだ。
「亜紀ちゃん、声が……」
驚きまじまじと彼女の顔を見る。一体どうしたのか聞こうとしたところで、亜紀がそれをさえぎった。
「早く悟くん、を助けて、あのままじゃ、死んじゃうよ……!」
彼女の背後では激しい戦闘の音が響き、悟が命からがら怪物から逃げていた。周囲には無数の死体が散乱し、いくつもの肉片と血の痕が出来ている。何が起きたのかは、すぐに理解できた。
友は背中を地面から離すと、彼女に向き直った。
亜紀の声が出ない理由は精神的な要因が大きい。転換性障害と呼ばれるそれは、何かきっかけがあれば、すぐにでも治ると医者は言っていた。
状況を見ればわかる。彼女は悟のピンチを見て、彼のために、彼の命を助けるために、それを克服したのだ。もともと彼女が声を失うことになったきっかけは、悟の死だった。それが今また目の前で起きそうになり、過去の過ちを正そうと本能的に声が出たのだろう。
――……悟のため、か。
友は小さくため息を吐いた。自分があれほど多くの医者に教えを乞い、結果を得られなかったにもかかわらず、ただ顔を見せるだけで亜紀の問題を解決してしまった。なんだかずるい気がした。
「――……後ろに下がって。壁際にいるんだ」
友は彼女の肩に手を置き立ち上がると、ふらつく体で悟と怪物を視界におさめた。
一瞬倒れそうになる。圧倒的に血が足りなかった。激しい動きをすれば、五分と経たずにあの世行きになりそうだ。本心を言えばまったく戦いたくない。だが、亜紀にここまで言われれば逃げ出すわけにもいかなかった。
――怪物の弱点と考えられる場所は残り一箇所。だが、この体でそこを狙えるのか? 見る限り悟も疲弊しきってる。例え数人がかりでもかなり難しいはずだ。そもそも、古矢の体内のどこに急所があるのかもわからないんだ。命をかけで挑んでも無駄に終わってしまう可能性が高い。
頭の中でどう戦略を練ろうとも、自分たちが負ける結末しか浮かばなかった。だがそれでも引くわけにはいかず、足を一歩踏み出す。すると落ちていた古矢のワスプナイフが目にとまった。
友はこれまでの彼の戦闘を思い出した。自分たちと行動をともにしている際に、古矢が使ったカートリッジはゼロ。分かれてから使用していたとしても、大型感染体との戦闘が無かったことを考えれば、いくらか予備が存在するはずだ。そして友が拾ったナイフにそれは挿入されていない。
「……まだ、鼬の最後っ屁くらいは出来るか」
絶望的な状況には違いなかったが、悪あがきの余地はある。ある決意を胸に、友はそのナイフを手に取った。
呼吸をしている間も次の攻撃を予測している間もない。もはやほとんど博打だった。
全身から滝のような汗が流れ落ち、超感覚に頼った反射神経のみで爪をかわす。すぐに限界がくることはわかっていても、他にどうすることも出来ない。まるで深い水の底でもがいている様な気分だ。
酸欠か体力的な問題か、意識が途切れかけたとき、雫の声が聞こえた。
「下がって下さい!」
倒れるように後ろに仰け反ると同時に、数本のナイフが怪物の頭部に突き刺さった。急所ではないため大したダメージは与えられないが、眼球付近に刺されば視界を濁すことは出来る。僅かに生まれた隙を機に、截はやっと怪物から離れ一息つくことが出来た。
ぜえぜえと息を吐く截を見て、雫が早口で言った。
「友さんの言葉を伝えます」
截がそちらを怪訝そうに向くと、雫はすぐにしゃべりだした。
「あの怪物は古矢照明の体を媒体に成長しています。そして古矢はワスプナイフの未使用カートリッジを複数持っている可能性があります。つまり――」
「――そこを狙うのか」
截は先ほど怪物の喉を破壊したときのことを思い出した。
「はい、古矢体内の弱点の位置はわかりませんが、隊員がどこにカートリッジを収納しているかなら把握しています。怪物に取り込まれているあの肉塊の中でそれを爆散させれば、どうなるかは一目瞭然でしょ?」
まるで自分が思いついたかのように自信満々に胸を張る雫。截は友のほうへ目を向けた。いつの間に目を覚ましたのか、彼は青白い顔で立ち、チャンスを伺うようにじっとこちらを見ていた。その背後には亜紀の姿がある。恐らく彼女が起こしたのだろう。
――つくずく、よくそんなことに気がつく。
機転だけならキツネ以上じゃないんだろうかと截は思った。
「よし、じゃあ俺が――……」
「あなたは体力の限界です。私があの怪物を引き付けるので、その隙にカートリッジを攻撃してください。こう見えても、前衛の経験もありますので」
「わかった。お願いします」
超感覚の無い彼女があの怪物の攻撃をかわし続けられるのかは不安だが、今の自分にこれ以上素早い動きが出来るとも思えない。先ほどまでの戦闘を見てわかるとおり、彼女の実力は自分や友、翠と遜色ないレベルだ。今は彼女に頼るしかないだろうと思った。
雫は頷くと、そのまますぐに怪物のほうへ駆け出した。
姿勢を低くとり、相手の視界から自分の姿を隠す。怪物の視界が悪くなっている今、雫の戦い方は意外にも効果的だった。怪物の爪は一歩送れて彼女が通った位置を攻撃し、決して命中することはない。まるでいいように翻弄されていた。だが脳を破壊され暴走状態に入っている怪物の攻撃力と速度は半端なものではない。気を抜けばすぐに致命傷を負ってしまうだろう。優位に立ちつつも、雫の表情からはかなり緊張の色が見えた。
截はカートリッジの場所を探すことに意識を集中させた。
古矢の頭部はちょうど怪物の正面側、こちらから見て胴体の右に浮き出ている。イミュニティーの隊員がカートリッジをしまっている場所は胸部の内ポケットのはずだから、それがあるとすれば東部から左斜め下。ちょうど怪物の爪足の生え際だ。まともに狙うにはかなり難しい場所だったが、雫によって注意を引き付けられ姿勢が低くなっているため、今ならタイミング次第で狙うことも可能だと思われた。截は大きく息を吸い込み、残りすべての力を使い切る覚悟で突撃した。
こちらに気がついた怪物が爪足を前に突き出した。命中すれば一発で首から上が吹き飛びそうな一撃だ。
右足に力を込め、紙一重でそれを避ける。頬の横を黒っぽい筋肉が通過した。息を吐けばその瞬間に死ぬ。截は怪物の爪足の根元まで無呼吸で侵入した。
これ以上戦闘を長引かせることは出来ない。
自分の体力の問題。
友の傷の問題。
そしてキツネとともに消えた六角の問題。
多少強引でも、このターンでけりをつけてやると、截は意気込んだ。
雫が地面についてる方の爪足に体当たりし、その付け根にナイフを抉りこむ。支えを失った怪物はさらに姿勢を低くし、その弱点を自ら截の眼前へ持ってきた。
怪物の分厚い肉に刃が突き刺さる。古矢の胸部があるはずの位置へ、截は強くナイフを突き立てた。しかしカートリッジには当たらない。
――くそ、はずしたか!?
胸部に収納しているのならば、確実にこの周囲に存在するはずだ。少なくとも今刺した場所の近辺にあるはずなのだ。
怪物が体制を建て直し、腰を上げた。截は腕に力を込め、ナイフにぶら下がったまま飛び上がる。
息はもう限界だ。これ以上激しく動くことは出来そうになかった。
雫が下からナイフを突き上げ、怪物の下腹部を攻撃した。しかし何のダメージも与えられない。
「ボロロロロォォオオォオッ!」
裂けた喉で、砕けた頭で、怪物が大声を出した。大きく前足を上げ、力を込める。
あれが地面と衝突すれば、確実に自分は振り落とされ、雫も危険になる。截は死に物狂いでカートリッジを穿とうとしたが上手くはいかなかった。
怪物が足を振り下ろした。
爪が大地を砕き、大きな衝撃が走った。
ナイフが怪物の肉から抜け落ちる。
振動で立つことが出来ず、雫が倒れた。
そのとき、截は何かが下から飛び上がったのを見た。友だ。
足を落とした直後の怪物の隙を狙ってこちらに走り、ジャンプしたようだ。
何も考えず、截は彼の手を掴み、自分が落下する代わりに上へ引き上げた。
友はしっかりと截の手を握った。
あのとき掴みそこなったものを、今度こそ掴んでやるというように。
今の自分は、三年前とは違うとでもいうように。
下がる截のかわりに怪物の急所の前に来る。
截が刺した傷口から古矢の服が見えた。ちょうど胸ポケットの位置だ。
記憶を頼りにカートリッジの位置を特定する。
半ば博打的に、友はナイフを突き刺した。硬い感触が手に伝わる。
浮き出た古矢の目が僅かに動く。
それを見て、狙いのものを捉えたのだと悟った。
「今度こそ、さよならだ。古矢」
瞬間、刃が鉄の枠を貫き、肉塊の中で空気の爆発が起こるのを感じた。自分の手が一気に冷たくなる。
手に痛みを感じ苦痛に顔を歪めると同時に、怪物の体から力が抜けた。
ダニの怪物の腹部が地面につき、友が辛そうに着地する。怪物は周りの全てを羨むように目を血走らせたが、エネルギー供給元である心臓を失っているためどうすることも出来ず、そのまま沈黙し頭をがっくりと落とした。
截は大きく息を吐き、力を使い果たしかようにその場に座り込んだ。しばらく休憩をとらなければもう動けそうにはない。吐き気が酷く、酸欠の一歩手前のような状態だった。
「やりましたね!」
嬉しそうにぴょんぴょん跳ね、雫が満面の笑みをこちらに向けてくる。何でそんな元気なんだと截は疲れた顔で見返した。
「截、六角は……どうした?」
今にも倒れそうにふらふらした様子の友が、怪訝そうに聞いた。
「少し前に、エレベータのほうへ消えた。……キツネと一緒に」
「キツネ? あの黒服のキツネか? 一体いつの間に侵入していた?」
名前だけは知っているのだろう。友の表情に緊張が走った。
「わからない。だけど、エレベータには乗っていないみたいだ。さっきからまったく動いていない」
高速エレベータは強化ガラス張りの筒状建造物だ。屋上へ移動しようとすればこの位置からならすぐにそれを認知することが出来る。動いていない以上、まだ真下にあるあの建物の中にいると考えるのが妥当だろう。何故上に行かないのかはさっぱり理解できないが。
「どういうことなんだ? まさか、エレベータが故障でもしているのか」
「ディエス・イレが何らかの工作をした可能性はあるかもな。とにかく、行ってみないとわからないさ」
截は両手についた砂を払った。
立ち上がろうとしたところで、ザッと、靴が砂をける音が聞こえた。截はあえてそちらを振り返りはしなかった。どういう顔をすればいいのかわからなかったからだ。
「悟、くん」
たどたどしい様子で、亜紀が声を出した。
それを耳にし、思わず截は振り返ってしまった。ばっちり彼女と目が合う。
――声が戻ったのか? 何で?
頭の中でいろんなことを考えていると、彼女が潤んだ目で截の手を掴んだ。
「よかった」
一言、亜紀はそう言った。恐らくは生きていてよかったということなのだろうが、ものすごく重く、暖かい一言だった。
截は本当に謝るべき存在は自分のほうだと思った。自分が身勝手に死を偽造したことで、目の前で死ぬという光景を作ってしまったことで、彼女は声を失った。負わなくていい重荷を負ってしまった。全部、自分の所為で――
「俺は……――」
何と答える気なのか自分でもわからない。勝手に口が開いた。亜紀がまじめな顔で耳を傾ける。
謝罪のタイミングというものは大事だ。
いつ謝るか、いつ気持ちを伝えるか、そのときの状況によって効果は大きく変化する。
今なら、截は本心から謝れると感じていた。言いたいことを言えると思った。しかしその思いは、次の瞬間かき消された。
ドーンっという鈍く低い音が唐突に響き渡った。何かが怪物の死骸の上に落ちたようだ。全員の視線が一気にそこへ集中する。
截の背中にゾワリという寒気が走った。間違いようがない、この全身に銃口を突きつけられるような脅威はやつだけだ。
怪物の頭に靴を乗せ、男、東郷大儀はニヒルに笑った。
「いい戦いだった。見事としか言いようのないほどのな。――さあ、それでは第二ラウンドの開始といこうか? 諸君」
刹那、東郷の右腕が真っ赤に染まった。
「今なんと言った?」
六角は我が耳を疑うように聞き返した。別に本当に聞き取れなかったわけではない。その言葉が、自分の息子の放った台詞が、信じられなかったからだ。
「あなたがここから出ることは永遠にないと言ったんですよ。『父さん』」
鍵の閉まった扉越しに、感情の篭らない視線を向け、截はそう言った。
「一体何を言っている? 気でも狂ったか?」
「狂ってなんかいない、僕は正常だ。これはずっと前から計画していたこと。あなたを殺すためにね」
「な、ぼ、僕はお前の父親だぞ? ふざけるな! 東郷に買収でもされたのか? 一体いつからだ!?」
「決まっているでしょう?」
截は何を馬鹿なことをとでもいうように、六角を見下した。そしてはっきりと言った。
「十五年前の、あの日からですよ」
蔑んだ目で、まるで親の敵を見るような目で、六角截は、こちらを見つめた。