<第二十五章>大ダニ(サトゥルヌス)
「避けて!」
雫が叫ぶと同時に左右へ飛ぶ生存者たち。その間を怪物の爪が駆け抜ける。
瞬時に体を起こしながら、雫は服に付いた砂をはらった。
三本腕系統の生物は正直、イグマ細胞によって生まれた中でもっとも厄介な存在といっても過言ではない。刃を通し難い分厚い植物状の筋肉や複数の触手など、人間がナイフ単品で勝利を勝ち取るのが非常に難しい相手だからだ。
サードブラックドメインに出現した固体はたまたま火に弱いという特性があったから倒せたものの、通常の固体は訓練を積んだ兵隊ですら絶対に戦闘を避け、場合によっては禁止されている銃器が許可されるほどである。
このファーストブラックドメインの固体は水生生物であり、サードブラックドメインのようなマグレは起こりえない。純粋に物理攻撃のみで仕留める必要があった。
雫は並大抵の戦闘員ではない。この状況においても諦めるつもりは無かったが、同時に勝利の難しさもよく理解していた。こう近場で暴れられては、不用意に生存者たちを逃がすことも出来ない。ただ全員を怪物の攻撃から逸らすだけで精一杯だ。
「雫さん、榊さんが!」
焦ったような千秋の声を聞き、横を見ると、先ほど吹き飛ばされた榊が感染し、『悪魔』化していた。のっそりと立ち上がりこちらを見上げる。
――壁に蔓延っていたイグマ細胞か……!
これでは運よく生存者を遠ざけられても、今度は怪物から距離をとったことで悪魔の襲撃を受けてしまう。あれに負けることはないが、その隙をこの怪物は見逃さないだろう。
足兼、爪の一本を怪物が持ち上げた。その切っ先はまっすぐに自分を狙っている。雫は姿勢を低くし、それをかわそうとしたが、怪物は何かに気をとられたかのように後を振り返った。
雫が目を凝らすと、数本の小型ナイフが怪物の背に突き刺さっていた。どうやら友が投げたらしい。
走ってきた友はそのナイフを階段のように利用し、一気に怪物の背面を駆け上がった。
「こいつにだって一応脳があるはずだ。そこを叩けば!」
友はナイフを怪物の頭に振り下ろした。捻り込むように刃を肉に刺し込む。
頭の中心に刃物が入り込んだ怪物は、一瞬だけ動きを止めたものの、すぐに活動を再開し、友をその背から振り落とした。
「ぐっ!」
地面を転がりながら必死にナイフを握り締める。何とか足に力を込め、慣性運動を止めた。
――肉が厚すぎる。WASPKNIFEを使わなければ内部に届きそうに無いな。
握ったナイフの柄を見る。残りのガスフォルダはひとつだけ。外せば、勝機はもう無いに違いない。
友は迷っていた。通常の生物で考えるのならば、その脳は大抵頭部に存在する。だが、古矢の体を軸に四肢を伸ばしたこの怪物の脳は、果たして本当にそこにあるのだろうか。
そんなことを考えている間にも、相手の動きは止まらない。怪物は六角に狙いを定め、爪を伸ばした。
「ザァァァッ!」
不意に悪魔化した榊が唸った。視線の先には先ほど自分が逃がした亜紀の姿がある。
――しまった……!
友は急いで悪魔を殺そうとしたが、ダニの怪物が目の前に立ち塞がったため、それ以上進むことが出来なくなってしまった。
「――っ、誰か! 亜紀ちゃんのほうへ行ってくれ!」
雫たちへ叫ぶと、千秋が直ぐに走り出した。
岩壁伝いにエレベータへ向かっていると、友の叫ぶ声が聞こえた。
どうしたのか疑問に思ったが、こちらへ向かって走ってくる『悪魔』の姿を目にしたことで、その疑問は直ぐに消えた。
この常世国に着てから数多くの感染者を目にし、何度も命を危険に晒してきた。だが、やはりあの悪魔は別だ。三年前の事件がトラウマとなり、どういう存在か、どういうものかよく理解しているはずなのに、体の底から恐怖が湧き上がってくる。
――逃げなきゃ。
亜紀は壁に寄りかかるように前へと進んだが、痛めていた足の所為で殆どスピードは出ない。その間にも悪魔との距離は刻一刻と狭くなっていく。
「亜紀ちゃん!」
千秋が駆けてくるのが見える。助けに来てくれたようだが、間に合いそうにはなかった。自由に動けない今の自分の体では、追いつかれた瞬間に殺されてしまうに違うまい。
――早くエレベータに……!
息を切らして足を前に運ぶ。
背後から悪魔が来ていると思うと、ただでさえ上手く動かない足が恐怖でさらに重くなった。
「ザァァァアァッ!!」
足音が間近に響き、悪魔の雄たけびが轟いた。
反射的に振り返ってしまい、瞳が相手の姿を捉える。
血管が浮き出た浅黒い肌。
変形した骨格。
あのとき見たときと何も代わらない、醜悪な化け物。
自分にとっての、死の象徴。
気がつくと、亜紀は叫んでいた。音の無い、誰にも聞こえない、静寂なる悲鳴。
――まずい!
悪魔が亜紀に向かって飛び掛ろうと身を屈めた。
千秋は手に持ったナイフを投げつけようかと考えたが、もしこれを失えばあの化け物に対抗できる術はなくなる。僅かに浮かんで消えたその思いが、一瞬動きを鈍らせた。
耳障りな声を響かせ悪魔が前に跳躍する。その鋭い爪が、歯が、亜紀の肉を抉らんと伸ばされる。
もう迷っている暇はないと千秋が唯一の武器を投げようとした瞬間、何かが亜紀の背後から飛び出した。
大きく開け放たれた悪魔の口を目にしたとき、急に腕を引かれ後ろに倒れた。
倒れつつ前を向くと、灰色の背中が見えた。悪魔のものではない、綺麗に仕立てられた繊維の背中。
その人物は左手のナイフで悪魔の手を斬りつけはじき、その勢いのままもう片方のナイフを相手の心臓へ差し込んだ。
慣れた、自然で滑らかな動き。
化け物を殺すことが自分の生きる理由だとでも言うような、そんなイメージを受ける光景。
ナイフを抜きつつ肩で悪魔を吹き飛ばした彼は、返り血の付いた包帯だらけの顔でこちらを見た。
「大丈夫か、亜紀さん」
どこか懐かしく、ほっとするような暖かい声。彼の顔を見た瞬間、亜紀は恐怖が引いていくのがわかった。
なんとか荒い呼吸を落ち着かせ、こくりと頷く。
ようやく追いついた千秋が、驚いたように彼に話しかけた。
「截、あなた何でこんなところに? どうやって下に下りてきたの!?」
「黒服を舐めないで下さい。色々と方法はあるんですよ」
ナイフについた血を振るうと、截は小さく笑った。
「あれは、截さんですか? 一体どうやって地下に……」
驚いたように首をかしげる雫。
その言葉を聞き、六角は別の意味で疑問を感じた。
「截……だと? あの男がか?」
自分の知っている截と遠めに見える男は確かに似ている面もあるが、まったくの別人だ。服装はイミュニティーのものだが、一体何者なのだろうか。僅かな興味が沸いた。
「截、お前速すぎだぞ!」
截と同じ道から出てきた唐沢が、息を切らした様子で言った。その背後には麻生と長島の姿も見える。
「友たちが危ない。僕は直ぐに援護に向かいます」
「何? どういうこと――」
ダニの怪物を見たことで、唐沢は言葉を止めた。すぐに状況を理解したらしい。目をまん丸にして前を向いた。
「何だあれは? まさか、サトゥルヌスの成体か?」
「――……ここは任せますよ」
截は素早くそういうと、ナイフを片手に走りだした。
亜紀は一言お礼を言おうとしたが、意思を示すより早く、截の姿はあっという間に遠ざかっていった。
何度も命を救われているのに、ただ感謝の気持ちを伝えることすら叶わない。本当に何でこんな状態になってしまったのだろうかと、苛立ちを覚えた。
「なあ、さっさとあそこに行こうぜ。もうすぐそこじゃねえか」
麻生が恐怖と喜びの入り混じった珍妙な顔で言った。
「駄目だ。この広場はあの怪物には狭い。今遮蔽物のない場所へ出るのは危険だ。チャンスがあるまでここで待つ」
「はぁ? いつ後ろからさっきの黒い目の奴が来るかもわかんねえんだぞ、ふざけんなよ」
「いいから黙ってろ」
面倒くさそうに怒鳴りつける唐沢。
声に驚いたのか、麻生はびくっと体を震わせ動きを止めた。だがすぐに元の表情を作り、不機嫌そうに横を向く。
それには構わず、唐沢は周囲を観察した。
――東郷は俺たちよりも先に侵入していたはずだ。どこに居る?
目の前の怪物もかなり危険な存在には違いないが、もっとも厄介なのは間違いなく東郷大儀だ。その動向が分かるまで迂闊な行動は出来ない。奴が何か仕掛けるというのならば、今を置いて他にはないだろう。あと数十メートルの距離に出口があるというのに、唐沢の緊張は高まっていた。
怪物に向かいつつ、截は彼らの顔を確認した。上階ではいなかった人間がそこに居た。お腹の出た、髪の薄い男だ。
――あいつが六角構成か。
国家非確認生物対策機関、イミュニティーのイグマ部門代表。現在のイミュニティーの体制を作り、その権力の横暴を容認している諸悪の根源。憎むべき敵ともいえる存在である。
必死に怪物から逃げ惑うその姿を見て、頭ではわかっていても、本当に殺すことが出来ないのかどうしても疑問を感じざる負えない。どうみても、六角構成はそこらへんにいる普通の男だった。強靭な肉体もなければ、大勢を率いるカリスマ性も感じられない。頭のキレは良さそうだが、とてもイミュニティーという強大な組織を率いてる人間だとは信じ難い。
「截、この化け物の気を引いてくれ! その隙に六角代表を逃がす」
長年恨んできた相手を守らなければ、無事にこの地獄から脱出することが出来ないとは、なんとも皮肉な話だ。今この場でこの男を助けることすら抵抗感があるというのに、今日一日中彼を守ってきた友の内心は相当なものだろう。截は歯軋りしたい気持ちを抑え、怪物へ突撃した。
ダニの怪物の武器は足と兼用の複数ある鋭い爪だ。獲物が近づくとそれを前に突き出し、振り下ろすことで相手を貫いて仕留める。
三本腕系統の生物らしいが、タフさ以外の面で見れば一般的な大型感染体とその脅威度に変わりはなさそうだ。截は上手く爪を交わし、懐に飛び込むつもりだった。
「――――――――ィィイイ!」
嫌な感覚がしたと思った直後、怪物の口から大音量の叫びが炸裂した。
耳を劈くようなそのかん高い音に、脳髄が揺らされ体のバランスが取れなくなる。誰かが押したというわけでもないのに、截は勝手に体勢を崩し、倒れそうになった。
「危ない――!」
耳を押さえながら雫が叫ぶ。怪物の爪足はまっすぐに截を狙っていた。
截は頭の上に降りてきたその爪を見ると、普通にかわすことは無理だと諦め、バランスを崩した勢いのまま重力に従って右へ横転した。耳の真横で土煙があがり、左の視界を隠す。まだ体の感覚は正常には戻らない。そのまま転がるようにして移動し続け、何とか時間を稼いだ。
友はすぐに悟を助けようと考えたが、彼と同様に高音の衝撃によって脳を揺らされ、歩くことすらままならなかった。前につんのめるのを止めようとしたら、逆に後ろへよろけ尻餅をついてしまった。
――くそ、このままじゃ何も出来ずに殺されるぞ。
ただでさえ強靭な体を持つ相手だというのに、この音爆弾は厄介すぎる。急所を攻めることも大事だが、まずあの怪物の喉を破壊しなければ勝機はないに等しい。
黒服で培ったセンスか、超感覚のおかげか、悟はこんな身体状態にも関わらず、奇跡的に怪物の爪をかわし続けている。だがどう見ても時間の問題だ。早く何とかしなければと思った。
バランス感覚が崩されている以上、下手にナイフは投げれない。間違って悟に当たってしまう可能性が高いからだ。
怪物の動きを追いつつ、友はとっさに思いついた案を叫んだ。
「截、爪が地面に刺さった瞬間、逃げずにそっちの方向へ体当たりしろ!」
あの鋭利な足は硬度もそれなりにあるはずだ。水憐島で使ったような足自体を攻撃するような真似は使えない。だが代わりに一点で体重を支えているため、横から衝撃を受ければ簡単に影響を受けてしまうと考えられる。予想通り、截の捨て身の体当たりによって、怪物は肩膝を着くようにバランスを崩した。
「六角代表、今です。早くエレベータのほうに」
截や友よりもダニの怪物から離れていた雫は、二人ほど咆哮の影響を受けなかった。辛うじて直立を維持すると、かなり強引に六角の背を押す。
六角は転びそうになったものの、手で体を支え、這うようにその場から離れた。
これでひとまずはまともな戦闘行動に入ることが出来る。まだ体に違和感はあったが、動けないほどではない。雫は怪物の足元から這い出そうとしている截の腕を掴み、一気に引き起こした。
言葉を交わすこともなく、そのまま二人は距離をとる。その直後に、怪物が立ち上がった。
「友、何かいい案は無いんですか? これ不味いですよ!」
友の横に截と並びながら聞く。彼ならきっと何か打開策を閃いてくれるかと思ったが、友は渋い顔を見せるだけだった。
「岩場へ戻るのはどうだ? あっちなら――」
「駄目だ。この怪物を相手にして傷ひとつ作らずにいれると思うのか? 直ぐに全員感染してしまうぞ。大体お前は既に怪我だらけじゃないか。危険すぎる」
截の言葉をあっさりと友は否定した。
再び口を開け、音の砲撃を放とうとする怪物。それを見て、全員が身構えた。
「次にあれを食らったら終わりだ。一か八か俺が突っ込んで喉を潰す」
鋭い形相で截がナイフを握り締める。よくそんな早く覚悟を決められるなと雫は驚嘆した。
判断を早くすることは大事だが、命がかかっている場面にも関わらずこの男の意思決定は早すぎる。まるで自分の命を何とも思ってないかのようだ。これが黒服というものだろうかと、雫は背筋に寒いものを覚えた。
「――……悟! 黒柄ナイフの切れ味は確か相当なものだったよな。あいつの分厚い筋肉も貫通できるのか?」
「角度しだいだけど、どうしたんだよ」
友は手に持ったナイフを横にすると、グリップに取り付けられているスライドを横へ押し、WASPKNIFEのカートリッジを取り出した。
「今から走っても間に合わないし、返り討ちにされる可能性が高い。これが最善の策だ!」
そう言っていきなりそのカートリッジを怪物の頭めがけて投げた。雫はあっけにとられてしまったが、それを見た截は彼の意図を理解したのか、カートリッジが怪物の顔の目の前に到達した瞬間、自身の小型ナイフをそこへ投擲した。
截の刃はカートリッジの腹を貫き、怪物の顔面へ衝突した。怪物はまさに咆哮を放とうとしていたようだったが、急に爆散した冷気によって喉の肉を固定され、それは未遂に終わった。
水中で息を全力で吐き出しているときのような音が鳴り、怪物の喉が弾ける。人間数人の行動を停止させるほどの振動力なのだ。凍りかけた喉でそれを行えば、砕けるのは当然の結果だった。
破壊音なのか声なのか良く分からないノイズを響かせ怪物が体を仰け反らせる。それを見た截は苦笑いするように呟いた。
「……相変わらず、よくこんな土壇場でそんな策が浮かぶ」
「今だ、行くぞ!」
喜ぶ素振りすら見せず怪物へ向かう友。ほぼ同時に截も走り出した。
この絶望的な状況に置いて何故二人ともそこまで冷静に行動できるのだろうか。友の策についていけなかったことがちょっとだけ悔しかったが、それ以上にこの二人のコンビに対し、雫は強い安心感を感じた。これほどレベルの高い人間たちと共に戦える機会など、滅多にないだろう。まるで何度も一緒に死線を生き延びてきたかのように、二人の息は合っている。
任務で行動したことがあるのかもしれない。截は黒服なのだ。ありえる話ではある。事実を知りたかったが、今は詮索しているときではない。雫は二人に負けないように気合を入れ直すと、そのあとに続いた。
戦闘を見ていた麻生が、喜びの声を上げた。
「おい見ろよ! あいつら勝てそうだぜ!」
「武器のひとつを封じただけだ。まだ油断は出来ない」
表情を崩すことなく、唐沢が言う。その表情は真剣そのものだった。
「んなに言ってんだよ、もう勝ったようなもんじゃねえか!すげぇーすえぇー!」
聞く耳もたずというように、麻生は叫び続ける。唐沢は彼を諭すことを諦めたのか、それ以上何も言わず、ただじっと広場のほうを見つめた。
亜紀はエレベータの前へと到達した六角を見た。その気になれば既に地上へ出れるはずなのに、どういうわけか面白そうに友たちの戦闘を眺めている。まるでプロレスを見ている観客のようだ。その余裕ぶりが逆に不気味だった。
「どういうつもりなのかしらね?」
亜紀の視線に気が付いたのか、横に立っていた千秋が不思議そうに言った。
「一人でエレベータ内部に入るのが怖いのかしら? まだディエス・イレの連中は姿を見せていないし」
その可能性はありえる。用心深い六角のことだ。きっと待ち伏せや罠の存在については、言わずとも考えているはずだ。自身の保身を考慮して戦闘が終わるのを待っているのならば、それはそれでひとつの手段だといえる。
だが、亜紀は何となくその線は薄いと感じていた。
もし本当に友や雫に自分の身を守ってもらうことを考えているのならば、あそこまで面白そうにこの戦いを眺めることなんで出来るだろうか。まるで友や雫が居なくとも無事にここから出て行ける。六角の態度は、そう感じさせるような余裕に満ちていた。
ダニの怪物は喉を破壊されたことで怯んでいる。そう感じた截は、この機会を活かしきろうと一気に前に出た。
脅威を感じ取れる感覚を頼りに怪物の爪の軌道を読み、ぎりぎりでかわし注意を引き付ける。その際、置き土産のように同時に斬撃を浴びせ、避けるたびに怪物の足へ僅かな傷を作った。
回避はいかに上手く体勢を立て直すかにかかっている。避ける速度も確かに大事だが、攻撃をかわし続けるためには、自分の体を正常に維持するためのバランス感覚と、相手の攻撃を正しく認識するための察知能力のほうが重要となる。黒服へ入った当初、截は前衛というポジションにつくために、このバランス感覚と、体勢を立て直し続けるための足運びや息の使い方を重点的に学んだ。最初は慣れずに転ぶことや体力負けすることも多かったが、何度も地獄と化した場から生存し、死を肌で感じてきた今の截にとっては造作もないことだ。
察知し、かわし、整える。その繰り返し。
合間合間に友が援護を行い、截が息を整えるのを助ける。こうして二人で協力することで、お互いがお互いの命を守り、生き延びることを可能にしていた。
截と友に意識が集中していることで、怪物は雫への警戒が薄くなっていた。
動き回る怪物のルートを予測し、その背後へ回った雫は、先ほど友が作ったナイフの階段を見た。体重の軽い自分なら、うまく勢いに乗れれば奴の頭に届けるかもしれないと考える。
怪物が爪を振り下ろし、僅かに身を屈ませたのを狙って地面を強く蹴った。
タン、タン、タン、と、軽やかなリズムで駆け上がる。
雫の接近に気が付いた怪物が体を左右に振ろうとしたが、雫はそれより早く跳躍し、怪物の後頭部へナイフを突き立てた。重い感触が手に伝わる。
――厚い――……!
狙いは十分だ。だが威力が低かった。刃は肉の壁に阻まれ、内部まで届かなかった。
このままぶら下がっていては、振り落とされ爪足に貫かれる末路しかない。そうなる前に手を放し安全な場所へ逃げようとしたが、力を抜く直前、瞳があるものを捕らえた。細長い窪み。友のつけた傷だ。
雫はもう一度腕に力を入れると、振り回される勢いを利用して怪物の斜め上へ上昇した。そのまま刺していたナイフを抜き、間髪入れずに友のつけた傷跡をトレースするように自分のナイフを叩き付けた。
ゴボゴボと濁った鳴き声を上げ怪物が大きく仰け反る。雫は差し込んだままのナイフから手を離し、出来るだけ小石の少ない地面へ向かって落ちた。
「今度こそ、どうだ?」
頭から血を流し苦しむ怪物。それを友が冷たい目で見据えた。
「確実に内部には達したはずです。もしあそこに思考回路があるのならば、もう動くことは出来ません」
立ち上がりながら、雫が自信げに言う。
自分と友の援護があったとはいえ、あの一度のチャンスでしっかりと急所を攻撃出来るのは、流石と言わざる終えないだろう。翠とどっちが強いのだろうか、截は少し気になった。
再び膝を折り、地面に腹をつける怪物。先ほど奇跡的に喉を破壊できなければ、こう上手くはいかなかったはずだ。地面の上でもがくその姿は、もう虫の息に見えた。
動きを止めた怪物を見て、麻生が喜びの声を上げた。
「いよっしゃぁー! 倒した! 倒しやがった!」
両の拳を前に突き出し、力強く握り締める。力を込めすぎてその手は震えていた。
「もう一秒でもこんなところに居たくねえ、早く外へ出ようぜ」
「まて、まだ死んだとはわからない。もう少し待つんだ」
「動かなきゃ十分じゃねえか。俺たちの目的はあれを殺すことじゃねえ、逃げることだ。今逃げなきゃ、いつ逃げるって言うんだよ。俺は行くぞ」
「おい、待て麻生!」
唐沢が腕を掴もうとしたが、麻生はそれを振り切りエレベータ目掛けて走り出した。一歩一歩スキップするかのように、軽い足取りで遠ざかってゆく。
唐沢は舌打ちしたものの、彼の後を追おうとはしなかった。
立ち上がろうとしている怪物の頭から、雫がナイフを抜いた。そのまま、それを逆手に握る。とどめをさす気のようだ。
感じる脅威に変化は無い。ダニの怪物は本当に弱っているように見えた。
「急所は上部のほうで良かったようだな。運がよかった。古矢の体内なら、範囲が大きすぎる。もしそっちなら弱点に当たるまで何度もあいつの体を刺さなくてはならなかった」
「そんな苦労はごめんこうむりたいね。もう大分体にガタが来てるんだ。さっさと帰って寝たい」
截は面倒くさそうに言った。
「……探し物は見つかったのか?」
「一応、六角を追い詰めるのに十分な情報は手に入った。あとは俺がそれを使いこなせるかどうかだ」
「――……そうか。上手くいくことを期待している」
友は相変わらずの硬い口調で頷いた。
雫がナイフを怪物の頭部に掲げる。狙いは先ほどと同じ、友のつけた傷のようだ。彼女は慎重に位置を調整すると、全力でそこへ手を振り降ろした。
脳漿のようなものが飛び、分厚い肉が裂ける。これで、勝負はついたかに思われた。
「え?」
一瞬、截は我が目ならぬ我が感覚を疑った。
確実に脳を貫いたと思ったそのとき、怪物から放たれる脅威が跳ね上がったのだ。
「何だ、これ……!?」
「きゃあっ!?」
雫の体が視界から吹き飛んでいった。身を伏せたまま、怪物が爪足を横なぎにはらったらしい。
「雫! ――くそっ!」
友は直ぐに怪物から逃げようとしたが、立っている位置が近すぎた。怪物が伸ばした爪足を避けきることが出来ず、何とかナイフで受け止める。だが押す力が強すぎるため、腕をそらされ腹部を抉られてしまった。
――やばい!
截は友に飛びつき、押し倒すように怪物の攻撃を回避した。ごろごろと転がりながら友の傷を確認すると、制服ごと肉を削ぎとられていた。傷口周りの布が真っ赤に染まっている。まずい傷だ。
立ち上がろうとしたところで、怪物の爪が飛んできた。辛うじて爪先の直撃は避けたものの、その側面に打たれ友ごと後方へ吹き飛び、岩肌に激突した。
周囲に動くものが居なくなったことで、目をつけられたのだろう。エレベータへ向かおうとしていた麻生は、まっすぐに自分目掛けて突き進んでくる怪物を目にし、どきもを抜かした。
「はぁ、マジかよ!? 何でだよっ!」
ついさっきまで圧倒的に優位だったはずだ。ほぼ勝利の目前だったはずだ。何をどう間違ってあの怪物は自分に迫っているのだろうか。理解が出来なかった。
――冗談じゃない。出口は直ぐそこなのに、何でこんなとこで俺が狙われなえればならないんだ。ふざけるなよ、ふざけんなよ!
麻生は左右を交互に見た。左側には唯一の出口となるエレベータが。右には唐沢たちのいる岩場がある。エレベータのほうへ向かっても逃げ切れる可能性は低い。下手したら脱出手段を失いかねない。
麻生は元いた場所へ戻ることを選んだ。
「ちょっ、あいつこっちに向かってる!」
「俺たちを巻き込んでその隙に逃げるつもりか」
千秋と唐沢が敵意の篭った視線を向けてきたが、そんなものに構っている暇はない。生きるか死ぬかなのだ。ただ死にたくないと必死で、麻生は生存者たちの居場所を目指した。
――連中がバラける前に紛れ込んで横へ飛べば、狙いは俺から外れるはず。そのまま一気にエレベータまで逃げて、あのおっさんと一緒に上へ出てやる!
頭の中でシュミレーションを作り、その通りに実行しようとする。麻生は成功すると思っていたが、生存者たちの居場所へ到達する前に、背中を何かが突き抜けた。
口の中ににがしょっぱい味が充満し、外へ漏れ出す。
腕を伸ばすも、地面には届かない。足に力を込めても、前には進まない。
「はぁあ……?」
わけが分からず、麻生は自分の胸を覗いた。
植木鉢大の黒い物体が、あった。それは肋骨のした辺りから飛び出て、地面にぶつかっている。
「ひっ……ぎゃぁぁぁぁあああああああっ!?」
自分の胸から出ているものが何か悟った途端、洪水のごとく強烈な痛みが全身に襲い掛かった。痛い、苦しいなんてもんじゃない。それを言葉で表現することすら忌々しいほどの痛み。全身の血と神経が暴れ狂い、骨の髄から燃え上がったような感覚。
自分が死ぬという気持ちは一切湧かなかった。ただただ、怖かった。
――動けねぇえ! 何だよ、これ! 何だよ、何だよ!
血を撒き散らしながら虫のように手足をばたつかせる。出来るわけがないのに、苦しみから逃れた一心で前に進もうとする。それが、余計に傷口を広げ、麻生の死を早める結果となった。
麻生が襲われている間に、唐沢が元来た道へ逃げるように言った。感染の危険はあったが、目の前にあんな化け物がいる以上、仕方がないと思ったのだろう。このままこの広場にいても、麻生と同じ道をたどるだけだ。ならば一か八か遮蔽物の多い岩場地帯に逃げ込む以外に、生きる道はなかった。
皆に続き長島も岩場へ入ろうとする。足の怪我の所為で、どうしても遅れてしまいがちだ。痛みに耐え走り、壁際までたどり着く。さらに前へ進もうとしたが、目の前の光景を見た瞬間、体が動きを止めた。
「何だ、こりゃ……」
思わず息を呑む。
先ほど通ってきた道が、無数の化け物に多い尽くされていた。怪物と同じ、あのダニのような生物。成長する前であるためその体躯は小さかったが、皆の気力を刈り取るには十分な光景だった。これではとても通ることなどできない。
ボコボコという鳴き声が聞こえ振り返る。
動かなくなった麻生から爪足を引き抜き、怪物がこちらを見た。喉が破裂し、頭部からは血が流れ出していたが、眼球だけはぐりぐりと動いている。その視線が、自分たちのところで固定された。
「畜生! 何てこった……――全員走れー!」
切羽詰った表情で唐沢が叫ぶ。
考える余地はなかった。もうこうなれば、ただ必死に逃げ惑うしかない。
唐沢は左に、千秋と亜紀は右へ逃げた。長島も唐沢と同じ方向へ行こうとしたが、足の所為で速度が出ない。それでも必死に進もうとしたところで、背後から飛び出してきたダニの化け物たちに追いつかれ、群がられた。
「は、離せ、やめろお前らぁあっ!?」
腕を、足を、腹を、背を、体のあらゆる部分がダニたちの歯に貫かれ、血を撒き散らす。強烈な痛みを感じ、長島は絶叫を上げた。
体に絡み付いてくるダニたちの足先から、細い触手のようなものが出た。それは注射器のように長島の皮膚に刺さり、内部へと侵入してくる。一本、二本、三本……既に数え切れない量の触手が入ってきた。
「うわぁぁぁあっ! 助けてくれ! やめろ、やめろ、やめろぉぉおおお!?」
既に左目は見えなくなり、あれほど痛んでいた足の感覚もなくなった。まるで自分の体じゃないようだ。
何が起きているのか、どうなっているのか、何となく本能で理解する。圧倒的な恐怖が心を充満し、長島は発狂するように叫んだ。
「ぁぁぁぁああああああああああああ――」
無意識か、反射でか、ダニたちから逃げるように走り出す。あまりに激しい動きで、何匹かのダニが体から剥がれた。
――俺には妻と子が居るんだ! こんなところで、こんなところでぇぇぇえ!
闇に染まりかけた視界のまま、全力で体を動かす。もはや意思の力だけで前へ進んでいた。
「うぐっ!?」
顔が何かにぶつかった。痛みは感じなくなっていたが、それだけは分かる。
立っているのか寝ているのかも分からないままそれを認識しようとしたところで、長島の意識は消滅した。
いくつもの絶叫が聞こえる。
辛うじて意識を取り戻した截は、目の前の惨状を見て愕然とした。
ちょっと目を離した隙に、一瞬意識を失っていた間に、状況は一変した。
正面に見える死体は麻生のものだろう。背中から見るのも嫌になる量の血を流し、想像を絶する苦しみに耐えているかのような表情のまま、固まっている。
その左斜め奥には長島の首が転がっていた。寄生されかけたところを怪物の爪にやられたらしい。全身に血管が浮かび、そこらじゅうから触手が伸びていた。
言葉が出なかった。
自分たちが負けた所為で、怪物の前から退かれた所為で、これは起きたのだ。
麻生が、長島が死んだのだ。
腕に力を込め、うつ伏せの状態から上半身を起こす。何とか立ち上がろうとした。だが、先ほどの衝撃で体がしびれ、思うように足が動かない。截は憎しみの篭った舌打ちを放ち、横を見た。
倒れていた友の胸は上下に動いている。ひとまず呼吸はあるようだ。上を向いているのは、地面から感染するのを防ぐためだろう。壁にぶち当たる直前に体の向きを変えたらしい。
視線を下へ移動させると、腹部から血が流れ続けていた。
――ちくしょう……!
地面の砂を握り締める。数メートル先に倒れている雫も、生きてはいるが意識を失っていた。これではとても戦うことは出来ない。
「いやぁあああっ!」
夏の悲鳴が聞こえる。残っているのは、唐沢と女性三人だけだ。自分たちが行かなければ、とてもじゃないが生き延びられない。
「動け……! 動けぇえ!」
截は死ぬ気で腕に力を込めた。しかしいくら心で強く願おうとも、体がその願いに答えることはなかった。
怪物から逃げ惑いつつ、唐沢は自分の未来を予感していた。
戦闘力の高い三人が行動不能になった今、あれを倒すことは不可能だ。つまり――
「終わりじゃねえか……」
どう考えてもお先真っ暗だ。自分の死ぬ光景しか浮かばない。
破壊される危険があるからエレベータにもいけないし、ダニの化け物たちがいるから一旦ここを離れることも無理だ。残った道はこの狭い空間でなぶり殺しにされることだけ。
――くそ、せっかく六角を失墜させられるチャンスだっていうのに、こんな奴の所為で……!
あと少し。ほんの十数メートル。あの鉄のパイプを通るだけで地上に出れるのだ。それなのにどうすることも出来ない。
唐沢は歯がゆい気持ちでいっぱいになった。
壁際にいる唐沢のほうが襲いやすいと判断したのか、怪物は体をこちらへ向けた。
先ほど麻生を仕留めた速度を考えれば、まともに走って逃げ切れないのは目に見えている。目前に迫った死の危険に、心臓が跳ね上がった。
「……まいったな」
本当に困ったとき、人は逆に笑ってしまうことがある。身を屈め突撃の力を蓄えた怪物を見て、唐沢は何ともいえない笑みを浮かべた。
その覚悟を読みとったかのように、怪物が地面を蹴った。激しく土を掻き飛ばし、大きな地響きを鳴らし、猪突猛進してくる。
「唐沢さん――!」
千秋か夏か、誰かが息を呑む声が聞こえた。
今まさに唐沢が死を迎えようとしている。
截は地面をたたくように体を持ち上げ、震える足を立てた。
――殺させるか――……!
彼がいなければ、自分はここまでこれなかった。
貴婦人を倒せなかった。
六角の秘密を、超感覚者の真実を知ることが出来なかった。
今回の事件において、唐沢は命の恩人に近い存在だ。彼のおかげで、自分は生きてここにいる。
「うぉおおっ……!」
叫び声を出し、体の痛みと疲労を誤魔化す。じんじん痛む腰をあげ、足を前に踏み出した。
「っ――!?」
背中に激痛が走り、截はバランスを崩した。そのまま再び膝をついた格好へ戻ってしまう。
服の上からぶつかったため、外見ではわからなかったが、截の背中はかなりの打撲を負っていた。これまで何度も感染者や怪物たちに吹き飛ばされた怪我が積み重なり、大きな傷になっていたのだ。
――くそっ、これじゃ――……唐沢さん……!
せめて奇跡的に攻撃を避けてくれないかと願う。膝の上に腕を乗せ、顔をあげる。断腸の思いで唐沢を見ようとしたが、何か違和感を感じ反射的に視線は別のところで止まった。
六角の後ろに、見知った男が立っていたのだ。
六角構成にとって、これはショーだった。エンターテインメントだった。
完璧な未来予知、正夢という感覚を持つ彼は、自分の死を嫌というほど見てこなければならなかった。臨死体験をしたことのある人間はいくらかいるが、彼ほどそれを経験した者はいまい。代ゼロ世代超感覚者である六角構成は、生まれてからこれまで五百を軽く超えるほどの自分の死を見てきた。刺殺、毒殺、死刑、銃殺、絞殺……六角家という大きな家に生まれたが故、更なる権力を求めたが故の、死の脅威だ。
自分が死ぬ、もしくは大きな怪我を受けることになる場合、六角は『必ず』それを夢に見た。どんな辛い、苦しい死でも、実際に体験すると同様の状態で、それを体感し認知できた。
だから、六角は知っていた。この怪物が自分に危害を加えることはありえないと。自分は絶対に無事だと。そう知っているからこそ、この惨劇を、凄惨極まる光景をTVのように心の底から楽しそうに眺めることが出来た。
軽そうなあの若者が仲間を巻き込んで逃げようとしたのは、中々興奮した。人間、やはり命がかかっている場面ではあああるべきだと感動する。
中年の男の死に様もそれなりに面白かったが、せっかく感染しかけていたのだから、最後まで感染しきり、自身の変貌に絶望しきってからこの世を去って欲しかった。若者は良かったが、あの中年は駄目だ。エンターテインメントというものをわかっていないと思った。
中年を殺し終えた怪物が唐沢のほうを向いた。それを見て、六角は胸が躍った。
唐沢は元々はイミュニティーの隊員であり、しかも本部直属兵の一人だ。数年のブランクがあるとはいえ、そう簡単には死なないだろう。そして死ににくいということは、より苦しんで最後を迎えるということだ。一体唐沢がどんな死を迎えるのか、非常に興味深かった。
六角はさらに身を乗り出し、このショーを見ようとした。素晴らしい演舞がこれから行われるはずだった。
「――六角代表、時間ですよ」
低い、色気のある声が聞こえた。振り返らずとも、そのトーンと雰囲気で誰か分かる。男がそれ以上何も言わないので、六角はゆっくり振り返った。
「――截、遅かったじゃないか」
「ちょっとディエス・イレの飼い狸とじゃれてまして。何分楽しかったものですからついつい長時間遊んでしまいました。これくらいの遅れなら許容範囲でしょう。本当に問題があれれば、あなたなら事前に察知出来るはずですからね」
「そうだな。だが遅刻がいいものでないことには代わらない。特に今回のように面倒な場所では。まあ、おかげで楽しい催し物が見れたがね」
六角はわざとらしく口角を上げた。
「もう行きましょう。これ以上時間をかけても意味はありません。例の計画もかなり煮詰まっていることですし」
「そうだな。名残惜しいが、まあいいだろう。東郷はどうしたんだ?」
「……今はここに現れないとだけ言っておきましょう」
截は意味深に言った。
どういう意味か一瞬悩んだが、面倒くさいので六角は考えるのをやめた。この男がこうした口調で話すのはいつものことだ。深く探るだけ無駄だろうと諦める。
「ん?」
截はまだ歩き出さなかった。不審に重い六角が彼の視線の先を見ると、そこには先ほど『截』と呼ばれていた男がいた。どこかこちらの截に似た雰囲気を持ったあの男だ。
「知り合いか?」
「黒服の人間です。僕にあこがれて真似をしている変態ですよ。誰に雇われて来たんだか……」
「そうか。まあ、僕の命を狙ったり、拘束しようとする動きはなかった。少なくともディエス・イレの人間ではないだろう。気にする必要ほどの存在ではない。さあ、行こうか截」
「ええ、そうですね」
截はもう興味を失ったように男から目を離した。
「僕が今まで何していたか、気にならないんですか?」
不意に截はそう聞いた。
その言葉を耳にし、愚問だと六角は笑う。
「お前が何をしてようが、どう動こうが、そんなの僕には関係ないだろう。結果さえあればそれでいんだ。僕は無事にこの常世国から出れさえすれば十分なんだから。それに――」
六角は両手を小さく広げて見せた。
「自分の子を信じられないで、親と言えるか?」
それを聞いた截は、僅かに口元が緩んだ。
それがどういう意味なのかは分からないが、自分がこういった類のセリフを吐いたとき、いつも彼はその表情を浮かべる。だが今回だけは、いつもよりもその度合いが大きく見えた。
「キツネ!? あの野郎なんでここに……――!?」
六角をつれて高速エレベータのほうへ消えていくキツネを見て、截の中で様々な感情が一気に生まれ、渦巻いた。
疑問、不審、焦り、恐怖――まさに混乱の極みだ。
だが、あれこれ考えている暇はなかった。唐沢はまさに今死の危険と直面している。とにかく今は彼の身を助けることが先だろう。
截がキツネと六角に目を奪われていた時間は五秒もない。しかしその間に、唐沢の運命は決していた。
視線を戻すと同時に激しい衝突音が響く。
息を呑み喉を動かした途端、赤い塊が目の前に落ちた。